第4話 夏風と浮浪雲

三階の長い廊下を曲がり、既に汗が流れ始める額を拭いながら俺はどちらに向かうかを一瞬考えた後に屋上を目指す。そもそも、能代が待つ場所なんてものは限られている。いつも俺が根城にしている東校舎の屋上か校舎入口か焼却炉前の三つである。下に降りてから居なかった場合に駆け上がるのは体に響くのでとりあえず屋上に向かった。階段を一段飛ばしで走り、屋上の扉を蹴り開いて周囲を確認する。人の気配は、無い。


「……アテが外れたか」


 屋外はコンクリートからの反射熱で、もはや殺人空間と化していて立ち止まった瞬間から制服が変色しそうな程である。さっさと玄関口の方に向かおうと俺が踵を返すと、先程から黙りこくっていた橘が急に呼び止めてきた。


「ちょっと待って咲良」


「…なんだ、今結構急いでるんだが」


「うん、知ってる。でもすぐ終わらせるから」


 どうしても、と言う橘。大方、先程の一件の説教だとは思うがここで無視しようものなら恨み節を言われかねない上に、奴にしては珍しくえらく声が真面目であったというのもあり俺は足を止める。


「なんだ?さっきの説教とかなら後にして欲しいんだが」


「ううん、そうじゃない。寧ろ…逆かな。ちょっと反省した」


「反省?」


 小言を言われるならまだしもコイツが反省するような事などさっぱり思いつかない。ワケが分からず首を捻ると、橘は俺の頭から離れて正面に着地、俺と向き合った。


「さっき…ていうかポーカーで咲良が負けた時、咲良本当に退学しようとしてたじゃん?私にはアレが本当にわからなかった。…ううん。今も分からない。学校に最後まで居たかったのにいられなかった私の前で、君はその機会を自ら捨てようとしたんだよ?そりゃ怒るよ」


「お前の都合なんて知ったこっちゃないだろ。俺は俺にとっての最善を考えて動くだけだ」


「うん、そうだね」


 てっきり俺の物言いにまた何か口出ししてくると思ったのだが、奴の口から出てきたのは肯定。さっきから微妙に調子を狂わされていて何が言いたいのか分からない。怪訝そうな顔をしていると、橘はもう一度頷いてから話を続けた。


「そう。私は咲良について、結構知った気になってた。聖君の息子だし、見た目もそっくりだし何となくわかった気になっちゃってたんだよ。今思えば、それはただの押し付けだったのにね。実は咲良の事なんて何にも考えてなかったのかも知れない。私はただ、私の事が見えて、喋れる人が聖君に似ててはしゃいでただけだった」


「………」


「だってさ、まだ五時間だよ?長いこと一緒にいる気がしてたけど出逢った時間を振り返るとまだそんだけしか経ってないんだよね、私達。そりゃ何も分からないってものさ」


 自嘲気味に笑う橘の姿は、先程までの明るさはなく気迫が感じられない。コイツがこんな調子だと俺も何を言えば良いのか分からなくなり肺に籠った熱を吐き出しながら彼女を軽く元気づけようとした。


「いや、浅はかと言われたら俺もそう思う。あの時は能代や男子部員をかばうことばかり考えててお前の事を一切考えなかった。無神経だったと反省…」


「ストップ、そこで君は反省をしちゃいけない」


 ぴしゃりと、人差し指を突き出しながら言い切る橘。その目には確かな理念を持っている人の光があった。


「死人に口無しって言うでしょ?死んだ人間の言葉が今を生きてる人を変えちゃいけないと私は思ってる。それは他人の人生に食い込み過ぎる越権行為、ただでさえ私と咲良は本来出会うはずのない存在だから尚更だよね。イレギュラーが君の人生観を変えるのは間違ってる。居ない者として扱われて然りの存在が私だから咲良が反省することなんて何もない。変わらなきゃいけないのは、私だから」


「居ない存在って言われてもなぁ…」


 殊勝な態度になってしまった橘に面喰いながら俺は考える。今彼女は本来存在しない者なんて宣ったが、事実この女は俺の目には見えているし俺とは普通に会話が出来る。一応まだ俺の頭の中では俺の脳が勝手に作り出した妄想の可能性も拭いきれてないが、自分の脳とここまで喧嘩が出来るならば大したものだろう。即刻病院に行くべきだと思う。それに彼女は、俺の知らない十八年前の話などをも知っている。これにだってなんだかんだ言い訳は出来そうだが、そんな猜疑心に満ちて食って掛かっていたら人生そのものにまでケチがつきそうでキリが無い。いい加減、コイツが本当に十八年前に死んだ幽霊である事を認めるべきなのかも知れない。それに、たとえコイツが幽霊では無いとしても、確かなことは一つだけある。俺は汗で濡れた髪を払いながらそれを橘に話す。


「お前が幽霊だろうとそれ以外の世界の物理法則に反する存在だとして、それがどうした。俺にとっちゃお前は地面からフワフワ浮いて壁を貫通したり移動手段と言って勝手に人の髪の毛に捕まったりする以外はその辺の人間と変わらん。見た目も人型、若干直情的だが話す内容も一貫性があるしな。んでもって、俺にはそんな女が見える以上、俺の世界でお前は存在してるんだよ。どっかの偉い人だって言ってたさ。『私は私の世界である』ってな。大多数の社会という一つの宇宙がお前の存在を認めなくても、少なくとも俺はお前が此処に居る事を信じてやるよ。……誠に不本意だがな」


 滝の如く湧いて出てくる汗を飛ばしながら喋る俺の話を聞いて、ようやく奴の気も抜けたのか少しだけ顔を綻ばせた。


「ふ、不本意って…」


「実際不本意なんだから諦めろ。だがそれ以上にお前がそんなしおらしい態度を取っている方が調子狂う。先程お前はたった五時間と口にしたが俺からすれば五時間もだ。お前の事だってやっとどんな奴かってのが分かってきた所で真逆の態度を取られてもこっちが困る。さっさと皮肉の一つでも口にしろ」


「え、わ、私そんな皮肉屋じゃないよ⁉そりゃちょっと生前は捻くれてたかもだけど、どっちかって言うと咲良のが圧倒的に皮肉屋だからね!」


 大分調子が戻ってきたようで、わちゃわちゃと姦しくなってきた。コイツには悪いが、やはりこちらの方がイメージ的にしっくりくる。


「それに心配するな。反省はしても後悔はしないのが俺だ。出逢った人間ほぼ全てに頑固と言われてきた俺の生き方を、幽霊のお前如きが変えようなんて百年早い。生まれ変わって出直して来いってんだ」


 俺の呆れ混じりの発言に、ようやく橘の顔が笑顔に戻る。


「…ふふっ、なにそれ」


 もしかしたら奴は今の話を冗談半分に受け取って居るかも知れないが、俺からすれば生まれてきて十六年、これと決めた考えが変わった試しが無い。能代でさえ変えられなかった俺をこんなぽっと出の幽霊が五時間程度で変えられるはずも無く、最後に鼻で笑いながら言い放った。


「ま、だからアレだ。さっきは反省したような口ぶりだったかも知れんが、俺は自分の考え方を少しも変えるつもりはない。呆れて物も言えなくて俺から離れるってんならそれで良し、お前の価値観を変えるってんならそれも良しだ。好きにしろ、俺には一切関係ない」


 端から聞けば突き放してるように聞こえるかもしれない。だが俺はこれに良く似た発言を昔別の奴にした事があり、その時から何一つ変わらない。相手を尊重しているからこそ俺は敢えてこう言うのだ。


 人間、どうしたって譲れない物というものがある。それは他人から見ればどうでも良いことのように見えたとしても、本人からすれば何よりも代え難いものだと言う事を俺はよく知っている。だからこそ、俺はそれに対して曲げさせるような事をさせる気はない。相手が変わらなければそれまで。ぶつからない人間なんていないのだから多少の相違は諦めるしかなく、寧ろ少しそういうのがある方が人付き合いは良好になるというものだ。俺は目に侵入した汗を擦りながら、奴にこう纏める。


「さっきお前は俺にこう言ったな。死んだ人間が生きた人間の価値観を変えちゃいけないと。その台詞、そっくりそのままお前にだって返せるぞ。死んだ人間が、生きてる人間如きに価値観変えられてんじゃねぇぞ。間違ってるって思うなら最後まで言い続けろ。一時間で変わるような意見では他人は知らんが俺は動かん」


 我ながら随分と無茶な事を言っている自覚はあるのだが、橘に言いたいことは伝えられたような気がする。これが自己完結だった場合はしょうがないが、この女になら何となくでも伝わるだろう。


 俺は携帯を鞄から取り出し時間を確認する。すぐ終わらすと言っておきながら十分近く喋っていたらしい。ついでに通知画面も確認するも能代からの連絡はナシ。どこまでも徹底した事だと呆れを通り越して感心しながら携帯をポケットに仕舞う。


