八章 アウトオブディスワールド

第57話

 二月十二日金曜日。事の発端は学校だった。


 授業が終わり、放課後。迎えた週末に生徒たちがはつらつと教室を出ていく。勤務日は朱璃と一緒に下校しているので、彼女がお手洗いから戻ってくるのを待っていた。すると、同じく居残っていた凛に声をかけられたのだ。

 タイミングを見計らっていたのだろう。「浦本君っ、これ、私の気持ちです!」と、裏返った声でバレンタインチョコを渡されたのである。


 ミサキにアドバイスをもらって以来、智大はする頻度が減った。告白の返事で悩んでいるのは相変わらずだが、悩みの質が変わったというべきか、何の糸口もない自問でなくなったことは確かだ。

 とはいえ、ミサキが便箋の人物――麻耶の言う協力者とやらでなくなった以上、イタズラの推理はふりだしに戻った。朱璃に変装は不可能だし、麻耶本人とも考えづらい。雲をつかむ話が水をつかむ話になったようなもので、明瞭な答えは出せないままだ。


 と、そんな状態で別の女の子からも告白を受け、挙げ句戻ってきた朱璃が手元のラッピングを見て固まるのだから、事態は混沌と呼ぶ他なかった。


 朱璃は真顔でつかつかと歩み寄ってくる。険しい表情で向き直る凛。教室の空気が張り詰め、残り少ない生徒がそそくさと退散していく。クリスマス前にもこんなことがあった気がする。あれは確か、便箋を渡された日だったか。

 こちらまでたどり着いた朱璃は、立ち止まって智大の手元を見た。純白の箱、ピンクのリボン、箱の上に乗ったハート型のメッセージカード。


 そのとき、無機質な視線を遮るよう凛が眼前に躍り出たのだった。


「邪魔はさせない」


 と。背中を向けているので表情こそわからないものの、その口調は刺々しい。


「クリスマスのときみたいにはいかないよ」


 朱璃の顔も凛で隠れて見えない。が、これまでの経験からか、無表情を貫いているであろうことは感じ取れた。朱璃が黙っているときは大抵考え込んでいるときだし、何かを考え込んでいるときは大抵無表情だ。


「な、何か言ったらどうなのっ?」凛はそれを、怒っていると勘違いしたらしい。若干機嫌を伺うような声色になった。


「ああ」


 朱璃はようやく声を発した。


「わたくしも先日、浦本君に告白いたしましたの」

「えっ⁉」


 驚く凛を尻目に、朱璃は悠然と彼女の横を回り込んだ。箱を流し目で見ながら智大とすれ違い、自席の鞄を持ち上げた。


「大変心苦しいですが、わたくしたちは恋敵ということになってしまいます」


 喋りながら朱璃は鞄を背負う。「そこで提案がございます」ショルダーに挟まった髪を持ち上げたときにふわりと薔薇の香りが漂った。


「提、案?」


 振り向いた凛は怪訝な表情を浮かべていた。


「諸事情がございまして、浦本君にはこのあとわたくしの部屋に来ていただくことになっていますの」

「……それで?」

「どうでしょうか、一度浦本君を交えて話し合う、というのは」

「なるほど、話し合い」


 柔らかい声を出し、


「もちろんだよぉ。――いずれはこうなっただろうし」


 と凛は言った。今日の業務は忙しくなりそうだと智大は予想した。


 帰り道は意外にも和気あいあいとしていた。まあ、朱璃と凛は智大を壁にしてそれぞれ前後を歩いていたし、「浦本君」「ねえねえ浦本君っ」話を振られるのも智大ばかりであったが、ともかく周囲から見て平和だったのは間違いない。


 一度自宅に戻って着替えてから、きぶし公園を経由して黒塚家に着いた。合鍵など持っていようはずがないので、玄関前で待機する朱璃に入れてもらう。慣れたやり取りをむくれ顔の凛が見守る。

 彼女がその目を白黒させたのは、燕尾服に着替えた智大が扉を開いたときだった。


「浦本君⁉」


 振り返った凛が椅子を蹴飛ばしそうな勢いで驚く。二人は制服姿のまま、向き合う形で中央のダイニングテーブルに座っていた。

 智大は気にせず主人の隣に移動し、恭しい態度で凛に礼をした。


「ごきげんよう。私は朱璃様の執事を勤めております浦本智大と申します。以後お見知りおきをいただければと存じます」

「は、はひっ……」


 凛は胸を手で押さえてとろんとしている。


「じゃなくてぇ!」その数秒後、正気に戻ったよう朱璃を見た。「浦本君が執事ってどういうことなの⁉」


「放課後にわたくしのもとで働いてくださっておりますの」

「それは見る限りそうなんだろうけどさ……執事?」

「執事ですわ」

「シツ、ジぃ……?」


 現実が理解力を追い越してしまったらしい。凛は未知の言語の如く三文字を繰り返している。


「浦本様」


 朱璃はちらりと一瞥を投げた。


「いかがなさいましたか」

「アールグレイティーを二人分。それと、塩パンもご用意いただけますか」


 淑やかに微笑む主人に会釈し、智大は、


「かしこまりました。少々お待ちください」


 と、美しい所作でキッチンへと向かった。


 食器棚からティーセットを取り出す。それらを置台に置くと、再び食器棚の手前に移動して屈み、下の方にある引き出しの、茶葉入れ場を確認した。どこから取り寄せているのか、アルファベットの羅列された箱やら缶やらがぎっしりと詰まっている。


