心の穴を埋めるように
1
終わらないでほしい。時計の針が進むたびに、愛は焦りを感じる。
この四日間がとても充実していたせいか、またあの日々を送ると思うと、酷く胸が苦しくなった。
土曜日は綾香さんとショッピングをして、
日曜日は綾香さんとお墓参りに行って、
月曜日は綾香さんと県外の水族館に行った。
火曜日で綾香のお盆休みは終わりだ。
溜まりに溜まった、男達からのメッセージ。
これからも“普通”を演じる為には、身体を売り続けなければならない。
頃合いだと愛は思った。
このまま綾香の家に居座る訳にはいかない。
火曜日の夜には、また夜の街を身を投げ出そう。
だから、どうかその時までは、忘れさせてください。
もし一つ願いが叶うのならば、この夜を終わらせないでください。
崖から落ちるような感覚に襲われて、愛は目を覚ました。
ひどく焦っているのが自分でもわかる。急いで時刻を確認すると、寝室の壁掛け時計は午後一時を指していた。
――夜まで、もう時間がない。
そう考えると、愛は酷く陰鬱な気分になった。
一九時に駅前。三五歳のサラリーマン。
前戯の下手くそな、中肉の男。中々イってくれない面倒な客。
心が沈む。身体が冷たくなっていく。
「おはよう、愛ちゃん」
温かい綾香の声。愛はゆっくりと顔を上げる。
寝室の扉から覗き込むようにこっちを見る、愛しい人。
「ご飯できてるよ。たべる?」
愛は無言で頷き、重たい身体を起こした。
リビングへ向かうと、ふわっと良い匂いが漂ってきた。
「昨日、港で買った鮭だよ」
椅子に座る。目の前に並べられた昼食を見て、愛の胸は切なくなる。
鮭のムニエル。ふかふかの白米。味噌汁に、卵焼き。
まるで“普通”の家庭に出てくるような、温かい食卓。
それは愛が夢見ていた光景だった。
思わず目頭が熱くなる。
涙が零れるのを必死に堪え、箸を手に取り、いただきますと口にした。
「……おいしい。綾香さん料理できるんですね」
「む、一応できるよ。って愛ちゃんにお披露目するの二回目だよ」
笑顔で綾香が言う。微笑んで愛は頷く。
「明日から仕事だよー……嫌だなー」
机に突っ伏して、気怠そうに綾香が目を閉じる。
「おわらなければいいのに」
無意識のうちに口にしていたことに気付き、愛は驚く。
「また泊まりにおいでよ」
綾香は机に突っ伏しながら、笑顔で言う。
「今日はどうする?」
「さすがに、帰ろうと思います。綾香さん明日お仕事だし」
「気にしなくていいのに」
「でも、今夜バイトあるので」
綾香はどこか寂しそうに頷くと、
「そっか。夕方くらいに送ってくよ」
今度は微笑んで、そう言った。
昼食を食べて、リビングでテレビを見ながらゆっくり過ごす。
二人は化粧をして仕度をする。
楽しかった日々が終わるのを悔やみ、涙をこらえながら、帰る準備をする。
重い足取りで綾香の家を出て、車に乗り込む。
美味しいハンバーグのお店で夕食を済まし、二人を乗せた車は愛のマンションへ向かった。
「ありがとうあやかさん」
「ううん。また金曜日においでよ」
愛のマンションの前、二人は名残惜しそうに、車内で別れの挨拶を交わす。
「……うん」
愛は思わず俯く。
帰りたくない。傍にいたい。言いかけた言葉を呑み込み、
「また連絡します。おしごとがんばってください」
「ありがとう。愛ちゃんもバイト、ファイトだよ」
どちらからともなく、浅いキスをする。
「それじゃあ、また」
愛は車を降りる。手を振り綾香は車を発進させる。
自然と涙が零れる。愛は自分が脆くなっていることに気付く。
愛はその場で立ち止まり、車が見えなくなるまで綾香を見送った。
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