第2話 浮浪雲の日常

まず、この日の朝はいつも通りだった。日の昇りを、窓から漏れる光を感じ取り体を起こす。時刻は朝五時ちょっと過ぎ。十分後にかけられていた目覚ましは今日も外で泣き喚くアブラゼミに役目を取られて仕事をする事無くスイッチを切られてしまった。これがもし、普通の登校日であったのならば、いつも通り日課をこなして朝食を取り学校に向かうのだが、俺は机の上に置かれている小さい卓上カレンダーを睨み、ため息を吐く。


「……今日から夏休み、か」


今日の日付は七月二十一日の日曜日。何ら変わらない休日であるが、うちの学校では、昨日の海の日にテスト返却、終業式を行い夏休みに入ったのだ。休日前に夏休みの宣言をする事で休みを少しでも短くしようとする学校側の見え透いた魂胆は学生の間では周知の事実ではあったが、式の後の燥ぎ方は凄まじかった。しかし、俺はと言えばこの長すぎる四十日間の優雅な休みで何をしようかを考えるだけでホームルーム中に頭が痛くなっていたものだ。


そもそも、クラスでも浮いた存在の俺にとって休みに入った所で遊ぶ相手なんているわけも無く、文字通り何もすることが無い。それならばそれで惰眠でも貪ればいいものを、なぜこんなに早く起きてしまったのか。いつも通りの時間に起きた所で一日の時間は有り余ってしまうわけで、二度寝をしようかと思い薄い毛布を掴みながら一瞬考える。


「…いや、日課だけは済ますか」


早起きは三文の徳。現代においては何ら意味の無い諺ではあるが、早起きに悪いことは思い当たらない。どうせ時間が余るのならば、せめて生活リズムを狂わせないためにもこの場は起きて運動しようと自分に結論付け、布団を剥いで伸びをする。そして部屋のタンスに仕舞われている短パンとランニングウェアに着替え、トレーニング用のリストバンドを装着して音をあまり立てないように部屋を出て、洗濯カゴの中に寝間着を投げ入れて家を出た。


日課の内容は家から遠回りして近くの柏公園までのランニングでと公園での筋トレである。そこまで大きくない町ではあるが、登りも下りもある7キロなので結構辛い。トレーニングなので辛くなければ意味がないが前に能代が見学した際は軽く引かれてしまった記憶がある。


軽く足のストレッチをして、スマホで時間を確認してからいつも通りのペースで走り始める。まだ若干眠気は醒めきってなかったが、足取りは実に快調。これも休み効果かと思い、自己ベストを狙い意気込んでペースを上げてみたりして一気に走り抜けた。


 柏公園に着いた時、時間を確認すると家からここまでのタイムは三十五分を切っていた。世間的に休みだから通りすがる人が殆どおらず減速をしなかったなどの要因もあるだろうがこれほどいい記録なのは初であった。今度からこのくらいのペースで走ろうと頷きながら、俺は公園の隅にある円型のオブジェの前に向かう。一応これも幼児用の遊具らしいのだが、その隣に立派なアスレチックがあるので今どきの子供がこんな何の変哲もないオブジェで遊ぶことなんてない。精々鬼ごっこで、これを中心にグルグル回るくらいか。とにかく、誰も寄り付くことはないこのコンクリ製のオブジェに俺は座り、少しばかり休憩をしてから、尻を中央に足を横に投げて反対側にしてブリッジ状になる。


「…せーのっ。よいしょ」


 この状態から上体起こし。いわゆる腹筋を始める。


本当ならもっと安定した、ベンチとかでやりたいと思ったこともあったが、早朝とはいえこの公園はこの辺りで一番大きいだけあって、朝から人が多い。先程はすれ違わなかった犬の散歩や、俺より本格的なランナーらしき姿もあり、そう言う人たちが席を使ってるのを見ると、さすがに上半身半分をベンチで使用するなど豪勢な真似は出来ない。地べたでやるのも汚れが酷くなるのでナシとなると、残されていたのがこのオブジェだったのだ。しかしこのオブジェ、初めこそ文句はあったものの今ではだいぶ気に入っている。バランスが悪いので体幹もそこそこに鍛えられる所とかが主な理由である。


