第5話 朧雲に隠れた過去の柵

橘と別れ、図書室で待っていた能代に頭を下げながら帰路に着く。校門近くの自動販売機で二人分のお茶を買って一本を能代に渡すと、代わりに小銭を出そうとしてきたのでそれを断りながら二人並んで歩く。日差しのピークは過ぎているが暑さは気持ち程度しか下がらず歩くだけでも汗が滲み出る。俺はペットボトルの中身を半分ほど飲み干しながら、先程の奴の発言について考えていた。


 別れ際の奴の台詞、成仏させてくださいと彼女は言った。本人曰く本来ならば死後、そのまま存在が消える筈だったものが何故か幽霊として現世に留まってしまい、自力で消滅できなくなってこの時期になると人間の形を持って現れる。との事。あまりにもスピリチュアルな展開な上に今話した内容は自分で考えた推測だと言うのだからどうしようもない。夏以外の時期はどんな状態かと聞けば覚えてないと言われ、そもそも死後の世界なんて考えた事も無かったので存在の消滅やら幽霊やらを説明されても理解の範疇から外れている。そんなものの成仏を頼まれても途方に暮れるだけで、とりあえず頼みの内容を聞くだけ聞けたので今日の所は帰ることにした、というのが今の状況である。


「さっきから難しい顔しているな、名蔵」


 どうしたものかと考えあぐねていると、横から能代が顔を覗いてくる。彼女に心配をかけたくはないのだがいかんせん考え事の内容が相談し辛いもので、つい生返事になってしまった。すると能代は、顔を正面に戻し、ふむと腕を組みながら頷くと目線だけこちらに寄越して話を続ける。


「随分な厄介事と読んだ。どんな内容なのだ?」


「…お前は顔を見ただけで面倒具合が分かるのかよ、恐ろしいな」


確かに流れで分かりそうなものだが、それにしたって随分な勘だと諸手を上げて降参をアピールする。その時俺の顔は一応笑っていた筈なのだが、能代の方は厳しいものになっていく。何か気がかりな事があるのだろうかと思っていると、次に彼女はとんでもない奴の名前を口にしてきた。


「まさかその厄介事、今泉絡みでは無いだろうな?」


「……んなわけ無いだろう。どうして今更ソイツの名前が出てくる」


 能代が口にしたのは、思い出すのも忌々しい男の名前だった。今泉の名前が出てくる程に今の俺は悩んでそうだったのだろうか。俺はその可能性を否定する為に即答したが、能代は何かを確認するようにじっと俺の顔を見つめてくる。


「第一、あれだけ派手に潰してやったのにこれ以上ちょっかい掛けてくる訳無いだろう。自分で言うのも何だが、社会的に殺す一歩手前までやってやったんだからな」


「…そうだな」


 少しだけ目を逸らして、あの時の事を少しだけ思い出しながら言い切るとようやく能代は納得してくれたらしく頷いて正面を向いてくれた。それにしても、屋上での夢もそうだが今日はいやにあの男の影がちらつく一日だ。気がする程度で済んでくれればいいのだが。


「そう言うお前こそ、何かアイツから絡まれたりしてないだろうな?」


 俺は一応、能代に確認を取ってみる。


「それこそまさかだ。もう一年半も前の事で一々呼びつける程奴らも暇ではないだろう。今更裏切り者と蒸し返される謂れも無い」


「だと良いんだがな…。とにかく、今泉の件で何かあったら真っ先に相談しろよ。二度と復讐なんてする気の起きない程、奴らに地獄を見せてやる」


「あぁ、そんな事があれば頼らせてもらう」


 何となく能代の口ぶりに違和感を覚えるもその正体に気づけず、ただ能代に注意するようにとしか言えなかった。実を言えば、奴らを潰した半年後の夏に奴らは復讐の算段を立てていたのだが、それを能代は知らない。未然に潰す事が出来たのだから伏せる事にしようと当事者と決めたからであるのだが、あれでまだ懲りていないのなら一年経った今日この頃、何かしてきてもおかしくはない。俺の方には何も来てなくても能代から崩しにくる可能性だってある。能代だって忘れたいであろう今泉の名前を突然出してきた以上、能代の身辺で気になる事について、探りを入れるべきか。


「それよりも名蔵、今泉では無くてそこまで悩む事なんてあるのか?」


「あー…そうだな」


 俺は頭を掻きながら思う。正直、一人で考えることにそろそろ限界が来ているのではないかと。そもそも成仏なんて門外漢であり、幽霊なんてものの知識は胡散臭い心霊特集の番組を数本見た程度しかない自分に、何か分かるわけがない。その辺は後で家に帰った後に調べてみようとは思っていたが、こうなればダメで元々能代に相談してみても良いかも知れない。あくまでも橘の事を伏せながら、世間話の体で能代に聞いてみることにした。


「…能代は幽霊とかそう言うのを信じるクチか?」


流石に質問の内容が突拍子も無いものだったため能代も多少の驚きは隠せなかったものの、すぐに落ち着いて答えてくれた。


「随分と眉唾な話だな…。だが名蔵がそれで悩んでいるのなら信じるぞ。それが名蔵の悩んでいる内容なのか?」


 つまり、俺がそんな話をしてこなければ欠片も信じてないと言うことだろう。普通の人間ならこんなものだろうと思う。寧ろ俺がそう言えば信じてくれると言う能代も能代だと思うが。


「いや、ただの世間話だが…。例えば…例えばの話だが、幽霊を成仏させる方法って、何があると思う?」


「じょ、成仏か……」


軽いネタととして話を振っては見たが、やはり二の句が継げないのか押し黙ってしまう能代。だがそれもしょうがないだろう。普段より現実的な話しかしない人間が、いや、そうでなくても友人が突然幽霊やら成仏だの非科学的な事の相談をして来ようものなら誰だってこうなる。その辺を鑑みると能代にしている相談はとても申し訳ないものである。


「…そういうのでパッと思いつくものとしては、やはりお祓いではないか?住職さんとかに頼んでしてもらうのが一番だと思う…というよりそれしか思いつかないな」


「お祓いなぁ…」


 そんな中でも能代はすぐに案を出してくれた。確かに一般人が成仏と聞いて真っ先に考えつくのはお祓いだろう。それで橘が文字通り蒸発してくれるのならそれに越したことは無いだろうが、果たしてどうなる事か。


そもそも、誰に頼めばいいのだろうかという問題がある。俺に住職や除霊師の知り合いなど居るわけが無い。四谷さんに頼めば或いは紹介してくれるかもしれないが、こんなしょうも無い与太話でわざわざあの人の時間を割くわけにはいかない。かといって近場の寺などに行ったとしてもなんと説明すればいいのだろうか。よしんば説明が出来たとしても待っているのは頭のネジが飛んだガキが妄言を話していると思われるオチだろう。そんなのは勘弁だ。


「それにしても幽霊なんて荒唐無稽な存在を名蔵が口にするなんて珍しいな。どういう風の吹き回しなのだ?」


「………取り憑かれた、なんて言ったら面白いか?」


 俺の一言で、今度こそ完全に能代は固まってしまった。その姿を見て俺は少しだけ笑顔を見せながら言葉を付け加える。


「冗談だよ。桜に哭く少女って話を朝してたろ。その延長線だよ」


「そ、そうか。そうだよな。…にしても咲良がそのような冗談を言うのは珍しいな」


「そんな日だってあるさ」


 結局、胡散臭い話は冗談と言って纏める他なく、奴の姿が他の人に見えない以上自分の力で何とかするしかないのだろう。


 乾いた笑いでそう誤魔化すと、能代が最後に思い出したようにある情報をくれた。


「そう言えば、もし仮にその幽霊が桜に哭く少女だったら簡単なのではないか?あの七不思議を考えると、少女の未練を晴らすことができれば成仏してくれそうだと私は思うのだが?」


「あの話、最後は確か心中だろ?そんな事の為に命まで張れる奴はいないだろうよ」


「七不思議なんて尾ひれがつくものだろう。案外未練なんて些細なものかもしれないじゃないか。第一、未練を晴らすために人と心中するなんて事あるわけ無いだろう、一貫性が無い。」


「そりゃまぁ、そうだが…」


 その辺に関しては橘も否定していた。と言っても本人とは言え幽霊の話を真に受けていいものかと今でも苛まれるが、その線で行けば奴の望みさえ分かればすんなりと成仏まで行けるかもしれない。だが、そうなるともう一つ問題が湧いてくる。


―――――――――――橘の未練とは一体何なのか。


「…それにしても名蔵、どこまで来る気だ?家に用があるのならば私は構わないが」


「…ん?」


 能代に促されて考え事を止め後ろを見ると、既に我が家を通り過ぎていた。その様を見た能代は苦笑を漏らす。


「今日は色々あって疲れたのだろう。早く寝たほうが良い」


「…そうだな、今日は……疲れた」


 桜夏が咲いて、謎の幽霊と出会い、良く分からない後輩に気に入られたりと今日は濃い一日だった気がする。少なくとも一学期中の毎日より十倍は体力を使った。それでも、あの頃に比べれば大したことは無いのだろうが、早くも歳を感じてしまう。


「じゃあな、能代。今日は弁当ありがとう。美味かった」


「…あっ、名蔵」


 能代が何か言いかけていたような気がしたが、それに反応出来ない程今日の俺は疲れていて、振り返ることなく家に向かい、玄関の鍵を開けて中に入った。


 外よりは幾分涼しい室内の空気を感じながら靴を脱ぐ。首を鳴らしながら上がると、居間の方から夕飯の匂いが漂っており、雪根さんがもう準備をしているのだろうとドアを開けて声を掛ける。


「ただいま」


「あら、お帰り咲良。もう少し帰ってこないと思ったのだけど随分早かったわね。どうしたの?」


 雪根さんは空芯菜の炒め物らしきものをフライパンから皿に分けながら話に答えてくれた。


「能代との練習の時間を雪根さんに教えた気はないのにどうして帰ってくる時間を予想できたんだか…。あと毎度言ってるが親父もいないんだからその咲良って呼ぶのやめてくれ」


「買い物の時に芳子さんと会ったのよ。そしたら能代ちゃんの練習が今日の五時までって言ってたからその位に帰ってくると思ったのよ」


「…成る程な」


 芳子さんというのは能代や矢矧の母親だ。中学から一緒という事や家が近いなどの理由から親交があり、俺と能代姉妹の仲もあり家族ぐるみと言った関係だ。おっとりとした雰囲気の中にも茶目っ気があり那賀の家では矢矧と並んでボケを振りまいている。雪根さんと同じく専業主婦なのだが、あの家では基本能代が炊事を担当しているはずなので買い出しなどもあまりしないと思っていたのだが、そうでもないらしい。それとも、能代の大会が近いのでそちらに集中させてあげようと言う計らいなのだろうか。


「それにしてもアンタ、自分の名前本当に嫌いねぇ。私は気にいってるけど?」


「なんか女々しいだろ…咲良なんて。もっと硬派な名前が…ってこれ今日二度目だな」


 言いながら、この話題は橘にもしていたことを思い出す。アイツもサクラって響きが良いと言っていたが、もしかしたら俺の感覚がずれているだけなのだろうか。


「二度目?誰とそんな話したのよ。能代ちゃん?」


「一人居たんだよ。咲良って響きが好きだってやつが」


「アンタ今日は練習に付き合ってただけじゃないの?能代ちゃん以外の他の人と話すなんて珍しいわね」


「今日は色々あったんだよ…。口にするのも辟易するような一日だった」


 今の話を考えると、雪根さんは恐らく今日の練習が早く切り上がったから早めに帰ってきたと思っているだろう。そう考えると、思い込みとは怖いものだと頷かずにはいられない。実際、剣道の練習は朝の二時間しか行っておらず、疲れた理由の大半は別の事情だがそれを雪根さんが分かる事は無い。


 俺は台所の方に歩いて空のペットボトル二本を捨てる。その時、ついでだからとすれ違った際に雪根さんに橘の事を聞いてみることにした。


「そう言えば雪根さん。橘御影って人知ってるか?」


「…………え?」


 俺の口から橘の名前が出てくるのは予想外だったようで中華スープを混ぜていた手を止めて俺の方に顔を向けていた。西村先生の話を聞いて分かってはいたが、雪根さんの反応を見て改めて奴の存在を再確認できた。やはり自分の息子から生まれる前に死んだ友人の名前が出てくるのは驚くものだろう。それこそ、雪根さんは物の怪を見るような目で俺を見てきて、その後目まぐるしく視線を動かし、明らかに狼狽しながらやっとの事で言葉を紡いだ。


「……どこで、その名前を聞いたの?」


俺は適当に頬を掻きながら考えるふりをする。正直、この反応は大方予想通りなのである程度どう受け答えるかは決めている。問題はこの雑談でどれほど情報を引き出せるかだ。


「今年もまた桜夏が咲いてな。西村先生がその桜夏の絵を描いてた所に偶然会ってその時に聞いたんだよ。割と綺麗だったぜ?今年の桜夏も」


「あ、あぁ成る程。西村先生から聞いたのね」


 雪根さんはようやく納得がいったのか、安心したような顔をして息をつきながら料理を再開する。


「そりゃそうよね。もうあの学校にはそんな昔を知ってる人そう居ないものね…。やっぱりあの人もこの時期はノスタルジーに浸りたいのかしら」


「さてね。その辺は聞いてないからな。でもそれを言うなら寧ろ雪根さん達じゃないのか?西村先生から聞けば随分と仲が良かったらしいじゃないか」


「……聖人さんはそうかも知れないわね。なんだかんだ言ってあの二人は良いペアだったと思うし。でも私は…」


 そこで雪根さんは言葉を切ってしまい、待っても続ける事は無かった。何か引っかかる事でもあるのだろうか。ともあれ、話を切られてしまってはしょうがない。無理して聞きだせそうもでもないのでその場を離れ、居間に飾られている西村先生が気にしていた橘が書いたと推測される絵を見る。


 この絵、遠目で見ればただの下書きの桜なのだが間近で見ると今までは発見できなかった細部の工夫の跡が見て取れる。まずは桜の花の輪郭部分、ただ眺めていた頃には消し方が粗いだけの大雑把な印象だったのだが、よくよく見れば意図的な消し方ではないかともとれる。更に中央部分から円を描いたように広がる輪郭には、円周部分に細かな点が打たれていた。しかもこの点、雑ではあるが割と等間隔である。その数ざっと見ただけでも三百個以上、何のために打った点かは分からないが、作者には考えがあったのだろうか。


幹の方に目をやると、根元の部分から円が薄く書かれている。しかも、よくみるとこの円。形を決めるのに相当時間をかけたのかこの辺りだけ消した後が激しい。恐らくは輪郭なのだろうが一体何を描こうとしていたのか。


色々事を考えたが絵なんて完成しなければ分からないものも多い。この絵の作者が橘と決まったわけでは無いが。確認もかねて何を描きたかった明日直接聞いた方が早いだろう。そしてこの絵、やはり今日西村先生が描いていた桜夏の絵と構図とほぼ一緒だ。


「その絵、やっぱり気になるの?」


 舐めるように見ていた俺に雪根さんが火を止めて聞いてきた。気になる、というよりは何となく見ていただけなのだが、俺が首をかしげていると雪根さんは話を続けてきた。


「その絵はね、ミカちゃんの遺品なのよ。未完成のまま死んじゃったけれど、タイトルまで決まってたの。ミカちゃんらしい良い銘だったわ」


「…ミカちゃん?」


「私はそう呼んでたのよ。御影ってなんか仰々しい名前じゃない?だから可愛らしく呼ぼうとして、ミカちゃん」


「へぇ…ミカちゃんねぇ」


 今度折を見てからかってやろうと思いながら、やはりこの絵は橘の絵だと言う事が確定したことに安心する。西村先生の言動にヒントがあったとは言えこれで間違っていたらまた一つ奴を知るためのヒントが消える所だった。


「因みに、この絵の題は?」


「四つの季節の桜で『四季桜』まだ桜夏が一本桜って呼ばれてた時代にミカちゃんが毎日書き続けた作品よ。私も詳しい由来までは聞いてないけど、何となくいい響きだと思わない?」


 俺が聞くと、雪根さんは複雑そうな表情で教えてくれた。四つの季節の桜。題がそうならば下書きにもある程度意味があるはず。そう思って再び確認していたのだが、特に目新しい発見が無い。こんな所が精々だろうか。


「そう言えば、名蔵さんって私達に似ず絵が得意だったわよね。どう?ミカちゃんの絵」


見るのも飽きてきて、伸びをしたところでふと雪根さんが聞いてきた。所詮下書きなのでどうとも言い難いが、少なくとも美術部に居ただけあって下手というわけでは決してない。


「悪くないんじゃないか?つっても下書きだけじゃ良く分からないがな。少なくとも構図を掴む際に大きなミスはなさそうだ」


 とりあえずの感想を述べて、少しだけひりつく首元を描きながら雪根さんに感想を述べる。その後に、汗を流したいからシャワーを借りる旨を伝えて俺は鞄を持って居間から出た。





「あー…生き返る……」


 首にかけたタオルで頭を拭きながら早くも寝間着に着替えて自室に入る。基本的に冷房を付けない習慣がある俺の部屋は熱気が籠っていてドアを開けたまま窓を全開にする。吊る下げてある虫よけセットが少しだけ揺れたのを見てから、鞄を机の横に置いて椅子に座る。


「にしても、今日は本当に色んなことがあったな……」


 机の上で目頭を抑えながら今日を思い返す。朝の七不思議から始まり桜夏が咲いて目の前に幽霊が現れて、能代に危険が迫ってると思って助けたら変な風紀委員に絡まれ、幽霊には成仏を手助けしてほしいとまで頼まれた。良く考えなくても突拍子も無い一日だった。正確には、まだ今日を振り返るには若干早いかもしれないが、この時点でもうすでにキャパを越えている。驚きのフルコースだ。人生でここまで起きる日も今後あるかどうか。


「さて…」


 大方の学生は、夏休み家に帰って来たらまずゲームに走ると自信ありげに言った奴がいたが、残念ながらこの部屋にそのような娯楽の類は無い。一応、それを口にした本人が旧時代のテレビゲームを姉に邪魔されずにやるためにと俺に買わせた34型のテレビがあるにはあるが、機械はアイツが持っている上にCASカードを挿入してないためテレビ番組を見ることは出来ない。テレビ番組ならば今で見れば事足りるし、携帯にすらゲームを入れない俺はゲーム機があったとしてもやる事は無いだろう。毛嫌いしているというわけでは無いが、何となく食指が動かない。唯一マトモに娯楽たり得そうな電子機器は三年前に買った型落ちのパソコンだが、これにも当然ゲームなんてものは入っておらず、元々入っていたゲームすら消してしまったものなので、もはや何も残されてない。よって、この部屋にある娯楽は本棚に入りきらないぐらいある本程度だ。以前、この部屋に初めて矢矧を上げた際には。


「教授の部屋ですかここ?流石に学畜すぎますよお義兄さん」


 なんて半目で言われてしまった事がある。別段勉強が好きというわけでも無いのだが、遊びに対して意欲を注がなかったらいつの間にかこうなってしまったのは、些か悲しい話か。


「……とりあえず、自分で調べてみないと始まらないか」


 俺は机の箸に避けていたノートパソコンを点ける。OSも既にサービスが終了しているもので今時のやつと比べるとかなり起動に時間がかかるが、検索機能が使えるだけで十分の俺としては全く気にならない。購入当時は動画とかも見ていたため処理速度の遅さに苛立ちを覚えた事もありはしたものの、今回はそんな事は無い上に時間もある。せいぜいウイルスに注意する程度だ。


「にしても、検索しようっつっても何から調べればいいんだよって話だよな…」


 検索フォームを開いたもののどんなワードで検索すればいいのかと手が止まってしまう。色々考えても仕方ないのでとりあえず『幽霊 成仏』で検索を掛ける。


「…まぁ、そうなるわな」


 数瞬の読み込みの後、出てきた検索結果は案の定見出しでも分かるような胡散臭いサイトばかりであった。幽霊を味方につける方法なんてものを纏めたらしきまとめサイト、自分が見える人だと自称して心霊体験を語るブログ、大体その手のブログの最後には清めの塩や見るからに詐欺と思われる壺などの購入方法などが書いてある。要はそう言うのなのだろう。元々スピリチュアルな話に知識があるわけでは無いが、どうしたってこの手の話には気後れしてしまう。怪しさ満載だ。


「しまいにゃこんな記事まであるしよ…」


 見出しに目を引かれてクリックしたのは成仏できない幽霊に同情してはいけないと書かれた大衆記事サイト。中身は幽霊に同情などをすると波長が同調してしまい憑依されてしまう、との事。他の部分は怪しさ満点の記事だったので斜め読みで済ませたが、ここまでで俺は上を向いて息を吐く。


「随分とまぁ…酷く書かれているものだな」


 大方予想は出来ていたが、やはり常人に見えない幽霊に対して随分と言いたい放題な内容ばかりであった。ただひたすらに幽霊に対して一般的な感性の人が持ちそうなマイナスイメージを書き連ね不安を煽るだけの文章、そのくせ対処策について何か書かれているかと思えば怪しい押し売り、実が無い事しきりである。


