第18話 母の愛は無限です
気がつけば午後十時を回っていた。
戌亥刑事が去った後、アルルが用意した遅い昼食……というより、もう普通に夕食だったが、とにかく食事を終えて風呂に入った。
その間も、その後も、ずっと会話なし。
アルルが無言だったので、俺も特に何も話さなかった。
正直、その方が助かった感もある。
この状況で何を話せばいいのかわからなかったからな。
けど、言い換えれば、アルルが何か話してくれれば、それをキッカケにできたかもしれないんだが……。
……いや、キッカケって何のだ?
自問して、だが、そんな明らかな答えはすぐに自答で返る。
気マズいんだよ。この空気。
一昨日のバス停……いや、あれよりもまた輪をかけて重苦しい上に、根本的に気マズさの質が違う。
現在のアルルが無言なのは不機嫌だから。
つまり、ずっと怒っているんだよなあ……。
原因もわかってる。
怒って当然だ。今日の俺は、軟弱に過ぎた。
今、アルルは風呂に入っているところだ。
ひとつ屋根の下、同居中の金髪美人が入浴中。健全な青少年なら心臓バクバクの青春イベントってとこか?
「……いっそ、乱入して襲いかかってみるか?」
わざと声に出してみる。
それも悪くないかもしれない。
さすがにこの状況でそんなことすれば、お優しい騎士様もブチギレるだろう。ブッ飛ばされて、愛想を尽かされて、出ていってくれるかも?
けど、俺のそういう浅はかな心情をこそ察して、泣かれたりしたらイヤだなあ……。
苦笑う。
そもそも、襲う度胸なんかない。
疲れた。
今の内に部屋に引き上げて寝よう。
今日はもう、アルルと顔を合わせる勇気もない。
ひと眠りして、明日になれば……。
けど、明日になっても合わせる顔があるかは、正直、自信がないけど。
ともかく自室に行き、布団を敷いて横になった。
いつものように点けっぱなしの照明。それを見上げながら、考える。
寝ようとしているのに、眼も閉じずに、考えてしまう。
今日のことは遠からず玄蔵叔父さんの耳にも入るだろう。いや、もうすでに入っているかもな。そうしたら、また心配させ、世話をかけさせることになるのだろう。
学校の連中にだって知られる。
今日の件だけじゃない。そもそも登河雪江がアルルのことを知っていたということは、それも少なからず世間にもれているということだ。
本当に、いつまで経っても終わらない。
あのクソ親父の残した呪いは、解けてくれる気配がない。
ウンザリだ。本当に、ウンザリなんだよ! もう!
俺はイラ立ちのままに大きく息を吸い込んだ。
その時……。
ブツン! という音とともに、辺りが一瞬で真っ暗になった。
「……ッ!」
暗い、真っ暗だ。何にも見えない。
何で?
冷静に考えれば、ただの停電だろう。
でも、冷静になんて考えられなかった。
俺は混乱のままに身を起こそうとして、豪快に足をもつれさせて倒れ込み、強かに頭を打つ。
何かにぶつけた? 何に? いや、どうでもいい! それより問題はこの闇だ! 明かりを、何か明かりを!
何だ!? 何で俺はこんなにテンパってる?
暗いのは怖い! けど、だからってこんなにまで怖かったか!?
こんな、けど、こんなに暗いことなんて今まではなかった。
夜道には街灯や月明かりがあった。
室内には照明があって、仮にそれを消していても何かしら、わずかにでも光る何かがあった。
けど、今は真っ暗だ! 完全に真っ暗だった!
曇っているのか? 窓から月明かりすら差し込んできていない!
そうだ。スマホだ。スマホのライトを……!
手を伸ばして、けど、真っ暗な中ではどこに何があるのかもわからず、伸ばした手は無意味に虚空をつかみ、壁だか家具だかわからない何かを引っ掻くだけ。そもそもスマホはどこに置いたっけ!?
暗闇。真っ暗な闇。
あの時も、こんな闇の中だったんだ。
そう、こんな闇の中で、俺は────!
ズキリと、頭の奥で何かが激しく疼く。
何かが、胃の奥で渦巻いた。
喉奥から込み上げた熱い苦み、それを堪らず吐き出し、身もだえる。
苦しい、苦しい、怖い、怖い、暗い、暗い、暗い中で、熱くて気持ち悪い何かが、暗闇の中でどんどん流れて落ちてくる。
生臭くヌメる感触の中で、お母さんが、そこいるお母さんが……。
お母さん……お母さん……おかあさんが……ぜんぜん見えなくて……!