 手早く腹筋を終えて、腕立て、登り雲梯での懸垂も規定回数終わらせ体中に浮き出した汗を手で払う。夏だから当然と言えば当然なのだがとにかく暑い。いくら朝とはいえこんな運動を外でやっていれば汗が止まらなくなるというもの。ウェアの色が変わってしまうほどに汗が涌き出てしまい、水くらい持ってくれば良かったと後悔する。とりあえず、蛇口の方に向かい手と顔を洗う。こんなベタベタした手でスマホを触るのはいかがなものかと。水気をズボンで拭いそのポケットから熱を持ったスマホを取り出し時間を確認。時間は六時半を過ぎた所、良い頃合いだった。


「そろそろ雪根さんも起きてる頃か。…シャワーも浴びたいし、帰るか」


実際、柏公園は普通に向かえば家から徒歩五分の近さであるため帰ろうと思えばすぐに帰れる。公園の規模然り、鍛えるには本当に好条件が揃った場所である。


「腹も減ったしな…」


 自分に言い聞かせるように呟いて、何とか家に帰る気になる。夏休み初日からこんな事をしていては雪根さんに何を言われるか。そんな事を考えているとポケットから通知音が鳴った。


「ん?」


俺は日陰の方に寄り通知が来ていたトークアプリ『CODE』を開く。こんな朝っぱらから、というより俺に連絡を寄越す奴なんてそう多くない。大方の予想通り、中学からの同級生である那賀能代であった。


『朝早くから済まない。突然だが今日の予定とかはあるか?』


 内容を読んだ俺は、慣れない手つきで指をフリックさせて文字を打つ。スマートフォンに変えたのは一年以上前なのだが、未だにタッチパネルでの打ち込みには慣れない。


『たった今、朝の日課を終わらした。この後家に帰ってシャワーと朝食を済ませばフリーだ』


 既読は直ぐに付いた。出待ちしていたのだろうか。


『もし良ければ剣道の朝練相手になってくれないだろうか。来月の大会まで時間がそう無いので、是非とも名蔵にお願いしたい』


 僥倖とは正にこの事だろうと俺は思った。或いは俺の事情をある程度は知っている能代が気を効かせてくれたのか。どちらにしても嬉しい誘いに変わりはない。用事ができれば公然と家を離れられる。別段家が嫌いと言う訳は無いがダラダラしているのはどうも性に合わない。


『俺なんかで良いのならば喜んで相手になろう。何時からだ?』


 ベンチに座りながら朝の陽ざしと舗装されたアスファルトの間にできた陽炎を眺める。思えば不思議なもので、熱の反射によって空気の密度が異なる所に、光が屈折して当たって見えるもの。そんな風に教えてもらったような気がしなくもないレベルの知識しか持ち合わせていないのに、何となく目が離せないゆらゆらと揺れるその姿、それを見るだけで人は夏を感じ、暑さを身をもって知る。陽炎は、春の季語であるのにも関わらずだ。


 夏の始まりを体でぼんやりと実感していると、能代からの返信が来た。


『まだ家に帰っていないのであろう?八時に名蔵の家の前でどうだろうか』


 俺は画面右上の時間を確認する。まだ七時になっていない、といった時間。今から帰れば余裕で間に合うだろう。


『了解した、今から帰って準備する』


 これからの予定が決まった俺は、先位程までとはだいぶ違う気分を持ち、軽い足取りで帰路についた。


 家に帰ると居間の方からガチャガチャと食器の音が聞こえてきた。もう両親は起きていて朝飯を食べ終わったのであろうか。今はとりあえず朝食よりもシャワーを浴びたかったので居間に一声掛けてから部屋に戻ることにした。