「随分と長話してたな。悪いが俺は能代の所に向かう。お前はどうする?」


そう問うと橘は一瞬考えるように目を逸らしたが、すぐに視線が戻り手を後ろで組みながら辞退を申し出た。


「今日はやめとく。なんか今ケージに会っても泣いちゃいそうだし。そ・れ・に。咲良の良い雰囲気なのを邪魔する気も無いしね」


 何やら誤解を招いている節を言葉から感じ取れたが、今はそれを一々訂正する時間すら惜しい。また適当な時にでも解けばいいだろうと溜息を吐きながら屋上に背を向ける。すると、最後に橘が何か言いたそうな声を出したので振り向く。


「えっと…、ま、また明日ね。咲良!」


 なぜか恥ずかしそうに言う橘。それに俺は言葉で返すことなく、背を向け手を振りながら鞄を担いで屋上の階段を駆け下りた。





 こうして、橘との和解も済みいざ能代の場所に向かおうと意気込むが、室内に入ったおかげで頭が茹で上がるような日光からは解放されたものの、依然として暑さは変わらず。寧ろ空気が籠っている所為で居心地が悪い無料サウナと化している廊下が気力を根こそぎ削ぎに来ている。そんな中を全力で走りながら、携帯の方にも意識を向ける。携帯のマナーモードは解除しているが一向に連絡が入る気配がなく、こちらから一報を入れてやろうかとも考えてしまう。せめてどこで待っているかくらいは教えといてくれても良かっただろうに。お陰でシャツの背中は完全に貼り付き、薄い水色だった制服のシャツは青色にまで変わってしまった。


「ま、そういう所もアイツらしいけどな!…っと」


 もはや落下していると表現されそうな勢いで階段を駆け下り、廊下を走り抜けまた階段を下り昇降口の下駄箱を目指す。ここを探していなかったら靴を履き替えて焼却炉に向かおうとあたまの中でルートを決めながら最後の階段を十段ほどジャンプして大きな音を立てながら着地。広まった空間に飛びこみ辺りを確認する。今の音で俺だと分かったのか下駄箱の奥からひょっこり顔を出してこちらに向かってくる女子生徒が一人居た。言うまでもなく能代である。先程の道着姿では無くいつもの制服に戻っている所を見るに、一度道場に戻って着替えた後荷物を纏める程度の時間は待たせたと言う事を読み取れ、申し訳無さが頭を埋め尽くす。


「随分と早い到着だな、名蔵。あと二十分は掛かると思っていたのだが、その服を見る限り相当急いだらしいな」


「…お前が居場所を最初から言ってくれれば、あと十分は早くこれたんだがな」


 息を切らせながら皮肉を言うが、能代はどこ吹く横風と髪を弄りながら俺が来るまで読んでいたと思われる本を閉じて鞄に入れる。


「名蔵の性格を知っているからな。寧ろもっと長引くかと思っていたぞ」


「お前が口を割った時点で俺に何かできるとでも思ってるのか?ご丁寧に俺の癖まであの野郎に教えやがって…初めて知ったぞあんなの。今後はなるべく考え事の時は手を動かさないようにするからな」


 それは困るな、と微笑む能代。昔は素直すぎるきらいがあって俺の言う事を何でもかんでも真に受けてしまう様な奴だったが、随分と変わってくれたものだと感心する。擦れたと言えば聞こえは悪いだろうが俺としてはこれくらい嫌味とか皮肉にも対応できる方が生きやすいと思っている。ともあれ、彼女の変化について妹や両親に何か言われたら頭を下げる他ない。


「それにしても、何も言わないのか?」


「何がだ?」


「俺が色々した事についてだよ。剣道部の問題に勝手に割って入ったことも然り、その後の剣道部の擁護についてもだ。俺があんなことをしなければもっと早くこの暑さから解放されたって考えれば責められても仕方ないと思っているが」


 見当もつかないと言った様子の能代にわざわざ説明する俺。何が悲しくて自分の愚行を自分の口から説明しなければいけないのか、さながらそれは冒頭陳述での自供に近しいものを感じてしまうが、それを心の隅に追いやり早口で言う。だが、それを聞いた能代は一笑に付してこう言い切ったのである。


「私達の為を思って動いてくれたお前をどうして責められるか。それに、あんな連絡をしてしまった時点でこちらに来てしまう事を予想できなかった私にも落ち度がある。…確かに名蔵が男子部員の行為を肩代わりしようとしていることを聞いた時は流石に驚いたがな。大方、不祥事が公になった場合の事でも考えて自分で罪を被ろうとしたのだろう?」


「あぁ、お前に隠し事は出来ねぇな」


恐らく木ノ崎とかいっていた男がビリビリに破り捨てた調書から推察したのだろう。そんなことが出来るのは俺の狭い付き合いでは能代くらいのものだ。


「なら、最早私から何か言う必要はないだろう。もっとも、私としてはお前が無実の罪で責められる事を避けたかったわけだからあの様に湖宮会長の手を借りてお前を止めてもらったがな。寧ろこちらが謝りたいくらいだ。無関係な名蔵を部活のイザコザに巻んでしまった」


 言いながら謝る能代。だが俺からすれば謝られる事では無い。


「俺が勝手にやったんだ。それこそお前が気にすることじゃないさ。…あの女には驚かされたがな。クラスメイトだから多少は知ってるつもりだったがあんな奴だったとはな」


「良い人だろう。どうだ?惚れたりしたか?」


「…はぁ?」


余りにも唐突過ぎる能代の言葉に、俺は思わず声が裏返ってしまった。何故そんな発想になったか分からなかったが、そのまま一気に捲し立てて否定をする。


「あんな嫌味な奴に好意を持つ方がおかしいっての。せいぜい奴への感想は『胡散臭い』だ。それ以外の感情は湧きようがない。第一、話してみて分かったが相当難儀な奴だぞ。アレと二人になりたくないな」


「そうか?頭脳明晰で容姿端麗、人当たりも良くて生徒会長と来れば男子には相当の人気が出る物だと思っていたが。実際クラスの男子も何人か玉砕されているという話も聞いたしな」


「誰から聞いてんだよそんな話…。それに人当たりが良いだと?嘘八百もいいとこだ」


「名蔵が会長のどんな所を見てそう思ったのかは分からないが、少なくとも表面上で彼女を毛嫌いしている人は居ない程度には良い筈なのだがな…。それと玉砕の話は本人が偶に話のタネにしているのを横耳で聞いたから間違いないと思うぞ」


 話にならない、と言った様子を俺は首を軽くひねって表す。結局あの女が嫌味な奴だという認識は変わることなく結論付ける。


「そんなのただの自慢にしか聞こえないっての。なんだ?女どもってのは常に牽制しあわないといけないのか。面倒な世界だ」


 ところが能代とは俺とは意見が違うらしく、そうでもないぞと言って湖宮の事を庇うような事を言い出した。


「多分、あれが素なのだろう。彼女からすれば嫌味で言っているつもりは全くなくて、文字通り話題の一つ程度にしか思ってないと思う。いつの時代も女子の会話のメインは恋バナだ。提供できる人が提供するものだ」


「余計タチ悪いっての…ハァ。まぁあんな奴の事なんかどうでも良い。大分遅いがメシを食いたい。腹が減っちまってな。お前はもう食ったか?この時間だと学食も空いてないだろうからコンビニにでもひとっ走り…」


「あー。そ、その事なんだがな、名蔵」


 してくる、と言い切る前に何かを言おうとする能代に遮られて俺は言葉を切る。彼女を見やると何故か目を逸らされ、と言うより完全に泳いでいて数度視線があった後に何か意を決めたのか突然鞄を覗きながら中に手を突っ込む。何をしているのかを考える時間もなく青色の包みを取り出して俺の方にぐいっと突き出す。。


「きょ、今日は…その…。朝から練習に付き合ってもらっただろう?だからそのお返し…と言ってはなんなのだが、…名蔵の分も作ってきたのだ。名蔵さえ良かったら、食べてもらえないだろうか?」


 おずおずと言う能代の手をよく見ると若干震えている。腕が疲れて震えているのか、はたまた俺が断ると思って緊張しているのか。こんな嬉しいサービスを何故顔色を窺うような口調で提案するのか全く分からず、俺は呆れ笑いを隠すように前髪を軽く掻き上げる。


「わざわざ朝から連れ出してもらった上に昼飯まで作ってもらってたなんてなぁ…、俺はどうやって恩を返せばいいんだか。全く…」


 少し皮肉交じりな口調になってしまったが、まさか能代が俺のために昼食を作って来てくれるなんて思って無かった為少しばかり照れ臭かったのを隠したかった。俺は咳払いで間を開けて気持ちを落ち着け、能代に感謝を述べる。


「ありがたく頂く。飯の内容に困っていたのも確かだが、お前の飯を久々に食べれるってのが単純に嬉しい」


 言いながら能代の手から弁当を受け取る。その瞬間、花が咲いたような笑顔が零れた能代だったがすぐに顔を引き締めてしまう。


「あ、味見はしたんだが名蔵の口に合うか…」


「那賀家の炊事担当が何言ってんだか。料理ができない身としては作ってもらった飯ならなんでも美味い。お前の手料理なら尚更だ」


 思うがまま口にしていたら物凄く恥かしい事を言っていた気がして目頭を押さえながら能代から顔を逸らす。その状態から横目で能代を見ると、息を呑んだような顔をして固まっていた。顔が少し赤いのは暑さのせいだと思いたい。


