関節技コングロマリット

桑原賢五郎丸

関節技コングロマリット

 夏の蒸し暑い夜3時。また体が悲鳴を上げている。

 今日は卍固めか。立った姿勢から腰が90度に曲がっており、右腕を真上に伸ばされ、首も押さえられている。

 どうにかして反撃できないかと見えない相手の猛攻にしばらく耐えたが、無理だった。


「ギギ、ギブギブ、ギブアップ」


 いつも、この魔法の言葉で楽になる。悪霊もルールには従うらしい。卍固めを外され、ベッドに倒れ込んだ私はそのまま深い眠りについた。




 最初に技をかけられたのは初夏の夜だった。忘れもしない弓矢固め、別名ボーアンドアロー。脚を折りたたまれ、顎を力場にして背中を伸ばされた。伸ばされたといっても無理やり伸ばされるわけだから、ダメージがあるに決まっている。顎を伸ばされているので悲鳴も上げられず、ひたすら唸っていた。

 隣で寝ていた彼氏のハードコアないたずらかと思ったが、寝顔が見えるのでそれはない。

 しばらく痛みに耐えていたが、悪霊は疲れたのか、急に技を解いた。背中からベッドに落ち、息が詰まる。


 見えない相手に翻弄され、恐怖よりもまず怒りが先に湧いた。悪霊だろうとなんだろうと、一般人に対していきなり複合関節技をかけていいわけがない。しかし相手が見えないのではどうしようもない。

 やりどころのない怒りの矛先は、穏やかに寝ている、何の罪もない彼氏に向いた。


「なんで人が苦しめられているのに助けてくれないの」

「君が何を言っているのかさっぱりわからない。自分の寝相の問題だろう」


 このやりとりが行われた4回目の朝、彼から別れを告げられたのであった。さようなら。ごめんなさい。


 落ち込んでいたが、そんなことは知ったことかといわんばかりの悪霊の猛攻が待っていた。

 ある晩はサソリ固め。脚と腰を極める複合関節技だ。

 またある晩は腕ひしぎ式三角絞め。腕を極めつつ頸動脈を締められる。

 この部屋に縛り付けられているのか、私に取り憑いているのかは分からないが、どうやらこの悪霊は私を複合関節技の実験台にすることに決めたらしい。

 投げ技や打撃技でなくて良かった、と安堵した私は既に神経が病んでいるのだろうか。


 仕事から帰ってきてはプロレス技の研究をする日が続いた。かけられた時の対応を考えなくてはならないのだ。先程から具体的な技名がスラスラと出てくるのはその賜物である。

 決して私は世にいうプロレス女子、略してプ女子ではない。ただ単純に、関節技をかけられた時はどのように対応するのかを学びたい一心だった。




 8月の中頃、残業で遅くなった帰り道。世間は夏休みだが、私のような派遣社員には関係がない。

 駅を出て、暗い公園を歩く。あまり手入されていないので通りたくないが、家までの最短距離なのだ。

 早足で歩いていると、後ろから誰かが近づいてきた。もしかしたら、怒って出ていってしまった彼氏だろうか。期待に胸を膨らませて振り返ると、腰に手を回され、押し倒された。草むらに連れ込まれる。

 違う、暴漢だ。

 男は私の両足を抱えた。

 恐怖で叫び声は出ない。怒りと屈辱で涙が出た。そこで少し冷静になれた気がする。今やられていることは、サソリ固めを仕掛ける前の状況だ。その返しは練習した!

 相手の足首を持ったまま上体を捻り、転ばせることに成功。同時に立ち上がり、うつ伏せの相手の右腕を抱えて、首の前で手をロック。これも悪霊にかけられた片羽絞だ。

 どれくらいの時間力を入れていたのかは分からないが、気づいた時には相手は伸びており、落ち着いて警察に電話をすることができた。


 警察の事情聴取に対し、正直に「襲われたので片羽絞で落としました」と答えると、帽子を脱いでお辞儀された。脱帽ということか。




 後日、実家の母に電話をした。


「こんなことがあって、警察から褒められたんだよ」

「やっぱり都会は危ないねえ。こっち戻ってきたらどうだい?」

「うん、それも考えてる」


 声を聞いた途端に里心がついてしまった。これがホームシックというものだろうか。


「けどお前、なにか格闘技かなんか学びだしたのかい?」

「い、いやあ、全くだけど」

「ああ、そう。おじいちゃんみたいに強くなりたいのかと思ったよ」


 祖父は私が生まれる前に亡くなっている。家族の話にも、なぜかあまり出てこなかった人だ。


「おじいちゃんって、強かったの?」

「ああ、知らなかったかい。プロレスラーだったんだよ。最初は柔道家だったんだけど」

「へえ……。へえええ……」

「今は人気があるんだろ? プロレスって。昔はあまり良くない目で見られてたから、本人がそんなに話したがらなかったねえ」


 電話を切った後、何気なくカレンダーを見た。8月15日。ちょうどお盆。今回の災難を見越していたのかどうかは知らないが、悪霊が「たまには帰ってこいよ」と言っているような気がした。


 お供えするようなものも写真もないので、とりあえずテーブルの向こうにコップを置いて、ビールを注いだ。心の中で感謝の言葉を伝えた後、一つだけ、これだけは言いたかったことを声に出して言ってみた。


「稽古をつけてくれたのはありがたいけど、もうちょっと方法があったんじゃないの?」


 ビールの泡が笑ったように弾けた。

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