 居間に入ってみると、俺の親父である名蔵聖人は食卓から離れた所のソファでニュースを見ていて、台所で皿を洗っていた母親――――名蔵雪根さんはこちらを見て朝の挨拶をしてくれた。


「あら、お帰り咲良。今日から夏休みっていうのに朝から早いわね」


「休みでも日課を怠る気にはならん。飯より先にシャワー使ってもいいか?」


構わないわよ、と雪根さんが許可をもらったので俺は居間を出ようとして、ふと親父の目の前に置いてあるテーブルに乗っていた灰皿に目が止まった。普段より我が家には喫煙者がいないので完全なインテリア、または来客用かと思われていた灰皿に吸い殻が一本入っていたのだ。こんな朝から誰か来ることは無いだろうし、両親のどちらかが吸ったのだろうか。どちらにしても珍しいことだが、それ以上気にする必要もないと思い、俺は居間を出て部屋に着替えを取りに行った。


五分ほどでシャワーを浴びた俺は、学校指定の半袖とズボンに着替えて居間に戻る。その姿を見た雪根さんは不思議そうな顔をして俺に訪ねてきた。


「アンタなんで制服着てるの?今日から学校は休みでしょ?」


「別に休みだからって学校に行けないわけじゃない。今日は呼ばれてるんだ」


 いつもの席について、両手を合わせて朝食を頂く。白米に味噌汁、目玉焼きに焼き鮭と和の料理たちだ。味噌汁を一口啜ると、名蔵家特有の薄味が口に広がる。やはり、朝はこれくらいの味のほうがいい。


「呼ばれてるって…。まさか補修とかじゃないわよね?」


白米をかきこんだ所で、雪根さんが心配そうにこちらに聞いてくる。基本的にうちでは成績は面倒くさいので見せてはないが、今回も呼ばれるほど悪い方では無かった。


「そしたら何かしら親に来るだろ。なんなら返却されている答案を見せるが?」


「いえ、何も無いのならいいのだけれど…」


雪根さんは歯切れ悪くこの話題を終わらせる。こちらも学園の事で両親に干渉される気は毛頭ないのだが、かといって不要な心配を指せる必要もないので一応今日の登校の理由は伝えておくことにする。


「第一、今日の相手は能代だ。大会が近いから剣道の練習相手になって欲しいらしい」


 俺は事もなさげに鮭の切り身を頬張る。それを聞いた雪根さんは心底安心したようで。


「あぁ、なんだ。能代ちゃんなのね。あなたも随分頼りにされてるのね」


 と態度を、一転して嬉しそうに言ってきた。


「過大評価しすぎなんだよアイツは…、素直に顧問にでも頼んで特訓してもらった方がよっぽど成果は出るに決まってる」


「でも頼ってもらえて嬉しいでしょ?」


「荷が重すぎる。そもそも今の俺がそんなに動けるわけがないだろう」


「でもあなた、昔やってたじゃない。それも周りから一目置かれる程に」


「もう何年竹刀握ってないと思うんだよ…、御馳走様」


 そっぽを向きながら両手を合わせて皿を纏める。ああは言ったが最後のは真っ赤な嘘。確かに表向きは中学に上がってからは竹刀は握ってない事になっているが、練習自体は細々とやっていたりはする。とはいえ、一度自分から辞めた身としては積極的に練習を行っているのを言うのはどうなのかと思い、この事はごく一部の人しか知らない。


 会話を切り上げるために食器を片付けようと席を立つと、テレビの特集で写っていた文字に一瞬気を取られた。下のテロップには『徹底討論!七夜の怪物セブン・ス・リッパーは善か、悪か!』と書かれていた。どうやら七月になって毎日の如く現れる怪人の報道に対しての特集らしい。朝から殺人鬼に対して討論を交わすとは随分とハードな番組だと思いながらも、この国に住んでいる人なら誰もが少しは気になってしまう内容ではある。最も、端から見れば今月に入って既に二十人以上殺害をしているような存在が身近にいて、どうしてこんなにも普通の生活をしているのか、特集番組が組まれているのかなどの疑問が普通なら湧くのであろうが、残念な事にこの国は普通ではないので誰一人その事を疑問に思わないのが恐ろしい話だ。


