寛解③

「時間はまだたっぷりあるし、ゆっくり考えたらいい。帰りたくなったら帰っていいし。自由にしなよ」


 我竜はロッカーから降りた。それは話の終了を宣言するかのようだった。しかし、自由にしろと言われたら何をしたらいいか分からない。


「じゃあ、私はこれからバイトなので」


 言ったのは町田で、彼女はさっさと部室を出ていった。

 なんだか「バイト」と聞くだけで、反射的に罪悪感が押し寄せる。そんなこちらの都合に構うことなく、我竜は響に聞いた。


「響はバイトは?」

「あたしは今日は休みですよ」

「ふうん。じゃあ、手伝って」

「はーい」


 部屋の中央に鎮座するドーム状の機械――未完成の骨組みと丸いボウルみたいなものに近づき、彼らは当然のように作業を開始した。

 設計図の上に座ったままの与鷹は思わず立ち上がる。


「……あの」


 与鷹は足元の設計図を見ながら言った。


「ん?」


 すぐに我竜が反応する。


「あの、これってもしかして、プラネタリウム?」

「よく分かったね」

「まぁ、天文部だし、なんとなく」

「長いことのんびりやってるよ。構想に一年、設計に二年、プログラミングと制作で二年かな。おかげで留年、みたいな」


 我竜が留年生だというのは最初から分かっていたが、もしかするとこのプラネタリウムが原因か。そのせいで卒業ができないなんて、大学生は大変だ。


「あ、そうだ。よかったら一緒に作ってみる?」


 思わぬ提案に与鷹はぎこちなく笑った。

 これを響が見逃すはずがなく、彼女はニンマリと笑っていた。一方、我竜は思案しあんふける。


「うーん。それじゃあ、何をしてもらおうかな……」


 そう言いながら組み立て途中の投影機をなでて考え込んだ。すると、響が言った。


は?」

「あ、そうだね。それがいいかも」


 何やら二人で通じ合っているが、どんな作業を与えられるのか想像ができない。プラネタリウムの製作なんて、大掛かりな実験という認識だ。それに、プラネタリウムは小学校の社会科見学でしか見たことがない。こんな機会はもう二度と訪れないだろう。

 我竜は満足そうに頷くと「よし!」と気合いを入れた。与鷹の肩をつかんで、パソコンのデスクに座らせる。


「はい、それじゃあ、君には星を作ってもらいます」

「えぇ?」


 いきなりの指示に戸惑う。我竜は簡単に説明した。


「マウスをクリックするだけのお仕事です。星を投影とうえいするためのプロット、レンズの原板げんばんを作らなくちゃいけないんだ」

「はぁ」

「これにあらかじめ、星の位置を計算したデータが入ってる。昨日の段階で座標変換ざひょうへんかんは終わってるから、あとは印面をつくってプリントアウトするだけ。まずはその作業をして、どういうものかを見て覚えて」


 細かいことはよく分からないが、ここまでくると「自信がない」なんて言ってられなかった。

 恐る恐る画面と向き合う。そして、小さく深呼吸をした。これに、我竜は「あはは」と軽く笑う。


「簡単だって。そのうち慣れていくから」


 楽観に笑われれば、いくらかやる気が消沈してしまう。それをまったく察しない我竜である。

 カチ、カチ、とぎこちなさが残る音を部屋に響かせる。確かに慣れれば簡単だ。作業自体は単純で、それに手を動かしていると何も考えなくて済む。

 いつの間にか我竜はパソコンから離れて、背後の投影機の組み立てを始めていた。真剣な表情なのに、襟足と前髪を束ねているのがシュールさをかもし出している。この奇妙な髪型に既視感きしかんを覚えたが、それがなんなのかすぐに浮かばない。

