寛解④

 玄関を開けると、廊下の奥にある部屋から町田が顔をのぞかせた。


「おっつー」


 昼間の様子よりもやけに軽々しい。身構えていたのがバカみたいだ。


「お邪魔します……」


 素早く玄関に入ると、あの柔軟剤の香りに包まれる。

 すかさず響に風呂場をうながされた。廊下の左側に扉がある。どうやら、そこが風呂場らしい。


「ささーっと入っちゃって。先輩が先に上がってきちゃう」

「いや、でも……」


 どうにも気が乗らない。いざ目前にすると煮え切らない。

 なんの罰ゲームだ、これは。

 ちらりと部屋を覗くと、町田が冷蔵庫からソーダ色のアイスキャンディを引っ張り出していた。雑に袋を開け、アイスキャンディにかじりつく。それを眺めていると、響の両手が与鷹の頬をつかんだ。


「何をそんなに気にしてんの。別に一緒に入ろうって言ってないじゃん」

「そういうこと言うの、マジでやめて」


 手を払って響から逃げる。

 すると、奥で町田がはやし立てた。


「お、ヨダ坊が怒ったぞー」

「ヨダ坊?」


 変なあだ名をつけるなと言いたかったが喉元でグッとこらえる。それを見やり、町田は「にゃはははは」と不気味な笑いをあげた。


「まぁ、真面目な話、ヨダ坊だって気をつかうだろうし、気になるだろうし。そこはも分かってやりなよ」


 そう言いながら、町田はアイスを口にくわえたままで、自分のリュックサックを開けた。買い物したと思しきビニール袋を引っ張り出す。

 響がキョトンと見つめ、町田に聞いた。


「何それ?」

「ヨダ坊専用のお風呂セット。百円ショップで適当に見繕みつくろったのだ、感謝せよ」


 偉そうに言い、袋を渡してくる。中には荒目のアクリルスポンジとタオルが数枚入っていた。


「シャンプーとボディソープは適当に使って。洗濯はうちでやるから、どうしても気になるんなら下着だけ自分でどうにかして。分かった?」

「あ、ありがとうございます」


 思わぬ気遣いに、咄嗟に言葉が出てきた。これに、町田が眠そうなタレ目を開く。響はニヤリと笑った。


「へぇ、素直に言えるじゃん」


 言わなきゃ良かったと思ったが遅い。しかし、他に言うことが見つからないので、これでいいんだと自分に言い聞かせた。町田は満足そうに風呂場をあとにする。与鷹は脱衣所の鍵をかけ、詰まった息を吐き出した。

 疲れはある。でも、恐怖はいくらか消えた。

 今は家族のことは考えないでおこう。現実逃避だ。

 ひとまず風呂に入ってしまわないと、我竜からのコールが迫ってくる。与鷹は上着を脱いで、明るく狭い浴場に片足を突っ込んだ。



 ***



 風呂を出たら、町田からアイスキャンディを渡された。響はベッドに寝転がっている。


「先輩から連絡は?」


 聞いてみると、町田が答えた。


「まーだ。噂じゃあの人、長風呂らしいよ」

「そうなんだ。知らなかった」

「あんた、我竜先輩のこと好きなのに、そんなことも知らなかったの?」


 呆れた声を返す町田。その口ぶりから、響の言動は誰にでもダダ漏れなのだと悟れた。響のオープンな恋心が我竜へ届かないことが残念でならない。

 もらったビニール袋に服を詰め込んでいた。


「服、脱衣所に置いといていいよ」

「いや、でも……」

「いーから、いーから。素直に甘えなさぁい」


 そう言うと、町田は素早くビニール袋を奪う。仕方ないが、ここは厄介になろう。

 与鷹は渡されたアイスキャンディを頬張った。サコッと小気味いい音がする。黙っているので余計にそれが響いた。

 どうにもまだぎこちない。町田は気にしていないようだが、女子大生の部屋に上がりこむというのは、家出と等しく過酷かこくなものだった。落ち着かない。

 これを毎日続けると思うと憂鬱ゆううつにもなる。しかし、家にいるような緊張感や脅威はない。家族じゃないからこそ、絶妙に程よい距離感が心地よくもある。


「お、連絡きた」


 響が機嫌よく言った。それと同時に、与鷹はアイスキャンディを棒から引きがす。一度に口に入れたら、爽快な冷感に頭がキーンと痛んだ。そうこうしているうちに響から肩をつかまれ、玄関に追い立てられる。