だから、俺は懸命に手を伸ばしていた。
暗闇の中で、必死に呼びかけながら──。
「……おかあ……さん……!」
どこか遠くで、幼い子供が、母に助けを求める声が────。
「アオツグ!」
誰かが、俺の手をつかんだ。
直後に全身に感じた圧迫感。抱き締められているのだと、そう理解するよりも前に、耳元で叫ぶ声。
「大丈夫だアオツグ! わたしがいる。わたしがそばにいるぞ!」
息せき切って、大慌てにうろたえまくった女の声。
身もだえる俺よりもよっぽど切羽詰まった声。けど、その声を聞いた途端に俺はホッとして、安堵のあまり泣きそうになっていた。
……よかった。
……おかあさんが、へんじをしてくれた。
真っ暗な中で、目許から何かが溢れて、なら、俺はもうとっくに泣いていたのかもしれない。
回りは変わらず真っ暗で、何も見えない。
だから俺は、抱き締めてくれる彼女に、それこそ懸命に抱きついてすがりついた。
「……ッ……ぁ……ぐ……!」
息が詰まって、呼吸ができなくて、けど、そんな俺の背中を、彼女はゆるりと撫でさすってくれる。
「大丈夫だアオツグ。もう心配ない。わたしが守る。貴方は、何も恐れることはないんだ」
身を寄せ合い、互いの肩に
アルドリエル。
「わたしが守る。わたしがそばにいる。わたしは……」
〝……わたしは、貴方の母なのだから……〟
優しい声、優しい抱擁、確かに俺を包み込んでくれる温もり。
彼女が微笑んでくれているのがわかった。
暗闇の中なのに、なぜだかそれが良くわかったから────。
俺は、ゆっくりと息を吸い込み……吐き出した。
途絶えていた呼吸が通り、肺に酸素が満ちる感覚。俺はゆるゆると呼吸を繰り返しながら。
「……暗いのは……怖いんだよ……」
呟いた声はまだ震えている。
抱きついた手も、すがりついた腕も、全身がガタガタと震えている。
そんな俺を、彼女は文字通りに慰め労るように、ギュッと抱き締めてくれる。
「……うむ。そうだな……。すまなかった。こんなに恐ろしい中に、貴方をひとりにしてしまった。守ると約束したのに……」
けれど……と、アルルはなお抱き締める腕に力を込める。
「もう、貴方をひとりにはしない。今度こそ約束する……」
淡い光が、闇の中に差し込んできた。
部屋の窓、カーテンの隙間から差し込む月明かり。
夜空を覆っていた雲が流れたのか?
月明かりは、けれど、あまりに弱く淡く、周囲の微かな輪郭しか浮かび上がらせはしない。
それでも、それは真黒の闇には比べるべくもない。
何より、その月明かりに淡く照らされた眼前の微笑み。
その優しく細められた青い眼差しは、怯え畏怖していた俺を、柔らかく癒やしてくれた。
「アオツグ……」
彼女が、静かに呼びかけてくる。
「貴方は暗闇が怖い。同じく、わたしにも怖いものがある」
わずかに首をかしげて、困ったように眉根を震わせて、彼女は俺の頬に手を添える。
「わたしは、貴方を失うことが何よりも恐ろしい。そのことを、今日、思い知ったんだ」
貴方は────。
「あのノボリカワという御婦人が刃物を取り出した時、抵抗しようとしなかった。あのまま、刺されるつもりだったな?」
優しく穏やかな声、けど、それは微かに震えている。
ずっと不機嫌だったアルル。
やっぱり、あの時の自暴自棄を見透かされていたようだ。
刺されるつもりではなかった。
けど、刺されても仕方ないとは思っていた。
だから、同じことなんだろう。
「……あの時、わたしがどれほど恐ろしかったか、貴方はわかっていないだろう?」
そうだな。わかっていなかった。
抱き締めてくれる彼女の腕が、抱き締め返した彼女の総身が、ガタガタと震えている。
俺と同じく、アルルは恐怖に震えている。
こんなに震えるほどに恐れさせていたなんて、ぜんぜん気づいていなかった。目の前の危機に抵抗もせずに諦める軟弱者……そんな風に、怒られているんだと思っていた。
バカな話だ。
そんなわけがなかったんだ。
彼女がそういう性分ではないことは、あの夕暮れのバス停でとっくに知っていたはずなのに。
「……ごめん……」
だから謝った。
謝って済むことなんてないんだけれど。
他にはどうしようもないから、謝るしかなかった。
なのに……。
「ああ、
アルルはニッコリ笑って、赦してくれた。
拍子抜けするほどにあっさりと、赦してくれた。
何で……?
俺は、よほど唖然としてしまったんだろうか?
彼女は少し困ったような微笑みで、戸惑う子供に言い聞かせるように静かな声で、ゆるりと囁いた。
「赦すよ。わたしは貴方を赦す。だって、わたしは貴方の母だから。母の愛は、無限大なんだ」
優しい笑顔で、穏やかな声で、温かく抱き締めてくれながら、アルルは誇らしげにそう宣言した。
無限大か……はは、そりゃスゴい。
俺は深い溜め息を吐く。
深い安堵がもたらした吐息。
自然と力が抜けて、意識がゆるむ。
こんなに恐ろしい暗闇の中なのに、俺は確かな安らぎに包まれながら眼を閉じた。
「……アルル……」
「ん?」
「……ありがとう……」
「……ふふ……♪」
くすぐったそうに弾んだ笑声。
「……おやすみ、アオツグ……」
頬を寄せ合う距離で囁いてくるアルルの声。
その優しい温もりに守られながら、俺はゆるりと眠りに落ちていったのだった。
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