 これを面白そうにいじるのは響だった。薄いアルミ板の穴あけ作業をしていたのだが、いつの間にか飽きている。冷蔵庫からお茶を出すついでに我竜の前髪を指で弾いた。


「響、やめて」

「はー? それ、こっちのセリフですから。その、全然似合ってないですからね。格好悪いからやめてください」

「なんでそんなこと言われなきゃいけないの」


 我竜が不服そうに言う。彼は透明なレンズを筒状の中にはめこんでいた。一切、響を見ない。これには響も頬をふくらませる。


「そりゃあ、先輩のことが好きだからに決まってるからじゃないですか」


 響の発言に与鷹は思わず目を見張って二人を見た。しかし、二人はまるで世間話のようにあっさりと会話を展開していく。


「はいはい、そりゃどうもありがとう」

「いつになったら付き合ってくれるんですか」

「んー……いつだろうねー」

「もう、そればっかり。付き合ってみたら意外と優良物件かもしれないじゃないですかー」

「響、中学生の前でそういう話はやめなさい」


 ようやくこちらに配慮してくれたのは我竜だった。視線に気づいてくれたが、悪びれる様子はない。響もあっけらかんとしていた。


「場がなごむかと思って」

「そんなわけないだろ」


 すかさず文句を投げてみると、響は照れくさそうに笑った。


「そうそう、そんな感じで気楽にしなよ。あたしたちはくだらない話をしてるからさ」

「自由すぎる……」


 嘲笑めいた言葉を投げる。子ども扱いされるのはしゃくだった。このつぶやきに、響と我竜は顔を見合わせた。


「そりゃあね。僕らは自由でなくちゃいけないから」


 恥ずかしげもなく言い切ってしまう我竜と、横でうなずく響。与鷹は薄い笑いを返した。

 諦めて画面に向き合い、こちらも真剣に星を作ることに専念する。手が慣れ始めたら、だんだんと楽しくなっていく。ゲーム感覚もあり、夢中で画面に釘付けになる。

 小難しい数式のデータをクリックすると、六角形の画面に点描が現れた。それをプリンターで印刷。

 すべてのプリントアウトが終わると、今度は響と一緒にアルミ板の穴をあける作業をした。与鷹が印刷した紙を丁寧に六角形に切り取り、これをアルミ板に貼る。印面に浮かぶ点描てんびょうに、ハンドドリルで精密に小さな穴を打ち込んでいく。


「この原板とレンズを筒の中に入れるでしょ。そしたら一つのユニットができるわけ。これをあのドームにくっつける」

「へぇぇ」


 我竜とは違い、響の説明は雑だが分かりやすかった。すると、ユニットを作っている我竜も会話に加わってきた。


「この作業ももう二回目なんだよね……一回目は失敗だったから。計算を間違えたんだ」

「難しいんだ?」

「難しいよ。これがうまくいくかどうかも分からない。コスパも悪い。趣味にするには、オススメしないよ」

「ふぅん……」


 そんなに大変なものをよく作るものだ。しかし、彼の楽しげな横顔を見ると否定なんかできるはずがない。

 今度はうまくいくようにと、そっと願いをこめてアルミ板に穴を開けた。


 ***


 集中力が切れたのは、突如、部屋に響くスマートフォンの着信音のせいだった。


「ん? 誰の?」


 我竜が聞き、響が肩をすくめる。与鷹は椅子から立ち上がり、慌てて通学カバンを探った。母からの着信である。

 時刻はすでに十八時。陽が傾いていることに気がついた。響を見やると、彼女は目を伏せた。


「……出なくていいの?」


 聞いたのは我竜だった。

 与鷹は顔をしかめて、スマートフォンをカバンの中に突っ込む。


「すいません、うるさくて」


 出ないことを選ぶと、響がなんともいえない表情を見せた。嬉しいような気まずいような。

 そんな彼女の心境を探る間も与えず、着信音はしつこい。長いこと鳴りまず、止まったと思ったらまた音を鳴らす。その繰り返しで、天文部室の空気がだんだん張り詰めた。だが、誰も何も言わずにいた。