 そもそも、今自分が住んでいる町は厳密に言うと日本国ではない。場所こそ、元は神奈川県という場所に位置するらしいのだが、今のこの土地は『紫咲町』という名前の国になっている。国のくせに町とはこれいかに、とは思うが名付けた人達が人達なので誰も文句は言う筈が無い。


 事の発端は今から十二年前に中東の方で起きたとある内戦だった。最初は小さな抗議運動から始まったソレは、次第に規模が大きくなり各地の武装戦力を巻き込んだ大規模な派閥闘争となった。これによって各国からも金銭、兵力、物的支援などが行われていたがこれに対して一部の反政府側が政府軍を支援した国家に対する宣戦布告を実施し、世界中の人は日夜そのニュースに関心を集めていた。そんな状況から一年が立ち、自国も巻き込まれるのではないかと各国が戦々恐々していた時に、とある男が動いた。


 男の名前は『オーザック・ゲバル』、後に紫咲町を国として半ば独立させた張本人である彼は、自分をリーダーとする総勢五十人程の傭兵集団『マハーカーラ』を結成。部隊を引き連れて内戦を止めに行った。当然、今のご時世傭兵集団なんて胡散臭い集団を認知するはずもなく、その時点ではニュースになることもなく、誰にも存在すら知られていない無名なゲリラ集団であった。その時までは。


 事態が急転したのは彼らが渡航したとされる日の三日後。各国のテレビ局から驚きの一報が入った。


『内戦中だった反政府勢力及び政権側の兵隊が全滅、市民も甚大な被害にあった』


 そのニュースを見た時、誰もが戦慄したという。それまでの報道で死亡した人の数は五万人。一年間で五万人と言われていたものが、たったの三日間で百三十万人にまで増えた。こうして、未曽有の事態とまで言われた内戦は一国の紛争としては驚異的な死者を出して、幕を閉じた。これによって政府は崩壊、元々国民ありきの国家であるのにその国民がまともに居ないのでは存続は不可能として隣国と合併した。


 そして、その悪魔のような報道が流れて二日後。ゲバルからの声明が全世界に届いた。この時の声明を端的に説明すると、たった一文。


『もしもまた紛争が起きたのならば、善悪に問わず双方を壊滅にまで追い込む。』


 この時初めて世界がゲバルを、マハーカーラの存在、その恐怖を知ったのだ。しかもこれが日本を拠点とする軍団だということが分かると各国は日本を非難。マハーカーラの即時解体を求めたものの、所在も素性もロクな情報が無い少数部隊を探し当てるのは不可能だったらしく、また再三の呼びかけにも一切応じなかったため、日本発の過激派テロリスト集団に認定。当時の首脳会談は混乱を極めたと言われている。


 マハーカーラはそれから二年後に起きたアメリカとロシア間で勃発した『熱戦』においても武力仲裁を執行。この時も四百万人以上の死者を出し、結果的にアメリカとロシアはこれ以上の戦争行為は不可能として和平公約を結んだ。世界のトップに位置する二国が矛を収めたことに誰もが驚きを隠せなかった。


 そして、手を取り合った大国二つが世界にマハーカーラ打倒を呼びかけ、翌年には世界連合として対マハーカーラ部隊が完成。文字通りマハーカーラは『世界の敵』となる。これに対してゲバルは歓喜の声を上げたとされ、彼は次の内容を日本に要求した。