「検索の仕方が違ったか…?」


 頭を軽く捻った後、検索ワードを『幽霊 成仏 方法』で再び検索をかけてみる。今度も大半が胡散臭いページだったが、先程よりはマシな情報が載ってるサイトが出てきた。


「塩、線香、自己暗示、日本酒ねぇ…。こんなの本当に効くのかね」


 塩については大層値の張る塩では無くとも問題は無いとの事、やはり先程の高額商品は詐欺ではないかと思えたが、信心の深い人には違いがあるのだろうか。ともあれ、やはり除霊をしにかかるのが一番手っ取り早いのだろう。何やら初心者がその手の行為を行ってはいけないとか書いてあったが、そもそも取り憑かれてしまっているのだからこれ以上何が起ころうと気にしてはいけないだろう。幸いにして、相手はわりかし話が通じる。今日の風紀委員ではないが対話が一番だろう。


「そういえば…」


 先程見ていたページの中で一つ気になる物があったので開きなおす。そのページでは幽霊の種別について書かれていた。


「浮遊霊に地縛霊、生霊に騒霊、憑依霊…?」


そこに書かれていたのは幽霊の種別。だがこの単語群、どの説明を聞いても橘の姿が頭をよぎる。流石に物は掴めないようなので騒霊というわけでは無いであろうが、騒がしいという意味合いではある意味当たっている。正直、どれを見ても奴に当てはまるせいで橘がどれに該当するかはわからない。一応、一人では屋上から出るのがとても辛いと言っていた以上、地縛霊寄りなのだろうか。


「となると…やっぱり未練とかなのか…?」


 地縛霊の特徴として書かれているのは土地や事柄による未練によって縛られた存在との旨。これだけでは奴の種別を判定しようがないが、噂話や諸々を考えれば地縛霊だと思われ、そして地縛霊を除霊するために大事なのは未練を晴らす事だと言われれば、納得できなくもない。だが、幽霊に同情してはいけないやら幽霊に惑わされず気を強く持てなど言われた後に未練を晴らせと言われても出来るわけがなく、幽霊への対処策が完全に自己矛盾を起こしている。コミュニケーションも取らずにどうやって未練を聞きだせと言うのか。


「……まぁ、その点奴はまだマシなのか?」


 背もたれにもたれかかりながらそう呟く。確かに橘という存在自体が胡散臭さ極まりないものではあるが、一応意思の疎通は出来る。とりあえず素人考えで思いつきそうな除霊方法を一通り試した後、駄目だったら奴の口から未練を直接聞きだす。そんなプランでいいだろう。


「…にしても、今泉について色々考えてた時とは違って随分緩いプランな事だ」


 橘についての事に一区切りつけた後、一人で苦笑しながらあの頃を思い出す。ちょうどこのノートパソコンを買ったのもこのくらいの季節であった。死にもの狂いで奴を打倒する策を考え続け、調べて、一年以上かけてついに奴を学園から追放した。この机に向かいパソコンを使い調べ物をしていると、ついついあのどん底の時代が脳裏をよぎる。


「………」


 ちらりと視線を机の引き出しにずらして溜息を吐く。片方には鍵がかかっていて開けられないが、もう片方は開ける気が起きない。願わくば、今後この中に入っている物を使う事が無い事を願うばかりである。


「……そう言えば」


ある程度室内の熱気が薄れたのでドアを閉めて椅子に戻る。その際にふと先程の能代の態度を思い返す。いくら今日が今泉について思い出す日だろうとしてもそれは自分個人の事。高校に上がってから能代の口から今泉の名を聞く事はとんとなかった。俺ら自身が無意識のうちに禁忌としているようなものだが、アイツ絡みで進んで思い出そうとする話題も無い。それが今日、能代は今泉の名を出した。何か不吉な予感がする。


「……少しは調べておいても、損は無いだろうな」


 もし能代の近くに今泉の影でも見えようものなら、次こそは形こそ残す気はないという気概を持っている。俺は仏では無いので三度も許す気はない。


「だけどどうやって調べるか…」


 帰り際に今泉について能代に聞いた時、奴は否定してきた。もしこの言葉を額面通り受け取ってよいのなら俺の不安は杞憂に終わるだろう、それならば良い。問題はもし現状にて何かしら今泉からのコンタクトを取っている場合、能代はそれをひた隠しにしている事になる。もしそうならば、俺の事を知り尽くしていると言っても過言では無い能代がボロを出すとは思えない。俺自身が問いただしたりしても無意味だろう。


 しかしながら、今泉絡みはとてもデリケートな問題だ。俺ら以外の他人が聞き込みでもしようならたちまち疑心暗鬼になるだろう。事実、二人で買い物とかに出かけた際、通行人の会話から今泉という単語が出ただけで二人して固まってしまった位だ。あの男の危険度も考えると人伝手に聞きだそうとするのはその人にとっても能代の精神衛生上にも良くない。もっと言えば、人伝手という手段が取れる程俺の人付き合いは良い方では無い。


「そもそも、俺が聞き出せそうも無い事を調べられるのなんてアイツしかいねぇよなぁ…」


 多少考えてはみたものの、結局選べる手は一つしかないと言うことが分かっただけであり、それに少しばかり哀しみを覚えながら俺は鞄から携帯を引っ張り出す。すると画面にはメッセージが一件届いていた。開いてみると相手は当然の如く能代で内容は以下の通り。


『先ほど言い忘れていた話なのだが…明日以降もそちらの時間さえ合えば朝の練習に付き合ってもらえぬだろうか?あんなことに巻き込んでおいて虫の良い話だとは分かっているのだが…』


 どうやら先ほど言いかけていた事は明日以降の朝練のお誘いだったらしい。そんなに畏まらなくても良いものを、と思いながら文章を作る。


『構わないぞ、どうせ俺も明日以降普通に学校通いそうだしな。朝の時間は今日と同じで良いのか?』


 送信すると十秒と経たずに既読が付く。この時間なら飯を作っててもおかしくは無いだろうに、何をしているのやら。


『ああ、時間は今日と一緒で構わない。にしても、夏休みに帰宅部の名蔵が学校に通うとは珍しいな。本当に幽霊に取り憑かれていたりしないだろうな?』


 返ってきた返信は冗談染みたものではあったが、思いの外的を射ており内心ドキリとする。能代は本当にエスパーなのではなかろうか。


『んな訳無いだろ、ただ面白い暇潰しを見つけただけだ』


 暇つぶしと言っておけば能代も変な遠慮をすることは無いだろうと思いそのような言い回しにした。実際、もし橘の他愛も無い話と能代の練習だったら俺は間違いなく後者を取る。頼まれたからと言っても所詮俺にとってアレとの口約束なんてその程度のものなのだ。


『…了解した。九時にはきっかり上がらせるからよろしく頼む。それとだな…』


『…どうした?』


 別の話があるような区切りを見せた能代だったが、次の文章が送られてくるのに大分時間がかかっている。俺と違って文字を打つのが遅いわけでは無い筈だが、どうしたのだろうか。


『…名蔵さえ良ければ、明日以降も弁当を作ってくるが如何だろうか』


 既読から三分以上待って飛んできた文章を読んで俺は桜夏の下での能代の行動を理解した。能代の奴、あの時から明日以降も作ってくる気でいたのだろう。俺からすれば有難いがそんな能代の手間になりそうなことを頼むわけには、と思って文章を作っていたのだが、その前に能代から追加のメッセージが飛んでくる。


『ちなみにこちらの手間とかは一切考えなくていいぞ。昼にも言ったが一人分作るのも二人分作るのもさして変わらん。矢矧の食い分が減るかも知れんがどうせアレは家からも大して出ないから問題なかろう。寧ろ奴は食い過ぎだ』


「…完全に先読みされてるな」


 先に釘を打たれてしまっては仕方がない。今作っていた文章を消して苦笑いを浮かべながら


能代に弁当を頼むことを決意する。


『…分かった。厚意に甘えさせてもらおう。材料費がかかるようだったら言ってくれ。期待している』


『押し付けてる側なのにそんなものを貰う気はない。では明日も期待に応えて見せよう』


『応』


 最後に俺が短くそう打つと、能代も既読を付けて返事が来なくなった。昔から空気が読める奴なのでこの手の会話を切るタイミングとかもよく分かっているものだと感心する。


「…っと、そうだった」


 能代からのメッセージか来ていたのでそちらの対応をしていたら忘れかけていたのだが、そもそも携帯を開いた理由は能代の身辺調査を頼む所であった。俺はCODEの友達一覧に戻り、数少ない能代以外の相手をタップして文章を打つ。


『突然に悪いな、矢矧。これを読んだら返信してくれ』


 どうせこの時間は矢矧の奴も寝ているかゲームでもしているだろうと高を括って伸びをしているとすぐに既読が付く。そして、既読が付いて五秒もしない内に返信が来た。


『どうしましたお義兄さん?お姉ちゃんだけでなく私にも何か御用で?』


『起きてたのか』


『そりゃ夕飯が私を呼んでますからね~、下から良い感じの香ばしい匂いが漂い始めたら居間への移動。これって引き籠りの数少ない運動ですよ?』


『自分で引き籠りを肯定するなよ…、まぁ俺は構わないが』


『その辺りで小言を言わないところが好きですよ、お義兄さん。ウチの両親はもう何も言ってきませんけどお姉ちゃんはその辺五月蠅くて五月蠅くて…。その辺夏休みは素晴らしいですね。一日中部屋でゴロゴロしてても授業時間中に私服で外に出ても誰にも言われないんですから。人生最高』


 相変わらずのダメ人間発言で目尻を抑えながら考える。そう、能代の調査を安全に頼める数少ない人と言うのは、能代の妹である那賀矢矧である。彼女は今回の頼み事をする際にネックになる「能代の周りを不審がられず調べることが出来る」と「今泉と俺達の因縁について関係している」と言う条件をすべて満たしている。能代と矢矧は姉妹で同じ部屋を使っているので、能代が朝の練習から出ていった後にそれとなく部屋を調べることが出来て、機械系の知識もめっぽう強いので盗聴器やら発信器の類も見つけることが出来るだろう。そして、他人に話したくない今泉の事も、能代は知らないが奴は一応当事者の一人に数えられる。その辺の都合を話せば協力してくれるだろう。という算段だ。


『にしてもお前、本当に文字打つの早いよなぁ…』


『お義兄さんが遅いんですよ。もっと早く打てるように練習しないと』


呆れながら文を打てば、三秒とせずして返信が帰ってくる。曰く「一日中携帯弄ってればこんなもんですよー」との事らしいが、一度横で文字を打っている姿を見た時はあんな速度で親指を動かせるのかと恐れを成したものだ。


『それでー?何か用なんでしょお義兄さん?お姉ちゃんとのCODE終わってすぐにこっちに連絡飛ばしてくるなんて…もしかして浮気のお誘い?やだーもー、ちょっとまだ心の準備が出来てないというかなんというか…』


『安心しろ、そんなのではない。…てかお前、よく俺がさっきまで能代と話してたってわかったな』


 送られてきた文章は夏の暑さも相まって頭を痛くさせるような内容であったが、こんなのに一々反応していてはコイツとの話は一向に進まないのを知っているため軽く流す。


『そりゃお姉ちゃんがフライパン振るいながら上機嫌に携帯弄ってたらお義兄さんくらいしか考えられないでしょ。んでんで、何の話してたの?愛の告白?』


『んなわけ無いだろ…単に明日以降も朝練に付き合ってほしいって頼まれたのと弁当を作ってもらうことになっただけだ』


『え、マジ?てことは明日以降も私のお昼豪勢になること間違いないじゃん!わーい、良い仕事するねーお義兄さん!弁当を作ってもらうのを頼んだ際の文句が『明日からも毎日お前の味噌汁を飲みたい』だったら完璧だったんだけどなぁー』


「……」


 どうやら、矢矧は意地でもその手の話に持っていきたいらしい。俺としてはそんな下心で能代とつるんでいるわけでは無いと矢矧には何度も言っているのだが、中々に諦める気配が無い。呼び方もお義兄さん固定だし。何か奴にも魂胆があるのだろうか。


『まぁいいや。んで、どんな用事なのお義兄さん?どーせお姉ちゃんには頼めない事なんでしょ?』


『そうだな。もっと言うとお前にしか頼めない』


『お義兄さんお友達いないですもんね~。ちなみに機械関連?』


『それも含まれるな。…能代の周りで怪しい奴が動いてないか調べてほしい』


『…なにかあったの?うちのお姉ちゃんに』


『何かあるかも知れないから調べてほしいんだ。何かあってからじゃ遅いからな』


 携帯に張り付いてるからすぐに既読はつくのだが、先程までとは違い中々返信が来ない。次の返事が来たのは約一分後だった。


『う~ん…他ならぬお義兄さんの頼みですから断る気はあまりないんですけども…、一応お姉ちゃんのプライバシーとかもあるにはあるし根掘り葉掘りって言うのはちょっと…って感じですかね』


『別に何でも調べてくれって言ってるわけじゃない。能代の近くに危険な奴が居ないかだけ調べてくれればいい』


『危険な奴ねぇ…』


 俺の文章の一部分を反芻するように短く打ってからまた矢矧からの文章が途切れる。ここまで言えば聡いアイツの事だから分かるだろうと返事を待つと、やがて得心したように彼女は件の個人名を出した。


『あー…。もしかして今泉さんが動いてるんですか?』


『あくまで直感だがな。取り越し苦労なら越した事は無い』


『お義兄さんの直感とか外れるんですかね…。まぁいいです。あの人関連でしたら他人事ではないですしお手伝いしますよ。お姉ちゃんの周りに今泉さんの動きが無いか調べればいいんですね』


『ああ。ついでに能代の動きで不審な事もあったら教えてくれ』


『期間は?』


『とりあえず二週間を目処に頼みたい』


『了解です~』


 話が何度か逸れたものの、無事に矢矧の協力も取り付けたことにホッとする。端から見れば社会不適合者の烙印を押されても仕方のない生活をしている娘ではあるが姉の為ならばやる気を出してくれる娘であるし、多少いたずら好きな所もあるが頼んだ仕事はきっちりやってくれるであろう。そう安心していると、矢矧からメッセージが飛んできた。


『ちなみにお義兄さん。現状お義兄さんの直感でお姉ちゃんに近づいてる怪しい奴が今泉さんって事だけど…、これがもしお姉ちゃんの事が好きなだけの一般男性だったらお義兄さんどうします?』


 矢矧からの思いもよらない文面に、思わず吹き出してしまった。


『アイツが恋の悩みでもしようならそれこそ願ったりだな。好きにしてくれればいいさ』


『露程思っても無いくせによく言いますよ』


 事実をありのままに伝えたのだが、どうも矢矧には俺の心情を曲解されているらしくわざとらしく俺を煽ってきた。


『能代の幸せが俺の幸せだ。奴に想い人が出来るならどうしてそれを止める理由がある』


『その台詞、お姉ちゃんの前で言えるなら考えてあげますけどね』


『言えるわけ無いだろ、アホ』


 そんな話を能代にできるわけがないのを知りながら言ってのけるこの女は、本当に意地の悪い性格なものだと感心する。姉妹なら血の繫がりがある以上ある程度は似る物だと思っていたが、彼女達は本当にかけ離れている。


『お前たち姉妹は本当に似てないな。色々と』


『遺伝で性格決まるならクローンなんてみんなオートマタですよ。どっちかっていえば環境の方が個を決めるファクターになると思いますがね』


『…お前ら一緒の家に住んでるんだから家庭環境の差も無いだろう』


『そこは…ホラ。色々やってきた経験の差と言いますか。第一、私みたいなエリート引き籠りとお姉ちゃんの性格が似てたらヤバいですよ。遺伝子論者大歓喜間違いなし』


『お前ほど引き籠りを自慢げに喋る奴もそう居ないだろうに』


『おだてても何もでないですよー、お義兄さん』


『褒めてないっての…ったく』


本当に、俺が文章を送ったそばから返信が来るので話を打ち切る暇すらない。反射だけで話しているのではないかと思えるスピードだ。人付き合いで辟易して学校を辞めた人間の癖してなかなかどうして口が回る。或いは、この頭の回転の速さが矢矧にとってはある種の苦痛だったのかも知れない。自分としてはちょっと皮肉が効いてるだけでかわいげのある年下程度にしか思わないが。


『何がともあれ、さっきの話頼んだぞ。この際今泉が能代に求婚しているとかでも何でも良いから能代の周りでいつもと違う動きがあったら連絡してくれ。情報の選定はそちらに任せる』


『にゃははっ、私は一回もお会いした事無いですけれどその人をお義兄さんとは呼びたくないですね。まぁ了解です。何か進捗があれば連絡しますよー。それじゃ、生姜焼きが私を呼んでるので、サラダバー!』


 最後に良く分からない文章を送ってきた矢矧。サラダバーというのはさらばだのタイプミスなのだろうか。なんにせよ予防線を張れたことで少し安堵できる。この問題以外に何も無いのならば、俺のリソースを全てつぎ込んでもいいのだが、残念だが橘の問題もある以上確信も無い事柄に時間を費やすわけにはいかない。


 ほぅ、と息をついた所で家の鍵が開いた音がした。親父が帰ってきたのだろう。画面に映し出された時間は18時5分。どうやら除霊やら矢矧との会話で大分時間を食っていたようだ。


「んじゃま、聞くだけ聞いてみますかね」


 どうせ藪蛇をした所で困るのは俺だけ。他人に迷惑が掛からないと言う点が気持ちを軽くする。俺は背筋を伸ばして腰を数度捻り骨を鳴らした後、やる気を出すように両頬を叩いて部屋を出た。


 意気込んで部屋を出たは良いものの、久しぶりに親父と顔を突き合わせての食事。話す内容が親父達の旧友の話題となれば、話すタイミングも考えなければならない。先程はさりげなく振ってみたものの雪根さんは固まってしまったし、アレよりももう少しは情報を手に入れたい以上、美味い事話を引き出さねばならない。あれやこれやと考えながら居間に入ると、雪根さんが親父の席に食事を運んでいた。


「あら咲良。シャワー浴びたらすぐに夕飯食べると思ってたのだけれど遅かったわね。用事でもあったの?」


廊下を通る時に浴室の方から人の気配を感じなかったので親父はどこに行ったかと思ったらテレビの前のソファで煙草を吹かしている。点いているテレビの番組はこの時間ではお決まりのニュース番組だが、親父の視線は画面よりも四季桜の方に向いていた。


「若者には色々あってな。暇そうな奴に相談してたらこんな時間になっちまった」


 親父が帰ってくるのを待ってたと素直に言ってしまっても良かったが、会えばとりあえず挨拶をする程度の関係になっている父親に対してそんな事を言えば不審がられるかと考え適当に濁す。気取られることさえなければ、いや態度で怪しまれてもよもや内容まで気づけるわけがない。突拍子もない話と言うのは、そういうものである。


 そんな楽観した考えをしながら俺は四季桜に背を向けるように席に座る。その時、俺は感嘆を漏らす。


「珍しいな。今日は中華なのか」


 並んでいたのはエビチリに空芯菜の炒め物、棒棒鶏に中華スープ。我が家では珍しく中華料理で揃えられていた。基本、名蔵の家では雪根さんが和食を得意としている為、中華で揃えられるのは本当に珍しいと目を見開いていると、雪根さんが呆れた様に話しながら席に座った。


「アンタ私の事を何だと思ってるのよ…、和食以外もちゃんと作れますよ、そりゃ」


「いや、別に雪根さんの料理の腕を疑ってた訳じゃないんだが…」


「それに一応、この時期は毎年中華だったんだけどねぇ…」


 わざとらしく溜息を吐いた雪根さん。この時期に毎年、と言うからにはやはりこの料理は橘に関係がしてくるのだろうか。大方予想は出来るのだがイマイチ確証は持てない。


「相変わらず美味そうに作るな。雪根」


 気が付けば親父も煙草を灰皿に押し潰してこちらに来ていた。三人で席に着いて両手を合わせ夕食が始まる。いつも通りの所作なのだが、心なしか雪根さんの両手を合わせる時間がいつもよりも長い気がした。


「…おお、普通に美味いな」


棒棒鶏を一口頂くと、鳥本来の甘みと生姜が強めに効いたソースとの相性が実に合っていて、唐辛子か何かで我が家好みの辛目に仕立てられている。箸が進む。


「だから普通に作れるんだってば…。まだまだ能代ちゃんに負ける気はないわよ」


「いや、主婦が学生と張り合っても意味ないだろ…」


 したり顔で自慢げに話す雪根さんに苦笑いを漏らしながら他の品に箸を伸ばす。炒め物は触感を残した絶妙な火の通り具合であり、エビチリも程よい辛さだ。これだけ美味いと、昼を食べたのが遅かったとしても一気に掻き込んでしまいたくなるというもの。俺は皿を持ち上げたい衝動を抑えながら次々と口に運ぶ。


「……夏場の学校はどうだった?咲良」


 勢いよく米を口に頬張っていると、不意に親父が俺に話しかけてきた。そういえば、今日は親父からも情報を手に入れられればと思ってワザワザ時間をずらしたのであった。正直、この歳になると普段から一緒に飯なんてことは無いので話すきっかけが無かった分有難い。


「一学期中となんも変わらんよ。違いなんて廊下が走りやすいくらいにスッカスカな事位か?」


「……そうか」


 軽く頷くと、親父は再び鳥に手を伸ばして話を終えてしまう。どうやら珍しく家族が揃った夕食の場で、面目上親としての体裁を保とうと話しかけた程度らしい。我が親ながら何とも面倒臭いと思うも今までを考えればさもありなん、と自分を納得させ俺から本題を切り出した。