「あー…。とりあえず移動するか。ちなみにどこで食べるか決めているか?」


 このまま喋っていれば暑さで沸騰した頭が歯が浮くようなセリフを連発しかねない。俺は話を切って移動しようと思い能代に聞いてみた。


「あ、いや。どこでとは特に決めていなかったな。いつも通り名蔵の根城ではダメなのか?」


「あー……別にダメってわけでは無いんだが…」


 純粋にいつもの場所と言わんばかりの提案を能代はしてくれたが、俺はそれに対して曖昧な事しか言えなかった。能代が言う俺の根城と言えば先程まで居た教室棟の屋上の事であろう。確かに俺は学期間は基本的にあそこで昼を過ごしているから、どこへ行くとなればとりあえずそこに向かおうとなる。だが、今は先客が居て尚且つソイツがしばらく一人で考えたいと言っていた。重要な話があるのならば仕方ないとしても、ただの昼食で出戻られては奴も困るだろう。とはいえ、幽霊が一人で考え事をしたいらしい、なんて理由を言えるわけがない。どうしたものかとかと考えあぐねていると。何かを察したのか能代が別の意見を出してくれた。


「そう言えば、明石さんを保健室に連れていった帰りに見えたのだが、桜夏が今年も咲いていたな。朝見た時はただの葉桜だったが、本当にいつの間に咲くものだな」


「ん…そうだな。俺も昼寝をして起きたら咲いていたから、本当にいつ咲いたんだか」


「折角咲いたのだから、たまにはあそこの下とかでどうだろうか?初日だし夏休みと言う事もあってそう人は居ないだろう」


「……いいんじゃないか。あの木の下にはベンチがあったな。能代が良ければそこにしよう」


 決まりだな、と能代が最後に言ってくれて俺達は二人で外靴に履き替えて外に出る。


先程は流れで肯定したが、今にして思えばあの七不思議もあながち間違いではないのかも知れない。桜に哭く少女―――――恐らく本当にそれが橘で、彼女が俺の前に現れたのと桜夏が咲いたタイミングはほぼ同時だと思われる。ちょうどその時、俺は悪夢にうなされていたため卵が先か鶏が先か迄は分からないが、突然咲いた桜夏と橘はほぼ繋がっていると考えていいだろう。だが、そうなるとまた別の疑問が湧いてくる。なぜ桜夏が咲くと橘が現れるのか。火の無い所に煙は立たないなんて言葉があるが、実際に七不思議になり得るには相応の理由があるはずだ。しかしその理由については皆目見当がつかない。よもやどこかの誰かが口にした法螺話が現実にあった、なんて事ではないとは思うが、桜夏と橘の接点が現状先程考えたタイミングしかないとなると、出任せを喋っても噂話にもならなそうだ。第一、橘からは死後誰かと話したような形跡が感じ取れなかった。もし俺と会う前に誰かと話をしていたら、西暦を聞いてあそこまでの驚きはしないだろう。或いは、幽霊だから一々出会った人の事を記憶できるような場所が存在しないのかもしれない。このご時世で死んだと言う事は処理方法は火葬だろう。脳まで焼却されてすっからかんの可能性も捨てきれない。


また、橘は毎年死んだ時期になると現れるとも言っていた。この発言はつまる所、一定期間を過ぎれば消えると言う事を暗に示している。もしかしたら奴は現世に現れている間だけは記憶が保てて、消えてしまったらリセット、なんて可能性もある。その場合は確かめようもないので手詰まりだが。どれにせよ桜夏の噂話に橘が登場する以上、この学校に関係する誰かが桜夏と橘の関係を知っている可能性があり、そこから橘の生前に繋げていく事で奴の正体も分かるだろう。


それにしても、まさか夏休み初日からこんなオカルトに付き合わされる羽目になるとは思ってもなく大分精神が疲れたのと、同時に自分の適応力の高さに呆れて思わず溜息が出る。


「何か考え事か?名蔵」


 能代の言葉で現実へと意識が戻る。考え事をしながら歩いていたため歩が遅くなっていたらしく、まだ桜夏と校舎のちょうど半分ほどの所だった。グラウンドでは男子野球部が熱心に紅白試合をしていて、時折大きな声が聞こえてくる。その練習の邪魔をするわけにもいかないので、俺達は舗装された脇道を通って桜夏の下に向かって歩いていた。その際、剣道場に突撃した時にグラウンドの隅でデカいキャンバスを置いていたあの人の姿が見えたはずだと思って辺りを見回しながら能代に相槌を返す。


「ん、あぁ。ちょっと色々とな……。お、まだ居たか」


 ちょうど桜夏から見て右手、先程ちらりと見かけた時と寸分変わらぬ位置で絵を描いている教師を見つける。頭頂部の髪の毛が少しばかり薄くなっており、日光に晒されているせいか肌は日に焼けて赤くなっていて、滝のような汗を服や地面に流しながら大柄な人こそ、橘が会いたがっていた西村慶司その人であった。


「あれは…西村先生か。名蔵は西村先生に用があったのか?」


「あぁ、少しだけ聞きたいことが出来てな。といっても先に飯だ。話を聞くにしても血糖値が足りてない」


「……私に構わず話をしてきてもいいのだぞ?」


「…別にお前に気を使ったんじゃない」


 悲しい位に能代にはバレていた。だが、ここまで昼を待っていてもらったのにこれ以上時間を割けるか、と俺は歩幅を少しだけ広げて桜夏下のベンチに向かう。後ろでクスリと笑われた気がするが、気にしないことにした。


 二人してベンチに座った所で、一息ついて俺は桜夏を見上げる。突然咲き誇った桜の花が木陰を作り日差しを和らげて、幾分かは涼しさを感じられる。後は風でも吹いてくれれば申し分ないのだが、なんて欲を考えてしまうのが夏場の悲しさか。


「季節感なんてあったものではないが、やはり綺麗なものは綺麗だな」


 桜夏の花に目を向けて片手で太陽を遮りながらそんな感想を漏らした能代。昔からこの学校に通っているとやはりその程度の驚きしかなくなってしまうものかと。俺からすれば明日から物見の一般人が来るのかと思うと警備のオッサン達に同情してしまう。だが、こんな綺麗なものを見てそんな捻くれた感想しか持てない俺の方が間違っているのだと自嘲して、偶にはもう少し素直な感想でも口にしようと口と弁当箱を開く。


「この桜は一応ソメイヨシノだからもっと花弁の色が白い筈なんだがな…っと。やっぱりお前の飯は美味そうだな。こんな怪しい桜より断然見栄えが良い」


 何か気の利いた洒落でも桜夏の感想にしようとしたが、結局花より団子なのが男の性。自然と桜なんかよりも弁当の中身に気を取られて桜への感想なんておざなりになってしまった。それほど俺にとって能代の弁当の中身の方が大事だと言う事である。


 今日の中身は切り干し大根にオクラと茄子の煮浸し、鳥の照り焼きを一段目に据えて二段目に白米とボリュームのある中身になっていた。隣の中身を見ると若干おかずのの構成が違う所を見るとわざわざ俺のために用意したのもあるらしく、それだけでは無く、鳥の照り焼きは大きめのアルミカップで包むように入れられていたり米の方には小梅が乗せられていたりと、細かい気配りが何とも能代らしさ感じる。


「俺の方には揚げ物を入れなかったのか?」


両手を合わせて中の箸を取り出しながら能代に聞いてみる。能代の方には照り焼きの代わりに唐揚げが入っていたからふと気になって聞いてみたが、能代は笑顔で即答した。


「前に言っていたではないか。弁当で揚げ物を入れると衣がしんなりしてしまうし染みだした油が他の食べ物に付きかねないから嫌いだ、とな」


 能代に言われて記憶を掘り起こすと、確かにそんなことも言った記憶がないこともない。いつぞやの事か、二人で昼休みにご飯を食べていた時に雪根さんが作ってくれた弁当にそんなことを愚痴ったこともあった気がする。だが、そんな事を言ったのもせいぜい一回程度だろうし、そんな戯言を覚えていて且つ考慮した弁当を作ってくるとは思いもよらなかった。


「よく覚えてるなぁ…そんな事。俺でさえ言われるまで思い出せなかったぞ」


「まぁ、たまたま作っている最中に思い出せただけだ。好みに沿えたなら何よりだ」


それだけ言うと、能代も両手を合わせ二人で遅めの昼食が始まった。まず煮浸しから口にすると、保冷剤による冷たさが外の暑さと良い感じの清涼感をくれる。弁当用のおかずだから味を濃い目にしてくれていたのも俺の好きな味付けで、これ以上言う事は無いほど好みに合わされた弁当であった。朝早くから随分と手間をかけさせたと思うと感謝しかない。


気が付けば会話もロクにせずがっつき、五分と掛けずに平らげてしまった。その様を見ていた能代は苦笑いで。


「作り手冥利に尽きる食べっぷりだったな。…何か気になる所は無かったか?味見は何度もしたのだが」


「あの食い方でなにか問題があると思ってたのか?どれも全部美味かった。こんなの食えるなら毎日でもお前の朝練に志願したいくらいだ」


 俺としては適切な評価だと思ったのだが、能代は大袈裟だなと一言。それでもやはり自分の料理を褒められるのは嬉しいようで顔が綻んでいた。そして、俺の手元にある空の弁当箱に視線を移すと回収しようと手を伸ばしてきた。