『国土の一部を私達に差し出すならば、我々の部隊はそこから一歩も出ることなく一切の武力を放棄しよう』


 この声明を聞いた時、大半の人間は世界に恐れをなした降伏宣言のように聞こえただろうし実際、そう聞こえなくもない。だが、彼らに戦争を仲裁された国々はそうは思わなかった。彼らの異形なまでの武力を目の当たりしたためなのか、この提案に積極的に賛成を唱えた。結局、この提案を国際連合の常任理事国全員が賛成したために、日本の首都であった東京都とそれに面していた神奈川県の領土をゲバルに壌土。いくつかの条約を作りここは『特別独立国家』として日本であり紫咲町であるということになった。というのがこの場所が紫咲町になった時に代表から説明された顛末である。


それから六年ほどが経った二年ほど前から現れたのが七夜の怪物だ。紫咲町には警察機構が存在せず、罪状を決めるのは紫咲町の上層部の人達、通称『役員』達が話し合って罪の有無、量刑を決める。そしてその罪人たちを入れておく更生労働施設などもあるのだが、それを捕まえる人達は有志の民間人が集団を組んで『自治会』として役員から認可を受けた組織が定期的に見回りをしてその人たちの定義で悪いことをしている人を捕まえるという仕組みになっている。その所為か、しょぼい事で一々捕まることもあれば割と大事にならないと捕らわれない人もいる。要は見回りしている人の匙加減なのだ。


七夜の怪物はそんな悪人、もっと言えば日本だった頃の刑法に当たる重罪人だけを処罰する闇の執行人だ。毎月7のつく日の夜に罪人の背後に現れて首から上を盗むと、彼の仕業だと分かるようになのか、現場にメッセージカードを残して立ち去る。翌朝には頭部無しの死体が見つかるというまさに賛否両論なダークヒーローである。どこの自治会にも所属しておらず、二年も経つのに未だ役員や自治会に尻尾すら掴ませないその姿は、まさに煙の如し。故についたあだ名が七夜の怪物である。


「ちょっと咲良、洗い物終わってるならさっさとそこどいてくれない?後ろ詰まってるんだけど」


 突然頬をペシペシ叩かれて我に返ると、コップを盆に乗せた雪根さんが台所が空くのを待っていた。物思いにふけり過ぎたかと時間を確認するが対して時間は経っておらず、能代を待たせるのも何だしさっさと準備をすることにした。


 部屋に戻って荷物の確認。と言っても所詮は夏休みなので大したものを持っていく用事はない。剣道着と適当な本二冊、携帯、ついでにいつも入りっぱなしの小道具類も持っていけば大抵の事は何とかなるだろうと乱雑に詰めた鞄をひったくって階段を下りる。


「あら、冗談かと思ってたけど本当に行くのね。お弁当とか作ってないけれどお昼どうするの?」


「一食くらい抜いても死にゃしないっての。んじゃいってくる」


 今のドアから顔を出してそう聞いてきた雪根さんにそう返しながら鍵を開けて家を出る。今のドアの隙間から見えた時計では八時前だったので恐らくまだ来ていないだろう。そう思いながら鍵を閉めて家の敷地から出る。


「お早う名蔵。随分と早く出る予定だったのだな。待たせることにならなくてよかった」


 ―――――そんな俺考えに反して、彼女は既に家の前で待っていた。暑い中でも着崩す事無く胸のリボンまで結んだ半袖の制服、今どきの女子とは思えないほど下げられてるスカート丈、肩まで伸びている艶のある黒い髪を丁寧に纏め上げたポニーテールに凛とした声。そして自分の事を視線を逸らす事無く見つめてくる強気で大きな瞳。間違えようもなく自分の数少ない友人、那賀能代である。


「家の前で待っているなら呼び鈴を鳴らしてくれても良かったんだがな」


「そんな急かすような真似はしないさ。ただでさえ休みの日に来てもらっているのに失礼がすぎる。第一、まだ約束の時間には随分時間があるぞ。もし私が早く出ていなかったらお前が待つ気だったのだろう?」


