月花

三角海域

月花

 彼は電車に揺られながら、必死に目を閉じていた。

 眠れなくなってから、そろそろ半年になる。不眠がもたらすだるさや頭痛にもなれてきてはいたが、別にそれは受け入れたというわけではない。

 どれくらい目を閉じていただろう。学生時代はあれほど心地よく眠りに誘ってきた電車の揺れが、今の彼にとっては頭痛を強める不快なものへと変わっていた。

 彼は小説家をしている。

 昔から本を読むことが好きで、自分でも時折小説を執筆していた。

 ある時、それを送ってみてはどうかと友人にすすめられ、とある賞に送ってみたところ、デビューが決まった。

 それから、彼は何十年も小説を書き続けている。

 正直、売れているとは言えない。それでも、専業で食べていくだけの稼ぎはあった。

 だが、少しずつ売り上げは下がっていた。

 もっと良いものを書かなければ。もっと売れるものを書かなければ。彼は様々な模索をし、実行していった。

 結果は出なかった。

 異色扱いされることもなく。

 売れないわけでもなく。

 ただ、変わらず、彼の作品は変化なくそれなりに売れた。

 そんな風に生活を続けているうち、彼は眠れなくなった。

 不眠は彼の意識を混濁に沈め、彼は起きていても微睡の中にいた。しかし、その微睡は決して彼のことを眠りに落とさなかった。

 靄がかった世界に彼は生きている。

 音が遠く聞こえる世界に彼は生きている。

 記憶が飛ぶようになり始めたころ、彼は休養をすすめられた。

 どこかの温泉でゆっくりしてはどうかと言われたが、彼はなぜか休む場所を決めていた。

 そして今、彼はそこへ向かっている。

 眠ることをあきらめ、目を開ける。

 景色はすっかり変わっている。

 どうやら、かなりの時間が経っていたらしい。

 どんな場所なんだろうか。

 彼はそんなことを思う。

 ジェリーフィッシュホテル。

 彼は自分の向かう場所の名しか知らなかった。



 キャリーバックを引きずり、彼は歩いていた。

 彼が向かうホテルは、インターネットなどで調べてもヒットしない。これだけ情報があふれている世界で珍しいことだと彼は思う。

 彼がそんなホテルの存在を知ったのは、三年ほど前に亡くなったある作家から聞いていたからだった。

 気難しい大御所であったその作家は、なぜか彼のことを気にかけ、あれこれ優しくしてくれた。

「お前は昔の俺に似てんだよ」

 そう言って、その作家はよく笑っていた。

 その作家がホテルのことについて話したのがいつのことだったかは覚えていない。ただ、その話は妙に印象に残っていた。

 頼んだわけでもないのに、その作家はホテルの場所と連絡先をメモに書いてくれた。それを引っ張り出してきたのだ。

 駅で降りた者は彼をのぞき誰もおらず、こうして歩いていても人を見かけることはなかった。

 騙されたんじゃないか。

 そんな風にも思い始めたころ、いきなり開けた場所に出た。

 そして、そこにはどこかレトロな建物があり、ジェリーフィッシュホテルと書かれた看板が立てられていた。

 本当にあったのか。

 彼はキャリーバックを引き、ホテルの入り口をくぐる。

 エントランスには淡い照明が灯り、美しい深紅の絨毯が敷いてあった。

 小さなフロントがあるが、人はいない。

 呼び出し用のベルがあったので、彼はそれを押した。

「はい」

 短い返事と共に、奥から人が出てくる。

「いらっしゃいませ」

 女性だった。

 朗らかな笑み。色素の薄い髪。少女のようでもあり、彼より年上にも見える、不思議な容姿をしていた。

「予約をしていた者なんですが」

 彼が名を告げると、女性は台帳を開き、彼の名があることを確認した。

「ありがとうございます。お客様のお部屋は、三階になります。お部屋の支度はもう済んでおりますので。お荷物は……」

「あ、大丈夫です。自分で運びますので」

「かしこまりました。こちらがお部屋の鍵になります」

 古めかしい鍵を受け取ると、女性はホテルのシステムについて軽く説明をした。

「それでは、ゆっくりとおくつろぎください」



 部屋の鍵を開け、中へ入る。

 シックでいい部屋だった。清潔感もある。

 ベッドに腰掛けると、ほどよい柔らかさだった。

 さて、どうしようか。

 彼は何かをするためにこのホテルへやってきたわけではない。来てみたはいいが、することが見つからない。休みにきたのだからそれでもいいのだろうが、どうにも落ち着かなかった。

 散策でもするか?

 どこを?