「んじゃ、ちょっと送ってくるねー」


 町田に声をかけると、彼女は部屋から顔をのぞかせてニッと笑いかけてきた。


「おやすみんみん」


 与鷹は急いでパーカーをかぶって外に出た。

 階下を見ると我竜の懐中電灯が目を刺激する。急いで階段を下りた。なんだか来た時よりも身軽だと思った。


「お待たせ。それじゃあ、帰ろっか……って、なんで響まで降りてくるの」


 さっぱりと石鹸の香りを漂わせた我竜は、髪を下ろすとやけに長かった。真っ黒の髪の毛先は透き通った金色だ。濡れた髪が三日月のように跳ねている。


「えー? あたしも部室に泊まりたいー」


 響の思惑はなんとなく悟れたが、我竜のため息の意味も分かるので、与鷹は空を見上げておいた。

 雲の流れが早く、蒸し暑い。濡れた髪が蒸れそう。


「なんでダメなんですかー」

「なんか、襲われそうで怖い」

「はー? あたし、そんなに手が早そうに見えます!?」

「見える。だからダメ。はい、帰って。また明日」


 痴話喧嘩のような応酬も新鮮だが、やはりどこかないがしろにされているみたいで空から目をそらした。じっと二人を見ていると、ようやく響が引き下がった。


「ごめんね、与鷹」


 我竜が申し訳なさそうに笑う。その後ろから響が顔をしかめていた。


「じゃあね、ヨダ。おやすみ。ゆっくり休んでね」


 言葉は優しいのに、拗ねたような口調には呆れて笑うしかない。

 手を振って見送ってくれる響を何度も振り返りながら、与鷹は我竜の背中を追いかけた。兄や父とは違う柔らかな背中だった。ゆったりと坂道を上っていく。


 夜が深く、空に近づくと星の明滅めいめつが肉眼でもよく見えた。その星空をぼんやり眺めようとしても、我竜の懐中電灯が邪魔をする。

 来た道と同じ林を抜け、学校の中へ入る。部室棟の電灯がほとんど落ちていた。

 四階まで無言で歩き、二人は再び部室へ舞い戻る。大きな扇風機を回し、我竜は部屋の電気とエアコンをつけた。暗幕をさっと引く。夜にもなれば部屋はわずかに熱が引いていて、あとは寝床さえあればすぐにでも眠りに落ちることができそうだ。


「二十二時か……ちょっと早いけど寝ようか」


 我竜は掃除用具入れのような細長いロッカーを開けた。その中にはなんと布団が一式、絨毯のように丸められている。これを引っ張り出し、空いているわずかなスペースの、それも設計図の上に敷いた。


「あの、この紙って大事なものじゃないの?」


 思わず聞いてみる。


「いいや」


 我竜はあっさり答えた。


「それ、使えないやつだから。ほとんどカーペットだよ」

「へぇ……」


 思わぬ答えに反応が薄くなってしまう。

 布団はしっかりとした寝具であり、掛け布団まできちんとシーツがかけられている。


「先輩は?」

「僕はいいよ。君に貸す」


 我竜は定位置のロッカーを指した。まさか、そこで寝るのだろうか。

 途端に遠慮が迫ってくる。その険しさを読み取ったのか、我竜はケラケラ笑った。


「そのうち後輩から布団を借りてくるから、今日のところは勘弁してよ」


 そんな風に言われたら、やはり厚意に甘えるしかない。渋々、布団の中に潜り込んだ。スマートフォンは相変わらず裏返して電源を切ったまま。


「もう寝る? 電気消そうか」

「はい」

「じゃ、おやすみんみん」


 その挨拶は天文部共通語なのか。あまりにもさらりと言うものだから、呆気にとられて吹き出した。それを布団の中に隠す。

 同時に静寂が訪れ、漏れていた灯りも消えてしまい、目の前が真っ暗になった。


 目を瞑る。息を吸って、吐いて、繰り返して。

 静かな部屋は、涼しくて寝心地がいい。ベッドのように柔らかなものじゃなかったが、それもなんだか新鮮だ。


 時計の針がやけにうるさく、こくこくと心臓を動かす。

 だんだん体がどんよりと重くなってきた。まぶたも落ちていく。


 今日は本当にいろんなことがあった。

 今朝に家を出たことが遠い昔に思えてくる。


 母も父もいない夜。静かな夜。

 ゆっくりと、永遠に続く安心。そのはず。

 今日はゆっくり眠れるだろう。安らかに。

 だって、怯える必要はないんだから。

 何にも考えずに、頭を空っぽにして、深く眠って……


 ――与鷹。


 まぶたの裏側に、誰かがいる。


 ――どうして。


 嘆く声に耳をそばだてた。


 ――どうして? ママはこんなに頑張ってるのに。

 ――どこに行ったの?