「あぁ、でも今日は中々面白かったぜ。屋上で昼寝して起きたら桜夏が咲いてたんだからな」


「…そうか、今年も咲いたか」


 親父は先程と同様に相槌を打ったのだが、その動きに俺は妙な違和感を覚える。


「反応が薄いなぁ、一応学校では軽く盛り上がったってのに」


「そこまで興味も無いからな…。役所の方にも話は上がっていたから知ってはいた」


 鼻を鳴らしながらスープの入ったお椀に手を付ける親父。だが、言いながらも四季桜に目が動いていて嘘言っているのがバレバレだ。


「んなこと言っちゃって。家に飾ってあるあの絵の元なんだろ?あの桜」


「…だからどうしたと言うんだ?」


「あの絵を描いたの、親父の元カノなんだって?隅に置けないじゃないか」


 俺が橘と親父の関係について指摘をすると、漸く親父は目を見開いて驚いた表情をしてくれた。別段驚かせようとしているわけでは無かったが、雪根さんも口をあんぐりさせるほど驚いてくれたのだから少しくらいはそう言う顔をしてくれないと張り合いがない。


「……どこでその話を…」


「西村先生から聞いたんですって。聖人さん」


 上品に物を口に運びつつも横からそっと補足を入れてくれる雪根さん。それを聞いた親父は大きく息を吐いてぼやいた。


「……あの人も余計な事を…」


「まぁこの時期だし仕方ないんじゃない?西村先生だって誰かに話したくなる時くらいあるじんゃないですか?」


「相手が悪すぎる…寄りにもよってうちの息子に話すか」


「逆に、他に話す相手なんて居ないでしょう…」


 それで二人は納得できたらしい。目を見合わせた後に溜息を吐いて俺の方に向きなおる。


「西村先生からはどこまで聞いたんだ?咲良」


「橘ってやつが親父と雪根さんの同級生だったって事、そこの桜を描いたのが橘だって事、親父と橘が昔恋人関係だったって事、んでもって後は…橘が高三の夏に死んでるって位か」


 今日会った事を思い出しながら口に出して並べると、親父は困ったような笑みを浮かべた。


「今日は随分と暇していたようだな、お前も西村先生も」


「そうでもないさ。先生はあの四季桜と同じ構図で桜夏を描いてたしな。その片手間で聞かせてもらってたんだ」


「……」


 親父はなぜか黙ってしまった。先程のような適当な相槌ならばともかく黙るような会話の流れでは無かったはずなのだが。隣を見れば雪根さんも神妙な表情をしている。


「あの人はまだ、あの桜を描き続けているのか…」


 やがて親父の口から漏れ出た一言は、誰に向かって言ったのか分からない程の小さな声だった。これは流石に予想外の反応で、次に何の話を聞くべきかを忘れてしまった。


と言うより、今日の目的は何だったのだろうか。橘御影の事をよく知っているであろう親父と雪根さんから情報を集めると息巻いて夕飯の時間をわざわざずらしたが、その情報で何をするかと言えば橘の未練を探し当てると言う事。既に奴の存在の有無については雪根さんや親父、西村先生の話を聞いて認めざるを得ない以上、過去の話をうだうだ言っていても仕方がないのだが、ここで馬鹿正直に奴の未練とは何か、を聞くのは二人の雰囲気的に忍びない。見るからに寂しそうなこの状況で、これ以上何を聞けと言うのか。第一、両親や西村先生が橘の未練を知っている保証なんてどこにも無い。


「それにしても私もびっくりしたわよ。料理中に突然ミカちゃんを知ってるか?なんて言われて。しかも今日でしょ?もう何から聞けばいいのやらって感じだったわ」


「…というより、何で咲良は御影の事を聞いて回っているんだ?」


 ここにきて、フォローとも取れなくもない微妙なパスが親父から回ってきた。ここで橘の未練について聞くのは簡単だ。だがその後に何でそんな事を嗅ぎまわっているのかと聞かれたら答えに窮してしまう。橘の話をしただけでこんなにしんみりしてしまう二人に、よもや奴がまだ成仏出来てないなんて言えるはずもない。憤慨されるか一笑されるか、どちらにせよ良い方に転ぶことは無さそうである。となれば、ここはお茶を濁すのが正解。無理して聞き出す必要もないだろう。


「いや、単に親父達の親友ってのに興味があっただけだ。最初はただ西村先生の話を聞いてるだけだったんだが、そんなに親しかったのなら何で今までに一度も話に出ないのかって思ってな」


 言い訳にしては少しばかり苦しいだろうが、基本的な要点は間違ってない。嘘ではない嘘な以上、言い逃れる隙はいくらでもある。


「…それで聞いて回っていたら故人だったと?」


「そんなところだ。なんか苦い記憶を思い起こさせちまったようだな」


「お前の所為では無い…毎年思い出しているさ」


そう言うと、親父は両手を合わせて空の皿を纏めだした。俺が口を回すのに集中している間に食い切ってしまったらしい。


「ホラ、貴方も私達の過去なんか気にしないでとっとと食べちゃいなさい」


 シンクに向かう親父をぼんやり見ていると雪根さんに急かされてしまった。確かに話に集中しすぎて半分ほど残っている。今の所、親父にこれ以上何を聞いたところで蛇足であるのは間違いないし話したくないところを話す気も無いだろう。今日の情報収集はこの辺りが限界だと思えば、朝から無駄に動いた体が栄養を欲するのは自然の流れ。半端に胃に物を入れたせいで腹が鳴った。


「…また機を窺うか」


 何がともあれ今日はこれ以上踏み込むのは難しいと判断し、俺は幽霊の事をみだりに話さず情報を集めることの難しさを感じながら俺は一気に夕飯を掻きこんだ。





「…と言うのが、昨日の収穫か」


 翌日、頼まれた能代との朝練を終えて屋上に着いた俺は昨日の家での顛末を橘に話した。


「まぁ大した情報は得られなかったがな。死んで十八年も経ってる割には随分と慕われてると感じさせられる会話だったな」


 実際、昨日の皆からの会話からでは橘の未練など欠片も推測できないと言える。出てきたのは楽しそうな思い出話と四季桜の話程度で未練なんてものからは程遠い。唯一関係しそうなのが高三の夏の初めに死んじまったと言うのだが、コイツの未練がもっと長生きしたかったとかの場合俺には叶えようが無い、と言うより諦めてもらうしかない。幽霊の蘇生なんて出来るわけが無いからだ。


「初日から分かるような未練だったらお前も苦労はしてないだろう。まぁ気長に探すしか…って。さっきから黙りこくってどうした?騒がしいお前にしては珍しい」


 話疲れて喉が渇いたのでペットボトルのお茶をがぶ飲みする。ちなみに今日から屋上に居る時間が長くなると予感したので近くのコンビニで二リットルを購入することにした。今日の最高気温は三十四度の予報。背もたれにしているフェンスを軋ませて空を見上げれば、雲が二、三浮いているだけの快晴であり、今でも十分に暑い。


「…………なんで」


 話の途中から急に顔を下に向けて黙ってしまった橘を促してやっと出てきた言葉は疑問の一言。何がと問いたかったが、次の瞬間橘は凄まじい剣幕で俺の方に詰めよってきた。


「なんで、なんで私の四季桜が聖君の家にあるの⁉聞いてないよ私!どっから引っ張ってきたのさ!しかもあんな書きかけの駄作を飾ってるなんて正気ですかあの二人⁉」


 座っていた俺の胸倉を掴みかかる勢いで寄ってきた橘。アイツからすれば一応掴めない事もも無いらしいのだが俺からすれば掴まれてる感触は無いので要は橘の自己満足である。


「暑苦しい、それに唾が飛ぶ。女子を言い張りたいならもう少しお淑やかにできないのか?」


「ユーレイだから唾飛びません!それにこれが落ち着いていられるかって話だよ!何私の了承も取らずに記念にしちゃってんの聖君!あれ黒歴史だよ⁉若気の至りだよ⁉そう言うのって火葬の時にそっと燃やしてくれるのが優しさとかじゃないの⁉」


「そんなの知らねぇよ。遺産相続なんて、それこそ遺書とか遺言残しとかなかったお前の落ち度じゃないか?」


「突然の交通事故でまさかこんな早く死ぬと思ってるわけ無いじゃん!残さないよフツー!」


「………まぁ確かに、普通は残さないか」


 橘の言い分も理解できるので俺もこれ以上言うのは止める。実際この歳で遺書を残している方が普通じゃない。そんな事は百も承知である。


 俺が納得して話を終えると橘は暫く狼のような唸り声を上げながら固まり、やがて俺の服の襟から手を離すと今度は大の字になって転がりだした。


「あー消したい消したい、あんな物がこの世に残ってるって時点でもう一生の恥だよホントに。何でケージは私が死んだときに処分してくれなかったのさ、あんな未完成の絵なんて誰が見てもみすぼらしいだけじゃん。まだラッセンとかの絵のが見栄えが良いってもんじゃない?咲良もそう思うでしょ?」


「そうだな。今の発言にツッコミ入れたい場所が多すぎて何から言えば良いのか分からんが、少なくとも美術部に在籍していた程度の高校生と比べられちゃラッセンも可哀想だって所から始めるか」


「でしょー?咲良もそう思うでしょ?」


 もはや支離滅裂と言った会話のドッジボール。ただ愚痴を言いたいだけの橘に構うのは正直疲れるのだが、かといって本に逃げるとそれはそれで絡まれる。どちらを選んでも大して状況が変わらないのならば、無駄な抵抗をする気も起きない。それよりも疑問を一つずつ解消していった方がまだ生産的だ。


「けれども不思議だな。今の言い草だと、あの四季桜はお前が死んだ時点では西村先生が持ってたのか?」


「んー、そうだよ。あれは文化祭での出し物として描いてたからね。毎日少しずつ書き足してはケージに保管してもらってたから。終業式の日も朝書いた後にキャンバス返してるし」


「と、なるとあの絵はお前の死後西村先生が親父達に渡したってのが妥当な線か」


 俺は顎に手を置いて考える。ただ単純に形見が欲しかったのなら橘の家に行けば良い話だ。恐らく橘の両親も親父と雪根さんの事は知っているだろうし何かが欲しいと思えばよほどのもではない限り快く渡してくれる…と思う。にもかかわらず、学校の文化祭の展示物になるであろう絵をわざわざ西村先生から回収したというのは明らかな手間と言わざるを得ない。そしてその内容が書きかけの絵一枚では労力に見合って無い。ついでに言えば、あんなサイズのキャンバスをわざわざ運ぶ気になるであろうか。


「ちなみに確認なんだが、橘は三年から美術部に入ったのか?」


「いやー?一年の時からガッツリやってたけど?」


 その答えを聞いてまた考える。一年から美術部に入っていたならば四季桜以外にも橘の作品はあるはずだ。その中からアレを形見に選んだと言うのならば、何かあの絵でなければいけない理由があったはずなのだ。だが、それが何なのかは現状分からない。


 そしてもう一つ。家にある絵を橘が描いた四季桜だと言う事は昨日分かった。だがそうなると昨日の西村先生の態度が説明がつかない。四季桜と同じ構図で桜夏を描いていたのは感傷に浸りたくなったと言うのがあるかも知れない。それとは別に、俺が家にある絵と構図が似ていると言った時の反応。アレは恐らく四季桜だと確信し、驚いた上で棚上げしたようなものだった。なぜ、あんな反応になったのか。


「…分かんねぇな……」


 今更ながら、成り行きとは言え相当厄介な問題に首を突っ込まされたものだと嘆きたくなる。マトモに相談できる人は皆無。頼みの相方は十八年前から時間が止まっている様なものなのであまり役に立たない。人の感情なんて移ろいやすいもの、十八年前と今ではまるで違うだろうからコイツの話が当てになる可能性は薄い。そもそも、自分で未練が分かるようなら最初から俺に頼むことなんてしないだろう。仲間はポンコツ、援軍の期待は無し、こんな状況で何をしろと言うのか。


「あーどうにかならないかなー。あんな絵をこの世から排除する方法どっかに落ちてないかなー。いっそのこと聖君の家を爆破してでもいいから…」


「昨日と言ってる事が百八十度違うじゃねぇか。死人が生者の生き方変えちゃいけないんじゃなかったのか?」


「それはそれ、これはこれだよ。私の汚点を飾ってニヤニヤしてる時点で最早干渉しすぎだよね、確実に。死人を偲ぶなんて年に一度くらいでいいって話。人間は未来って言う前に向かって生きてるんだからそんな後ろ向きな感じになられても死人としては困るってものだよねぇ」


 困ったように笑う橘の意見は大いに理解できる。奴の言う後ろ向きというのは平たく言えば過去。偶に懐かしむくらいならばともかくとして、あんな居間にでかでかと置かれてしまっては嫌でも毎日思い出すだろう。さながらそれは船を港にを引き留める錨。あの四季桜は、両親にとってそのような存在になっているのかも知れない。橘もその辺りの事を感じ取っているのだろう。


「…確かに一理はある。俺も両親には過去を引きずって生きてもらいたくないからな。だがどうやって前を向かせるってんだ?」


「だーかーらー、あの絵を消し去れば」


「だからどうやってだよ…あの両親が親友の形見をそう簡単に処分するわけ無いだろう」


「ぬぐっ…。そ、それは…」


 俺が具体的な方法を聞くと唸り声を上げるだけで何も言えなくなった橘。結局はノープランだと言う事だ。


「俺が欲しいなんて言っても相手にされないだろうしな。梃でも動かなそうだぞ」


「そ、それを動かすのが咲良の役目じゃ…」


「嫌に決まってんだろ、面倒臭い。第一なんで俺がそんな事をしなきゃならないんだ?確かにあの絵が両親の枷になってるとは俺も思うが、そんなもの一々外してやる義理なんてねぇ。ついでに言えば方法も無い」


 話は終わりだと言わんばかりに腕を組んで目を閉じる。成仏の手伝いをしてやる気にはなったが、我儘にまで付き合わされる気は毛頭ない。そんな無駄な労力を強いられるくらいなら、お前が成仏できない理由を自分で考えろと言いたくなる。


 だが、そんな俺の態度を他所に目の前の幽霊は食い下がってくる。


「…つまり、咲良にはそんなことをやる理由が無いからやってくれないって事?」


「方法も思いつかないっつったろ」


「今は真面目に考えてないだけでしょ?必要に迫られればなんか思いつくって私信じてる」


「勝手に信じられてもなぁ…。無理なもんは無理だぞ」


「……あの絵が私の成仏に関係しているって言ったら?」


「……」


 目を薄く開けて橘を見やる。言い込められてしかめてていた先程までとは違い自信のある笑みを浮かべている。何か良からぬ事を思いついたか。


「咲良は知らないかも知れないけどさー、私みたいな地縛霊って現世に残った思い入れの強い物を媒質にして留まっちゃう事が多いんだよね。んでもって、私の遺品の中でそんなお気に入りの代物なんて大体焼いちゃってるか捨てちゃってるかだろうし、となると私が留まってる原因なんて四季桜くらいしか考えられないよね~。したら咲良も私をサッサと成仏させるために


あの絵を何とかする必要があるんじゃないかな~?かな?」


「成る程、先ずは自分の事を地縛霊と認めるのか」


「まぁね。私だって自分の立場くらいは何となくわかるし。だからこそ私が何かしらに縛られているってのも分かるし、そしたら状況的に四季桜くらいしか無さそうじゃん?」


 ドヤ顔で語る橘。絵の処分と言う自分のプライドが掛かっているからか、この短時間で割と考えて言いくるめようとしている。だが、ここで安易に頷いてしまうと今後の付き合いで何かと成仏に関係があると言われて面倒事を押し付けられてしまう。ここで一度、奴が自分で地縛霊と言った以上昨日調べた除霊について試せるものは試しておくべきだろう。これで運よく成仏させられたら万万歳なわけである。


「…言い分は確かに分かる。分かるが、成仏できると言えば何でも俺がホイホイやってくれると思ってないだろうな?」


「そんな事は思ってないよ~?でも今回の件はWINWINじゃない?私は恥ずかしい絵を処分できる。咲良はよく分からない幽霊から解放される。ホラ、完璧」


「……お前は一度、自分の立場を正確に把握した方が良いらしいな」


「えっ?」


 俺は昨晩、飯の後に準備したものを取り出そうとペットボトルを横に置いて鞄を漁る。


「…え?何?何出そうとしてるの?咲良」


「お前からすれば自分の欲望を満たした上で成仏したいと思ってるだろうが、俺からすればお前が俺から離れてくれれば手段は何でも良いって事だ…お、あったあった」


 手に引っかかった紙とザラザラした物を引っ張り出す横長の髪を束ねた紙切れ。そう、昨日の夜こっそり台所から拝借した塩と部屋で欠伸を漏らしながら写した般若心経だ。俺がその紙を横に広げると橘は怯えるように俺から一気に距離を取った。


「さ…咲良、何それは?」


「おぉ、流石は幽霊。素人の殴り書きでも怖いものは怖いか」


「そんなものを真面目に書いてきた咲良に怯えてるんだよッ!手段は問わないって言ってたけどどんだけマジになってんのさ!明らかに殺る気マンマンじゃん!そ、そこまでしてもらわなくてもいいんだけど!」


「何だよ、お前のためを思って昨日の夜ネットで調べながら書いたってのに。取りあえずこれ食らっとけよ」


 言いながら俺は橘に向かって塩を投げつける。意表を突くように投げたので良い具合にヒットした。


「痛ッ、イタタタタタ!痛い痛い咲良!地味に痛い!なんか雹が当たってるような感じでぶち当たってるくせに妙に安らかな気持ちになるの嫌だ!マゾになる!私ドMになっちゃう!これ以上は勘弁だよ咲良ぁ!」


「ほう、塩なら何でも良いとは書いてあったがやはり効くのか。なんなら安らかな気持ちになったついでにそのまま天に昇ってもいいんだぞ」


「嫌だー!まだ人生の汚点を雪いでないのに昇天したくないー!」


 悲鳴を上げながら、それでも何かに耐えるように地面にしがみつく橘。存外効く事に驚きながらも粘るせいで塩が切れてしまった。


「結構粘るな。じゃあ次はこいつだ」


 俺は昨日書きながら覚えた般若心経を心を込めて読み上げる。勿論、サッサと消えてくれという念だ。


「仏説摩訶般若波羅蜜多心経観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子。色不異空空不異色色即是空空即是色」


「?……!」


 初めて数秒は橘もビクリと体を震わすだけで何事も無かったようだが、舎利子を越えた辺りからそれは如実に表れた。


「ングッ、ぎゃあああああああぁ!!痛い、痛いってレベルじゃないコレ!ヤ、ヤバいってマジで洒落にならない激痛なんだけど、ストップ!ストップ!レフェリー!!」


 叫びながら体の節々が不自然に捻り上がる橘。腕や膝が曲がらない方向に曲がりかけているのは、相手が幽霊じゃなければ軽くホラーだ。幽霊自体がホラーだから相殺されているようなものだが、思った以上に肉体と呼んでいいのか定かではないがそちらへのダメージが大きいようなので途中で勘弁してやることにした。


「…へぇ、信心の無い素人の唱えでも効くものは効くんだな。明日から真面目に写経教室でも通うかを本気で検討したくなったぞ」


「そ…そんなものに…熱意を注がなくて……いいから…」


 息も絶え絶えと言った様子で床に這いつくばる橘は涙目でブツブツと呟きだした。遠くで聞こえないが呪詛のようなものなのは明らかだ。


「お前が五月蠅くて敵わないときにお灸を据える分としては十分だろ。なにせ塩と違ってお経は覚えれば無限だからな。いくらでも湧いて出てくるぞ」


「も……もう無理…」


橘は最後にそう言ってピクリとも動かなくなってしまった、余程効いたのだろうか。だが俺からすれば目の前から消えてない以上除霊は失敗。やはり素人では悪戯の域を出ないのだろう。となると、本格的に打てる手が七不思議の流れに沿ってコイツの未練を晴らしてやる事位しかない。そして、そうなると先程の奴の言い分もあながち間違いでは無くなる。


「……あの絵をどうにか処分するねぇ…」


 お茶をあおりながら自分に対しての損得を考える。


四季桜は居間の見える場所に置かれている。そのサイズ自体は割と大きめだから普通ならば別段居間に置いている事に何らおかしい所は無い。だがあの絵は描きかけであり飾るにしては、余りにも見栄えが悪い。我が家に来た事ある人ならばあの絵を見て一度は首を傾げるだろう。なぜあんなものを人目につきやすい場所に飾ってあるのだろうか。あの絵は橘御影の遺品であるとしても、目の届く場所に置いておきたい、ないしは飾りたいと言うのならば両親の寝室にでも飾っておけばいい筈。その辺りも踏まえて、あの二人には何かしらの考えがあるのだろう。


現状、その辺りの仮説として真っ先に思い浮かぶのはあの絵を精神的な拠り所にしている可能性である。親父の方は役所勤めだからさておき雪根さんは専業主婦。今に居る時間は多いだろう。学生時代の唐突な別れ、当然トラウマになっていてもおかしくはない。昨日は幾分か明るく喋っていたが話を振った時の反応を見ればそんな事も十分に考えられる。俺があの家に覚える違和感の正体も、もしかしたらそれが関係しているかも知れない。