 アールグレイとは珍しい――やかんで湯を沸かしながら、そんなことを思考していた。


 働き始めてから覚えたことだが、一言で紅茶といってもその種類は膨大だ。ざっくり分けると、一種類の茶葉を単独で使ったシングルオリジン、複数の異なる茶葉をブレンドしたブレンドティー、茶葉にフルーツやハーブで味付けしたフレーバードティーの三つがある。

 このうち朱璃が好んで飲むのはシングルオリジンのティーだ。なんでも個性が強くて面白いのだとか。アールグレイをはじめとしたフレーバードティーは、主に使用人たちが嗜んでいるようだった。


 紅茶が冷めないようお湯でティーセットを温めておく。ストップウォッチで時間を測りながら茶葉を蒸らす。茶漉しで茶葉を抜き、塩パン共々トレイに乗せていく。


 主人の部屋に戻ると凛はいつもの調子に戻っていた。

 案の定朱璃に突っかかっているようだが、その威勢も智大が主人の隣につくまでのことだった。


 テーブルにティーセットを並べ、それぞれに紅茶を注いだ。朱璃の前に塩パンを袋ごと置いた。


「アールグレイと塩パンでございます。ゆっくり召し上がってください」


「あ、ありがとう」やりづらそうな凛。


「ありがとうございます」上品に笑う朱璃。


 主人は袋を開けて塩パンを取り出した。そのまま手で食べる。行儀が良いとは言えないが、塩パンに限り、好きなときに好きな数を自分の手で食べるのが朱璃流だった。

 それから紅茶を一口飲み、「浦本様」威厳ある声と共に振り向いた。西日に照らされるその姿は可憐ながらも堂々としている。


「いかがなさいましたか」


 微笑で返すと、主人もまた口元に笑みをたたえた。


「とても美味しいですわ。腕を上げましたわね」

「恐縮でございます」

「うぐぐぐ……」


 そんなやり取りもまた、凛をムカつかせるようだ。ティーカップを握る手がプルプル震えている。


「どうかされましたか」


 朱璃は顔を正面に向け直した。


「もうどこがどうおかしいってレベルじゃないくらい色々おかしくてツッコミが遅れたんだけど」

「はい」

「好きな人を執事にするのってシンプルに趣味悪くない?」

「執事の契約については契約書を作成し、双方の合意のもと行われたものです。わたくしも浦本様も公私混同を避けていますゆえ、その点はお間違いなきよう」

「執事服着せてるのも?」

「ただの制服ですもの、ええ、他意はございませんとも、ええ」

「怪しいなぁ……」


 凛の顔は訝しげなままだ。智大からも契約書の内容について付け足そうと一歩踏み出し、朱璃に目で制止された。


「……出すぎた真似をいたしました」


 出した足を引っ込める。

 これは彼女らの問題なのだろう。主人は言葉を発さず、目を細めることで執事に感謝を伝えた。智大もそれ以上は言わない。


「ですが山岸様」朱璃の声が悪戯っぽいものになった。「奇術師は他者の目線に敏感ですの」


「何が言いたいの?」

「浦本様を度々盗み見ていること、気付いていますのよ」

「ええっ⁉」


 凛は変なガスでも吸ったかの如く甲高い声になった。彼女は今日あと何回驚くのだろうか。


「ふふふ、本当はお好きなのでしょう?」

「違うよっ、そりゃあまあカッコいいとは思うけど」


 テーブルクロスを両手で掴む凛は興奮を隠しきれていない様子だ。


「私も似合ってるとは思うよぉ」

「もちろんですわ、浦本様ですもの」


 それに同調するよう凛が握りこぶしを作った。


「そうだよっ! 襟のあたりからときどき見え隠れする鎖骨がカッコいいし!」

「さ、鎖骨ですか」

「白い手袋と袖の間から覗く手首も素敵だしぃ!」

「着眼点がマニアックですわね……」

「ゴツっとした尺骨頭とか特に最高だけどっ!」

「シャッコツトウ……?」


 まるでパワーを吸い取られているようだ。あの黒塚朱璃が押されている。


 見かねた智大が今度こそ前に出て、手袋の袖口を軽くめくり、「尺骨頭とはここのことです」手首にある出っ張った骨を指さす。


 するとその瞬間、


「そうそうそこだよぉ‼」


 今までに見たことのないテンションで凛が立ち上がった。よだれが垂れてきそうなほどに息を荒くし、目は極上のご馳走を前にしたときのそれになっている。


「その、なんといいますか……博識ですのね」


 テーブルに両手をついて前傾姿勢をとる少女の気迫に圧倒され、朱璃は声を震わせていた。

 それから凛は、依然として落ち着いている主従二人を交互に見た。あっやべっ、と小さく漏らす。真っ赤だった顔が真っ青になっていく。沈黙を仰々しい咳ばらいで切り開き、何事もなかったかのよう椅子に座り直した。


「とにかくだよ、黒塚さん」

「はい」

「ただの制服だから、うん、他意はないよね、うん」

「ええ。神に誓って」


 その瞬間だけは恐ろしく息が合っていた。

 目線で指示され、それぞれのカップに紅茶のおかわりを注ぐ。それを行儀良く待った凛は、今までになく真剣な顔を作って、でも、と言い張った。


「私は黒塚さんを信用できない」

「理由をお訊きしても?」


 朱璃は怯むことなく、二つ目の塩パンを取り出した。予想だにしないことを凛が言ったのは、その瞬間だった。



「黒塚さんの協力者、真鍋治」

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