第56話

 少女への嫌悪が、突き放すような口調として形になる。ヤケクソに近い苛立ちを感じている。定期的に訪れているというのに、黒塚家の地下室は変わらず居心地が悪い。学校での智大の様子を伝えるたび増えていくノートが鬱陶しくて仕方ない。


 こんなこと知ってどうするんだ、と心の中で毒づきながら真鍋治は話を続けた。どうせなら、クリスマスにできた恋人とのデートに時間を使いたいところだ。最近は学力のことでどやされたりもするが、そっちの方がいい。なんだったら彼女抜きでも、勉強の方がマシに思えてくる。

 黒塚家の使用人見習いであることはこの際よしとしよう。なぜ未来の主人がこんな女なのか。智大の情報提供だとか、本当に馬鹿馬鹿しい。どうしてその頭脳をもっとマシなことに使えないのだ。


 これも必要経費だ、と治は脳を冷やす。彼がこの立場に甘んじているのは、権力を行使されているからではない。互いの利益を追求した、対等な利害関係なのだ。


 朱璃はノートを書き終えた。シックな服を身にまとい、椅子に座ったまま、ティーカップ片手に儚い目を向けてくる。治は神妙な面持ちで彼女を見下ろしていた。


「告白、したんだな」

「計画は大詰めを迎えています。山岸様と決着をつける日は近いでしょう」

「だろうよ」


 そっけなく返した。

 朱璃は気にする様子もなく、紅茶らしき液体を口に含んだ。この余裕しゃくしゃくといった立ち振る舞いが、治には腹立たしい。だからといって仕草一つに口出しもしないのだが。


「ご不満がございますか」

「いいや、これ以上黒塚さんと顔を合わせずに済むと思うと清々するだけだ」

「計画に協力的でありがたいですわ。今度のバレンタインデーも無駄なく進めましょう」

「浦本のことは絶対に逃さないっつうわけだな」

「逃げられたくないのならば、心を掌握して選択肢そのものを消してしまえば良いのです。わたくしたちは両想いのまま添い遂げるのですから、そこに逃げる理由など介在しません」


「マジシャンズチョイス、だったか」治の表情が岩石の如く強張りついた。「契約だのと聞こえの良い言葉を吐き、相手の意思で選択させたかのように見せかけて、自分の思い通りの結果に誘導する――あんたの得意技だ」


 黒塚朱璃はそうやって他者を操る。権力、財力、暴力、脅迫……彼女は強制力を何一つ使わない。いや、は使う必要すらないのだろう。



 そしてそれは、治も例外ではなかった。

 二人はある契約をしている。朱璃は、古臭い考えが跋扈する黒塚家を嫌っている。治は、使用人の家系によりパティシエの夢を諦めることを疎ましく思っている。そこで、黒塚家の若い令嬢と使用人が手を組み、旧体制を打破しようという内容だ。計画の一歩目として、使用人たちに智大、および智大との交際を認めさせる。朱璃の卓越した話術があれば不可能ではないだろう。


 と、ここまでが彼女の建前だ。いや、古臭い考えを取り払いたいのも事実だろうが、朱璃の智大に対する執着心は常軌を逸していた。


「パティシエを諦めきれない俺にとって、契約に乗らない選択肢はない。最初からわかってたんだろ?」

「わたくしは選択肢をお出ししただけですわ」


 朱璃は何食わぬ顔で五百円玉を弄んでいる。


 契約を結んで間もない頃、日記の一冊目を読んだことがある。途中までは普通の日記で、黒塚朱璃の日常が書き綴られていた。

 浦本智大の名が初めて出てきたのは、日記の中盤あたりだ。きぶし公園で偶然出会ったときの出来事で、手品を観てもらったのだとか。智大は明らかな世辞を言っているよう読み取れるが……。

 ともかく日記は、その日付から少しずつ『浦本智大日記』なる観察記録、もとい計画書へと変貌していったのだった。

 つまるところ、きぶし公園での出来事が、現在の黒塚朱璃を形作っているのだろう。


「政略結婚が中止になったときもそうだ。賛成派と反対派で激しく喧嘩したって話だが、それぞれに手紙が届いていたそうじゃないか」

「……ずいぶん勤勉でいらっしゃる」

「両親を焚き付けて事を大きくしたのも、黒塚さんの仕業なんじゃないのか?」

「わたくしは確かに、一介の人間として匿名でメッセージをお書きしました。母率いる政略結婚賛成派にそれを促す情報をお送りし、父率いる政略結婚反対派にそれを促す情報をお送りしましたわ」


 治のこめかみに一滴、冷たい汗が通った。「あんた、めちゃくちゃしやがんな」


「めちゃくちゃも何も、政略結婚の話がなくなったのは彼らの判断でしょう? わたくしはただ、敬愛なる両親の背中を後押しさせていただいたに過ぎません」

「自分は手を下してねぇってか⁉」

「弱い心を御せなかったのは他でもない大人たちです」


 表情は相変わらず温和だが、低い声には明らかな憤りが現れていた。


「――くだらない。お金なんてものがあるから、人は狂うのよ。こんなものさえなければ……」


 静かに呟く朱璃は、手元の硬貨を憎々しげに見つめていた。文字通り人が変わったかの如き威圧感に治は次の言葉を失った。


 地下室に沈黙が流れる。時間が枷を引きずって経過する。少女の右手がゆっくりと動き、周りの空気も重く共振する。

 そうして五百円玉をしまった次の瞬間、朱璃はいつもの温厚さを取り戻していた。まるで、先ほどの姿なんて幻だったみたいに。


「契約について疑る必要はありませんわ」

「知ってるさ、あんたは約束は守る主義だ」

「貴方を黒塚家から開放することを、この場で改めて約束いたましょう」

「ああ」


 治の顔が緊張で張り詰めた。朱璃の言う開放とはつまり、凛を打ち倒す宣言に他ならないのだ。


 もうあとには引けない、と治は覚悟を決めていた。

 凛と直接喧嘩させられるのは不快だが、敵対そのものは契約を結んだ時点で避けられなかったのだ。智大に近づいたのだって、朱璃への情報提供と女払いが目的である。



 それに、契約を抜きにしても、浦本と凛じゃ噛み合わねぇ――。



 情報提供を通して智大の内面を知った彼は、徐々に命令と関係なく凛を遠ざけるようになった。

 どのみち凛は傷つく。であれば、最初から女払いでもなんでもして、いち早くパティシエの未来を掴み取ってやる。


 もうしばらくだけ魔女に騙されてやろうじゃないか。協力者の真相なんて、どうせ誰にもわかりはしない。



 治はむっつりした顔で踵を返す。乾燥機の前を通り、物でぐちゃぐちゃの作業台を横目で見る。ドアノブに手を伸ばしたところで、


「真鍋様、最後にもう一つ」


 と、朱璃が引き止めた。


「何だよ」不機嫌に振り向く。


「GPSの犯人が見つかった際に、伝言をお願いしたく存じます」

「内容は?」

「――小細工でわたくしに勝とうなどと思わないことです。素直に謝罪してくださるのなら、平手打ち一発で済ませて差し上げますわ」


 朱璃がハスキーな声で言った。その顔は穏やかに笑っていた。


「承知した」


 治はつまらなそうに鼻を鳴らすと、再び扉に振り向いた。

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