そして、この仮定の通り四季桜を精神的支柱にしていた場合、ウチの両親はあの絵がある限り未来に進むことは出来ないだろう。そうだとしたら、俺があの絵を処分に手を貸す動機もある。我が家の家庭環境があの絵一枚で変わるならば、処分する事も吝かでは無い。


「だがなぁ…」


溜息と共に新た悩みも出てくる。それは勿論、あの絵を処分する方法が見つからない事である。心の支えになっていると考えられるあの絵の立場はとても繊細な物であり、迂闊に触ればどうなるか分かったものでは無く腫物みたいな扱いをしなければいけない状況。外堀を埋めようにも文字通り取り付く島もないだろうしどうしろと言うのか。更に言えば、処分と一言で纏めるのは容易いが実際の所はどのように処分すればいいのか皆目見当がつかない。なまじ大きなサイズの為隠し場所など無いし赤の他人から見ればあんな描きかけの代物を喜んで受け取るはずも無い。だからと言って粉砕するのは両親に忍びないと来たものだからどうしようもない。


「……ここに居ても仕方ないか」


 頭で考えても何も生まれないのは自明。ならばとりあえずでも情報を集めて打開策を見つけ出すしかないだろう。俺は荷物を纏めて尻を払いながら立ち上がる。


「……?何処行くのー…?」


 顔だけこちらに向けて掠れ声で聞いてきた死に体の橘を横目に見ながら溜息を吐く。


「ここでお前を虐めてても埒が明かないからな。あの絵をどうすればいいのかさっぱりだが足掻くだけ足掻く。いろな人に話聞いてりゃ良いアイデアでも浮かぶかも知れねぇからな」


 伸びをしながら気だるげに話すと、橘は疲れ切った顔から徐々に目を輝かせだした。


「……おぉ!まさか咲良あの絵の処分に本腰入れてくれるの!うはぁーさっきまであんなに嫌だ無りだって言ってたのに結局やってくれる咲良やっさしー!実はもうあの絵を完璧に処分するプランが頭の中には」


「ねぇつったろ。ったく…、さっきまで死にそうな顔で倒れてたと思ったらこのテンション…。本当に現金な奴だな、お前」


「いやぁ、昔っからだからね。聖君にも良く言われてたよ」


「良く言われてたってのに直す気はないのか…」


「性分だからね!」


 ここまで開き直られると逆に夏の暑さが若干和らぐような清々しさすら感じられる。そう言い切った橘はそのまま一気に俺の頭上を飛び越えて髪の毛を掴み機能と同様に陣取る。


「それでそれで?何処行くの?色んな人に話を聞けばって言ってたけど私の事知ってる人って他に居るの?」


「さぁな。でも絵に関しての話だったら別に相手はもう決まってるだろう」


「ん?まぁそうだね。んじゃケージの所に行くの?」


 鷹揚に頷くと橘はレッツゴー!という掛け声と共に正面を指す。いつからコイツの傀儡に成り下がったのだろうかと悪態も吐きたくなったが、嫌味の一つを口にしてもコイツの耳には馬耳東風。それよりも般若心経の方がよほど奴は堪えるだろう。ならば、後で鬱憤を晴らせばよい。俺は自分にそう言い聞かせ、やる気無さげに荷物を担いで西村先生の所に向かうことにした。


 西村先生に会いに行く道中、相変わらず人が全く通らない廊下を歩きながら俺は橘に記憶にある先生の名前を上げてもらっていた。もしかしたらまだ俺が知らなくて橘のことを知っている教師が居るかも知れない、と思ったのだが、五分程上げてもらった名前の中に今現在在籍している教師は一人もいなかった。やはり十八年という壁は厚いものだと改めて実感する中で、橘が大きな溜息を吐いた。


「本当に誰も居ないんだね…。ケージよりも若い先生が根こそぎ消えてるのがマジで解せない…。なんで?」


「教師の居ない理由なんていくらでもあるだろ。人事異動、人間関係のストレスや年齢による退職。なんかミスすれば辞職を迫られることもあるだろうし」


「確かにそうだけどさー…何人かは納得できないんだよね……。葛谷…はなんか教員免許がなくなったって昨日言ってたと思うけど、朝武さんとか関さんとかあの辺って流石にまだ定年とかいってないよね?まぁ朝武さんは肥満が祟って成人病ってオチも考えられそうだけど、関さんとか割と健康に気を使ってたイメージがあるんだけど。ヒョロッとしてたし」


「……さぁな。一応、その教師たちは知らなくもないが辞めた理由までは知らないな」


「………ふーん?」


 何か思うところがあるのだろうか、それきり黙りこくってしまった。俺からすれば当たり前な事なのだが、橘からすれば完全に浦島太郎状態だ。心細いものがあるのかも知れない。


「ホラ、そろそろ美術室に着くぞ。人前じゃ流石に喋れんから話しかけられても適当に流すぞ」


「オーケー。勝手に一人で喋るよ」


 橘の返しに軽く頷いて、美術室のある廊下の階段を降りる。部室練の一階は他に漫研や文芸部の部室もあるのだが電気が付いておらず部屋の中から人の声もしないので今日は休みなのだろう。二つの部室の前を通り過ぎて美術室の前で立ち止まる。そしてドアをノック二回。目を閉じ感覚を研ぎ澄ませて中の人数の気配を確認する。


「……三人。西村先生は不在ってところか」


「えっ」


 橘が何か言いたげな反応をしていたがそれを無視して中に入る。美術室の中では一年生が三人、構図に悩みながら抽象画の製作に取り組んでいるようだった。三人は、よもや部外者がやってくるなんて思いもしなかったのか一斉にこちらを見て固まってしまっている。邪魔をしては悪いから手早く要件を済ませようと咳払いで凍った空気を解いてから俺は出来るだけ優しく声を掛ける。


「あー…二年の名蔵って言う者なんだが……。西村先生がどこに居るか、誰か知らないか?」


 俺が声を発すると、三人ともビクリと怯えた風に体を震わせたが、すぐに顔を見合わせて話し合いを始める。そして数秒後に右端の生徒がおずおずと口を開く。


「…先生ならさっき外に出ました。どこに行くか迄は言って無かったですが、すぐ戻るって…」


「…成る程、了解した。作業の邪魔して悪かったな」


 俺は軽く会釈をして足早に美術室から出る。入室から僅か一分の早業である。そしてドアが後ろで閉まる音を聞きながら西村先生が居るであろう場所に向かう。その時、先程まで黙っていた橘が話しかけてきた。


「え、え。私今の二分弱の間で咲良に聞きたいことが出来たんだけど」


 先程話しかけられても無視する旨を言ったはずなのに聞いてくる橘に辟易しながらも、辺りには人の気配が無く、仕方なしと言って俺は相手をしてやる。


「あ?なんか不思議な事があったか?」


「メチャメチャあったよ…ノックしただけで中に居る人数言い当てるわ、ちょっと言葉を交わすだけで…多分ケージの居場所も分かってるんでしょ?」


「何となくはな。違ったらまた美術室に戻ればいいわけだし」


 さも当然のように俺が言い切ると、橘は大きな溜息を吐いて首を大きく横に振った。そして呆れたような声で一言。


「…咲良って実はハイスペック?」


「んなわけ無いだろ。室内の人数が分かったのはちょっとしたトリックだし西村先生の居場所だってちょっとした推理だっての」


「ふーん…ちょっとしたトリックと推理…ねぇ…」


 俺を見る目が随分と訝しげな物に変わってしまった橘。とは言えトリックの内容を話しても理解できないだろうし、よしんば理解できたとしても俺を見る目が一層怪しくなるだけだろう。ならば、適当に濁すのが一番である。俺がトリックについて話す気が無いと態度で分かったのか、橘はもう一つの方を聞いてきた。


「そういえば、これどこ向かってるの?」


「焼却炉、ゴミ捨て場だな。美術部の人間が言うには西村先生はすぐ戻るって言っていたらしいじゃねぇか。基本的に西村先生は職員室に自分の荷物を置かないから余程のことが無い限り行かないだろう。何か飲み物とか食い物を買いに行った可能性も、昼近くならまだしもこんな早くから行くのはおかしい。そんなだったら最初からもっと家から持って来いって話だ。そうなったら残るのは一つ、一服しに外へ出ただ。ウチの学校は基本禁煙だからな。どっかで隠れて煙草を吸いに行ったとなれば、基本人が寄り付かない場所になる。んでもって俺が知る限りあの人が煙草吸う場所ってのは部室棟側の屋上と焼却炉しか知らん」


「…これがちょっとの推理ってのが癪に触るけど、まぁいいや。でもなんで屋上じゃなくて焼却炉だと思うの?」


「そんなの決まってるだろ?」


 何を当たり前の事を聞いてるのかと思ったが、橘は考えても分からないらしい。さっぱりと言った様子の幽霊に、俺は人間の真理を口にする。


「焼却炉の方が近いし日陰も多いからに決まってる。基本的に校舎の陰だからなあそこは」


「……」


 最後は人間の楽をしたいという本能で向かう場所を決めた事に絶句と言った様子で口を開いたままになってしまった橘をほっといて、俺は校舎の裏口から外に出る。本来なら美術室前の廊下にある窓から抜け出した方が圧倒的に早いのだが、いくら人が碌にいないとはいえあまり目立つような行動は極力避けたい。どこで誰かに見られているか分かったものでは無いからだ。


「さて、西村先生は…。お、やっぱり当たりだ」


 熱風に煽られながら外に出て、左手を見れば焼却炉の壁にもたれかかりながら紫煙を燻らす人の影が見える。西村先生は予想通りこちらにて吸っていた。


「やっぱりこちらで吸ってたんですね。教師なんですからもっと堂々と吸えば良いものを」


 話しかけながら向かうと、西村先生は軽く手を上げて挨拶した後大きく息を吐いて煙草を携帯灰皿で押し潰した。


「一応体裁ってものがあるからなぁ大人には。ガキの前では流石に吸えんよ。と言うか俺を探してたのか?名蔵よ」


「そんなところですね。美術室に寄ったらどっかふらついてると言ってたので、まぁ一服しに行ったかと」


「相変わらずの洞察力だなぁ。俺ぁ奴らに煙草なんて一言も言って無かったはずだが?」


 先程の発言を思い出すように目を逸らしてそう言ってきた西村先生に、俺は仕草だけではぐらかして隣に並ぶ。すると橘が声を出しながら目をキラキラさせて西村先生の事を眺めだした。


「わぁー…ケージ本当に年取ったねー。そりゃ十八年も経てばこうなっちゃうのは当たり前なんだけどさ、お腹周りとかも変わってないし、ただ純粋に老けただけみたいな?」


 あのお腹じゃ成人病待ったなしだねーと橘はケタケタ笑いながら俺の頭をバシバシ叩く。それは当然、西村先生は目にすることはできず、俺も感覚は無いので上に意識を向けなければ気づくことは無い。誰にもばれないからと言って随分と言いたい放題だと思うが俺の知った事ではない。


「それで?こんな所まで来て何の用だ…、てかここじゃなきゃいけないような話か?何処でも良いなら準備室とかで話さないか?暑くって堪ったもんじゃねぇ」


 橘に笑われているとは露知らず、西村先生は煙では無く熱気を吐き出すように大きく呼吸をする。自分も気にするのは止めにした。


「いえ、そもそもそんな長く話すような事では無いのでどこだっていいんですが…、なんならここから美術室に帰るまでで済むかもしれないですよ?」


「なんだそりゃ、その程度の話でわざわざ探したってのか。存外暇なんだな、お前さんも」


「そりゃ夏休みに入った帰宅部学生なんて暇人以外の何物でもないでしょう。…まぁ、成り行きで変な調べ物をしていますが」


 喋りながら、ふと橘との邂逅がない場合の夏休みを考えて思わず溜息が漏れてしまった。きっと今頃は能代の練習相手を終えて屋上か、視線を気にせず図書室辺りで読書か宿題を片付けていただろう。それが今は謎の幽霊に憑き纏われそいつの成仏を手伝い、無駄に経など覚えさせられ、変な後輩には目を付けられ、そして居間に飾ってある絵を何とかしようと世間話をしながら画策している。まだ休みが始まって二日だが、ここまでアグレッシブに動く羽目になるとは終業式の時には欠片も思っていなかった。全くもって面倒事に巻き込まれたものだ。


「変な調べ物?お前さんが動くなんて相当珍しいだろうに…、なんだ?那賀絡みか?」


「へ、変な調べ物?咲良なんか調べてるの?」


ひとしきりはしゃいだ橘が俺の言葉に反応して聞いてくる。隣に西村先生が居なければ、お前の事だよとツッコミを入れつつ塩を真上に振り撒いていただろうが、今は無視せざるを得ない。


「…いえ、その調べ物の内容が西村先生に聞きたかった事なんですが。まぁそれは歩きながら話しますよ」


 俺は滴る汗を顔に塗りながら西村先生にそう提案する。なんにしたってこんな暑い所で話すものでもなく、それは西村先生も最初に話していた。こんな所からはさっさと退散したいというのが今この場の共通認識だ。


「え?なに?二人とも移動したくなるほど暑いの?」


 一人だけこの暑さに気づけない奴もいるが、聞かなかったことにした。西村先生も俺に同意してくれて二人して美術室の方に歩を進める。


「んで、俺に何を聞きたいってんだ?連日会いに来るなんてよほどの事でもない限りねぇだろうに」


 並んで歩きながら聞いてきた西村先生に、さっそく俺は本題に入ることにした。


「四季桜って名前の絵、知ってますよね?西村先生」


「……勿論知ってるぜ。なんてったってアイツの遺作だからな」


「未完だけどね!アレを遺作に認定するくらいなら最後に完成させた『ハゲに登る朝日』の方がよっぽど見栄えが良かったって!」


 折角真面目な話が出来ると思ったのだが、さっそく頭上の幽霊がいらん茶々を入れてきて辟易してしまう。第一、ハゲに登る朝日とは一体何なのか。題名からしてロクでもない絵なのは明らかだが、何故そんなものを高らかに見栄えが良いなんて言えるのだろうか。橘の思考は謎だ。


「家に飾ってある絵がそんな題名だと昨日雪根さんから聞きましてね。その絵について少しお聞きしたいことがありまして」


「あの絵について…?変なことを聞きに来たなぁ。お前さんには何も関係ありそうなこと出てこないと思うが」


 怪訝な顔をして西村先生が聞いてきたので、俺は笑って誤魔化す。


「まぁまぁ、それは俺にも色々事情があるって事で…。まず、あの四季桜は橘御影が美術部員として書いてたんですか?」


「ん?そうだが。あれは確か文化祭の展示物って名目で描いてたはずだ」


「…私さっきそう言ったよね?咲良。まーだ私の言うこと信用できないの?」


 西村先生に投げかけた問いに勝手に反応する橘。聖徳太子ほどの苦ではないが流石に二人同時に聞くと言うのは難しいものがあるのだが、内容が似ていたのが救いか。俺はこめかみを右手で抑えて軽く息を吐く。


「どうした?溜息なんて吐きやがって」


「いえ…何でも無いです。とりあえず、描きかけの状態で家にあると言う事は西村先生が遺品として親友だった親父達に譲った……。と、思ってたんですよ。…西村先生から確認を取るまではでは」


「どう言う事だ?名蔵よ」


 橘に言われた時はピンと来なかったが西村先生の口から直接聞いた瞬間、突然とある仮定が脳裏をよぎった。今までの疑問に話をつけられるものだが、その内容が余りにも突拍子も無いもので、考えを纏めながら喋っているうちに途切れ途切れになっていた。


「…。普通に考えて西村先生が最期に所持している絵が家にあるのならばどう言った経緯で家に来たか。真っ先に思いつくのは譲渡だ。でも、昨日色んな人と話している内に不自然な点があったんですよ」


「……ほぅ、色んな人ねぇ…」


 西村先生が顎を擦りながら頷く。ちょうど目の前に裏口のドアが見えたので俺は先生よりも二歩分前に出てドアを開けて先生の後に続くよう校舎内に入る。


「??…なんか思いついたの咲良?普通にニシケンからもらう以外に四季桜を聖君たちが手に入れる方法無くない?」


「まず一つ、これは直接譲渡では無いと決める程の疑問では無いのですが、なぜあの描きかけの絵を遺品として両親は欲しがったのか。聞けば橘御影は一年の頃から美術部をやっているそうじゃないですか。当然ソイツの絵なんてまだ他にもあったはずだ。それこそ、キチンと完成した作品が。それらを差し置いて何故四季桜なのか。最初は橘が描きかけの絵を自宅に持ち帰って進めていて、死亡時に橘の家に遺品整理をしに行った両親がこの絵を回収したものだと思ってました。でもこの絵は西村先生が持っていたという。貴方が保管していた場合、恐らく美術準備室に置かれていただろう。だからこそ、俺は両親が先生から譲り受けたのだと思った。…ですがこの場合、少しだけ妙な事が起こる」


「妙、とは?」


「もしこの絵を貰った場所が橘の家でなく美術準備室ならこのサイズの橘の作品は複数あってもおかしくは無いんですよ。橘の家でなら、授業程度の内容のものしか置かれていないでしょう。クロッキーブックが精々だ。一番大きいであろう四季桜を形見として持ち帰ってもそこまで不思議では無い。だが美術準備室ならどうか?橘御影が二年半美術部員として絵を描いていたのならば、一年と二年の頃に展示していた他の作品があるはず。俺の記憶が確かならば文化祭の展示作品はキャンバスのサイズが固定だった筈です。サイズは一緒で未完成品と完成品があるのなら、大体は見栄えのいい完成品を持ち帰りたいと思う、又は両方持ち帰るでしょう。でもここで、作品を複数持ち帰っているのならば居間にあんな未完成品を飾るのは妙だ。思い出を飾りたいなら人目に多く映る居間にはもっとマシな作品を飾り四季桜は両親の寝室にでも飾っておけばよい。そうしないと言う事はあの絵しか手元に無いという事の裏付けだと俺は考えました。うちの両親は、初めからあの絵以外はそこまで興味が無かったんだと言うのが俺の推測です」


 長く喋ったせいで口の中がカラカラになってしまい鞄からデカいペットボトルを傾ける。浴びるような角度で喉を鳴らしていると西村先生が疑問を返してきた。


「お前さんの言う事は分からなくもないが、だからといってそれがどうしたって感じなんだよなぁ。要は今の話で絵は俺の元から聖人達に渡ったって事だろ?特に不自然な点はねぇじゃねぇか」


「そうだよ咲良、逆にそれ以外何があるってのさ」


 二人して結論付けようとする意見を、俺はペットボトルの蓋をしながら首を横に振って否定する。


「俺もそう思っていたんですけどね…少し考え直す必要があるかと思いました。それがもう一つの不自然な点、昨日の貴方の態度ですよ。西村先生」


「…俺がか?」


「えぇ。昨日桜夏の前で話しましたよね、ウチにある描きかけの桜の話。あの時の俺はあの絵がどんなものなのかを知らなかったから気づけなかったけれども、あの時の西村先生は構図まで四季桜に似せて描いていた。そしてその構図とよく似た絵、しかもそれが描きかけの絵だと知って、恐らくその時ピンと来たんじゃないですか?その絵こそが四季桜だって」


「…そうだな、伝聞系でしかないが、特徴さえ聞けば誰だってその絵が四季桜だってわかる」


「だからどうしたってのさ。ケージは聖君達に上げてるんだから分からないワケ無いじゃん」


 ここまで話して、ちょっとは気づいてくれと思ったが、橘は本当に勘が悪い。もうちょっと頭の回転を早くしてくれると数少ない相棒として頼れるのだが、こういう奴なのだと割り切るしか無さそうだ。


「そう、分かります。でも知っていたのなら改めて分かる必要はないと言う事です」


「……成る程なぁ」


 西村先生が感心したように頷いた所で美術室前に着いてしまった。無駄な話をし過ぎたせいで歩いている最中に終わらせられなかった事を反省していると西村先生はドアを音を立てて開け、こちらを向いた美術部生達に一言入れた。


「悪い、帰って来てなんだが話し合いがあってな。準備室に居るがしばらくお前らの相手は出来ねぇって言っとく。まぁテメェらの作品なんだからテメェらで頑張れってな」


そう言って檄を飛ばすと、西村先生は俺の方に向きなおり指で中に入れと言ってくれた。続きは冷房の効いた部屋で出来る事に多少の安堵を覚えて、俺は西村先生の後をついていき奥の準備室に入る。若干建て付けの悪いドアを開けて中に入ると一層画材特有の臭いが感じられて、ほんの少しだけ息苦しさを感じる。換気をしようにも窓は全て嵌め込み型なので開ける事は出来ず、もし冷房が無かったとすれば、西村先生には申し訳ないがここは地獄だっただろう。


「さて、んじゃ続けてくれよ」


 辺りを見回していると西村先生は話の続きを促してきた。と言う事はここまでの話で間違っている所は無いという所か。俺は若干緊張しながら近くにあった背もたれの無い木組みの椅子を引きながら奥の椅子に座り、西村先生はエアコンのリモコンを操作しながら事務用の椅子に腰かけて一息つく。そんな俺達とは裏腹に橘は感慨深げに辺りを見回しながらはしゃいでいた。