 何もせずにくつろいでいればいいだろう。

 何もせずに? どうせ眠れもしないのだ。

 そんな風にあれこれと考えを巡らせては、その考えを自分で否定していく。

 とりあえず、夕食が済んだら、ホテルの中を歩き回ってみようか。

 彼はそう決め、ベッドに転がった。

 彼は目を閉じる。

 だが、やはり眠ることはできなかった。



 夕食は、こじんまりとした食堂で提供された。

 彼以外食事をしている者はいなかった。

 客は自分だけなんだろうか。パンを口に運びながら彼は思う。

 食事はとても美味だったが、静かな食堂では匙でスープをすくいあげる音すら響くようで、彼はなんだか変に気を使ってしまった。

 食事を終え、一応ホテルの中を歩き回っていいかとフロントの女性に確認し、良いという返事をもらえたので、彼は夜のホテルを歩き回っていた。

 その散策の中でも、人と会うことはない。

 少しだけ、彼はそれを不気味に感じていた。

 ホテルはそういう構造であるのか、どのフロアも同じようなデザインで統一されていて、フロアを移動しても同じ所をループしているように感じられた。

 階段を上り、似たようなフロアをぐるりとまわり、また階段を上る。そんなことを繰り返していた時だった。

 階段を上った先。そのすぐ目の前に窓があり、その前に一人の少女が立っていた。

 他にもちゃんと客がいたのか。

 少し驚き、彼は立ち止まって少女の背を見つめてしまう。

 と、くるりと少女がこちらを振り返り、ちょうど目が合ってしまった。

 なんだか盗み見していたみたいで気まずく、彼は軽く頭を下げて立ち去ろうとした。

「あの」

 だから、少女がそう声をかけてきた時、彼は「はい?」とうわずった声で返事を返してしまった。

 そんな彼の返事に少女は少し笑みを見せ、続けた。

「少しお訊きしてもいいですか?」

「ああ、その、答えられることなら」

 彼は緊張して変に言葉を切ってしまう。

「お花、見ませんでしたか?」

「花?」

「はい。珍しい花なんですけど」

「どんな花なんだい?」

「月の花です」

 月の花?

「それは花の名前?」

「たぶんそうなんじゃないかと」

「たぶんて……」

「わからないんです。月の花ということしか。それがその花の名なのかも、正直わかりません」

「そんなものをどうやって見つけようっていうんだい?」

 少女は少し考える。

 よくみると、相当に若い。

 というか、この子が着ているのはセーラー服ではないか?

 学生? 親と一緒に来たのか?

「噂で聞いたんです」

 少女は言う。

「噂?」

「ええ。昔、ある小説家がいました。何本か本を書いて発表したけれど、それは残念ながら人々の記憶に残るものにはならなかったんです。彼は落ち込んで、自ら命を断とうとします。そんな彼を助けたのが、植物学者の友人でした」

 少女は窓を背に語る。綺麗な声というのもあったが、純粋に興味をひかれたのもあり、彼は聞き入ってしまっていた。

「友人は小説家の友人を自分の家に住まわせて、彼が小説を気負いなく書ける環境を用意したそうです。小説家の友人のためにあれやこれやと世話を焼き、ようやく小説家の友人が立ち直り始めた時、悲劇が起こります」

 少女の語りは、良質な朗読のようだった。言葉に感情が乗っていて、情景が浮かんでくる。

「小説家の友人が、重い病にかかってしまったんです。ようやく立ち直り、また執筆をしようとした矢先でした。植物学者の彼は、悲しみに暮れます。けれど、小説家の友人は、そんな彼に言ったそうです」

 少女は、そんな彼らに思いをはせるように一度目を閉じ、言った。

「僕は生涯最後の作品を君だけのために書く。だから、君も僕のために、花を作ってはくれないかと。そうして、互いのために小説と花を贈り合うことにした彼らは、それぞれの作業に入ります。植物学者の彼は育種もしていました。ただ友人のための花を贈るのではなく、彼のためだけに新しい種を作ろうとしたそうです。小説家の友人がどんな物語を書いたのかはわかりません。友人が自分のために書いた物語を、彼は誰にも語ることなく、自分が亡くなる前にその原稿も燃やしてしまったそうです」

「まるで物語だな」

 彼が言うと、少女は微笑んだ。

「そうですね。素敵な物語のようです」

「それで、その植物学者の彼が、小説家の友人のために作り出した花が、君が探している月の花だと?」

「はい。ここは、実はその植物学者の彼と小説家の友人が共に暮らした家のあとに建てられた建物なんです。植物学者の彼は、晩年に友人との思い出をすべて処分しました。まるで、この思い出は自分たちだけのものだと言わんばかりに。家もそのひとつです。その後、植物学者の彼がこのホテルを建てたんです。新しく作った花も、研究段階でそういうものをと構想していたものから、こういう種だったのではと想像することしかできません。けれど、彼に渡した花の他に、試しで作ったものが二つあったらしいんです」