 ――与鷹、見捨てないで。


 声が近くまで忍び寄ってくる。

 与鷹はたまらず目を開いた。息を吸う。でも、胸のつっかえが取れない。おかしい。


「はぁ……」


 いくら呼吸をしても、苦しいままだ。唾を飲んでも腹に落ちることはない。横になっているからか、それとも布団が床に敷かれているからか寝苦しく感じる。

 いや、母の影を見てしまうからこんなに苦しいのだろう。ダメだ。頭からこびりついて離れてくれない。怖い。不安が後から後から押し寄せてくる。

 お前はバカだ、顔も見たくない、いなくなったほうがいい、死んでしまえ――そんな言葉を今は思い出さなくていいのに。暗闇が運んでくる罵詈雑言と母の形相から逃げようと強く目を瞑った。

 いや、ダメだ。逃げられない。

 次第に呼吸が浅くなってきた。首に手をかけられている気がする。

 絞めつけられている。喉が痛い。息ができない――


「与鷹?」


 肩を揺すられ、与鷹はすぐに飛び起きた。


「はぁっ……あ……」


 喉が急に狭まり、声が思うように出てこない。目は泳ぎ、何を見ているのかも分からない。


「落ち着いて。大丈夫だから」


 穏やかな低音が闇の中で聞こえた。瞬間、辺りは光が蘇る。


「息はできる? ゆっくりでいいから、頑張れ」


 どうにも投げやりな応援だと思った。だが、その言葉通りに呼吸を思い出す。ゆっくりと、時間をかけて。

 長く息を吸うとほこりまで吸い込んでしまい、激しくむせた。背中を折り曲げると、我竜の熱い手のひらがさすった。


「大丈夫、大丈夫」


 不思議なことに、胸のざわつきが収まっていった。光のおかげもあり、うつろだった視界がはっきりと鮮明になっていく。


「ごめんなさい……」


 声はまだ掠れていたが、少しは楽になった。


「謝っちゃダメだよ。何も悪いことはないんだから」


 そうは言うが、どうにも謝るしか言葉が出ない。

 与鷹は目をこすった。目尻に冷たい涙が溜まっている。それを見られないように隠した。


「うーん、困ったな……眠ると、いろいろ思い出すんだろうね。響に見られなくてよかったね」

「ごめんなさい」

「吐き出しちゃえば楽なんだけど、無理に吐くのもきついし。楽になれないのは、しんどいな」

「……ごめんなさい」

「だから謝らないで」


 我竜はぴしゃりと厳しく言った。彼もまた困っているようで、穏やかさに焦りが見えた。

 それを見て、与鷹は鈍い脳を回転させようと躍起やっきになった。吐き出せば楽になる。楽になりたい。


「……母さんが、いた」


 時が止まったと思う。目の前にいる彼は何も言わない。

 言葉にすることに抵抗感がこみ上げた。それでも、口は勝手に動き出す。


「母さんが、僕の、首を……絞めてきた」

「そうか……」


 我竜の答えは短く、穏やかな彼にしては暗さを帯びていた。静かな怒りを感じる。

 与鷹は言葉にしたものがどんなに恐ろしいものか思い知った。後悔と自責が降りかかり、体が冷えていく。外も内も冷たくなり、まるで死人のようだった。生きているのが不思議だった。そして、生きていることに恐怖を感じた。


「ぼく、殺される」

「そんなことは絶対にない」

「いや、でも。だって、本当に。でも、ぼく、死にたくない……」

「死なないよ。絶対に」


 どうしてそんな自信が湧くのだろう。与鷹には分からなかった。しかし、たとえ気休めでも、その言葉は固まって冷えた心に沁みた。

 体はまだ震えている。部屋は極寒じゃないのに、恐怖で体の芯が冷え切っている。それを溶かそうとしてか、我竜が与鷹の頭に手を置き、自身の胸に引き寄せた。あまりにも急なことだったので身構えていなかった。でも、押し戻すほどの余力はなく、反発さえ考えなかった。この温もりが今は一筋の救いだった。