「うーわー随分と様変わりしちゃったねぇここも。寧ろ若干汚くなったって言えば良いのか知んないけど、これじゃどこに道具あんのか分かんないやー。昔は勝手知ったるって感じで借りれたのになー」


「……とはいえ、もう語る内容もそう多くはないんですけどね。四季桜と思われる絵の内容を断片的に伝えた時に俺の家に四季桜があると西村先生は考えた。これを逆に言えば、西村先生は俺と能代が絵の特徴を喋るまであの絵の所在を知らなかった。でもそれはおかしいんですよ。あの絵を最後に保管してた人が絵の所在を知らないなんてあり得ない。西村先生が誰かに譲ってそれから親父達の元に渡ったという可能性も考えられますが…まぁ除外しても良いでしょう」


「ほぅ、…その根拠は?」


「どちらも状況証拠ですが…まずその一、遺品を誰かに譲り渡すのならその故人に対して余程親交のあった人に限られます。両親や西村先生の話を聞く限り、どうやら橘はいつも三人組で一緒にいて他の級友は少なかったイメージが強い。そんな中で遺品を渡せる程の人なんて、残りは家内くらいしか考えられません。それならば桜夏のウチに来た経緯くらい追跡できておかしくないと思ったから。そしてもう一つ。……遺品を渡すと言う事は譲渡先の手元にあった方が都合良いかそこまで遺品や故人に興味が無い人です。この時期に桜夏を四季桜と同じアングルで描いてる人が、そんな簡単に人に譲ったりしないと思いますし、両親の手元にある方が都合の良い理由もあるとは思えないのですが、その辺どうでしょう?」


「……本当に、誰に似たんだろうなぁその人を観察する目と頭は」


 西村先生は肩をすくめた後小さく拍手を送ってくれた。そこまで合っているのならば俺の推論も仕上げだろう。気がつけば橘も準備室の風景からこちらの話に興味が戻っていたらしいので、俺は話を纏める。


「ここまで来れば話は早い。誰にも渡す気の無かったはずの西村先生の手元から何故今、俺の両親の手元にあるのか。そんな方法なんて一つしか考えられない」


「…まさか、聖君」


橘もここまで聞いて何かを察したらしい。俺は咳払いで一泊置いて、結論を口にした。


「……あの家にある四季桜って『盗品』なんじゃないですか?」


「………」


ゴクリと二人して唾を飲む音が聞こえた気がする位の静寂。確信めいたものはあるが本人の口から当否を聞くまでは気は抜けない。しかも俺が口にした内容は、両親を侮辱しているもの。橘はどうか知らないが、俺からすれば当たってようが外れていようが恥になるのは必死。半ばやけくそである。とは言えこれであの絵の処分に、ないしは橘の成仏に近づけるのなら仕方ない。そんな風に自分を言いきかせていると、やがて西村先生は口角を上げた。


「よくもまぁそこまで考えたなぁ。あの絵なんてお前何も関係ないだろうに」


「そのはずなんですけどね…まぁ色々と事情があるんですよ」


「十八年前の事を調べなきゃいけない事情がか?」


「十八年前の事を調べなきゃいけない事情が、です」


 俺が言い切ると、再び視線が交差して沈黙が訪れる。一瞬、もしかしたらこのまま黙秘されてしまうかも、とも思ったが西村先生は大きく笑い出した。突然の事だったので橘もビクリと肩を震わせて驚いていたが、やがてひとしきり笑った後先生は推論について答えてくれた。


「いやはや、流石だなぁ名蔵。まるで現場で一部始終を見てたかのような見事な推理だ。人の反応とか僅かな情報でここまで当ててくるとは…、将来は探偵でもやったほうが良いんじゃないか?」


「昨日は芸人に向いてると言われて今日は探偵ですか…随分と多芸に見られている様で。それで西村先生。その言い方ですと四季桜が盗品だと言う俺の推論は当たってると解釈してよろしいでしょうか」


「おう、そうだな。まぁ盗まれた先がお前の両親の家だってのは昨日知った事だが、アレが盗まれたってのは事実だ。あれは確か…御影の奴が死んで一週間くらい経った時だったか」


 そんな前置きをして、西村先生は当時の事をとつとつと語ってくれた。


橘の葬式から数日経って、悲しみに浸る部員同士が宥め合いながらなんとか落ち着きを取り戻して文化祭の出し物の製作に取り掛かっている時に、西村先生は毎日橘が描き残した四季桜をイーゼルに置いて眺めていたらしい。最初はその絵に込めた作者の意味を探ろうと、その後はこの絵をどうすべきか。


日ノ本学園の美術部は当時それほど大きいものでは無く、故人の絵を保管しておけるようなスペースは殆ど無かった。それ故に、西村先生は親族に遺品として渡すことを考える。


「本当は火葬の際、一緒に燃やしちまった方が良かったんだろうがな。あの時の俺はただ、アイツの遺産を残してやろうとしか考えてなかった」


「何で燃やしてくれなかったのさ…ケージのバカ……」


 あと一歩の所で運命のいたずらが起きた事に橘は額を抑えて嘆く。しみじみと語る西村先生は、よもや当の本人が遺産の焼却を願っていたとなんて思うわけもなく、何となく申し訳無さが心をよぎった。そして橘は西村先生の葛藤に対して謝るべきだ。


そんな事を考えながら西村先生の話は続く。普通に考えれば、四季桜は描きかけとは言え彼女の作品。遺族が所有する権利があるのは分かっている。だが西村先生はどうにもこの絵を手放す気にはなれなかったらしく、来る日も来る日も遺族に渡そうとしては踏みとどまりを繰り返したらしい。


「何だかんだ言って俺はアイツの四季桜が好きだったんだろうなぁ。描きかけの癖に見てるだけで胸が焼けそうな程の恋情があの絵にあった。俺に絵を見る目はそんなには無いから絵の良し悪しとかは分かんねぇ。けど絵に込められたもの位は分かるつもりだ。感情が宿ってる絵ってのは目を奪うものがある。だから俺も思っちまったんだよ。手放すのが惜しいってな」


 この時点で西村先生の中では、この絵を誰に渡すか、或いは自分が保持するかでだいぶ悩んだらしい。確かに可愛がっていた生徒の遺作となれば渡すのも躊躇いがちになってしまうのは分からない事では無い。


「そして、気持ちがどっちつかずになっていたある日、いつものように学校に来て準備室に入った時、異変に気づいた。四季桜がイーゼルの上から消えてたんだよ」


 四季桜が消えた事に気づいた時は、先生曰く人生で一、二を争う程狼狽したとの事。文字通り準備室をひっくり返すようなレベルで捜索して、部屋に無いと分かった後は部員全員に問いただして、誰も持ち去っていないのを確認して、西村先生はあの絵を持ち去った犯人を確信した。


「少し考えれば誰だってわかるもんだったんだがなぁ。準備室は荒らされた形跡が無く、盗まれた物も四季桜一枚、あんなもの他人が見たらただの描き散らしだ。ワザワザ盗み出すにしてはチンケ過ぎる。そんな物を持ってく奴なんて、一人しかいないだろう?」


「……まぁ、でしょうね。我が父ながら恥ずかしい話ですが」


「まぁそんな嫌そうに言うなよ。俺としてはアイツの手元にあの絵があるんだったらそれでもいいかなって思ったんだ。元々アイツに渡そうって案も俺の中にはあったんだ。手段は感心しねぇが怒る気にはなれなかったよ。一言位書置きしてくれても良かったろうとは思ったがな」


 朗らかに笑う西村先生の態度を見れば、その件に対して怒っていないのは分かる。でも、だからこそ俺はあまり親父を許す気にはなれそうもなかった。話せば分かる人から何故盗むような真似をしたのだろうか。そこまで欲しければ交渉すればいいものを、と思ってしまう。ちらと目線を上に向けて橘にも意見を聞いてみようとしたが、橘は自分の思った以上に複雑な話だったのか、顔をしかめて唸っているだけでまるで使い物にならない。


「せめて親父が在学中に確認の一つでも取るべきだったんじゃないですか?もし違う人が持ち去ってたら立派な犯罪ですよ」


「それはそうなんだがなぁ。まぁ確信もあったし別にな」


「そんな楽天的な…」


 思わず溜息が漏れてしまったが、思えばこの人は昔からこんな感じの人だったのだと、変わらない人なのだと改めて感じる。だからこそ、俺もあの時頼れたのかも知れない。


「それにしても、毎年桜夏を描いてるって言ってましたよね、昨日。アレも何となく四季桜と同じアングルで描きたいだけなんですか?それとも何か理由が?」


「あー…あれな。あれも大した理由は無いんだがな」


 俺が何となく話を変えると、西村先生は先程の話より気まずそうに目を泳がせる。何か困るような話では無いと思ったのだがと首を傾げる。そして、泳いでいる目の動きを見ているとどうも先生の右手側のキャンバスが積まれている方が気になるようだ。


「そんなにそこのキャンバス群が気になるんですか?」


「……何でそんなことが分かるんだろうなぁ。ったく」


 目線からカマをかけてみると西村先生はどこか観念したような素振りを見せて、立ち上がってキャンバスのいくつかを持って来てくれた。どれも全てモチーフは一緒、桜夏の絵である。それを横に並べてもらうと、桜の森に居るように感じられるほど壮観なものであった。


「おぉ…流石美術の先生。どの桜夏も迫力があって素晴らしい臨場感。風が吹けばざわめきそうな程ですね」


「おぉ、スゲーなケージ。前から絵は普通に上手かったけど十八年も経つと技術の上がり方も半端ないね。毎年こんなの描かれてたら部員の皆めげるんじゃない?」


 これには先程までブツブツ言っていた橘も感嘆の声を漏らした。けれどもそんな二人とは対称的に、西村先生は苦虫を噛み潰したような渋い顔をしてボヤく。


「歳食って小手先の技術だけは上がるのに描きたいものからは遠ざかる一方。この桜達はその典型的な例だ。お前さんは褒めてくれたが俺からすれば駄作も良い所だ、コイツらは」


「これで駄作って言うんですか?西村先生」


「じゃあ逆に聞くが名蔵よ。その桜並木をじっと見つめて、何か名作らしいものは見つかるか?」


 自嘲するような言い方をしながら鼻で自分の絵を笑う西村先生に促され、俺は改めて桜夏を一枚一枚細部まで確認する。西村先生曰く一年に一枚だけ描いてるとの事だが、アングルが同じだからか色使いや花びらの描き方など微妙な違いはあれど複製のように精巧に仕上がっている。正直、俺なんかが品評するのは烏滸がましいレベルだ。


「あー…なんか分かったかも」


 見当がつかず首を捻っていると、橘は何かに気づいたように呟いた。俺が分からず橘は分かると言うのが若干悔しいのでもう少し真面目に見てみる。しかし何一つ俺の意見が変わることは無く、逆に見れば見る程この桜夏に何が問題があるのか分からなくなる。このままでは埒が明かないので、癪に障るがやむを得ず橘に答えを求めるべく西村先生になるべく怪しく見えないように人差し指で橘を呼んでみる。


「…?何してるの?咲良。なんか人差し指をクイックイって……何かいやらしく感じるの気のせい?」


 気のせいに決まっているだろうと声を大にして言いたかったがそんな事は出来ない。本当に幽霊との関係はなんともままならないと心の中で嘆きつつも、折を見て橘と人目がある場所でも意思の疎通ができるようにハンドサインの練習でもしようと心に決め、西村先生に両手を上げて降参の意を見せる。


「すいません、俺の節穴の目じゃ何が何だか…」


「まぁ少しお前さんには意地悪な問題だったな。軽く前置きすると、桜夏と四季桜は同じ木なんだが出自が違くてな。元々あそこのライン一帯には桜がそこそこ植えられてて、桜夏って呼ばれている木はその並木の中で一番大きな木だったんだ。当時はその飛び抜けた大きさから一本桜なんて呼ばれたりもしてたんだけどな。だけど橘の奴が死ぬ一年前に桜の伐採案が上がってな、今残ってるあの一本以外は全部切っちまったんだ。…仕方無い事とは言え、個人的にあの景観は好きだったから勿体無かったとは思ったがな」


「ね~、あれスッゴイ勿体無かったと今でも思うよ~。結局私達にはあそこに植えられてる木はそろそろ限界だーとしか言われなかったし、んなこと言ったらあれから十八年以上生きてるあの桜は何だって話だっつーのって話!聖君が生徒会で嘆願書まで出したのに通らなかったし!」


 どうやらその桜並木を伐採したのは橘や学生、教職陣にとっても不本意だったらしい。とは言えあの桜夏の木はソメイヨシノ。一般的な山桜やしだれ桜と比べて寿命が極端に短い。植えてどのくらいになるかは知らないが六十年程度で寿命だったと記憶しているからその辺りのスパンだったら仕方がないとしか言えない。


「まぁソメイヨシノの寿命は短いですからね。根腐れと言われて生徒の安全を考えたら伐採せざるを得ないでしょう」


「まぁそんなところだ。あの木は学校の創設期から植えられてたらしくてな。そろそろ良い歳だろって事で切られたんだが。校長側も聖人達が集めた嘆願書の量は無視できなかったらしくてな。一番大きなあの桜の木だけは残したんだよ。それがあの桜夏だ」


「…その話とこの絵画群が名作じゃない理由が関係あるんでしょうか…?」


 話の脈絡が見えず西村先生に聞いてみると、何故か橘の方に溜息を吐かれた。顔からして言いたい事は分かる、ニブチンだとでも言いたそうだ。


「分かってないなぁ咲良は。ケージが描きたかったのは桜夏じゃなくてもっと別の物なんだよ」


 したり顔でペラペラ喋る橘に若干イラッとくるも、そこまで言ってもらえてようやく俺にも気づくことが出来た。


「……成る程、漸く理解できましたよ。…先生は桜夏を描きたかった訳じゃないんですね」


「俺が何か言う前に答えだしちまうんだから世話ねぇよなぁ。おう、そうだ。俺が描きたかったのは夏にだけ咲く不思議な桜なんかじゃねぇ。皆の思い出を一手に担って、春に咲いて夏に葉だけを残して秋になったら枯れ初めて冬になったら寒々しい姿になる。…そんな何の変哲もない桜だって事だ」


 気が付けば西村先生は再び煙草に手を伸ばしていた。いくら何でも燃えやすい物もあるだろうし絵に臭いが付くのでは無いかとも思ったが、その辺りは何十年もこの場で過ごしている人なのだからその辺りは考えているに違いない。それに、大人では無いので分からないが過去を振り返る時というのは煙草や酒みたいな嗜好品に手が伸びる物なのだろう。


「わぁ~、ケージが煙草吸ってる姿久々に見たなぁ。…やっぱりカッコいい」


 なにより橘がご満悦のようで、これで室内での喫煙について何か物言いしようものなら上からも文句を言われかねない。


「となると…、この桜達はあくまで四季桜の習作だと」


「おう。あの絵が俺の手元からなくなっちまってからずっと考えてるんだがなぁ、あの絵は御影が聖人に送ったメッセージみたいなものだ。つってもあのタイトル名の由来だけは誰にも教えてなかったらしくてな。だから描きかけの絵と同じ構図で同じモチーフを描いてれば何となく掴めると思ったんだが…。その結果がこのありさまだ。…ままならねぇものだな、全く」


 煙を大きく吐き出しながらぼやくように西村先生は言う。確かにこの桜達は桜夏としてみればどれもこれも素晴らしい出来なのは言うまでも無い。だが、これに何が込められているか、もっと言えば橘が四季桜に込めたものがあるかと言われたら疑問となる。西村先生が描きたかったのは今咲いている桜夏なんかではなく十八年前の一本桜と呼ばれた木であるなら、描きたいものから遠ざかる一方と言う先生の言う事も良く分かる。


「…まぁ、私が一年以上掛けて考えた四季桜を、ポッと出のケージに完成させられちゃ私も堪ったもんじゃないけどね」


 だが、良い感じに話が終わりそう宇な所で水を差すのは四季桜を描いた張本人である橘御影。


絵を完全に処分してほしいと言ったと思えばそんな簡単に真似できるわけ無いだろと得意げに鼻を鳴らす。本当はどうしてほしいのか。そんな態度をするのならば四季桜の構想を西村先生に教えてやればいいものを、と思うのだがそれをこの場で口にするわけにはいかず、後で人の居ない所で聞こうと心に留める。


「…ま、この世にはたった一つの真作以外には贋作しかねぇんだけどな」


「…?どう言う意味ですか?」


「あぁ、いや。俺に言ったんだよ。もう一度あの桜が見てぇって自分に言ってこれまで描いてきたが、仮にどれだけ真に迫ったものが描けても所詮偽物だって事だ。十八年も経つ事だし、案外ここらが潮時なのかも知れねぇなぁ」


 西村先生が何となく口にしたそれを聞いて、漸く俺は西村先生がもう一度橘御影が描いた四季桜を目にしたかっただけなのだろうと理解した。ただそれだけの為に十八年間も毎年あの桜を描いてたと思うと、俺なんかでは推し量ることも出来ない程の思いがあるだろう。四季桜の処分を考えて話を聞こうとここに来たが。西村先生もまた、死人に人生を動かされている一人だと言う事か。思わず大きな溜息を吐くと、奇しくも橘とタイミングが被った。


「ハァー…。誰も彼もが橘に今を動かされているってことですか……。アイツもさぞ喜んでるでしょう」


「なんだ、随分皮肉っぽい言い方じゃねぇか。まるで橘の事が分かるみたいだな?」


「…さぁ?会った事の無い人の考えが分かるって言う程自惚れてはいないつもりですがね。ただの推測ですよ。別に皮肉を言いたかったわけじゃない。それに死後も想ってくれる人達がいるなんて良い話じゃないですか」


 そりゃ今頭上に居ますからね、なんて口に出せるわけもなく適当にはぐらかす。それでちらりと上を向いて橘と目を合わせる。わざわざこんな言い回しをしただけあって橘も俺の意図を汲んでくれたのか、口を開く。


「皆揃って過去を過去に出来ないなんて恥ずかしい話だよ…全く。そんな長い間引きずって重くないのかね?聖君もケージも。肩の荷下ろしちゃいなよって言ってあげたいね」


 やれやれと言った様子でこれまでの話に対する感想を口にする橘。俺がその一言を代弁した所で降ろせる程軽い荷物では無いだろうが、本人の声ならば話は別だ。だが死人に口無し、それを本人が届ける方法は存在しないと言うのが橘の悔しい所だろう。そして、俺が西村先生から聞ける話もこんな所が精々だろうか。成果と呼べるかどうかは分からないが、少なくともあの絵に関する情報は増えた。


「さて…、そろそろ俺は失礼しますかね。あんまり長居しても部員の人とかに迷惑でしょうから」


 言いながら俺はさっと席を立つ。一応口では周りを気にしているような事を言ってみたがその実、橘と今の話を踏まえて話をするためにこの場は不便で、橘が忘れない内に移動しようと言うのが七割、残りの三割は効いてきた冷房に慣れてしまうと外に出るのが億劫になりそうだという何とも身勝手なものである。


「…ちなみにお前さん。今日結局何を聞きに来たんだ?」


「家にある絵の出自だけですよ。他愛もない話をさせてすみませんね」


「いや…それはいいんだけどよ。さっきも聞いたがなんだってそんな事を…」


 西村先生が疑問に思うのは当然の事。けれどもそれに対して説明できないため愛想笑いで誤魔化す。いつか相談できればいいのだが、そんな事を考えながら俺はそれでは、と美術室を後にした。


 校内を歩いた汗も引かぬ内にに美術室を出て、再び屋上に戻る。握ったドアノブが行きより熱いと感じたのは気のせいではないだろうと考えつつも音が立たないようにドアをゆっくり足で開ける。相変わらず太陽も南中していない時間だがここは暑い。だが、この暑さがあるからこそ、橘と会話が出来るというもの。我慢してフェンスとコンクリートの間の隅に腰かけると橘も俺の頭上から離れて正面に降り立った後向かい合って座った。


「さて、有益かどうかは分からないが情報は増えた。まず家にあるあの絵は西村先生の所から無断に回収している、つまりは盗品だって事。次に西村先生自体もあの絵をもう一度見たがっていて、オリジナルよりも数段上手い贋作を毎年作っている事」


「オリジナルが下手って一文は酷くない⁉確かに教師のケージと私が並ぶなんて思ってないけどさぁ⁉」


「誰もお前の四季桜を下手とは言って無いだろ…」


 どうにも被害妄想が過ぎる橘に茶々を入れられながらも現状を確認する。あの絵に橘の面影を感じて生きている両親。絵を盗まれながらもそれを黙認して橘と同じモチーフに想いを馳せる西村先生。誰も彼もが橘に対して歪な思いを抱えて今を生きていると言う事が昨日からの聞き込みで嫌と言う程理解できた。


「それにしたって酷すぎだろ…」


「何がー?」


 思わず出た呟きに反応する橘を薄目で見やる。


「皆がお前に対して思ってる事が、だよ。西村先生もうちの両親もあの様子じゃお前の事を十八年間片時も忘れた事は無さそうだ。無論それが悪い事とまで言うつもりはないけどよ、…何と言うかな」