 俺が冗談めかして言うと彼女はすぐに反応をしてくれる。それに対しては大体合っているのでぐうの音も出ず、故に俺は反論では無く見栄を張ってはぐらかすしかない。


「俺は待つのが好きなんだよ、あまり俺の楽しみをあまり奪わないでくれ」


「それは悪かったな。次回からは敢えて五分ほど遅れて行動することにしよう」


 自分で言っていて空しくなったが能代は笑いながら乗ってくれた。自分の短い人生にてこれほど長く太い付き合いの奴は能代を置いて他におらず、正にツーカーの息で何を言っても返してくれる。だがこうは言っても、どうせ彼女は次回も俺を待たせる事は無く約束よりも早い時間で動くだろう。俺が知っている今の那賀能代は、そういう性分になってしまったのだから。


 次からはもう少し早めに待っていよう、と思いながら二人して通学路を歩き出す。ここから学校まではのんびり歩いて十分程。ついでに言うなら能代の家は三十秒ほどとかなり近い。そのせいもあって、能代とはよく一緒に登校している。


「それにしても良かったのか?名蔵にだって夏の予定があるであろうに」


「俺に予定があると思ったのかお前は、今日家を出る体裁を考えるのにも一苦労していた人間だぞ。寧ろ呼んでくれて助かった」


「そ、そうか」


能代は俺が自分の家が嫌いなのを知っている。細部を聞けば本当の理由と違う内容を話すであろうが、大元さえあっていれば細部の認識などどうでも良くて、そういう事情を知っているからわざわざ朝練に誘ってくれたのだろう。そうでなければ普通に顧問に教えてもらった方が身になるであろうし。そうでなくても、俺なんかが練習相手でいいのかと思ってしまう。


「にしても大会は来月なんだろう、俺なんかよりももっと良い練習相手がいるんじゃないのか?」


「少なくともお前より強い人を私は知らないぞ。内田先生が聞いたら嫌味にしか聞こえない発言だな」


「ありゃたまたまだ。たった一回のラッキーパンチを根に持つほどあの人も子供じゃないだろ」


内田先生というのは自分たちが通う学校『日ノ本学園』にて剣道の教師として在籍している初老の男性教師だ。前に一度、調子に乗って色々やらかしてしまった事があり相手方からは良いように思われていない。俺の方から避けてあげるのが優しさなのだが、男女両方の剣道部顧問もしている為能代の練習に付き合う際は間が悪いとバッティングしてしまい空気が若干ひりついてしまう。その辺りの気も聞かせて朝なのであろう。本当に気が利く相棒である。


「私も一度でいいから、お前から一本を取ってみたいものだ」


しみじみと漏らす能代。目標とする相手が悪いと我が事ながら思ってしまい自嘲するように横目で見ていた能代から目を逸らしながら、我ながら彼女と並んで登校することが実に不思議な物だと思っていたりした。


俺と能代では、学校での評価は天と地ほど分かれていて、能代は俺の贔屓目無しに見ても綺麗な顔立ちをしている。俺の身長が平均的なのに対して能代の身長は少し高めで二人が並ぶと身長差はほぼ無いと分かる。高校に入ってからは剣道のトレーニングを欠かさず行っているためスタイルも良く、黒髪を纏めた健康的なポニーテールがよく映える。夏服のシャツや剣道着などは、正直な所目のやり場に困る事しきりだ。人当たりも良く女子の友達も多いらしいし密かに男子からの人気も高い。一学期初めの帰り際には、古風にも呼び出しの手紙を貰っていた姿が思い出される。その全部を振っているらしいが、当たり障り無く断れているのか知人関係として話しかけられていると言う、要は人気者だ。