「ごめんなさい」

「だから、謝ることはないって。悪いことはしてない。与鷹が罪悪感を持つことはないんだから」


 それから、我竜は息を吸いながら言った。


「予想よりも現実は残酷だ……困ったな、僕はそこまで大人じゃないからさ、今、結構焦ってるんだよ、これでも」


 その言葉通り、聡明そうめいに話す彼にしてはつたなかった。頭の上で話す我竜に、与鷹は素直に頷くしかできない。


 しばらく、灯りはそのままにしておいた。しかし、〇時になればどうしても電気を消さなくてはいけないのだと我竜は申し訳なさそうに言った。


「悪いんだけど、ここで生活するには仕方ないんだ」

「大丈夫。我慢できるから」

「我慢なんてするもんじゃない」


 気遣ってくれるのはありがたいが、ルールを破ってまでここで生活しようと思うほど図々しいつもりはない。

 一方で、我竜はこの現状をどうしたものか考えあぐねている。


「……あ、そうだ」


 何かひらめいたらしい。彼は壁に押しやった山積みの箱やケースをひっくり返した。それがあまりに突然だったので、与鷹は布団の上で呆気にとられる。

 我竜は何かを探していた。懐中電灯や双眼鏡、スケッチブックなどを放り投げている。やがて、目当てのものを見つけた。


「あった!」


 顔をほころばせて、少年のような声を上げる。


「これだよ、これ。いいものを見つけた。これを使おう」


 両手に抱えて布団の上に置く。両腕で抱える大きさのランプシェードが鎮座した。


「プラネタリウムだよ、ピンホール式の。一年の時に作ったものがまだ残っててよかった」


 初めて聞く言葉があり、与鷹は曖昧に笑うしかできなかった。

 ピンホール式とは。それに、彼は一年生の時にもプラネタリウムを作っていたのか。


「これは夏休みの自由研究でも手軽に作れるものだよ」


 置かれたプラネタリウムは、部屋の中央にあるドームの十分の一程度しかない。黒いプラスチックの球体に無数の穴が空いている。


「一人一台プラネタリウムを作らなくちゃいけなくて。こいつは光源がただの懐中電灯だから、うまく投影できるか分からないけど」

「え? 初めて使うの?」


 思わず聞くと、彼はあっさり「うん」と答えた。


「みんなったものを作るから、恥ずかしくて提出できなかったんだ」


 意外と格好かっこう悪い一面が飛び出し、与鷹は肩を落とした。

 我竜はクスクスと忍び笑いながら、プラネタリウムの底を探る。電源を入れると、たちまち球体の中から光が漏れ出てきた。


「電気、消すよ」


 その声は早く投影したくて堪らない様子が窺えた。

 灯りが消え、再び暗闇に包まれた。思わず目を瞑ると、すぐにまぶたの裏でほのかな光を感じた。


「うわ……」


 激しい光源を失った部屋は、小さな灯りで一面に星を瞬かせた。壁にも天井にも暗幕にも。まばゆい星々が浮かび上がる。


「うーん……やっぱり、ぼやけてるな」


 我竜の声は与鷹に反してくもっていた。


「これ、提出しなくて正解だった」

「失敗なの?」

「失敗だよ。星がぼやけてる。雑だな。やっぱり光源が悪い」

「そんなことないのに……」


 星は同じところで固まっていて、遠い壁では伸びやかな美しい光を反射させている。これだけでも温かみを感じられる。いつまでも眺めていられた。


「まぁ、今はこれよりもっとすごいものを作ってるからね……何としても、こいつだけは完成させたいな」


 我竜は部屋の中央にある投影機を爪で叩いた。与鷹は光に目を奪われたまま、笑った。


「完成したら、絶対に見たい」

「じゃあ約束だね」


 それから、我竜は定位置のロッカーへと移動した。光はそのままにして。


「もうおやすみ。これはつけっぱなしにしておくから、気が済んだら寝るんだよ」


 僕はもう寝るから、と気が済んだように言い、我竜はブランケットにくるまった。

 与鷹も「おやすみなさい」と声をかけ、布団に身を投げ出す。仰向けになると、天井を瞬く星が優しくまぶたに吸い込まれた。

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