「おっと、流石に洗って返すぞ。ただでさえ手間掛けさせて作ってもらったんだ。それくらいはさせてくれ」


「別に大した手間ではなかったぞ。弁当なんて一つ作るも二つ作るもあまり変わらないからな。それに弁当の余りは矢矧の昼になるからな。当の本人は肉料理が増えたと喜んでいた」


「…あぁー……アイツなら言ってそうだな。朝の会話が容易に想像できそうだ」


 那賀能代には妹が一人いる。能代よりも二つ下で、義務教育を放棄して学校にもあまり行かず部屋でダラダラ過ごしている干物と化した存在の妹が。名前は那賀矢矧。俺のCODEの数少ない友達欄の片割れでもある。学校にもあまり通っていないため夏休みが関係なさそうに見えるが、本人は昨日の夜に『ヤバいわー合法的に学校休めるとかヤバいわー』と歓喜していた。恐らく、今日も一日部屋からはトイレと栄養補給以外で部屋から出ることは無いだろう。心なしか、奴の高笑いが聞こえてくる気がする。


「だから、名蔵が気にすることでは、無い!」


矢矧のことで気を取られていた間に能代は一気に弁当箱へ手を伸ばし俺の手から綺麗に奪い取る。反応自体は間に合いそうだったが相手が能代というので動くのが遅れてしまった。


「飯を作らせておいて片付けまでやらせるとかどんなクソ野郎だよ。俺が洗って返す」


「こんな押し付けがましいことをしておいて、名蔵の手間を取らせられるか」


弁当箱を回収しようと腕を伸ばすが能代は胸の辺りでで守るように抱えられてしまう。これで無闇に回収しようとすれば完全にセクハラでありどうしようもない。


「汚ねぇぞ能代。そんな持ち方されたら奪いようがねぇじゃねぇか」


「意志の表れだと言ってほしい。こうでもしないとすぐ取り返されてしまうからな」


「……強硬手段に出てもいいんだぜ」


「やれるものなら」


軽く強気に出て見たものの、能代は気持ちで一歩も退くこと無く、寧ろ不敵な笑みすら浮かべている。こうした能代は実に珍しいもので、いつもなら俺が何かしようとすると、余程のことではない限り俺についてきてくれるだったはず。彼女には何かあるのかもしれないが、たかが弁当箱一つに対してここまで躍起になるのは分からない。


結果、しばし睨み合うような形で一つのベンチの上対面する。片や真剣に、片や相手の真意を掴みあぐねる微妙な緊張が二人の間に広がる。


だがこの状況、第三者から見れば――――。


「…なぁ、そこのお二人さん。腹空かした爺の前で飯広げるのは良いとしても、痴話喧嘩まで繰り広げられちゃたまったもんじゃねぇぞ」


能代からどのようにして弁当箱を取るかを集中して考えていると、右側から突然声をかけられた。それでようやく、俺は近くに西村先生が寄ってきている事に気づくという有様であった。先程の能代に弁当箱を取られるのも然り、今日は本当にだらしがないと自嘲してしまう。恥ずかしい姿を見られてバツが悪くなり、ため息一つ吐き出しワイシャツの胸元を数度はたきながら能代から西村先生に会話の相手をシフトする。


「気づいてたんですね、西村先生。てっきり絵に集中してこちらは眼中にはなかったかと」


「いくらなんでも被写体の前でイチャつかれて気づかないわけないだろ。弁当開いたらへんからずっと見てたわ」


「ならもっと早くに声を掛けてくれれば良いものを…」


 悪態をつきながらも、最初に話しかけるチャンスを流したのは自分なのでお互い様だと息を吐く。対して先生は大きく笑い、ニヤついた顔で答える。


「仲が良いのは良いことじゃねぇか。えぇ?それに普段人目のつく所を嫌うお前さんがこんな場所で人を連れて飯なんて珍しい。どういう風の吹きまわしか気になったから横目で眺めてたんだが。その結果がなぁ…。まぁ、面白いものが見れたわな」


「面白いって……」


俺が焦る姿がそんなに面白がられるものなのかと思ったが、先程イチャついてるなんて言っていた先生の発言から考えるとそちらの方面で否定しなければと言葉を考える。隣をちらと見れば、能代は暑さに浮かされて若干顔が赤く、使い物にならなそうだった。


「…俺と能代はそういう関係じゃありませんよ。コイツみたいな良い女と俺じゃ釣り合いが取れない。能代に失礼ですよ」


 ぶっきらぼうに言うと、西村先生は豪快に笑う。笑い所ではないと思ったのだがどのあたりにその要素があったのかを聞く前に先生はひとしきり笑って能代の方に話しかける。


「お前も苦労してそうだなぁ?那賀よ」


「……そう言えば、名蔵は西村先生に話があるのでは無かったか?」


 よく分からない方面に話が進んでいたところを、話を振られた事で正気に戻った能代がちらりと横を見てうまい具合に方向転換をしてくれた。やはり能代はいい女だと思いながらも、この好機を逃すべきではないと咳払いをしつつ西村先生に橘の事を聞いてみることにした。


「そうです、先生に一つ聞きたいことがあってそれを聞こうとしていたんですよ。でも先生は絵に集中していたから折を見て話しかけようと思っていたのですが」


「そこで時間潰しに飯を食ってたら俺が話しかけてきて都合がよかったって所か。お前さんが人の様子を窺うような奴だとはなぁ。まぁいいだろう。んで、何用だったんだ?」


 若干俺の印象について否定したい所もありはしたが聞き流して橘についての話を聞こうとする。しかし、西村先生に促されたところで、ふと俺は困った。どんな話の切り出し方をすればよいのだろうか。この場でいきなり橘の名前を出したとして、奴の話が全てでまかせだったのならば話を流せるがもし本当に実在していたとしても出所を聞かれると答えに窮する。よもや本人から直接聞いたなんて言えるわけがなく、親父らへんに聞いたというのが無難だろうがそれ以上は何も知らないので相手の話に合わせるしかなくない。


 とはいえ、今日の目的は情報収集であり奴の過去の存在の有無さえ分かるのならば、道化を演じるのも仕方ない事か。そう諦め俺は奴の名を口にした。


「西村先生は…橘御影という生徒を知っていますか?」


 もうどうにでもなれとやけっぱちな感じで聞いてみたが、対しての西村先生は橘御影の名前が出た際に、完全に思考が飛んだような固まり方をしてしまっていた。先程まで軽口を叩いていた顔がピタリと止まる。正直、その反応だけでも橘御影の確認については十分であった。


「…西村先生?」


聞き慣れない名前を聞いて固まる西村先生が気になったのか能代が呼ぶと、先生はようやく我に返ったように目を動かして慌てながら返事をした。


「ん、あ、あぁ。いや悪いな名蔵。まさかお前の口からソイツの名前が出るなんて思わなかったからよ。驚いちまったわ。誰からか聞いた…って、んなのアイツらしかいねぇか。大方お前の親父らへんが口にしてたんだろ?」


「えぇ、そんなところですね」


 本当の出所は本人だが、そこは適当に誤魔化す。あり得ないと言う固定概念が可能性を消して、適当なものを相手が予測してくれるのは有難かった。


「誰なんですか?その…御影さん、というのは」


「十年前にいた学生だよ。名蔵ん所の両親と仲が良かった奴でな」


「…どうしてそんな人の話を、名蔵が?」


 流石に疑問に思ったのか能代が俺に質問の意図を聞いてくる。ここからはアドリブで何とか乗り切るほかない。上手く口が回ればいいのだがと咳払いをして作り話の説明をする。


「いや、大した理由があるわけじゃないんだが…、今朝両親が二人して呟いてた人名だったのですが、妙に気になって聞いてみたんですよ。そしたら話もそこそこにはぐらかされてしまいまして。ここの学生だったとは聞けたので両親の学生時代を知りそうな人に聞いてみようと思い、西村先生に聞いた…って感じですね」


その場で言葉を選びながら慎重に能代の質問へ答える。西村先生はともかく、能代には違和感を覚えられそうで怖いが、彼女に対して何か不義理な事をしているわけでは無いので許してもらいたい。


「あー、なるほどな…。アイツらもこの時期になると感傷的になるもんなのかねぇ。藤宮はまだわかるが聖人のそういう姿は想像つかん。まぁ歳月は人を変えるって言った所か。それで?お前はどのあたりまで両親に教えてもらったんだ?」


「親父の元カノだったというくらいまでは」


重ねて言うが、情報の出所は本人からである。もしこれで橘がテキトーを言いふらしていれば俺の話の出所をした今の説明は一気に信憑性が薄くなりかねない。けれども、意外と本当の事だったらしく、割と穴がありそうな説明でも西村先生は納得してくれた。


「大分ペラペラ喋ってもらえたみたいだな。そんだけ聞いてるなら俺から話すことは何もねぇだろ」


 そう言うと、西村先生は汗で濡れたポケットから煙草を取り出して火をつける。一応、校内は禁煙なのだがこういう所も西村先生らしいと思いつつも、ふと今朝親父も珍しく煙草を吸っていたのを思い出して疑問を口にしてみる。


