第7話 異形の密室

「先生、吉岡です……」

 呼び出されたホテルの一室は、ドアが半開きになっていた。覗き込んだ途端、どんっと、首筋に衝撃を受けて、吉岡は前のめった。

 そのまま、よたよたと部屋に入り込んだ。異様な臭気が鼻をつく。部屋全体が煙っているのだ。

「香だよ。この匂いに包まれていると落ちつくし、創作意欲も湧いてくる」

 声のする方を振り返ると、そこにドアを後ろ手にして三沢昭彦が立っていた。今帰ってきたばかりのようだ。しかし、後ろからふいに背中を突いてくるとは、恐ろしく乱暴な挨拶ではないか。

「原稿が上がったんですか?」

「いや……まだだ」

 では、なんでこんな真夜中に呼び出したりするんですか……と思わず食ってかかりそうにそうになった言葉を、吉岡は飲み込んだ。

 しかし、三沢の暢気な顔つきは癪に障る。締め切りまで、待ったなしのはず。本当に編集者泣かせのミステリー作家だ。

「まあ、そこにすわって菓子でもつまみたまえ」

 三沢は、担当編集者の機嫌など塵ほども考えていない。吉岡はしぶしぶソファーに腰をおろした。

 相変わらず、鼻に付く香の匂い。早くこの場を立ち去りたい。

「それにしても早いなあ。携帯で君を呼び出して、この部屋に来るまであっという間じゃないか」

 吉岡は狼狽した。

「すぐ来てくれ」というから、何も考えずに一目散にやってきたのである。突然の事で慌てたが、担当としての責任感が彼を急がせた。だが、確かに変に思われても仕方ない。

「偶然となりのホテルに部屋を取って泊まっていたんです」

 もちろん嘘ではないが、吉岡は内心びくびくしていた。しかし三沢は、それ以上の詮索はしなかった。普通では通用しない言い訳でも、あっさりと受け入れてくれたのは、作家という職業が、常に虚構の世界に身を置いているせいなのかもしれない。

 尋ねられて困る場面では、先手を打って尋ねる側に回るべきである。吉岡は、即座にそう判断した。

「今は真夜中ですよ、先生。原稿の受け取りのほかに、いったい私に何の用件があると言うんです」

 三沢はうれしそうに表情を崩した。

「実はね、新しいミステリーのネタが浮かんだんだ。それを今すぐ君に聞いてもらいたくてね。もし、よかったらこのネタで、次の作品を書こうかと思っている」

 ほう、と吉岡は思った。なかなか熱心ではないか。変人で有名な作家だが、そういう素直な一面を見ると、担当としては俄然やる気も沸いてくる。

「で、どんなネタです?」

「密室トリックだ。今までほとんど出尽くしたといわれている分野だが、私は誰も考えた事がない新しいネタを見つけたのだ。つまり、密室を作るのは常に殺人者の側である、という前提で物語を考えていたこれまでの常識を覆す……」

「それなら」と、吉岡は口を挟んだ。「被害者が密室を作り出すパターンもありますよ。瀕死の被害者が、外部からの災難を避けるために部屋の鍵を掛け、そのまま力尽きで密室内で息を引き取ってしまうというもの」

「おお」

 三沢が悲鳴のような声を上げた。

「そ、それはすごい」

 吉岡は三沢の素直な驚きの表情を見て、急に気力が萎えてくるのを感じた。

「失礼ですが、いったいどんなトリックを考えていらっしゃるのですか。まさか、今のと同じような……?」

「いや、よく似ているが、私の考えたトリックの方がすごい。いいかい、部屋の中から鍵を掛けるのは、殺された被害者本人だ。そこまでは同じ」

「ではどこが違うというので……」

「死体が密室を作るところが違う」

 途中で、あまりのくだらなさに、吉岡は思わず大声を出した。

「まさか、ゾンビになって……なんていうのじゃないでしょうね」

「そのとおり!」

 吉岡は目を丸くした。

「バカバカしい! いいですか、出版社は先生にホラーじゃなく推理小説を書いてもらいたいんです。それぞれの分野には、それぞれのネタがあるんです。推理小説に幽霊は出しちゃいけないし、犯人が宇宙人でもいけない。それは暗黙の了解です」