 鳴り止まないコール音を聞いていると、頭が痛くなってくる。ついに電源を切ってしまい、与鷹はゆっくり息を吸った。

 スマートフォンの真っ暗な画面に、蒼白な顔が浮かぶ。すぐに目をそらすと、我竜と響は心配そうに眉をひそめていた。


「……無事だということは、何らかの形で伝えたほうがいいよ」


 そう言ったきり、彼はもうこちらの様子を窺おうとはしなかった。

 ドームの骨組みを真剣に触っている。無骨なのに繊細で華奢きゃしゃなパーツを動かしては戻して、設計図を見ては唸る。

 響も黙々とレンズを投影機にはめこんでいた。先程までのにぎやかさは、着信音のせいで消え去っている。

 焦燥が刻々と増す。いま、慌てて帰れば、今日のことはすべてなかったことになる。だが、もう引き返すことはできない。腹の底に沈殿した黒い物体はぐずぐずと残っていた。胃が重い。


 我竜は軍手を外し、一息ついた。その音が、しんと静まった空間に響き渡り、与鷹は肩を震わせる。


「あー、疲れたねぇ」


 張り紙だらけの壁の一番高いところにぶら下がった時計を見やり、我竜は満足そうに言った。


「おなかすいた」


 響も緊張を解いて笑う。慌ただしく冷蔵庫へ向かい、扉を大きく開け放った。


「ご飯の時間だー!」


 無理矢理にテンションをあげようとしているのが分かり、与鷹は気まずくなった。響の後ろから冷蔵庫の中をのぞく。すると、彼女がコンビニ弁当を二つ持って振り返った。


「シウマイ弁当と唐揚げ弁当。どっちがいい?」

「えっと……どっちでもいい」


 すぐには選べない。それに、食べたいとは思えなかった。

 この答えに、響がムッとする。


「どっちがいいか聞いてるんだけど」

「響ねーちゃんが選んでよ」


 ふてぶてしく言うと、響は目をしばたたかせた。すると、後ろから我竜の声が近づいてくる。


「与鷹は自己主張がかなり弱いよね。でも強情だ」


 呆れた声で言われるも、何も言えないので黙るしかない。我竜は響が物色する上から手を伸ばし、唐揚げ弁当を取る。それを与鷹に向けた。


「明日は選んでね」


 難しいことを言う。手を伸ばすと、挑発するように弁当を遠ざけられた。それはまるで、返事を待っている。


「……分かりました」

「よろしい」


 弁当を差し出され、受け取る。一連の流れを見て、響は不満な顔を与鷹に向けた。


「弁当の一つも選べないって、やばいでしょ」

「やばいね。これは相当に重症なあれだよ」


 我竜も大袈裟に嘆き、シウマイ弁当を取って定位置のロッカーへ向かった。弁当を開く。


「えっ、そのままで食べるの?」


 思わず聞くと、彼は割り箸を割ってシウマイをつまんでいた。響もチキン南蛮弁当のふたを開けている。


「うちに電子レンジなんていう高尚こうしょうな文明機械はないよ」


 我竜が当然のように答えた。

 電子レンジが高尚な文明機械だったら、ここにある精密機械はなんだというのだろう。しかし、ないものはない。贅沢ぜいたくは言ってられない。

 与鷹は渋々しぶしぶ、弁当のふたを開いた。だが、これで昼間のパンが納得できる。温める調理器具がないから、惣菜パンという手軽なものを用意したんだろう。

 響はともかく、我竜がどうしてここまで付き合ってくれるのか理由が分からない。いつまでも弁当に手をつけずにいると、響が不審そうにこちらを見た。


「食べなよ」

「うん……」


 結局、誰かの世話にならなければ親への反抗もままならない。この不甲斐ふがいなさが悔しくなり、かき込むように唐揚げをむさぼった。無理やり腹の中に詰め込む。淀んだ黒い何かは、唐揚げの勢いに押された。

 一方で、二人はのんびりとおいしそうに食べている。冷たいままなのに、まるでホカホカの弁当を食べているように見えるから不思議だ。


「引き返すならまだ間に合うよ」


 こちらの罪悪感を読んだかのように、我竜がひっそりと言う。響の非難めいた目を完全に無視して、彼は穏やかに笑った。それがどうにもからかわれているように思え、無性に悔しかった。