「その橘御影って人も煙草が好きだったんですか?」


「ん?いや。奴は元々病弱だったからなぁ。煙草なんざ無縁の存在だったぞ。つっても、奴はなんでか知らんが煙草吸ってる人の姿が好きらしくてな。その辺の話とかすると長くなっちまうが…。どうしてそんなこと思ったんだ?」


「いえ、今日に限って珍しく親父が煙草を吸っていたので…」


 俺としては煙草を吸っている親父が珍しかったのでそんな風に言ってしまったが、西村先生からすれば逆の事に驚いた様で目を丸くして聞き返してきた。


「珍しく?聖人の野郎禁煙なんかしてるのか?」


「?はい。俺としては物心ついた頃にはもう親父は吸って無かったと思います。と言うより、喫煙していたころの親父を知っているんですか?西村先生」


「あー…まぁな……」


 良くも悪くも竹を割ったような性格の西村先生にしては歯切れが悪い。何か伝えづらい事なのだろうか。


「……ちなみに、名蔵のお父さんと橘御影さんが付き合っていたというのは学生時代の話ですか?」


 俺が首を捻っていると、ここまで話を聞いていた能代が質問を投げかける。


「そうだな。というかそこ以外で奴らの接点は無い。話しては無かったが、その橘って奴は高三の夏に死んじまってるんだ。交通事故でな」


 今話に上がっている橘御影と言う人がすでに故人だというのを知り、能代は何となくは察していたのだろうが気落ちしていた。一方、俺からすればそもそも本人に会って聞いていた事なので、せいぜいアイツの死因が交通事故だったのか程度の感想しか持てなかった。どちらかと言えば、何で今このタイミングで能代がそんな質問をしたのかの方が気になっている。


「……ん?」


 そうして考えている時に、俺はある仮説に行きあたる。橘の奴は煙草を吸っている人の姿が好きと言っていたらしい。最初この発言は西村先生に向けた発言だと思っていたが、もっと疑うべき相手が存在した。自称だが恋仲と言う程の中にまで進展した存在が居るではないか。


「まさか…親父の奴、学内で煙草を…」


俺のつぶやきを西村先生が聞くと、大きな溜息を吐いて白髪頭をガシガシ掻きながら俺達に注意を一言。


「……当時は注意程度で留めてた俺が言うのも何だが、お前は吸うんじゃねぇぞ」


吸いませんよ、と俺が答えると西村先生も、だろうなと相槌を打ち会話が終わった。このネタはいつか親父と喧嘩にでもなった際にでも使わせてもらおう。そんなことを考えていると、先生はしみじみとしながら話を変えてきた。


「今日はいやに昔を思い出す日だな…毎年あんな絵を書いてはいるが今日に至っては思い出話まで追加させられるとは。いやはや、わからねぇものだ」


「そういえば、桜夏が咲いた時からずっと描いてましたね、西村先生。アレは毎年描いてるんですか?」


「そんな時から見てたのかよお前さんは…、まぁいいか。そうだ、アレが夏に咲く度に描いてるぞ。やっぱり夏に咲くコイツは特別だからな」


 声にどこか優しさをもたせて西村先生はそう言った。確かに夏場に花を咲かす桜夏は特別だろう。しかし、今の言い方。何となく引っかかるものを感じる。もしかしたら、何か別の意味で特別な理由がこの桜にはあるのだろうか?などと考えてしまうのは流石に妄想か。だが、一応覚えておこう。


「絵の方は完成したんですか?」


「あぁ、ついさっきな。後は乾かすだけで暇してたからちょっかい出しに来たら随分グダグダと喋っちまったわな」


「その絵、見ていいですか?」


 俺が聞くと能代も便乗した。本人としてはあまり人に見せるようなものではないのだろうか、少しばかり渋るような表情をしていたが、やれやれと言った様子で最後は了承してくれた。そして西村先生の後ろに二人してついていき、キャンパスの表面の前に立つ。


「ま、見世物になるほど良い出来かって言われたら微妙だがな。取りあえずこんなもんだろ」


 むず痒そうに鼻の頭を掻きながら西村先生は言ったが、そこはやはり美術教師。数時間で描き上げたにしては見事な一本の桜が満開でキャンパスに写し出されていた。


「とんでもない、素晴らしい出来です。一本の桜をここまで壮大に描けるなんて」


 能代が感嘆の意を言葉で表した。俺もそれに乗っかるように感想を述べる。


「ですね。下書きの後とかが見えないから一発描きでしょうけどここまで躍動感溢れる桜を描けると言うのは流石、美術教師としか言えないです。とても数時間で描いたとは思えない」


「教師が生徒に品評されるとは、形無しだと思わないか?名蔵よ」


 皮肉を口にしてはいるが、褒められて悪い気はしないらしく先生は鼻の頭から顎の方に手を移動させて口元を吊り上げていた。


 それにしてもこの絵、先程は絵の完成度に目が行ってしまったが、じっと見ているとどこか既視感を感じる。勿論そこに絵のモデルになった桜があるのだから当然なのかも知れないが、この学園とは別の場所、どこかで見たことがあるような、無いような。


「……あっ」


顔の側面を汗が伝い落ちるのを煩わしいと思った際に、不意に脳裏に今朝の風景が思い出される。そう、この絵は今に飾られている書きかけの桜の絵とよく似ているのだ。


「どうした名蔵、何か重箱の隅を突けそうな粗でも見つけたか?」


 普段の俺を何だと思っているのかそんな事を言ってのける西村先生に話の腰を折られながらも今思った事を話す。


「そんなのじゃないですよ…。ただ、どっかで見た事ある構図だと考えてたんですがやっと思い当たる節にあたりまして。家の居間に飾られている絵と構図がそっくりだったとふと思っただけです」


「あぁ、そう言われると確かに似ている。あちらは書きかけのような感じだから分かり辛かったが、もしかするとモチーフも一緒の桜夏かも知れないな」


能代も何となくわかってくれたようで同意してくれた。実際、桜の絵などこの学園の在籍している生徒ならある程度の比率、美術の授業などでモチーフにするであろうから構図が似ているような絵の一枚や二枚出てきてもおかしくはない。別の桜を描いていたとしても似てしまう事だってあるだろう。


だが、西村先生は先程までの笑顔から一変、怪訝そうな顔をして俺の事をじろりと見る。


「この絵と同じ構図の桜を…見たことがあるのか?咲良」


 随分驚いているようで前に頼んだ下の名前で呼ばないで欲しいと言うのも忘れてしまう程らしい。そんな大層な発言をしただろうかと考えながらも、絵師として絵が似ているというのは些か不躾だったかと反省した。


「あ、気に障ったのなら謝ります。構図だけとはいえ他の絵に似ているというのは失礼でした…。申し訳ない」


「あぁ、いや。そんな事で聞いてるんじゃねぇよ。第一俺は怒ってないっての。ただ、この構図と似ている桜で…、しかもさっき那賀の奴が書きかけとも言ってたな…」


 何か考えるような仕草で首を捻りながら何かを呟く。今の話で気になることでもあったのだろうか。だが、西村先生は最終的に一言。


「ま、今更どうでもいいか…」


 そう言って話を終わらせてしまった。もう少し踏み込んで話を聞くべきであったかも分からないが、なにせ相手が死人の話と来て、橘本人が親しかったと言う人物ならばデリケートな話題であると思うと、中々掘り下げるのも躊躇われる。とは言え、現状当時の橘を知る数少ない人物。奴が本当に幽霊であることは事実だと諦めるとしても、もう少し何かしら聞きだしたい。そう思っていると、能代が西村先生に質問を投げかけた。


「その橘と言う人と西村先生は、どのような…関係?だったのでしょうか?」


「関係なんて呼び方をするようなことは何もないぞ。ただの教師と生徒、強いて言えばアイツは美術部だったから部活の顧問もやってたがな」


「へぇ、アイツ絵なんか描けたのか…」


思いもしない情報で能代に心の中で感謝する。というか、部活動なんていう接点があったのならば教えてくれても良かったものをと一人ごちる。そうすれば橘の事をもっとスムーズに聞けたのに。そんなことを考えながら相槌を打っていると、西村先生は不思議そうにしながら俺にこんな事を言ってきた。


「にしてもお前さん。まるで会った事のあるような口ぶりだなぁ」


「そ、そうでしたかね」


そう言われて、漸く今の自分の会話にミスがあったことに気づく。いかんせん、幽霊と顔を合わせてない体で言葉を選んでいるつもりだが、暑さでうだる頭ではその辺りもボロが出てしまう。


「ま、そんな事あるわけねぇんだがな。さっきも言ってるがソイツはもうとっくの昔に死んじまってるんだからなぁ」


 俺の焦りとは裏腹に、西村先生は適当に理由を付けて追及してくることは無かった。こういう風にアイツの事を言うのは失礼だが、故人と言うのは中々に便利なのかもしれない。こちらが橘の事についてボロを出さないようにと動いても、相手は勝手に故人だからという先入観で理由づけしてくれる。幽霊に取り憑かれているようなこの状況、相手にばれるのはよろしくないと思っていたが、相手が幽霊と言う可能性に行きつかない以上、案外適当に相槌でも打ってればそうそうばれるものでは無いらしい。何となく心が若干軽くなった俺は、ふと気になったことを聞いてみることにした。