「まぁねー。死んだ私から見てもちょーっと引きずり過ぎだよねぇ皆。咲良もそう思ってるんでしょ?」


 言いにくかった事を橘が言ってくれたので俺はそれに頷く。あの三人にとって橘御影と言う存在はもう柵の様なものとなってしまっている。だがそんな事は本人も望んでおらず、俺にとっても両親が過去に対して想いが強すぎると言うのは好ましいものではないので断ち切ってやりたいと思うのだが、その方法が思い浮かばないというのが今現在二人の共通の心情だろう。


「……少しは真面目に考えるか」


 俺は今まで手に入れた情報を纏めようと目を閉じて腕を組み橘に対して黙殺の構えを取る。目の前の女に茶々を入れられて集中が途切れるのは良くない。相手も俺の態度を見て静かにしてくれると助かるのだが、果たして意図は伝わるだろうか。


 まず三人の心情から考える。親父と雪根さんの二人は橘の遺品として四季桜を大切に飾っている。それは形見なのだから当然の事なのだが、それを居間に飾り、まるで他者に見せるためかのようなあの置き方は些か露骨である。けれども誰に見せたがっているのか。俺に見せつける理由なんてあるわけもないし、家に呼ぶ程の来客なんてのも聞いた事が無い。単に自分達が毎日見たいからと言うのが一番納得できる理由になる。最も、それならば夫婦の部屋でもいいのではと思うがそこまで問題にする事では無いだろう。要はあの絵を毎日見ている事の方が問題だ。仏壇とかに毎日お線香を上げるのとは訳が違う。端から見れば友達想い程度で済むかもしれないが、事情を知った人からすれば若干引いてしまうほどの妄執を感じなくもない。これを親父が持っているのか、雪根さんが持っているのかは現時点では分からないが何がともあれ、あの絵をそう簡単に手放す事はないだろう。


 次に西村先生。あの人は手元にあった四季桜を半ば両親に明け渡したようなものだ。盗んだ相手が両親だと頭で理解していたとしても確認すら取らなかったのは不自然だが、事実、黙認していたのだからしょうがない。ここまでは多少の疑問はあるがまだ納得できる。だが先生は毎年桜夏が咲く度に四季桜を真似るように絵を描いているとの事。この理由について端的に表すともう一度四季桜を見たいから。と言いつつも結局は贋作でしかなり得ないと矛盾した発言を漏らしている。それに西村先生は遺品の整理の際に手放すのを惜しんだりしていたという発言も併せて、四季桜をもう一度見たがっている、或いは取り返したがっていると考えられる。これが三人の現状だ。


 これを踏まえると、西村先生に話を聞く前に考えていた問題点の一つは解消される。仮に両親から絵を回収出来た後の処分先として西村先生に返せばよい。元々盗品というものであり、元の鞘に戻るようなものだろう。本人も欲しがっているのだから文句はそう無いだろう。


 だが根本的な問題は何一つ解決していない。どうやってあの絵を両親から手に入れるのか。先程考えたように親父も雪根さんも四季桜をそう簡単に手放すとは思えない。交渉は難儀なものになりそうだし、昔親父がやったみたいに盗み出すのもキャンバスの大きさなどの観点から目立つだろうし、何よりアイツと同じ行動をするというのは気に食わない。どの道あの絵を何とかすると言う事は最後に盗み出す事になるのだが、ただ単に絵を盗んだだけになると居間に空間が空いてしまう。その空洞が両親の心にどのような影響を及ぼすかは、そのころを生きていない俺には想像もつかない。せめて代わりの物さえあれば――――――――。


「………そうか」


 一つずつ問題を分けて考えていると、ふと思いがけない名案が浮かぶ。やはり情報の整理は大事だと頷きながら目を開けると、陽炎と共に揺らめいて桜夏の方を見ていた橘が俺の呟きに反応してこちらに翻った。


「お、何か良い案が浮かんだ?咲良」


「あぁ…案外考えれば何とかなるモノだな。幽霊なんて超常現象に出会った時点で思考の幅が大分広がったのかもな」


 おぉー、と期待の目を向ける橘。自分の事なんだから少しは自分で考えてほしいと口に出しそうになったが、コイツが頭を捻った所でロクな案が出てきそうもないので溜息で誤魔化す。そして、今考えていた事を纏めながら橘に説明をする。


「まず、さっき西村先生と話をした際に四季桜への執着が見て取れた。あの人も四季桜があればもう一度見たいんだろう。そう思ってくれているのならば朝に挙げた問題の一つが解消される。絵の処分先は西村先生、美術準備室に投げつければいい。元々あそこに保管される予定だった代物だ。十八年かかったが収まる所に収まったってなるだろうさ」


「…え?あの絵、完全に処分してくれないの?」


「そんなの無理に決まってるだろ…。お前自分が描いてたキャンバスのサイズ知ってて言ってるのか?そこまで大きいって程でもないけど見た感じB2サイズぐらいはあるように感じたぞ。そんなサイズのキャンバスを解体するのなんて御免だ。」


 何より、欲しがっている人が居るのに解体なんてする気が起きない。橘には悪いがあの黒歴史は西村先生が死ぬまでこの世に残っていてもらおう。


「えぇー…。それじゃあ私の未練が果たされないじゃん……。咲良本当に私の事を成仏させる気あるの?」


「失礼だな。今の俺は相当真面目だぞ。このままお前が憑かれたままだと俺の安寧とした夏休みが脅かされるからな。サッサと消えてもらうに限るさ。それにまだ話は続いてる、お前の未練もきっちり解消させてやるさ」


 俺は外気によってすっかり温くなってしまったお茶で喉の渇きを潤し、ペットボトルを横に置いて話を続けた。


「絵の処分先が決まった所で一番大きな問題は解決してなかった。どうやって親父達から四季桜を回収するかだ。あんな描きかけの絵を居間にでかでかと飾ってる時点で四季桜が両親の精神的な支えになっているのは間違いないだろう。そんな人間が素直に絵を渡してくれるわけ無いさ。お前の事情を話した所で信じてくれないだろうし寧ろ俺が頭のおかしい人扱いされるのは目に見えている。マトモに取り合ってくれないだろう。すると、必然的に俺達が取れる行動は限られてくる。交渉して譲ってもらえないなら、昔の親父達みたいな事をするしか無いだろう」


「盗むって事だね!」


「そうだ。所詮相手も盗人だしこちらも相応の手段に出てもそこまでの問題にはならないだろう。もし窃盗で捕まろうものなら元々盗品だったと西村先生ら辺にでも証言してもらおう。最悪、切り札もあるし何とかなる。…あまり使いたくはないがな」 


 最終手段についてはあまり考えたくないので渋い顔をしながら説明を続ける。いくら自分にある程度のコネがあるからと言ってそれをむやみやたらと行使するわけにはいかない。恐らく事情を話して助けてくれと言えば二つ返事で手助けしてくれるだろうが相手方への迷惑は計り知れない。あの人に頼るのは文字通り最後の手段だろう。


「へー、何か咲良って色々策があって動く人なんだねー。聖君は割と猪さんだったから全然違うだなーって感心しちゃうな」


「人事は尽くすものだろ…普通。練りに練った策を潰された時にしかアドリブなんてしないっての。…ともあれ、盗み出す行為自体に問題は無い。問題は盗み出した後の両親のアフターケアだと俺は考えた」


「ほうほう」


「ただ盗み出しただけじゃあの絵に精神的依存があった可能性のある両親がどうなるか分かったものじゃねぇ。だからどうにか両親の心の負担が減るような案を考えて今に至る」


 ここまで喋ると橘も勿体つけないで早く話せと言わんばかりの食い気味な態度で話を聞いていた。俺は右手で汗を描き上げながら思いついた計画を話す。


「最終確認なんだが、お前はあくまであの描きかけの四季桜が処分できればいいんだろ?」


「ん?そーだよ。まぁなんかこの流れだと咲良処分してくれなさそうだけど…」


「いや。処分と一言で言っても方法は幾つかある。壊すだけが処分じゃない。……俺の案を簡単に言えば一言。描きかけの四季桜が黒歴史ってんなら、きちんと完成させちまえばいい」


「………え?」


 会話の間ををとりつつ、俺は考えついた作戦を口にした。俺自身は完璧な案だと思って発言をしたのだが、橘は理解が追い付かなかったようで間抜けな声を上げていた。


「そんな驚くような事じゃねぇだろ?未完成で終わっちまってる作品を完成させれば黒歴史でもなんでもねぇ。具体的には四季桜と同じキャンバスをもう一枚用意してそちらに四季桜の完成品を描く。それをウチの家に置いて、西村先生の所には元々家にあった四季桜の下書きを押し付ける。こうすればお前の最後の未完成作品も無事出来上がり、下書きも元々あった場所に戻る。ついでに親父達も元々の四季桜が盗まれたとしてもお前が描いた代わりがあるならとやかくは言ってこないだろう。お前が描いたかどうかわかるかどうかもあるが…まぁ分かるだろう。少なくともあの家に住み始めてから毎日見てるはずだしな。これで何もかもがカンペキに…」


「ちょ、ちょっとまってよ咲良!いや確かに咲良の案だったら何とかなりそうだけどさ!もっと大事なこと忘れてるよ!根底に問題があるからその方法は不可能だって!」


 喋っている最中に橘が即座に否定をしてくる。普段の俺なら不機嫌になるような事では無いのだろうがこの暑さのせいかつい剣呑な目で橘を睨みつけてしまった。


「根底だって?今の話のどこにそんな問題があった?」


「最初だよ!私が絵を描けば良いって言ったけどどうやって描くのさ⁉私ユーレイなんですけど!筆もパレットも持てないんですけど!」


「何を今更……。それこそお前幽霊だろ?誰かに憑りつけばいいじゃねぇか」


 この時点で、俺は俺の中にあった幽霊のイメージで物事を考えていた。小説や心霊番組でまとめた幽霊の知識では憑依と言うのがあったからだ。だが、それは俺の目で一度も確認した事の無い、所謂妄想だったと言うのが次の橘の発言で突き付けられた。


「っ…そんな事出来るわけ無いじゃん!咲良ユーレイを何だと思ってるのさ!」


 この発言を聞いた時の俺の衝撃たるや否や、突如熱中症に襲われたかと思える程であった。視界がぐらりと揺れて、橘の姿も心なしかブレて見える。汗も一気に噴き出し、反対に口と目がカラカラになっていく感覚を抑えながらなんとか言葉を紡ぐ。


「……なん…だって……?」


 やっとの事で絞り出した言葉。だが橘は無情にも俺の幽霊像を否定する。


「むしろ咲良に聞きたいよ、なんで私がそんな事出来ると思ったのさ。私は一般的なユーレイですよ?そんな取り憑いたり者握ったりが出来るわけ無いじゃん。少しは常識で考えてよ」


 やれやれと言わんばかりに溜息を吐く橘。俺もよもや幽霊に常識を説かれようとは思わなかったので様々な感情が胸中渦巻いている。この胸の内からこみ上げる感情は、きっと暑さのせいだけでは無いだろう。


「…まさか幽霊風情に常識を説かれるとはな…、俺も耄碌したか……?」


「いやいや、咲良が頑張って考えてくれないと私も成仏できないんだから、もっと頭捻ってもらわないと」


 お気楽そうに言う橘を見る俺の目には、もしかしたら殺意も交じっているかも知れない。恐らく適材適所みたいなもので橘には元々このような悪巧みは向いていないのだろうが、それにしたってもう少し何かないのだろうか。自分自身の事だろうに。


「………」


 眉間を抑えながら新しい案を考えるが、正直手詰まり感が否めない。代わりの物を用意できなければ盗み出した後に問題が起きるのは避けられない。だが、代わりの物と一言で口にしても橘との思い出をある程度踏襲して尚且つ前を向かせるための代物。そんなもの橘以外に作れる筈が無い。そして、それを作れるという前提が無ければ盗み出すなんて行為を実行も出来ない。


「……諦めるか」


 現実の時間にしたらそこまででは無いのだろうが、体感的にはとても長い時間考えた気がする。ここまで無い知恵を絞って良案が浮かばないのならこれ以上あの絵に固執するのは無駄と思えてきた。その結果をまとめた一言が、つい溜息と共に口から零れてしまった。


「な、なんでーっ⁉なんですぐ諦めちゃうのー⁉」


 橘にとってはあの絵の処分は自分の進退に影響があるかも知れない以上、当然俺の一言には文句があるだろう。だが、俺としては奴の態度にも些か問題があったとしか言えない。今の橘の一言で暑さも相まって、低くなっていた俺の沸点がついに臨界点を達してしまった。


「うるせぇ!幽霊の癖して憑依の一つも出来ないポンコツが!七不思議のお前でも出来るってものを本人ができなくて何が幽霊だ!折角お前の為に考えた案をふいにしやがって、だったらお前が何か代案を考えてみろってんだ、あぁ?お前如きが幽霊名乗のってんじゃねぇぞ!」


 つい、俺もヒートアップしてしまい立ち上がって握った拳をコンクリートの壁に叩きつけながら責めるような口調で息巻いてしまった。普段の俺でもここまでキレることが無い、と言うよりここまで怒らせるような奴が知り合いに居なかっただけなのだが、ここ二、三年で一番の憤慨であったのは間違いない。そこまで琴線に触れたと言う事を理解してもらいたかっただけなのだが、橘は俺の豹変に大層驚いたのかアワアワ言いながら後方にスライド移動していた。既にこの移動方法は見ているが、手も足も動かさずに移動する様はもう暫くは慣れそうにない。


「さ……咲良がキレた…」


震えながらその一言を呟いて、後方に3m程後ずさって距離を取る様は正に小動物。そこまで怖かったのだろうか。とはいえ、一度全て吐き出してしまえば頭も冷えて割と冷静になるもの。俺も叩きつけた拳を開いて深呼吸を二回、肺に出入りした空気の熱さに若干顔をしかめながらもう一度座り込み半袖の裾で汗を拭う。そして残りのお茶を四割ほど一気飲みして今の話を総括する。


「俺もお前とは一秒でも早く手切れをしたいとは思っている。幽霊なんて怪しさ極まりないものと一緒というとんだ夏休みになっちまうからな。だからこそあの四季桜を何とか処分したいって言うお前の意思を尊重しようと案を練った。だが今のを不可能と言われちゃ正直手詰まりだ。お前からのメッセージがあの両親に一番効くのは分かりきっている。だからこそお前の絵を使って前を向いて生きて欲しいって言う意味合いを込めた絵をあの四季桜に込めて完成させればあの両親もいい加減踏ん切りがつくかと思ったんだが…。お前があの両親に何か伝える方法が無い現状じゃ何も浮かばん。諦めろ、としか言えないな」


「そんなぁ……」


 この世の終わりみたいな顔をする橘。だがこればかりはどうしようもないので冷たい様だが無視。とりあえず憑依が出来ないと言うことは分かったがこれ以外に橘が何が出来て何ができないのかが分からない以上考えようがない。せめて、奴が両親に自分の意思を伝える手段があればいいのだが、現状その方法もロクに思い浮かばない。


「…………」


 いや、正確には無い事も無いのだ。だが色々と条件が足りない上にバレる可能性もある。今口にした絵の描き替えも賭けのようなものだったがこれは更なる博打だ。橘をぬか喜びさせるわけにもいかないので、せめてもう少し準備が整ってから提案しようと思う。そしてこれ以外、今の所本当に何も思いつかないので議論は終了。橘の閃きに期待しよう。


 一段落ついて鞄からスマホを取り出すと時刻十一時半に差し掛かろうとしていた頃だった。


「そろそろ時間か…」


 俺は大きく伸びを一度して、首と肩の骨を鳴らしながら鞄を担いで立ち上がる。その姿を見た橘は、先程と同じように何か癇癪を起こすのかと思ったのかビクリと体を震わせた。


「あ、あれ?どうしたの咲良」


「そんなにビクビクするなよ…、そろそろ能代の練習が一区切り着く頃だから先に席を取っておこうと思っただけだ。昨日から弁当を作ってもらってて一緒に食べる約束をしてるんだ」


 鞄の中身を確認しながら橘に昨日の話をざっとする。今日作ってもらった弁当は能代が持っていて休憩時間に一緒に食べようと朝練の際に言っていたので頃合いを見て学食で席を取っておこうと思っていたのだ。昨日は桜夏が咲いたと言うのもあって外で食べていたがこの酷暑の中、外で食事なんて運動をしてきた能代にさせるわけにはいかない。


「あ~、なるほどね。でもいくら夏休みでも部活動の人結構いるじゃん?席取りってきつくないの?」


「全く問題ない。俺が座れば勝手に周りが空くからな」


「…?咲良ってそんな臭うの?」


 失礼な奴だとは思ったが、事情も知らずに今のを聞けばそう取られても仕方ない。それに、自分の臭いは中々に気が付かないもので、これだけ汗をダラダラと流しているのだから実は相当なものかも知れない。鞄に利便性の無い荷物はあまり入れない主義なのだが、後で能代に会った時の反応によっては明日以降制汗シートでも入れるべきか。


「ま、私は臭いとかそう言うの分かんないんだけどね。と…言うわけで」


 どうやら橘は温度もそうだが嗅覚も無いらしい。だが塩を撒かれて痛がったり経を唱えられて死にそうになっていたりと視覚や触覚、聴覚は特に問題は無さそうなので、味覚はどうなのかと、一瞬思いはしたがそんなの調べようがないと思考を切り捨てる。そんな無駄な事を考えていると、橘は俺の頭頂部へフワフワ浮いて移動し、そのままいつもの体勢になっていた。


「…お前、まさか付いてくる気か?」


「うん、だって暇だし」


 悪びれずと言った様子の橘。コイツと一緒にいるとプライベートが無くなるような気がしてならない。だがどうせここで振り切っても多少の無茶をすれば俺の事を追って来れる存在なので何をした所で無駄な足掻きにしかならない、なので俺の出来ることは一つ。釘を刺す事である。


「……付いて来ても話はしないぞ。暇だって言うなら自分の絵を奪取する方法でも考えてろ」


「分かってるって。流石に私も男女の時間を邪魔するほど野暮な女じゃないよ~」


 言っている事とやっている事が完全に矛盾している事に果たして橘は気が付いているのだろうか。別段、能代とはそういう関係では無いのだがそれ以前に橘の言動が破綻している事に疑問を呈したい。俺の呼び方然り、人の話をあまり聞かない女なので言うだけ無駄なのは分かりきっているが。


「…ま、どうでも良いか」


 結局コイツの姿は俺以外には見えていない。ならばコレの戯言を俺が無視し続ければいいだけの事である。まだ橘とは二日の付き合いだが何となく扱いが分かってきた気がしながら、俺は屋上を後にした。


 結局、この日は能代と昼を一緒に食べた後に夏の課題を二人で黙々と解いて、頃合いを見て帰路に着いた。能代曰く剣道場の使用時間は午前と午後に分けた交代制なったとの事なので午後は時間が空いたらしい。そのお陰で有り余るほどの時間があったので、能代に教えながらちまちま問題集を解いていたら、化学・生物の課題範囲をほぼ終わらせてしまった。能代も要所要所は俺に聞いてきたりはしていたが、基本二人して静かに問題集に向かい合っていた。そんな俺達を見て頭上の橘は皮肉を漏らしたりしていたが、奴も基本的には盗みの手段について考えていたのか思いのほか静かだったのが幸いか。奴も俺達の勉強時間では妙案が思いつかなかったらしく別れ際に一言。


「明日までには何か考えとくからー…」


と弱弱しく言って俺の頭から手を離した。瞬間的に視界から消える様を見て、ホラーというよりもつくづく移動に便利な奴だと思ってしまったのに奴との付き合い方にも慣れを感じながら、そのまま二人で家に帰った。





「へぇ、今日は普通に和食なのか」


 そして夕飯、昨日は親父に聞きたいことがあったから帰りを待っていたが今日はそんな事無いのでいつも通り早めに頂く。今日は鯵の塩焼きに赤味噌の味噌汁、ほうれん草の胡麻和えに蓮根の煮物と極めて理想的な一汁三菜だった。


「そりゃそうよ、だって昨日の残りは朝食べ切っちゃったんだから」


親父の分の配膳も終えて雪根さんも席に着く。何の気なしに付けたテレビでは天気予報がやっていて一昨日位に九州の方で発生した台風の予想進路図が写っていた。


「相変わらずこっちには来ねぇな…」


天気予報氏が解説していた進路図では九州地方を横断した後大きく弧を描いて東北の上の方を横に通る形になっている。別段この進路自体に不思議な事は無いのだが、実はこの紫咲町一帯はマハーカーラの管理下に置かれた後に台風が直撃した事が無いらしい。自分も人伝にしか聞いたことが無いのだが紫咲町上空の大気圧を微妙に調節して雨雲や台風の軌道をずらしているとの事。あまりに眉唾な話だからこの地域に住んでいる人大抵の人も噂程度にしか考えないであろうが、あの集団の異常さを身近で感じられる人ならば何となく納得できてしまう話と言うのが恐ろしい所だ。


