『無事に終わったよ。十九時に送迎レーンで』

 綾香からメッセージが入り、仕度を終えた愛は家を出る。

 蒸し暑い夏の匂い。煩い蝉の鳴き声。道端では仰向けになって力尽きた蝉の死骸が転がっている。

 可哀想に。そう心の隅で思いながら、愛は駅に向けて足を進める。

 時間通りに綾香が来て、二人を乗せた車は街を抜け出し、街道を走る。

 ――大学は夏休み?

 綾香の問いに、愛は淡々と答える。

 今日はどこまでするのだろう。

 綾香と過ごす今日を待ち望んていたはずのに、愛の心は深く霧がかかったように陰鬱としていた。

 閑静な住宅街にあるピンクベージュ色の外壁が特徴的な三階建てのマンション。

 そこが、綾香の家だった。

 車を降りる。綾香の後ろに続き階段を上る。

 ふと、愛は綾香の後ろ姿に、見惚れてしまう。

 黒のストライプ柄のブレザーに膝上のタイトスカート。

 今日の綾香の服装は、いつものカジュアルな服装とは違った。

「綾香さん」

 綾香は振り向き首をかしげる。

「んー?」

 目が合い、愛は咄嗟に視線を逸らす。

「今日、なんだか雰囲気違いますね」

 思い出したかのように、綾香が自身の格好を確認する。

「あー、今日ね、営業君と外回りしてきたの。だから少し気合入れて」

 綾香が異性と話す姿を想像すると、愛の胸は痛んだ。

「どう? 似合ってる?」

 明るい綾香の声色に、脳裏をよぎる様に愛は思い出す。

 ――自分は異性に身体を売っているのに。

 一歩、脚が退く。階段から足を踏み外し、身体のバランスが崩れる。

 咄嗟に、何かが愛の腕を引っ張る。身体が引き戻される。

「――愛ちゃん、大丈夫……?」

 荒い息で、綾香が心配する。

「……ごめんなさい。ぼうっとしちゃって」

 安心したように綾香は息を吐く。鳴き続ける蝉の声が妙に頭に響く。

「無事でよかった。早くうちに入ろ」

 

 綾香が暗証番号錠に番号を打ち込み、ドアノブを捻る。

「入って入って。愛ちゃん家みたいに綺麗でオシャレじゃないけど」

 困ったように笑って、綾香が靴を脱ぐ。

 愛は首を横に振って、辺りを見回した。

 そこは1LDKの部屋だった。

 玄関を入ってすぐに廊下があり、右側に行くとお手洗いと洗面所。正面と左側には扉があり、正面がリビングとダイニングキッチン。左の洋室が寝室となっていた。

 愛はリビングのソファーに腰かけて、荷物を隅に降ろす。

 ソファーの後方には、洋室へと繋がるスライド式のドアがあり、綾香はすぐにその寝室で部屋着に着替えた。

「はあー、やっぱ部屋着が一番」

 大きく肩を伸ばし、綾香は冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出す。

 ローテーブルの上にグラスを二つ置き、愛の隣に腰かけ、グラスにお茶を注ぐ。

「ありがとうございます」

「ううん、愛ちゃん――」

 口にしたグラスを机の上に置いて、綾香は続ける。

「今日は乗り気じゃなかった?」

 咄嗟に背筋が凍る。身体が冷たくなり、震えだす。

「――なんで」

 驚いたように綾香は愛を見る。

 愛は動揺を隠せなかった。綾香があの男と同じ言葉を口にするなんて想像もしなかった

「どうしたの?」

「なんでも……ないです」

 そっか。と頷き、綾香は再びコップを口へ運ぶ。

「もしかして、飽きちゃった?」

 突拍子もない言葉に、愛は綾香を見上げる。

「ほら、私全然大人っぽくないでしょ。恋人っぽいこと何もしてあげれてないし」

 どこか困ったような表情。それでいて、悟ったかのような優しい表情。

「――違う」

 怒鳴る様に口にしてしまい、愛ははっとする。

「違うの、綾香さん。ごめんなさい」

 困らせてしまったと綾香は落ち込む。俯き小さくなる彼女を見つめる。

 咄嗟に綾香は愛を抱きしめたい衝動に駆られる。

 彼女が何を思い、何を求めているのか綾香には理解できない。

 それでも、彼女が酷く何かを恐れていることは理解できた。

 おもむろに綾香は愛を抱き寄せた。

 抱き締めて、優しく頭を撫でる。

「嫌なことでもあった?」

 強張った愛の身体を、綾香は抱き締め続ける。

 少しの間が空き、愛は頷く。

「私に話してみない?」

 綾香の囁きに、愛は小さく首を横に振る。

 綾香は無言で愛を抱きしめる。

「愛ちゃん大学生にしては落ち着いた子だって思ってた。でも、なんだか危なっかしくて、放っておけなくて、だからー――なんだろう」

 綾香は思考を巡らす。彼女が誤解せずに、納得してくれるような言葉を探す。

「支えてあげたいって思ったの。って、私も寂しかったんだけどね」

 微笑みながら愛に投げかける。

 愛は言葉を失う。温かい視線で自分を見つめる、綾香を見る。

「愛ちゃん、泣いてる」

 ずるいと愛は思った。いとも簡単に思いがけないような優しい言葉をくれる。温もりをくれる。こうして抱き締めてくれる。それだけで愛は満たされた。

 綾香が部屋着の裾で、愛の涙を拭う。

「ありがとう綾香さん」

 ゆっくりと首を横に振り、綾香は続ける。

「愛ちゃん、初めて会ったあの日の夜、私のこと抱いたでしょ」

「してない、本当に。ただ……」

「ただ?」

 口にしようか悩み、愛は綾香を見る。

「綾香さん……ひとりにしないでって言ってた。だから抱き締めて……キスしたの」

 ごめんなさいと小さな声で謝り、愛は俯く。

 顔を赤らめて、綾香も俯く。

「そっかあ……恥ずかしい」

「……綾香さん可愛かった」

「愛ちゃんには敵わないよ」

「可愛いのに」

 ばか。と口にし、綾香は顔を逸らす。

 静寂に包まれる。それでも繋がっているような、不思議な空気が流れる。

「愛ちゃん」

 目が合う。見つめ合う。綾香は恥ずかしそうに視線を逸らし、そして口にする。

「今夜、してみよっか」

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