「そう言えば、橘はどうして死んでしまったんですか?それに西村先生との接点は分かりましたが親父達との接点については分からないのですが…」


「接点も何も、お前らの両親と橘は当時の学園じゃ有名なトリオだったぞ。それこそ当時の学生から教師まで、知らない奴はいないだろうってくらいにはな。学内のどのイベントでも、大体問題を起こしてたからなぁ、橘は。それを止めようとしたりグルになって暴れてたりしてたのがお前の親父の聖人、見守りつつ羽目を外しすぎないように散歩後ろを歩いていたのがお前の母親の雪根だ。あれはあれで物静かな奴だったからなぁ」


「雪根さんが…物静か?」


 随分と自分のイメージとは違う話が出たがそこは重要な所では無いので被りを振って隅に追いやる。それにしても、知らない体で聞いてみたが西村先生の口から出るのは橘が自分で話していた事とほぼ同一の内容。どうやら生前の内容で騙すような奴ではないらしい。最も、騙した所で何の得も無いのは分かっているのだが、どうにもまだ猜疑心が抜け切らない。


「成る程…。完全に雪根さんが貧乏クジだったんですね」


「当人がどう思ってたかは知らねぇがな。少なくとも外野からは楽しそうには見えたぜ。…んで、橘の死んだ理由は…アレだ。交通事故」


「交通事故…ですか」


 能代が空気のさらに重くなりそうな雰囲気を言葉と共に出す。ほとんど部外者なのにもかかわらずこんな話を聞かせてしまい本当に申し訳なく思う。桜夏の下に残して二人で話すべきだったかとも考えたが、そうすれば今度は能代を除け者にしたような気がするだろう。どっちにしたって能代に悪く思うのは変わらない。そんなことを考えてる俺を置いて、西村先生は能代のつぶやきに頷いて話を続ける。


「ちょうど十八年前の今日だな。あの頃は夏休みに入るのが今より一日遅かったんだわ。例年通りのかったるい終業式を終えて明日から夏休みだってはしゃいでる橘が美術部の課題を夏休みに入る前に終わらせたいって言ってホームルームが終わるや否や藤宮を連れて美術室に突撃してきてな…。どうせそんなのは口実だろうって藤宮も俺も言ってたがな」


「口実とは?」


「あの頃は聖人も生徒会長として忙しかったからな。夏休みを前に色々雑務があったらしくて帰りが遅くなりそうだったらしい。それを待つための口実だ。ってな」


「……なんか、端から聞いて甘い話ですね」


 この場に橘が居なくて本当によかったと思う。もし居れば、頭上で悶絶されて五月蠅くて敵わなかっただろう。


「おぅ。見てる分にも甘い空気だったぞ。アイツらのにやけ面を見てたらコーヒーもブラックで良いって思う程度にはな」


 思い出し笑いを浮かべながら喋る西村先生、だがそれにしてはどうにも引っかかる事がある。それを考えると、どうにもこの話を単なる惚気の一幕とは思いづらい。


「……そこまで歯が浮くような関係だったのにも関わらず、親父はその彼女の友人と結婚したんですか」


「おい、名蔵」


 隣から能代が諫めるような声を出したが、それに構わず畳みかける。


「いや、普通に考えても怪しいだろ。そこまで仲が良かった三人組で、そのうち二人が付き合った。んでもって彼女が死んじまった残った女とくっつくって…いくら何でも節操なさすぎだろ。親父」


 最終的に口から出たのは親父への嫌味。だが、これまで聞いた話を纏めると毒づきたくなる気持ちも分かってもらいたい。今日はいつもの倍近く溜息を吐いている気がするが、時間が経つにつれ重くなる一方だ。西村先生も俺が何を言いたいかを理解したのか苦笑いである。


「いくら何でも、自分の父親の事をそこまで悪く言うのは…」


「いや、いいんだよ。那賀。俺もその辺りは奴らに一度聞いてみたいと思ってたほどだからな。それに、憎まれ口を叩く位がコイツにはちょうどいいだろ」


 汗を飛ばすほど豪快に笑う西村先生。この感じだと、きっと自分の言いたいことを理解してくれたのだろう。能代だけは何の事だか分からずと言った様子。あまり自分の口からは言いたくないから軽く濁していたが、このまま話の輪から外れたままはよくない。


「…俺の歳が今年で十七歳、橘御影が死んだのは十八年前。子供なんてどんなに早くできても一年弱は掛かるだろ?」


「……あっ」


「橘が死んだのが高三だから…まぁ大学入ってから結婚したとしても、たった一年で他の女の所に遷るってのは、息子としても流石にどうかと思うぜ」


「……」


 能代は途中で気づいたらしく押し黙ってしまう。ワザワザ説明させたことに申し訳なく思っているのだろうか、それならばどちらかと言えば軽い冗談とかで流してほしかった。


「ちなみに、その説明で捕捉させてもらうと奴さん達、一年も待ってないぜ。橘の奴が死んじまって一週間後には、もうあの二人は付き合ってたよ」


「尚更じゃねぇか…彼女が死んで一週間で彼女の友人に鞍替えとは、アレもとんだプレイボーイだな…本当」


「実の親に対してそういう言い方は…。名蔵」


 流石に言い方がキツかったか、能代が何か言いたげな様子で口を出してきた。俺も少し言い過ぎたのは自覚しているので肩をすくめて話を纏める。


「元々俺はあの家が嫌いだ。中学云々を抜きにしても…どこか他人行儀な雰囲気があの家にはある。薄っぺらいって言うか何というか…。上手く口には出来ないが」


「そんな風に名蔵は見えるのか?私からは仲睦まじい家庭に見えるのだが」


「そりゃ表面上はな。でも俺からすればどこか遠慮しているような…、そんな感じの空気を感じたりすることもある。その辺が気に食わないって話だ」


 自分でもその辺りはうまく説明できないので、口から出る言葉が抽象的な表現になってしまいながらも考える。実際、ウチの両親の中は他の家族と比較しても良い方なのかもしれない。それも高校時代からの付き合いともなれば当然とも言えるだろう。だが、三人組で居た時代があり、悪い言い方をすれば雪根さんは親父に一度選ばれなかった立場である。そんな折、橘が交通事故でこの世を去り、その穴を埋めるかのように雪根さんが親父の彼女のポジションに収まった。その辺りを含めた当時の環境が、今の俺が感じている薄っぺらさに起因しているのかも知れない。


「いや……」


 もしかしたら前提が違うのかも知れない。先程、雪根さんに対して選ばれなかった人と考えたが、初めから恋愛感情なんて無かった。その気が無いのに付き合ったり結婚したとしたら。


恋愛感情の欠如が問題の元凶だとしたら。いや、それならばまだ良い方かもしれない。傷の舐め合いとかも十分に考えるが、これがもし、当時から橘を疎ましく思っていて彼女に対する意趣返しだったとしたら。


「……流石に考えすぎか」


 彼女に対してそこまでの感情があるのだったら、いくら親父でも気づかない筈もないしそんな人と付き合う事も無いだろう。それに、橘も屋上にて雪根さんなら安心して任せられると言っていたから少なくとも橘からの信頼は厚い。アレはあれで曲がったことが嫌いな幽霊なので雪根さんがそこまで性悪なんてことはあり得ないと思っていいだろう。あの家の歪みの正体は嫉妬か、憐憫か、はたまた傷の舐め合いか。どれにしても推測の域を出ず、根拠なんてものは存在しない。唯一分かるのは、あの家の違和感に橘が関係している可能性が高い、という事だけだ。結局確かな事など分かるわけもなく。そもそも初日で何でもかんでも分かろうとしている事の方が馬鹿馬鹿しいと一笑に付すしかない。


「何が考えすぎなんだ?名蔵」


「ん、あぁいや。今日は色々あり過ぎてな。考えを纏めようにも…どうも許容量を超えてるらしい。ついつい悪い方に考えちまう」


 心配してくれている能代に優しくそう言って、西村先生に聞きたかった事を確認する。


「西村先生はさっき言ってましたよね。うちの両親が付き合い出した理由について自分も聞いてみたいって」


「あぁ、言ったな」


「西村先生から見てウチの親父は、たった一週間でコロッとほかの女に鞍替えしちゃうようなクソ野郎でしたか?雪根さんは友達の男を奪う様な性悪でしたか?」


「流石にそれは無いな。聖人は荒れてる所もあったがその手の話に関しては基本一途な野郎だったし、藤宮も友達想いな奴だった。自分の意見をあまり言わない節もアリはしたがそんな薄暗い事は考えるような女じゃなかった。そこは俺もハッキリ答えられるぞ」


「ですよね。俺もそう思います。…だからこそ面倒臭いんですが」


これがもし、二人だけの話だったらどれだけ楽だったろうか。生きている者同士の問題なら最悪時が解決する。だが死人が絡めば話は別だ。生者からすれば死人に対しては何もしようがない。溜まった感情のぶつけ先が居ないのだから歪む。誰かを残して逝く気持ちなど考えたことも無いが、案外残された側の方が思う所があるのではないかとぼんやり考える。