「天気予報の次は七夜の怪物特集か…、もう少しマトモな話は転がってないのかね?」


「ここに住んでて今一番な話じゃない。七月ももう下旬だし義賊の確保が出来るかどうか、自治会の人達も躍起になってるだろうし目が離せないってものでしょ」


「…下らん、悪人しか殺さないと言えども所詮は人殺しだ。裁くなら役員会議があるんだし、私的な処刑が義賊なんて傲慢以外の何物でもないだろう」


 この地域の中でも特異な七夜の怪物の存在への賛否は大きく分かれる。雪根さんのように極悪人しか殺さない義賊と呼ぶ者も居れば、俺みたいにただの殺人鬼と一蹴する否定派の人も少なくない。この場所に住んでいる以上切っても切り離せない存在なのでたまにニュースの一報や特集で聞く位なら仕方ないとは思えるが、今は七月。七夜の怪物が毎日殺人を行う悪魔の月だ。当然、首なしの死体がニュースのトップから外れる事は無く評論家などを交えての特集は連日の事で、ちょくちょく特番まで組まれる始末。テレビを付ければ間違いなく目にする日々には、流石に気が滅入るというものだ。


「普通に考えたら模倣犯とか出てもおかしくねぇんだけどなぁ…、まったく」


 真面目な顔で殺人鬼について語るコメンテーターから顔を逸らして箸を進める。こんな話を延々聞かされるならまだ桜夏とかの人に害のない話の方が気晴らしになる。


「…っと、そうだった。なぁ雪根さん、一つ聞いてみていいか?」


 七夜の怪物でウンザリする気持ちを振り払うように、俺は雪根さんに件の話で話題を変えることにした。


「なに?」


「あそこに飾ってある四季桜の絵、譲ってほしいって言ったら譲ってくれるか?」


「…え?」


 分かりきっていた事だが雪根さんは二の句が継げずにテレビから俺の方に唖然とした顔を向けた。結果は分かりきっている問いだがダメ元でも聞いてみるのが橘に対する義理であろう。橘と話していた時は方法から除外していたが、もしかしたら雪根さんをうまく説得できれば四季桜を角を立てずに回収できるかも知れない。針穴程度の希望だがやらないよりはマシだろう。


「……どうして、いきなり?」


「どうしてって言われてもな…、…あれだよ。四季桜の絵を見たいって言ってる人が居てな。ウチの家にあるって言ったら手に入らないかって聞かれたんだよ」


 若干予想外の返しだったため答えに窮してしまったがうまく誤魔化せたと思う。自分の師匠曰く、嘘にはある程度の真実をブレンドしなければならないと言う。十割の嘘はすぐにバレてしまう。だが八割程度の嘘ならば、指摘された所を二割の真実でゴリ押せば良いと言うのだが、これが中々言い得て妙である。本人の話術にも依るのだろうがこの教えに助けられた事は両手では数えきれない。


「あの絵を見たいだなんて一体誰が…、ってそんなの一人しかいないわよね。西村先生でしょ」


「まぁそんな所だ。あの人もこんな下書きを見たがるなんて酔狂なもんだと思ったが…」


「西村先生はミカちゃんのことお気に入りだったからね」


「そうだったのか…。まぁだからこそ毎年桜夏を描いてたりしてるんだろうが…。それでどうだ?西村先生のためを思ってその絵、くれたりしないか?」


「無理」


「…だよなぁ」


 橘の事を喋れない中では上手い事言えていたと思ったが結果もやはり予想通りのもであった。だが、大方は当たっていたものの細部が少し違う。俺は蓮根の煮物に手を付けながらその辺りを聞く事にした。


「それにしても『駄目』では無く『無理』なんだな。一体どう言う意味だ?」


 まず気になったのはこの部分である。俺は雪根さんに絵の譲渡は可能かを聞いた。普通ならばこれに対しての回答はYESかNOの二卓だろう。そう言う意味では先程の雪根さんの答えはNOだ。だが『無理』と言う言葉は自分ではどうしようもない時に使う言葉だ。そしてその言葉には自分の意思は無い。他の言葉を使わずに無理と言う単語を用いた理由、恐らく親父が絡んでいると予想はつくが、橘の事もあるから予想だけでは無く雪根さんの口から直接聞かねばならない。案外その辺りにあの絵を奪い取る隙があるかも知れない。


 そんな事を考えながら雪根さんに聞くと、何となく言い辛そうな雰囲気を漂わせながら頬を掻きながら答えてくれた。


「私は別に咲良になら上げちゃってもいいんだけどねー。ただあの絵は聖人さんのモノだから本当に欲しいのなら聖人さんに直接交渉するべきね。でも答えは何となく分かるから答えは無理。聖人さんがあの絵を手放すとは到底思えないわ」


「…意外だな。雪根さんの意見もさることながら、あの絵は二人の所有物だと思っていたが」


 俺の言葉に雪根さんは首を横に振って否定する。


「そうでもないわよ…、あの絵をあんな事してまで手に入れた人ですもの。十八年経っても未だにあの絵を見る度に毎日思い出すんじゃないかしら、ミカちゃんといられたあの頃を…」


 しみじみと言う雪根さんの台詞にはなぜか含みを感じる。俺があの絵を盗作だと知っているわけないので今のは完全な失言だがそれに気づく様子も無いほどに過去に想いを馳せているようだ。にも拘らず、今の言葉。普通ならばもっと違う言い方があるだろうに。


「下らん。死人を毎日想うのなんて墓前の前だけで十分だ。それ以外の場所で割りきれてないなんて過去から進めてないのと同じだ。停滞した人間なんて価値なんてないさ。死人だってそれを望まないだろうに」


「…そうね。或いはミカちゃんも望んでないのかも知れないわ……」


或いは、ではなく本人から聞いたものをそのまま伝えているようなものなのだが雪根さん達が知る由もなく、目を逸らして曖昧に頷く。


「雪根さんもあの絵を見て橘の事を思い出すのか?」


「そうね…、でも私の場合は思い出とかよりも…」


そこまで言って雪根さんは言葉が続かず黙ってしまう。昨日からそうだが、いつもは一家のムードメーカーのように良くも悪くもあけすけに喋る雪根さんがのにこの話題になるとどうも口数が少なくなってしまうのは何故だろうか。大抵の人間は楽しい思い出話は口数が自然と増え、暗い話では減る。となると雪根さんにとって橘達と過ごした高校時代はもしや苦い思い出なのか。だがそれではあまりにも不自然だ。主観と客観で捉え方が変わるのは仕方の無い事だが、それにしては橘と雪根さんの乖離が激しすぎる。


そんな事を考えている時に、ふと昨日の西村先生の話を思い出す。西村先生は雪根さんの印象を物静かな奴と称していた。その際には特に気に留めていなかったが、今考えれば随分と変わっていると思う。そして、こんなフランクな感じで気さくに喋る人間で雪根さんの知人を、俺は最近一人知り合っている。


「…そうか、どこか橘と似ているのか……」


「ミカちゃんと?誰が?」


 得心がいったように呟いた瞬間に失言だったと気づくも遅く雪根さんが反応してしまう。どうにか言い訳をしようと思ったのだが、ここではたと別段濁す必要が無いのではないのかと考え始めた。


「あぁ、いや。何となく西村先生から聞いていた橘と今の雪根さんの印象がそっくりでな。なんでも昔は物静かな人だったらしいじゃないか」


 そう、他の大多数はよもや橘が幽霊でこの世に居る事を、あまつさえ俺に取り憑いてる事を知らないのだ。ならばこの程度のザルなでっち上げをしてもバレるわけが無い。この二日間で、それをよく理解した。


「あら、先生そんな事まで喋ってたの?やだわ…他に何喋られてるか分かったものじゃないわ」


 予想通り、この程度だ。これからはボロを出したとしてもそこまで気にする必要はないのかも知れない。


「まぁイメチェンしたくなるような理由も色々あるんだろうけどな。そんな所まで気にしようとは思わないさ」


「良い心掛けね。あんまり女性の秘密を詮索するものじゃないわよ」


 フフンと鼻で笑いながらコップに入れたお茶を飲む雪根さん。その仕草一つ取っても割と豪快なので昔の話を聞いても俄かには信じがたい。だがそんな事で嘘を吐く理由も西村先生にはないので本当なのだろう。そんな風に納得していると、雪根さんが興味深い事をついでにと言わんばかりに教えてくれた。


「でも聖人さん居ないから言っちゃうけどあの人の執着も相当な物よ?咲良は知らないと思うけど私達の寝室にある机の中に当時の文通がぎっしり詰まってるもの。たまに覗いてニヤニヤしてるわよ」


「文通?手紙をか?」


「そ。授業中に回してた手紙とか放課後の連絡手段で使ってた手紙。結構ギッシリだから相当な量があったわよ」


「……マジかよ、どんだけ引きずってんだよアイツは…」


 ここまで親に対して気色悪いと思ったのは人生で初めてであった。絵を眺め続けるだけでは飽き足らず手紙まで保管していたとは。ここまで思い出と言うぬるま湯にどっぷりつかっているようでは、親父に絵の譲渡を要求しても通る可能性は毛ほども無いだろう。雪根さんが無理と言ったのも頷ける。だが、それとは別に一つ疑問が頭に浮かんだ。


「…というか、それでいいのか?雪根さんは」


「何が?」


 ここまでの話を聞いて、親父の方はそんな救いようの無い状態だとしても雪根さんの方のスタンスに俺は疑問を覚えた。仮にも婚約者がそんな死人に現を抜かしている状況に納得ができているのであろうか。そう言う意味で聞いてみたのだが、雪根さんには伝わらなかったのか首を傾げられてしまった。仕方なく俺は聞いた内容を説明する。


「親父が死んだ元カノに執着してる状態で家族続けてんだろ?それでいいのかって」


 この話を聞けば、いやこんな話をする前でも四季桜の由来を聞けば当然行きつく疑問であろうはずだが、雪根さんからすれば考える内容では無いのか俺に言われて理解したらしく、頷きながら声を出して答えてくれた。


「そうねぇ…確かに他の人達が見たら色々思う所があるんでしょうけど…、私はミカちゃんの事を想う聖人さんの姿しか見てこなかったからこの状況に慣れちゃってるだけで別に気にもしなかったわね」


「……」


「………それに、私の人生は守れなかった物ばかりだから……ホント、我が事ながら無様だわ」


 笑みをこぼしながら語る雪根さん。今の自嘲には少なからずあの事件の事も含まれているのであろうが、それを口にするのはタブーと決めた事なので聞かなかったことにする。だが、それでも俺からすれば、やはりこの光景は歪であると言わざるを得ない。なぜこの現状で満足できるのか、もっと親父に言いたい事は無いのだろうか、結婚して十八年も気持ちが向かないなんて事を認められる物なのか。聞いてみたいとは思う。だがそこに、俺の目線でのマトモな答えは帰ってこないであろう。故に俺も最後の蓮根に箸を伸ばしてこの言葉で話を締めるしかない。


「…歪んでるな」


「仕方ないわね、咲良も運が悪かったと思って諦めてちょうだい」


「全くだ…因果な家に生まれちまったもんだよ」


 最後まで笑みを崩さなかった雪根さんに、俺は悪態の一つを吐いて両手を合わせた。ちょうどそのタイミングで、家の鍵が開く音がした。少し早めの親父の帰宅である。


「あら、丁度良いタイミングじゃない。折角だから本人に聞いてみたら?咲良」


「……そうだな、ダメで元々か…」


 皿を片付けようと積み重ね、台所に持って行ったあたりで親父が居間に入ってきた。


「只今帰った…ん、今日もこの時間に咲良が居間に居るのか、珍しいな」


 物珍しそうに俺の事を見やる親父に、俺は率直に交渉をする。


「なぁ親父、あそこにある四季桜を諸事情で頂きたいんだが譲ってくれたりしないか?」


「……いきなり何言ってるんだお前は、残念だがあの絵を手放す気はないぞ」


 分かりきってはいたが、当然の如く玉砕である。仕方なく俺は皿を洗った後、すごすごと部屋に撤退した。


「……どうすっかねぇ…」


 部屋に戻り窓を開けて、悪態を吐きながら机の前の椅子に勢いよく座る。そして頭を右手で支えながら今日の出来事を纏める事にした。


「ウチの親父に雪根さん…この家が歪んでるってのは前々から気づいてはいたがここまでとはな…。完全にイかれてやがるぜ」


 机の脇に置かれているルーズリーフを一枚取り、今日手に入れた情報を羅列していく。


「橘はあの描きかけの絵が成仏できない原因だ、なんて言ってたが…いくら本人の言とは言えなぁ…」


 物事に対して、割と疑ってかかる性格ゆえに橘の言い分も半信半疑である。そもそも、地縛霊になってしまった内容が分かっているのなら最初から成仏させてくれ、なんて回りくどい言い方しないで四季桜の廃棄を最初から頼めばよい。それをしなかったと言う事は、四季桜の件は方便でただ俺を良いように使いたいだけである可能性の方が高いと思われる。有り体に言って怪しすぎる。確かに幽霊が自身の成仏する方法を理解できるものなのかは分からないが、何となく自分の縛っているもの位は分かりそうな気はする。


ともあれ、こんな事で一々気を揉むのは面倒が過ぎるので放棄したい、したいのであるが現状これ以外の成仏に繋がる手がかりも存在せず、やらざるを得ない。本当に面倒な話になったものである。


「しかもこの四季桜、思いのほか曰くつきの代物だったしなぁ…」


 中央に四季桜と書いて丸で囲い、四方に親父や西村先生の名前を書く。そもそもキャンバスを家に持ち帰るような学生なんてそう多くないとは思っていたが、よもや家に飾ってある絵が盗品だとは誰が予想できようか。しかも、その行為に対して被害者側が別段気に留めていないという現実。もはや開いた口が塞がらないとしか今の心境を表す言葉が見つからない。加害者も被害者も、先程の話も纏めれば第三者も歪な思考だとしか言いようが無い。


「……だが、正直これは辛いな…」


 親父の横に妄執と書いて丸で三回囲む。仮に橘の願い通り絵を廃棄しにかかるとして、最大の壁として立ちはだかるのは間違いなく親父の心境だろう。雪根さんが中庸に立ってくれている以上、親父さえ説得できれば四季桜は回収できる。だが、今の雪根さんの話を聞くに親父の心境を変えるのは相当難しいだろう。なにせ絵だけに飽き足らず文通の手紙まで残しているとは。その執着に拍手を贈りたい程だ。案外親父はストーカー気質なのだろうか。


「せめて橘本人の言葉が届くのなら、或いはがあるんだろうけどなぁ…」


 橘と書かれた文字の上にポンコツと書いてシャープペンでつつく。確かに一部の創作物でしか幽霊に対する知識を持ち合わせていなかったとはいえ、まさか幽霊の癖して取り憑きの類が出来ないとは。現実で相見える事なんて考えもしなかったが、今後幽霊と会う度にアレを定規として考えなければならないと思うと頭が痛い。出来るのに隠してるのではないかと勘ぐってしまう。と言うより、そうであってほしい。


 隠しているにしろ本当に出来ないにしろ、どの道橘が憑依出来ないと言った時点で本人のメッセージを伝えるのは厳しいだろう。たとえ奴の台詞をまんま紙に書いて送ったとして。


「……無いわけでも、ないか」


 ここまで物思いに耽って、俺の視線がちらと机の左側の引き出しに向かう。右側と違いこちらの引き出しには鍵がかかっていて、その鍵は三年ほど前に燃えるゴミとして捨てており開ける事は基本出来ない。そんな引き出しの中にしまわれている道具が頭に浮かぶ。アレを使えばもしかしたらだまし通せるかも知れない。だが、何度考えても用いる為の条件が噛み合わない。


「よしんば両親の部屋に忍び込めたとして、手紙がある引き出しに鍵でもついていようものなら…開けられなくもないが時間がかかる。物音でも立てれば専業主婦の雪根さんに見つかりかねない…買い出しとかの時間が合わされば家探しも出来なくないが…なにせ親父が見ている偶にの頻度が分からない……」


 結局、どこまで行っても不確定要素の山が積み上がるのである。計画なんてそんなものだと割り切っているつもりだったがここまで先が見通せないと目を背けたくもなってしまう。


「最終手段としてあの話で脅して奪い取っても良いかも知れないが…。いや、ナンセンスだな」


 解決策に窮して思わず強硬策が頭に浮かんでしまったがすぐさま否定する。自分から手打ちとした話をわざわざ蒸し返してまで家の空気を悪くする気は起きなかった。


「他人に手を借りようにも借りれないし…ここまで手詰まりだとどうしようもないな」


 シャーペンで最後に手紙と書いた後、それを転がして諸手を上げるように伸びをする。俺の考えではこの辺りが限界だった。そもそも俺の悩みでは無いのだし、橘には具体案を考えておけと言っているのだからあれこれ自分が考える必要もないだろう。自分の種なのだから自分で刈り取る方法を出せというものだ。


「…宿題でもやるかな」


 一通り纏まった思考を締めるように、ルーズリーフに大きく橘の案次第と書く。そしてその紙を右の方にどけて、折角ペンを握ったのだからと積まれている夏休みの課題から一番物量の多い数学を引っ張り出して惰性で解きながら夜を過ごした。





翌日、雲一つない快晴の空の下いつも通りの日課を済ませ能代との練習も終えて制服に着替えた後、俺は目を細めながら屋上へと向かっていた。この日の最高気温は29℃、気圧の調整があったのか雲は台風の方に巻き込まれつつ過ごしやすい陽気となっている。それ故か、そんな中でも廊下は日当たり良好な所為で熱気が籠っている。いっその事校舎を壁伝いで登った方がまだ涼しいのに、なんて阿呆な事を考える程度には頭にゆとりを持ちながらなるべく汗をかかないようにゆっくりと屋上へと歩を進める。


「…そう言えば、何でアイツは屋上以外に出る時は俺が必要なんだろうか」


 何となく疑問が思い浮かんで呟いた一言だが、よくよく考えると妙ではある。橘の言う事が正しいのならば、彼女は日ノ本学園では無く日ノ本学園の屋上に住み憑いている事になる。だが、生前の彼女が学生だった以上、思い出が学校全体にあるはず。であるならば屋上以外に単独で移動するのが難しい理由が無さそうに感じられる。何か理由でもあるのだろうか。


「…ま、正直幽霊のルールなんて分かんねぇからな…」


 調べれば分かる事なら、まだ推察のし甲斐があるというものだがこの話に関しては信憑性の低い自供しかマトモな答えが無いとなれば、それはもう徒労と呼ぶにふさわしい無駄。適当な時に奴にでも聞けばいいだろう。或いは間が持たなくなった際の話題の一つとしてストックしておく程度のレベルでしかない。


 そんな事を考えていると知らぬ間に屋上に到着していた。いつも通り鍵は掛かっておらずノブを捻り、この時期には珍しい爽やかな風を受けて足を踏み入れ、奴の姿を探そうと辺りを見回す。


―――――――橘は、貯水槽の上に腰かけて町を眺めていた。


俺がやってきた事に気づく様子も無く足をプラプラさせながら遠くを見つめる様は、何か考え事をしているかのように見える、奴にしては珍しく神妙な面持ちで学園から見える街を見下ろしていて、その姿は短い間で作られた奴のイメージから離れていて、俺は声を掛けるタイミングを見失ってしまった。


やがて、橘が肩を落としながら大きな溜息を吐く。そして頭を振って伸びをした際に漸く俺の事に気づいたらしく緩く手を振りながら話しかけてきた。


「やぁやぁ咲良、来てたなら声位掛けてくれればいいのに」


 貯水槽とこの場所からはそこそこの距離があるにもかかわらずキッチリ声が届く事に驚きを感じながらも、とりあえず橘に向かって外に響かない程度の声量で話しかける。


「随分とアンニュイな顔をしていたからな。悩みがあるならほっといてやるのが優しさってものだろ」


「そこは寄り添ってほしいのが女ってものなんだけどね~、まぁ咲良鈍そうだししょうがないかな」


 飄々としながら橘は貯水槽の上からジャンプをする。木の葉の様にゆっくりと俺の前に落下してきて足から着地した。もう目の前で何が起きても大して動じなくなってしまった事に若干の寂しさを感じながらも、とりあえずもう少し慎みを持ってほしいという思いでドアの前から日陰の方に少しだけ移動しながら冗談を口にする。


「スカートで上から飛び降りるなよ…、パンツ見えるぞ」


「ユーレイだから見えないって!ってか咲良そのネタ好きだよねぇ、一昨日も言ってたじゃん。何?欲求不満?」


「お前も三日目になると容赦が無くなるな…、純粋に女子ならもう少し慎みを持てって言ってんだよ。別にお前に気があるわけじゃない」


「キー!その姿でそんな台詞吐かれると傷つくなぁ!もぅ!でもまぁ聖君に嫌われたわけじゃないからこの際どうでも良いけどさ!もう少し優しさを持って接してくれてもいいのよ?」


「知らん、面倒臭い…。あぁそうだ、そんな話はどうでもいいんだよ。昨日の絵の件についてだ」


 これ以上無駄話に付き合ってやる義理も無い為、自分で振っておいてなんだが早々に切り上げて本題に入る。橘は若干不満そうだったものの四季桜の話だとなると途端に目を輝かせだした。


「お、どうだった咲良?まさかうまい事交渉できたりとかは…」


「あるわけねぇだろ、寧ろ親父の執着の深さに震えあがったわ」


 予想外の回答だったらしく首をかしげる橘に、昨日の話を簡素に纏めて話す。


「元々お前の遺品だと言う理由だけであんな描きかけの桜をご丁寧に居間に飾ってる野郎だ、ダメで元々聞いてはみたが結果は玉砕。これだけで済めばまだ良かったんだが…雪根さんの情報によれば、奴さん高校時代の文通も大切に取っといてるらしい」