「その試作品がどこかにあると?」

「ええ。ひとつは実験で失われましたが、もうひとつは残っているのではと言われています。それを知っている人は、あちこちを探しまわっているそうです」

「君もその一人?」

「私は、ただの好奇心ですよ。ただこのお話が好きで、ここを訪ねたんです。見つかるわけないけれど、なんとなく歩き回ってたんですよ。散歩の口実ですね」

 少女は振り返り、窓の外を見る。どうやら、月を見つめているらしい。

「どんな花なんだい?」

「消えるそうです」

「消える?」

「ええ。その花は、月の光を受けないと咲くことはないんです。どれだけ待っても、月光がなければ、つぼみはつぼみのまま」

「すごいな。そんなSFじみたなものを作ったのか」

「月の光が形を成したような、とても美しい白銀色の花らしいです。けれど、その月明かりの花は、月がその光を失うと共に、溶けて消えてしまうんだそうです」

「溶けて消えるっていうのは、そのままの意味なのか」

「はい。でも、どろっと溶けるというわけではないそうで」

「というと?」

「月がその光を消して、空が青みがかる時、そこに溶け込むように消えてしまうんだそうです。本当なら素敵だと思いませんか?」

「まさに物語の世界だね。このホテルが物語そのもののようでもあるから、なんだかそんな話も実際にあるんじゃないかって思ってしまうよ」

 少女は微笑む。

「このホテル、ジェリーフィッシュホテルって言うんです」

「知ってるよ」

「ジェリーフィッシュって、クラゲのことですよね」

「ああ」

「クラゲって、海の月とも書きます」

「そうだね」

「小説家の彼は、名前を月舘 健と言うんです」

 聞いたことがなかった。

「そして、植物学者の彼は、海原教久」

 ああ、なるほど。彼は納得する。

「自分たちの姓からホテルの名を決めたのか」

「なんだか、とてもロマンティックですよね」

「ああ。確かに」

「たぶん、月の花は、小説家の彼のお墓に、真夜中置かれたんだと思います。彼の為に作った花と、彼と、友人との間だけに交わされた彼らだけの言葉を添えて。彼らだけの時間。彼らだけの世界。それは一晩だけ美しく花開いて、夜明けと共に消えゆく」

「美しい話だ」

 本当に、美しい。彼は自分の胸の内に、静かな熱を感じた。

「君は、まだ花を探すのかい?」

「もう遅くなってしまいましたから。そろそろ戻ります」

「そうか。ありがとう」

 少女はきょとんとしている。

「いや、ごめん突然。実は僕は小説を書いていて、その、君の話から刺激をもらえたんだ。いろいろあって書くことから遠ざかっていたのだけど、また書こうと思う。この話のように美しいことを書けるかはわからないけれど」

「そうだったんですね。わたし、本を読むのが好きなんです。作家さんの刺激になるような話ができて嬉しいです。あの、失礼ですが、お名前は」

 彼は自分の名を告げた。少女はその名を知らなかったことを詫びる。

「今度著作を買いに行きます」

「いや、悪いよ」

「これも縁ですから」

「ありがとう」

 静寂と、しばしの間。

「それじゃあ」

 彼が言う。

「ええ。それでは」

 少女が言う。

 そうして、彼は部屋に戻った。

 不思議と、頭痛は薄れていた。

 シャワーを浴び、ベッドに転がり、目を閉じる。

 静かだ。とても静かだ。

 意識が濁る。眠りに落ちるわけではない。記憶が飛ぶ前兆だった。別に、体調が改善したわけではないのだ。

 けれど、不快感だけは消えていた。





「あの」

 意識が戻る。そこは、駅だった。

「あの、電車がきましたよ」

 男性が肩を揺すってくれていたらしい。

 いつホテルを出たのか。やはり、記憶が飛んでいた。

「すいません。なんだか、とても幸せそうに寝ていらしたので、起こすのは悪いかなと思ったんですが、次の電車まで一時間はありますから」

 寝ていた?

「僕は眠っていたのですか?」

 彼の問いに、男性は少し戸惑う。

「ええ。目を閉じて、少しだけ微笑みながら」

 眠れたのか。だが、それにしても記憶が飛んでいることに変わりはないが。

「夢でもみていらしたんでしょうか。穏やかに、少し楽しそうに眠っていましたよ」

「そうですか。起こしていただきありがとうございます」

 眠っていたのなら、どこまでが夢だったのだろうか。

 月の花の話は?

 少女の存在は?

 わからない。

 だが、もしすべてが夢だったのだとしても。

「いい夢でした。とても」

 彼はそう言って、笑った。

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月花 三角海域 @sankakukaiiki

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