「ですよね…って。今日はなんだか締まりがないな名蔵よ。いつものお前はもっと自分で考えてから相手に話す奴だろう、今日はどうした?」


 半ば呆れ気味に言う西村先生の意見はごもっともで、確かに自分は分かりきっている事に対して一々確認をするような人間では無く、どちらかと言えば一人で深く考えたり行動したりして、大体最後に間違えるようなタイプの人間だ。だが。


「今日は橘御影が本当に居たのかだけ聞きたかっただけだったんですが…。思いもよらない方に話が進みましたからね。まぁ今日家に帰ってからでも両親に直接なれそめでも聞いてみたいと思います。西村先生も気になるって言ってましたよね」


 幽霊なんてあやふやな存在と出会い、他人の過去なんて見えないものについて考える。今日ほどらしくない日も今後そう無いだろう。我ながら笑えるものだ。


「…あんまり自分の両親を責め立てるような事はするんじゃねぇぞ?名蔵」


「アイツ等次第ですかねぇ」


 嫌味ったらしく笑った所で、俺は西村先生に頭を下げる。


「わざわざこんな話に付き合ってもらってありがとうございました。お陰で少しだけ進展したような気がします」


「何が進展したんだかなぁ…全く。まぁいい。どうせ聞いても答えにくいことだろ?だったら聞かねぇさ」


 西村先生はそういってくれた。実際、自分でも何を聞けばいいのかすら考えが纏まっておらず、ましてや橘が俺に何をさせたいのかも分からない。取り敢えずは奴の存在だけでも確かになっただけでもよしとするべきだろう。そして無論、そんな事を西村先生に言えるわけもなく、心遣いに感謝するしかない。本当に気づかいが出来る良い人だ。


「ありがたいですね。正直、自分でも今の状況についていけてないんですよ。落ち着いたら話しますので」


「ハッ、気にしねぇよ。どうやら危ない話とかじゃなさそうだしな。気が向くか全部終わったら酒の肴にでも聞いてやる」


 この時、何故か能代が俺の顔を窺うようにしてきた。何か気になることでもあっただろうかと思ったが次の瞬間には息をついて正面の西村先生に顔を戻していたので何なのか分からなかった。


 そして、そう言った西村先生は服の裾で汗を拭うと伸びを一回、キャンバスをイーゼルと共に持ち上げ、もう片方の手で折り畳み椅子を手に取る。


「結構話し込んじまったな。他に用がねぇなら俺はそろそろ戻らせてもらうぜ。暑いわ腹が減ったで、おいぼれには限界だ」


 言われて校舎の時計を見ると、時刻は夕方の四時になろうとしていた。三人とも殺人的な日光に晒されて汗だくになっている。俺は慌てて二人に謝って話を終わらせる。


「…もうこんな時間だったんですね。暑い中時間を割いてもらって申し訳ないです。能代も悪かったな。帰り際飲み物でも奢るから許してくれ」


 頭を掻きながら二人に言うと、能代の方は聞こえてなかったのか曖昧な相槌を打つだけであった。もしかしたら日に当たり過ぎて熱中症になっているのかも知れない。


「おい、大丈夫か能代。すまん、体調が悪くなってるのに気づかないで延々と話し込んじまって。移動できるか?」


「え、あ、いや。別に体調がどうとかは無いぞ。ただ、ちょっとな…」


俺の慌てた姿を見て首を横に振りながら答える能代。確かに見た目は大丈夫そうだが言葉尻がやはり歯切れ悪く、無理している気がしなくもない。


「どちらにせよ、私用の付き添いでこんな炎天下の中野晒にされちゃ能代の奴も堪ったものじゃないだろうよ。茹っちまってるじゃねぇか。早く涼しい所に連れてくか家に帰してやれ」


 見かねた西村先生が最後、俺達にそう言って重そうな足取りで美術室の方に戻っていった。その時、彼の背中からボソリと小さく独り言が聞こえてきた。


「…もう一度見てぇもんだなぁ。あの絵」


 微風に乗って溜息交じりに聞こえてきたその一言。あの絵とは、なんて考えるまでも無い。俺からすれば橘と言う女は傍迷惑な幽霊の一言に尽きるのだが、うちの両親然り、西村先生然りと随分愛されていた奴なのだと改めて分かった。


「…っと。そんな事考えてる場合じゃねぇな」


 確かにアレの事も大事だが、今はそれよりも重要な事がある。俺は能代に謝り倒しながら体調を気にする。


「本当にすまなかった。ただちょっと聞きたかったことを聞くだけで終わらす予定だったんだがまさかこんな長話になるとは…。前はまっすぐ見えてるか?とりあえずどこか移動しよう。荷物渡せ、持つから」


「心配がすぎるぞ、名蔵」


言いながら荷物を持とうとすると能代はそう言って肩にかけていた学生鞄を俺の手を払いながら持ち手を強く握った。


「この程度の暑さでどうこうなるような鍛え方はしていない。心配は無用だ」


「鍛え方とか、そういう問題じゃ…」


「くどいぞ。…それよりも、まだ何か用事があるんじゃないのか?」


ぴしゃりと言いきられた後、口元を吊り上げて妙に自信ありげな目で能代はそう聞いてきた。確かに能代の指摘通り、橘の存在を確認できた事で最後に一つだけ、奴にとある事を確認したいとは思っていたが、橘の存在なんて当然口にしていない。第一、俺の友人付き合いが皆無に等しいのを知っている能代が、俺が学校に用事があるなんて思う訳無いにもかかわらず良く言い切れたものだ。


「……あると思うのか?お前だって知ってるだろう、俺の人付き合いの悪さを。お前と西村先生以外ロクに喋る奴なんて学園には居ないじゃねぇか」


「確かにな。でも今名蔵は言ったぞ、どこか移動しようと。本当に用事が無いのなら、もう用事なんてないのだから、どこかなんて言わずに家に帰ると言うだろう。そこで別の場所に移動すると言うのならば、まだ何かしらの用事がこの学校にあるのだろう。…と思ったのだが間違っているだろうか」


 こめかみを抑えるしかなかった。風紀委員との小競り合いの時も思ったが能代は言動や仕草一つで俺の事を何でも分かるのではないのだろうか、と錯覚してしまう。それとも、単に俺が分かりやすい人間なだけなのだろうか。どちらにせよ、能代の言う通りであるので申し訳なく思いながらも話す。


「…ああ。実はもう一個だけ確認したいと思う事があってな。だが正直大した用事じゃない。今日は色々あって疲れてるだろうしお前の方が優先だろう」


 俺がそう言うと、能代は気にする必要はないと肩をすくめながら、どこか喜ばしげに喋る。


「どうせ今日は五時まで練習の予定だった。今帰っても早すぎると妹に言われるだけだろう。一応確認だが、その用件は私が居ると聞きづらいことか?」


「……割とな」


 俺はだいぶ悩んだ結果、短くそう伝える。この言い方では能代の事を遠ざけてるように聞こえても仕方がないのは分かっている。だが、いくら相手が能代でも虚空に向かって話す姿など見られたくはなかった。もしかしたら、幽霊と話しているなんて荒唐無稽でも彼女なら信じてくれるかもしれないが、それでいらない心配をさせるのは心苦しい。能代には剣道部の大会が控えているのだから面倒事は極力彼女から遠ざけるべきだろうと苦心の末だったのだが、能代はすぐに納得してくれた。


「そうか。なら私は図書室で時間を潰すとしよう。名蔵も区切りがついたら来てくれ。中に入るのは気が咎めるだろうから入口が見える場所に座っている」


「悪いな…。西村先生にもそうだが、落ち着いたらきちんと話す」


「そういう時は、なかなか気の利いた洒落が思いつかないのが経験則だが、期待しておこう」


 そう言うと、能代はまた後でと本校舎の方へと向かっていった。アイツの最後の台詞が何を意味しているかは咄嗟には分からなかったが、もしかして落ち着くとオチがつくを掛けていたのだろうか。だとすれば普段の能代からは考えられない、それこそ駄洒落である。


「…ま、アイツなりに気を使ってくれたのかね」


 主観を抜きにしても、今日の話はヘビーな話が多めであった。親父が浮気性かどうかはともかくとして、あの三人の関係は怪しさが残る。端から見れば親父はとんだクソ野郎であり、友人の死後一週間で男を自分のものにする雪根さんもどうかと思った。せめて四十九日は待てなかったのだろうかと、息子としてとても恥ずかしい事しきりで、そんな中で能代に気を使わせたこともあり、内心では穴があったら飛び込みたいものだ。しかし、そうは問屋が卸してくれない。


「……今日は会いに来るな、とは言われてたが。しかたないな」


 ひどく熱気の籠った髪をガシガシと掻き熱を逃がしながら、俺は屋上に向かう。足取りが重いのは、きっと熱気の所為では無いだろうと思う。


 今更ながら、なんであんな奴のために時間を割かなければならないのかと屋上までの階段を登りながらつい考えてしまう。校舎内は夕方になれば少しは涼しさを感じられるかと思えば、窓を閉めっぱなしにしているせいか熱が籠り、校内特有の臭いと息苦しさも合い重なって外よりも不快感が強く、こんな思いをした上で待っているのが幽霊なんて茶番染みた存在なのだからやる気だって普通は起きないだろう。非日常も度が過ぎると辟易すると言ういい例である。普段ならこの程度で弱音を吐くことなんてないのだが、正直に言って今日はもう疲れた。まだ八時間も今日があるのが信じられない。