「まあ、これを見たまえ」

 そういいながら吉岡が、バッグをまさぐって取り出したものは、細長いお札のようなものである。赤い地に、わけのわからない漢字が並んでいた。さらに封筒を取り出して、その中身をお札と一緒にテーブルの上へ並べて見せた。こちらはどうやら薬草のようである

「なんですか、これは?」

 三沢は吉岡の脱力した顔を見て、にやりと笑った。

「僵尸(キョンシー)のおまじないセットだ。薬草を焚き、お札を貼り付けると、死体がキョンシーになるという」

「キョンシー! あの中国版ゾンビですか」

「キョンシーはね、中国古来から伝わる科学なんだよ。道士と呼ばれる者たちが、旅先で死んだ人々を故郷へ連れて帰る方法として利用してきた。死体そのものに、家までの長い道のりを歩かせていたんだな。この方法を使えば、死体は自ら密室を作りあげ、犯人がアリバイを作るまで充分に働いてくれる。」 

 もはやあきれて話にならない。吉岡は心の中で憤慨しながら、立ち上がった。

「もっとちゃんとしたネタが浮かんだら、私を呼んでください」

「吉岡君、もう帰るのか」

「当たり前でしょう。これ以上、先生のいたずらに付き合う暇はないですから」

 三沢は、ドアに向かう吉岡に追いすがるように声を掛けた。

「もし君に、殺したいと思う相手がいるのなら、このセットをあげてもいい」

 吉岡は歩を止めた。何もかも知っていて、皮肉で言っているのか。

 吉岡は、今まで隣のホテルで、三沢の妻と一緒にいた。彼女とはすでにお互いを求め合う関係になっている。たが、彼は三沢を邪魔だとは思っていない。さらに三沢からその妻を奪おうなどと考えたことも一度もなかった。

「まさか、そんな人はいませんよ」

 吉岡は三沢を振り返って笑って見せた。

 三沢は複雑な表情で、そう、それはよかった、と呟いた。彼が秘密を知っているのか知っていないのか、吉岡にには見当がつかない。

 吉岡にしてみれば、三沢との関係もその妻との関係も同じようなものだった。ただ相手の便宜を図っているだけのことだ。だから誰かを憎む事もなければ、誰かに憎まれるはずもない。

「最近のホテルはぶっそうだから、施錠を忘れないように」

 吉岡を見送りながら、ドアの前で三沢が妙なことをいった。

「先生こそ、そうしてください。ただ、ホテルはオートロックですから、心配には及びません。そんなことよりも、とにかく執筆がんばってください。今晩は寝る暇はありませんよ」

「……なら、ドアチェーンは必ず掛けておきたまえ」

 吉岡は、三沢の奇妙なアドバイスを笑い飛ばした。

「原稿が上がったらいつでも呼んでくださってかまいません。ただし、さっきのような冗談はダメです」 

 その時である。三沢は目にもとまらぬ素早さで、ドアから出て行こうとする吉岡の背中に近づいた。

 根元まで突き刺さったナイフを、首筋からそっと抜き取り、その上へ例のお札を貼り付けた。薬草の匂いが届かないところでは、お札がないとキョンシーの秘法は効かないのである。

 吉岡は、おやすみなさい、とだけいうと、ホテルの薄暗い廊下の向うに姿を消した。どうも歩き方がよたよたとしてぎこちない。

 ドアから三沢の部屋に入ってきた途端に、すでに吉岡は三沢に殺されていた。

 そのことが今だにわかっていない吉岡は、三沢の仕組んだ密室殺人を完成するために、自分の部屋へ帰っていこうとしているのである。

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