「文通って…、…えッ⁉あれもまだ燃やして無いの、聖君⁉」


 俺の話を聞くと、橘は額に手を置きながらフラフラと後ずさる。俺は実物を見てはいないが文通と聞くだけでも思い当たる節があるらしく、暑さを感じないはずの顔は真っ赤で、終いには膝から崩れ落ち両手を地べたに着けて悲しみをあらわにしていた。


「…おいおい、流石にオーバーリアクション過ぎるだろ」


 狼狽が過ぎる上にそこまでの事かと思った俺は呆れたように声を掛ける。だが橘は顔を上げる事は無くそのまま泣き上戸を口にした。


「咲良はきっとアレを見てないからそんなこと言えるんだよぉ…。ヤバいって、アレだけはこの世にブツが残るのはヤバいって。完全に黒歴史だもん。四季桜の比じゃないよ。どの時期のが残ってるのか知らないけど正直どの時期のが残っててもヤバい。ヤバすぎる」


「ゲシュタルト崩壊を起こしそうな言い草だな、あんまりヤバいを連呼すると言葉の重みが無くなるぞ」


 俺の声はギリギリ届いているらしいが返事を出来る状況ではないらしく、ひたすらにブツブツ唱え続けている橘。


「うぅ…あんな代物がまだこの世に残っているなんて…どうして火葬の際に燃やすものを確認してくれなかったのさお母さん…。娘のヤバいものは処分してくれるのが母の優しさってものじゃなかったのですか…?こんな世界じゃニーチェも神は死んだとしか言えないじゃないか…」


「とりあえずニーチェに謝った方が良いぞ。そんな意味で出てきた言葉じゃないからなアレ」


「うぅ……咲良のツッコミも厳しい…もう私の人生は氷河期だ……穴があったら埋まりたい…」


「悲しいかな、お前の人生十八年前に終わっていて御本尊はとうの昔に穴の下だよ、そして今は真夏だ。この日差しから目を背けるな」


 冷静なツッコミを入れ続けると、やがて橘は奇声を上げて威嚇するように両手を掲げながら立ち上がった。


「ユーレイだから日差しの強さなんて感じませーん!ふーんだ、なーにさなにさ皆寄って集って私の事虐めてくれちゃってさぁ!良いよ、そんなら私不貞腐れちゃうぞ!呪ってやるぞ!自販機で飲み物買おうとしたら一万円札しかなくて仕方なくコンビニまで歩かなきゃいけなくなる呪いかけちゃうぞ!」


「地味過ぎて嫌がらせにもならなそうな呪いだな。あとその呪いの一番の被害者は釣銭不足に陥りかねないコンビニ側だと俺は思うが」


「ふがー!咲良もああ言えばこう言う!捻くれた子供は嫌いだぞ私!」


「嫌ってくれて大いに結構、そもそも取り憑きの一つも出来ないポンコツ幽霊が人を呪うなんてできるのか?それと十八年前の幽霊と言えどもお前と俺の年齢差は二つしか無いわけだが、そんなのに子供云々言われたくないな」


「……ホ、ホラ!念ずれば通ずって言うじゃない!私の存在的にきっと生前よりも念が通りやすくなってるに違いないって!ユーレイだもん!それと人生的には私のが圧倒的年上だー!」


 どうやら、実際に人を呪った事は無いらしい。この言い分だと呪えるかどうかも怪しい所なので、本格的に七不思議の話には修正が必要になりそうである。歳については永遠の十八歳を自称しだしたので、思わず鼻で笑ってしまった。


そして、当の本人は反論で疲れたのか肩で息をしながら太腿に手をついて前屈みになった。こちらからは半透明、と言うより触れもしないので膝と手の当たり判定とかはどうなっているのかは甚だ謎である。


「幽霊でも疲れはあるんだな。新発見だ」


「疲れるに…決まってる……でしょ…」


 息も絶え絶えに喋る橘だったが、ついにへたり込んで肺の空気を全て吐き出すかの様な大きな溜息をして呼吸を整える。そしてようやく落ち着きを取り戻すと、目を細めながら親父への批評を口にした。


「えー…でもマジでそんなの取っといてるの?聖君。私も若干引くんですけど」


「こんな話で雪根さんが嘘を吐く理由が見当たらない。オーバーに語ってる可能性も無い事は無いが…俺が橘に憑かれている事を知らないのにそんな事一々考えて喋るとは到底思えん。本当の事を言っていると思って良いだろう」


「うっはぁ……」


 途方に暮れた様子の橘だが、それは俺も同じ事。昨日聞いた話だとは言え、改めて口にすると鳥肌が立ちかねない。


「俺からの報告は以上だ。正直案さえあれば手伝ってやる気も無いわけでは無かったんだがこれじゃあまりにも無謀だ。そこまでの執着があるのなら交渉は論外、盗み出すにしても俺の犯行だってすぐにバレる上に発狂されてもおかしくねぇ。更に、盗み出そうってもんなら両親の部屋にあると思われるお前らの文通もセットで回収したいもんだが場所が分からん。専業主婦の雪根さんの目を欺くのは厳しいしそんな大事にしてる代物だ。どうせ鍵でもかかってるだろう。あまりにリスキーすぎる。おとなしく今回は諦めた方が良いと思うがな」


 俺は意見を言い切って満足し、立っているのにも疲れたため伸びをしながらアスファルトを背にして腰を下ろす。そして、今日は何を持って来ていただろうかと鞄に手を突っ込み漁っていると、橘が何か慌てた様子でこちらの隣に座った。


「ちょ、なんで話終わっちゃうの!まだ私の話始まっても無いんですけど!」


「いや…どう考えても無理だろ。俺も一応諦めは悪い方だとは思ってるが、人の感情が絡んでいる以上どうしようもない。アイツらに過去ばかり見て生きるなってのは無理だ。よしんば絵を回収できたとしても手紙が残るし、アイツらの改心と絵と手紙の回収をすべてこなせるウルトラCがあるってのか?」


「うぐっ…。た、確かにちょっとそこまでは厳しいかも知れないけどさ、一応考えてきたよ!宿題だったし。絵だけなら何とかなりそうな方法を!」


 大仰に自分が頑張ってきた事をアピールしてくる橘俺からすれば何も考えてないだろうと穿っていたのでこの発言は意外なものであった。


「ほぅ、マジで何か考えてきたのか。てっきり思いつかなかったと笑い飛ばしてくるかと思ってたが」


「失礼な!自分の事なんだから多少は真面目にもなるさ!丸投げする気なんて無かったよ⁉流石に」


「まぁ確かにな。…それで?お前はどうしたいんだ?」


 頷きながら俺は橘の話を促す。今回の絵の奪取、大元はあくまで橘を成仏させるための行動であり、そのためには失敗するにしても橘の自発的な意見があればそれを尊重するべきとは最初から考えていた。だが十八年経った今の両親の状況などを知らない橘に何か案を出せと言うのは無茶であったのであまり期待してなかったが、まさか捻りだしてくるとは。橘を甘く見ていた事に若干の反省と共に聞いてみる。


 だが、この反省は不要だったとこの後の発言で思い知らされる。


「お、聞いてくれるの?咲良てっきりお前の意見なんて大したものじゃないだろって言って封殺されるものかと」


「聞くだけならタダだからな。だが時は金なりと言うように無駄な問答で使う時間は有料だ。うだうだ言ってると寝るぞ」


「あーっ!待って待って!えっと、あー…絵!絵、描いて下さい!」


「……はぁ?」


 橘の口から出たのは想像の斜め上を行くお願いだった。あまりの内容だったので頭に入るのに数秒かかり、尚且つ相手に確認を取ってしまう。


「絵って…俺がか?」


「そう、咲良が」


「……何の絵を?」


「私の四季桜の代わりになる絵を」


「……」


 目頭を押さえて冷静に考える。この頭痛と目眩は確実に気候の所為では無いと分かっているが、昨日より優し気な太陽に責任を押し付けたい程度には、目の前の話から背を向けたい。俺は少し待て、と言う意味合いを込めて左手を開いて突き出す。


「お、なになに?それはOKのサイン?」


 けれども橘にはそれが伝わらず、見当違いも甚だしい曲解を口にした。


「馬鹿言ってんじゃねぇのサインだ。あれか?屋上から出れなくて日に当たり過ぎたせいで脳がやられたか?それとも火葬された際に焼かれてその頭はすっからかんなのか?」


「な、なにをー⁉私の頭は正常ですよーだ!」


 俺の悪態に対して真剣な顔で反論をしてくる橘。どうやら冗談では無く本気で言っているらしいのだが、俺からすれば一体どういう論理建てをすればそのお願いに至れるものなのか教えていただきたい所であった。


「まず冷静に考えてみろ。お前はあの四季桜を回収したいって言うのが大元の話だっただろ?それがどうして俺が絵を描く事に繋がるんだよ」


「ふふーん、咲良ならそれを聞いてくると思って準備しといたよ!メモが出来なくて覚えるの大変だったけど!」


 そもそも、順序立てて作り上げた結論があればその過程を話すのなど造作も無い事だとは思うのだが、奴にとってはそうでもないらしい。俺は相手にするのも面倒臭くなりながらも橘の話を聞き出そうと適当に頷いた。


「まず、私なりに状況を整理してみたのさ!私の目的はあの未完成作の回収。理由は黒歴史の存在が地縛霊としてこの世に留まらせてる原因だから!」


「随分はっきりと明言したな」


「現状アレ以外私がこの世に留まる理由が見つからないからね!もしかしたら手紙も関係してるかもしれないけどどっちかって言えばあっちの方が要素として大きそうだから絵の方が原因と読んだ!それでそれで、咲良の方の目的は雪根ちゃんや聖君に過去ばっか見てないで前向いて生きて欲しいってなって思ったからこそあの絵を回収するのに協力してくれた。こんな所だと思うの!現状は!」


「…まぁ、あながち間違っちゃねぇな」


 確かに、俺が四季桜の回収に手を貸すのは単に橘の成仏だけでは無くある程度俺にも下心がある。あの絵と、昨日の話に出てきた手紙さえ手元から無くなり、尚且つ今の橘からのメッセージ内容次第では、前を向かせることも不可能では無いだろうと思っている。そこまで考えて、ふと俺の中にとある可能性が思い浮かぶ。


「…まさかお前、俺に四季桜の贋作を作れってんじゃないだろうな?」


 今までの人生でやってきた事から、ふと思いついた案だったが、即座に橘は首を横に振る。


「まさか。そんなもの描いたって意味ないよ。第一、贋作なんて言えるほど私の四季桜は完成されてないもん。私が咲良に描いてほしいのはね…咲良自身のメッセージが入った四季桜の絵」


「……」


 したり顔で語る橘の話に、俺は今度こそ理解が追い付かず無言で肩をすくめるしかなかった。


「ワケが分からん…。第一、俺の四季桜の絵なんて言われてももう元の桜は存在しないんだろう?どうやって描けってん……」


 最初は意図が理解できなかったが、口で話している間に頭の中で整理していると奴が俺に何をさせたいのかに気づいてしまい言葉尻が小さくなる。そう言う言われ方をすると、確かに四季桜は存在しないがモチーフの木だけは残っていた。


「その様子、私の言いたいことに気づいてくれた感じだね?咲良」


「言いたい事はな。それで納得できるかはまた別問題だ。…要はアレだろ?俺に『桜夏』の絵を描けってんだろ?」


「そう!あの絵の題材にしてた桜並木の一番大きい桜は運の良い事にそのまま残ってる!ケージもそう言ってたし、後はアングルとかの問題があるけどその辺も私が居ればダイジョーブ!なんてったって描いてた本人だからね!顔料とかだってそもそも下書きで終わっちゃってるからどうせバレないし、後は咲良のやる気一つで」


「落ち着けよ…まだ俺はやるって決めたわけじゃないぞ」


 声のトーンが上がるほど興奮しながら口を回す橘を黙殺させて、俺は大きく息を吐く。


「まず前提を履き違えてないか?俺達は元々四季桜を回収しようとしてたんだぞ」


「?そうだよ」


「あの四季桜に代わる物っつってもそんな簡単なもんじゃない。西村先生とかに頼んだ絵とかでも納得させるのは無理だ。だからこそお前本人が何とかしてあの絵を完成させられればうまく収まるかと思ったんだが…」


「そこだよ、咲良。ばれちゃいけないと思ってるのがまず間違いだったんだよ」


「…あぁ?」


 思わず何を言っているんだ、と言わんばかりの声が出てしまった気がするが、それにも怯まず橘は持論の展開を続ける。


「そう、咲良はずっとばれない様にって考えてたけどさ。どう足掻いたって無理だと思うんだよね。てか冷静に考えて私が四季桜を別の下地に描いて完成させても私の四季桜の下書きが別に残っちゃうじゃん。それじゃあんまり意味なくない?私の黒歴史消えないし成仏できないよ」


「そこはお前が四季桜を完成させてそこに込めたメッセージで親父達に訴えてもらうプランだったんだが…」


「そうなの?でもどの道、私だって一日やそこらで完成させられるような絵を目指して作ってた訳じゃないし、この夏で四季桜を完成させようなんて無理のある話だったんだよね。それにそもそも幽霊が絵を描いて持ってきたなんて話普通は信じないだろうし、どうしたって悪戯に見えるのは仕方ない。だから咲良の言うようななるべく聖君達に私が関与した風に見せかけるのは不可能。だったら逆に考えちゃおうよ。別にバレちゃっても良いさ、ってね」


 話を区切って勿体ぶる橘に対して、俺はと言えば現状俺の考えられるプランを今の一言で全て潰されてしまい何も口に出せることが無い。悔しいが奴の意見を聞くしか出来る事が無い。


「だが、仮に絵のすり替えが出来たとしても窃盗罪だ。自治会行きは免れん。前科が増えるのだけは勘弁願いたい」


「……自治会ってなに?最近の自治会はそんな権力持ってるの?」


「何って…。…あーそうか」


 俺は当たり前のように口にしていたが、そう言えば橘が死んだのはマハーカーラがこの地域を掌握する前だったのを喋りながら思い出す。一々こんな説明で話の腰を折るのは申し訳ないので適当に例えて切り上げる。


「アレだ、今のこの地域には警察の代わりに自治会ってのが管理してるってだけだ。気にすんな」


「ううーん…なんかやっぱり会話の端々から十八年の歳月を感じるんだけど…まぁいいや!とにかく、私は気づいたのだよ!聖君達に盗んだ事をバレるのを前提に、かつ二人を黙らせればいいじゃんってね!」


 橘が威勢よく発言した内容は、俺が橘に四季桜を完成させてもらおうとした時に考えた事と全く一緒だったので何も驚く事は無い。だからこそ、この話の結論も分かりきってはいるのだが、それがどれほど難しい事かをこの幽霊は理解しているのだろうか。


「……つまりは?俺もある程度お前の言いたい事は分かるが、自分の口で言ってもらいたい」


「え、分かってるなら言わなくていいじゃんって思うんだけど…意外と意地が悪いなぁ咲良。だからアレだよ。『橘御影の四季桜が無くなっても良いかなって思えるくらいの咲良なりの四季桜を桜夏を見て作って欲しい』ってワケさ!これなら私の未完のキャンバスも処分できるし咲良のメッセージ次第では聖君や雪根ちゃんも納得させられると思うんだよね!」


 話を纏めて、喋りきったと笑顔で汗のかかない額を腕で擦る橘。コイツの話を聞き終える前に、俺が言うべき言葉は決まっていたので大きな溜息と共に口を開く。


「無理に決まってんだろそんなん……」


「なんでーッ⁉何でそんな否定的なの⁉これカンペキな作戦じゃん!どこに否定要素があるのさ!」


「全部だろ。まず俺のメッセージが届いた所で何に納得するんだってんだ。それに俺の絵で四季桜を払拭できる程胸打たれる姿なんざ想像もつかねぇっての。へそで茶が沸いちまうって話だ」


「そんな事無いって!ケージの描いてるあの絵たちじゃダメだと思うけどさ、咲良の絵ならきっと二人を唸らせられるって!自分の息子のメッセージを無碍にするような両親はいないよ!」


「思い出で補正されたお前の絵に勝てる絵なんて、そんな代物を描けって言う方が無茶だろ」


「そうかな?咲良も今の二人に思うところがあるんでしょ?だったらそこまで難しい事じゃないと思うけどなぁ」


 この女は、自分がどれ程難しい事を言っているのかを自覚していないらしい。両親の心に深く突き刺さっている橘御影と言う存在がどれ程大きいのか、少し考えれば分かりそうなものではあるが、と俺は目頭を抑えながら顔を上げる。


 ともあれ、現状策らしい策はこれしか存在せず、もし本当に四季桜を奪い取るのなら誠に遺憾ながら俺が絵を描くしかない流れになっている。正直、見立ての成功する確率が低過ぎるので、もう少しマシな案は出てこないかと頭を捻っていると、橘は何かに気づいたように口元を抑えながらからかうように喋りだした。


「あ、咲良もしかして絵はあまり上手くない方?確か雪根ちゃんも聖君も割と下手だったし、絵のセンスって遺伝って話もあるから正直あまり期待はしてないけど…、でも大丈夫大丈夫!大事なのは心!ハートで描けば下手くそな絵だって思いは伝わるって!」


 ―――――――橘のこの一言で、売り言葉に買い言葉で俺の気持ちが傾き出してしまった。


「……ほぅ?俺がお前の意見に対して渋ってる理由は俺が絵を描けないからだと?」


「違うの?別に恥ずかしがることじゃないって。流石にケージの激甘評定で1とか付いちゃうようだとマズいかも知れないけど、仮にそこまでだったとしても伝えたい事さえ考えながら絵を描けば味は出るって物さ!そこはきっとなんとかなるよ」


「………フム」


 俺は顎を擦りながらこの橘の発言を頭の中で反芻する。あまり自分の力は過信する方ではなく、絵についてもそこまで上手いと自惚れた事は無い。だが、余りにも下手だ下手だと言われるのは気に障るものがある。


どうせこの計画は元々橘のためにあれこれ考えてやっているもの。ならば、当の橘が出した案に従ってやるのが一番なのではないか。もしそれで何かミスが起きても、それはそれでしょうがないと言うのは橘も分かってるだろう。あまり人任せだったり他人の所為にしたりと言うのは嫌いなのだが、橘のやりたいように動いてやるのが、成仏への一番の近道ならば、ここは俺が道化を演じるのが一番な気がしてきた。


「…ま、どうなったって俺の知ったこっちゃないしな」


 この四季桜奪取作戦。失敗すれば俺が怒られるのは確実だが、逆に言えばその程度で済むのだ。目の前の幽霊ほど切羽詰まっているわけでは無いがコイツにとっては成仏が掛かっている。生半可な覚悟で作戦を提案したりはしないだろう。なら、それに応えてやるのが今の俺の役目だ。


それに、コイツに絵が下手くそだと思われたままなのも気に入らない。乗せられてしまったような気もするが、それでもいいだろう。これでキャンバスを見た際の橘がどんな反応をするだろうか。何となくそんな事を考えていると、心がふっと軽くなったような気がした。いざやってやろうという気持ちになるとあれこれ考えていたのが馬鹿馬鹿しく思えてくる。俺は首を鳴らしながら立ち上がり、尻を払いながら橘の方に向き直る。橘は急に立ち上がった俺にビビったのか二歩分の距離を後ずさって俺と距離を取っていた。


「……何ビビってんだよ」


「ビ、ビビってないし!咲良が黙ったと思ったら急に立ち上がって吃驚しただけだし!」


「大して変わんねぇだろ…ったく」


 悪態を吐きながら指と他の関節を鳴らして体の調子を確認する。日課や能代との朝練もあったが体力も気力もまだまだある。煽られた所為か気合も入ったし今なら悪くないモチベーションで絵が描けそうだ。


「おら、何ボサっとしてんだ。行くならさっさと行くぞ」


「え?何処に?」


「お前が言ったんだろうが…。絵を描くにはキャンバスなり画材道具が必要だろ?んなもの持ってねぇんだから借りに行かねぇとな」


「ん?んー……。おぉ⁉」


 橘は最初は理解できなかったのか曖昧に唸っていたが、やがて大きな歓声を上げて俺の頭の定位置に飛びついてきた。


「うーわー!マジでやってくれるの咲良!態度が天邪鬼で分かり辛いけれどやっぱり根は優しいんだね!でも咲良なら言えばやってくれるって私信じてたよ!」


「うるせぇ、振り落とすぞ…全く」


 きゃいきゃい騒ぐ頭上の幽霊にうんざりしながらも、あれだけ言われたのだから少しくらいは見返してみたいと言うみみっちい感情が今の俺を動かしていた。


「……まぁ俺にもプライドがあってな。そこまで絵が上手い方だとは思ってるわけでは無いがあんま下手だ下手だと言われれば考えるものがある。だからお前の案に乗ったわけでは無いぞ。どうせこんな長い夏休みだ。暇を潰すのに絵でも描くのも悪くねぇと思っただけだ。お前に実力を見せるためにもな」


「…そういう態度が天邪鬼だって思うんだけど」


 ボソリと呟く橘を無視する。そして、この後の行動を開始する宣言を頭上の幽霊に宣言する。


「そういうわけだ。描いてやるさ、俺なりの『四季桜』ってのをな」


この一言と共に、砂上の楼閣にも等しい荒唐無稽な作戦の幕が上がった。

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