「とはいえ、乗りかかっちまった船だしなぁ…」


 悪態を吐きながら歩を進める。或いは、俺が全てを投げだしてありきたりな日常に戻れるほど自分勝手ならば、こんな事にはなってなかっただろうとも考える。親しい極僅かな人達にはお人好しのレッテルを張られていたが、自分ではそんな事は無いだろうと思っていた。その考えを改める必要があるかも知れない。


 吐き出す息の熱さに慣れた頃、ようやく屋上への扉が見えて来た。ドアノブを握るのに幾分か悩みながらもとりあえず開けて外に出る。空気の爽やかさに肺が歓喜していたが、そんな事はどうでもよく、目的の幽霊を探す。辺りを見回すが目的の彼女がおらず、幽霊らしくどこかふらりと散歩をしているのだろうかとも考えたが朝の奴が言っていたのが事実ならば、恐らく一人で動き回るのは相当な労力が必要であろう。人の事をアンカー呼ばわりしていただけに何も無しで学園内をフラフラするのは厳しい筈だ。となれば、やはりこの屋上のどこかに居るに違いない。そう考えて貯水タンクの方に向かい周りを確認したが、ここにもいない。元々大した広さでは無い屋上なのでこれ以上隠れられる場所もなく、まさかいないとは思いつつも、上の足場に登るために助走をつけて壁をよじ登りタンク下のスペースを覗く。


「……何探してるか知らないけどさ、そんな所にあるモノなの?」


 そして、文字通り手探りで手を伸ばそうとした時に背後から呆れたような声で話しかけられた。振り返るまでも無くその声の主が彼女であるのは短い付き合いでも分かる。


「ああ。案外溝に挟まって動けない阿呆を晒してるかもしれないと思ったんだが、そうでもないらしいな」


「そ、そんなアホな子じゃないよ私!咲良ってば私の事なんだと思ってんの!」


 大声で抗議をする橘の声を聞きながら、俺は這いずるような体制から立ち上がり橘と向かい合う。タンクの置かれている足場は空きが少なく、俺の場所はタンクの足場の縁なので橘の足元に地面があるわけ無い。つくづく幽霊何だと思い知らされながらも俺はジャンプして下に降りる。橘はと言えば、フワフワと重力を感じさせず俺の前に降りてきた。


「羨ましい限りだ。降りる時にも一々力の逃がし方を考えないといけない俺とは大違いだ」


「私からすれば3mはあろう壁を何にも使わずによじ登る咲良の身体能力が羨ましいよ…」


 そもそも上る必要のない存在が何を言ってるんだかと思ったがツッコむと話が逸れると黙る。そんなどうでも良い事を考えてるとも気づかずに橘はそれで?と話出す。


「どーして来ちゃうかなぁ~、咲良。私今日はもう来ないでって言ったよね?まぁちょうど反抗期だろうし色々な事に盾突きたくなる年頃なのは分かるけどもう少しおとなしくなってくれると私好みって言うかなんというか」


「お前の好みに合わせる気なんか毛頭ない」


 結局、どう転んでも話は逸れるのであった。いくら能代の居場所を屋内に移したとはいえ、これ以上待たせるのは忍びない。俺は額に浮いた汗を振り払い、本題を切り出した。


「確かに今日はもう来るなと言われたのは覚えてる。だがその約束を反故にしてまで来る理由があったからな」


「別に明日でもできたんじゃないの?そんな切羽詰まったお話なんてあるとは思えないんだけど」


「いや。話の内容は確かに明日でも出来るものだろう。でも今日じゃないとお前の本音が聞けないかも知れないと思ってな」


「…私の?」


 俺は相槌を軽く打ちながら首を縦に振って肯定する。橘はボヤいていたが俺は気にせずに話を続ける。


「あの時何考えてたかは知らねぇが、あんなに会いたがってた西村先生と会うのを止めて一人で屋上に残って。しかもさっきの別れ際の台詞とかからすると、明日からは俺に遠慮とかして毎日過ごしそうだったからな」


 奴からすれば言いがかりも甚だしいであろうが、先程の橘の態度にはそれくらい思わせるような雰囲気があった。そして俺はまだ、コイツから聞いてない事が一つある。それを聞く前に一歩引いた関係となられるわけにはいかなかった。


「……」


「その無言、肯定と受け取るが?」


 橘は長く顔を逸らして無言でいたが、やがて大きな溜息を吐くと言い訳っぽく口にした。


「だってさっきも言ったじゃん。私みたいな死人が今を生きてる人に干渉しちゃいけないって。心の隅に置いといてもらうくらいがちょうど良いのに、人の生き方にあーだこーだと口出すのはどうかと思ったのよ。私だって」


 照れたように口にした台詞は、何を今更と言った内容だった。かれこれ今日一日でどれだけコイツが口を出して、コイツの所為でどれだけ世の中を見る目が変わったことか。もし今後の人生において自伝でも出すのならば、今日の出来事だけで一章書けるだろう。


「普通の人ならまず出逢わないだろう幽霊との邂逅をさせておいて人の生き方に口を出す気はないとか冗談にもならんぞ、今日一日だけで世界の広さを痛感した。事実は小説よりも奇なりってやつだ。お前が本当に十八年前の幽霊だって話も聞けたし、いい加減信じるしか無さそうだしな」


 あまりそんな非科学的な事を認めたくないので眉根をひそめながら俺は言う。思えば今日は桜夏然り、目の前の幽霊然りと超常現象に縁のある日だと思いを巡らせていると、橘がふと疑問を投げかけてきた。


「あれ…?いい加減信じるしかないって…。咲良さっき私の事を幽霊如きって言ってくれてた気が…」


「あの時はまだ幻覚の類の可能性を拭えてなかった。大体こんなおかしな存在に出会って話を聞いてすぐ信じろなんて無茶にも程があるだろう。寧ろ一日で順応した俺を褒めろってんだ」


鼻を鳴らしながら言い切ると、橘は「疑り深いね…」と呆れ半分に言って、真面目な声のトーンに戻る。


「それで?ワザワザ今日に来てまで聞きたいことってのは一体どんな事?私の存在が怪しいって言うなら物証と益体の無い昔話でもしますけど?」


「んなもんいらねぇよ、時間の無駄だ。今聞きたいのはそんなもんじゃねぇ」


「じゃあ一体何さ」


「…お前がそもそも俺の前に現れた理由だよ。もっと分かりやすく言ってやろうか?」


俺は一泊置いて、奴の目を見据えて目的を口にする


「橘御影、お前は俺に何をさせたい?」


 それを聞いた時に橘は何を根拠にと言いたげな顔をしたが、やがて大きな溜息を吐いて投げやりな言いぐさでぼやきを口にしてきた。


「あーあ、私が言うより先にそれを聞かれちゃうとはねぇ。咲良って本当にいい勘してるよ。…ちなみにどうしてそう思ったの?」


「普通、あれほどの価値観の相違があるならばその場で縁を切られてもおかしくはないだろう。にも関わらず自分の考えを曲げてまで俺に明日以降も会おうとしてる。俺なんかよりももっと波長が合う人を見つければいいと思ったが、お前の存在的にそんな人を見つけるのは難しいとなれば、何かやりたい事があって渋々でも俺の力を借りざるを得ない…って考えだが、どうだ?」


 俺の推論を聞き終えると、橘は何かを呟きながら頬を掻いた。


「何か言ったか?」


「いーや、なんでも?まぁ八割くらいはあってるよ、咲良の考えは。んー…、にしてもこういうのって本来はこっちから頼み込んで行うものだと思ってたんだけど、先にお膳立てされちゃあね」


 やはりと言うべきか何なのか、橘には俺に何かして欲しい事があるようだった。何となくそんな気はしていたが、言いたいことをズバズバいうこの女がこの時まで口にしてこなかったのだけは疑問に残る。思い返せばそんな事を頼むタイミングくらいは何度もあったはずなのになぜ言ってこなかったのか。


「とにかく、何か頼みたいことがあるならさっさと言え。聞くだけならタダだし、下で能代を待たせてんだ」


「あぁ、それは申し訳ないね。咲良も時間かけると言い訳し辛いだろうし…。え、でも先に言っとくと私のお願いすっごく面倒だよ?それでも聞いてくれるの?」


「聞くだけならな。手伝ってやれるかは知らん。内容次第だろう」


 ぶっきらぼうにそう言うと、それもそうだねと橘は口にして背筋を伸ばす。そして二、三目を泳がせた後、何かを決したように俺の目を見据える。


 その瞬間、一陣の風が俺と橘の間を吹き抜ける。先程までは微塵も吹いていなかったのに、タイミングが良すぎる。柄ではないが、何かが始まるような予感が俺の中ではしていた。


「……名蔵咲良さん。あなたにお願いします」


 一拍置いて、橘は頭を下げながら俺に頼みごとを口にする。





「――――――私を、成仏させてください」

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