「帰らない」

「よーし! よく言った、ヨダ!」


 途端に響が満足に言った。そして、頭を乱暴に撫でてくる。ぱっと肩をのけぞらせ、その手から逃げた。

 我竜を見ると、彼もどこか嬉しげだった。


「とにかく、罪悪感をすぐに捨てろとは言わないよ。でも、いつかは捨てないとだめだ。自分を見失うことになるからね」


 ――それができたら、こんなに苦労しない。


 内心で毒づいても、二人には届かない。与鷹の答えに響ははしゃぎ、我竜はあっという間に弁当をたいらげた。


「さ、食べてしまったらお風呂だよ」


 響はタルタルソースを口の周りにつけたまま言った。妙に浮き足立っているのは気のせいか。


「風呂はあたしの家で、消灯の午前〇時までに済ませる。トイレは一階の共同トイレしかないけど、そこはバレないように気をつけて」


 テキパキと話が進められる。


「ま、待って。ぼく、まだここにいるって決めてない……」

「帰らないのに?」

「そうだけど……」

「だったら、ここでの生活は今言った通りよ。他に質問は?」

「………」

「よし。それじゃあ、風呂に行こう」


 我竜は弁当の空箱をゴミ袋に放り投げており、すでに風呂おけとタオル、シャンプーとボディソープを抱えていた。

 なんだか押し切られている気がする。しかし、一人では決められない。それが情けなく腹立たしいが、むやみやたら他人に甘えるのも嫌だった。


 ――そんなプライドは捨ててしまえ。


 昨夜、響に言われたことを思い出す。プライドと言えるほどの賜物たまものじゃないが、そういうモノがくすぶっているのかもしれない。甘えたくないのに状況に甘んじている。矛盾むじゅんだ。



 ***



 与鷹は水色パーカーを羽織はおってフードをかぶり、数時間ぶりの外気を吸った。

 響を先頭に部室から出る。ドアをそっと開け、辺りを見回した。そして、ポケットから電灯付きの双眼鏡を出す。静まった闇の中を探るように見た。


「よし、行こう」


 澄んだ空気がやけに美味く、冷めた心に染み込んで痛い。この痛みの正体を探ることはなく、我竜と響に連れられるまま林の中へ足早に行く。真っ暗闇のそこは普段は誰も通らないらしいが、我竜だけが使う秘密の抜け道だという。

 先を行く響の背中を追いかけながら、こっそりと我竜を見た。目が合うと、なんだか気まずい。与鷹は不自然に咳払せきばらいした。


「えーっと……先輩も響ねーちゃんのとこに行くの?」


 聞くと、我竜は目をしばたたかせた。


「先輩? 僕のこと?」

「うん。響ねーちゃんがそう言ってるから、ぼくもそう呼ぼうかなって」

「あー、なるほどね」


 合点したように手を打つ。それから「あはは」と軽く笑った。なんだかあしらわれた気分だ。


「僕は別の後輩のとこでシャワーを借りるんだよ。いくらなんでも、後輩女子の部屋に出入りするなんて……」


 言葉が途切れる。彼は逡巡しゅんじゅんし、おどけたように笑った。


「ごめん、一回あった」


 我竜は軽く笑い飛ばした。この答えに、与鷹は笑えなかった。顔が引きつる。

 彼の言動に振り回されるのは癪だが、底が読めないのでいちいちうろたえてしまう。

 響のことはなんとも思ってないのに、なぜだろう。姉のようにしたっているからか、妙な男に引っかかることに自然と警戒しているのかもしれない。


「二人とも、しゃべってないで早く来て」


 道路を渡ったところで、響が忙しく手招きする。

 今朝に訪れた響のアパートの裏手に回った。茂みに隠れると、なんだか悪いことをしているように思えてくる。しかし、我竜も響も楽しそうなので空気を壊すようなことは言えない。


「じゃ、入浴が済んだら迎えに行くから」


 我竜は爽やかに片手を挙げ、先に茂みを出て行った。彼の後ろ姿を見送り、次に響が茂みを出る。

 真っ暗な道路から我竜の姿が完全に消えたところで、与鷹は詰まっていた息を全部吐き出した。肩の力が抜ける。


「ヨダ、早くおいで」


 アパートの表に回った響がまたも手招きする。その手の激しさに、思わず吹き出した。

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