それに引き換え俺はと言えば、道を歩けば同級生は道を開き、職員室に入ろうものならほぼ全教員が俺に向かって何事かと視線を向ける。教室で話す相手など碌におらず昼休みはいつも屋上にて一人空を見上げる。能代が付き合ってくれなければ完全に一匹狼であり違う意味で有名人ではある。一部の部活では俺の噂が話のタネになっていたりして後輩からも恐れられているとか、能代が俺に弱みを握られていて嫌々一緒にいるなどの噂まで立っているらしい。最も、俺から距離を離したのだから孤独とかそういうのは一切感じたりはしない。なんのかんの言われながらも能代は俺と一緒にいてくれているし、身近な人はそう多くなくていい。


ともあれ、周囲の評価は対極とも言える二人が並んで登下校をしているというのは中々に注目を集めるものがあり、能代の方に至っては能代からOKを貰ってもバックには名蔵がいる、なんて事を言われる始末だ。もし能代に良い人ができたら、我関せずを貫くつもりなのだが。


とにかく、そんなわけで一学期が終わる頃には能代に寄り付く男はいなくなり、能代は女友達よりも俺の方を優先しようとするため二人でいる機会が多くなった。俺に友達がいれば或いは二人きりにはならないのだろうが、人を寄せ付ける気が無い俺にそんな存在はいない。そんな両極端な二人がよく一緒に過ごせるものだと、能代の他人への合わせ方には恐れ入る。


「どうしたんだ名蔵、急に押し黙って」


 何となく俺と能代が釣り合っていない事について考えていると、無言になったのを心配したのか能代が聞いて来る。なんでもない、と答えながらも、俺は誤魔化した。


「俺と違っていい女になったなって思っただけだよ」


「な、なにをっ」


 能代は突然の褒め言葉に驚いた顔をした後、顔を背けながら何か喋っていた。俺の耳には届かなかったが多分謙遜の言葉だろう。能代がその手の褒め言葉にめっぽう弱いのは知ってはいたが、勿論俺も適当を言っているわけでは無く純粋な感想を述べただけである。今でも昔を引きずっている俺と違って彼女は心身ともに大きく成長し、それを端から見ていると何となく感想がそうなってしまっただけだったのだが、暫く能代は黙ってしまった。


 その後は、互いに成績の事でも話しながらゆったりと歩いて学園に到着した。校門には平日と違って警備員一人しかおらず、他の部活でも朝練しているかと思っていたが中からは声が聞こえることはなく静かなものであった。俺と能代は警備員に軽く会釈してから中に入り、教室棟とは別に建てられた体育棟の方に向かう。その途中、この学園の代名詞とも言える大木『桜夏』が目に止まった。


「…ん?まだ咲いてないのか」


「どうかしたか、名蔵」


俺の足が止まったことによって能代も俺の横でピタリと止まる。そして目線を追いかけて桜夏に当たった所で得心を得たらしく相槌を打ってくれた。


「そういえば、大体夏休みに入るくらいから咲いているものだったな。夏にいつの間にか咲いているものだったからあまり気にしてはいなかったが」


「外の人が見たら奇怪な光景なんだろうけどな…慣れとは何とも恐ろしい」


 呆れながら俺はその奇怪な代物を見ながら溜息を吐く。ここ、日ノ本学園には他にはまず無いだろうユニークな代物が存在する。それが今俺たちが眺めている桜夏と呼ばれる一本の桜の樹であり、一見するとちょっと大きいだけのこの桜には凄まじい特徴がある。それは名前の通り『必ず夏に開花する』というもの。通常、桜とは大体三月の終わりから四月の頭くらい満開を迎えて、遅くても五月の終わりには花をすべて散らせて葉桜になる。しかし、この桜夏は七月の下旬に葉桜の状態から突然、満開になるのだ。しかも普通の開花時期である四月には花弁すら見つからず完全な葉桜。普通の桜でも稀に不時現象と呼ばれる季節外れの開花が見られる事があるにはあるが、桜夏は、毎年この時期に咲く。これだけでもこの桜の常軌の逸し方が分かると思うが、更に恐ろしいのがこの桜、今この桜を至近距離から見たとしても蕾は一個も見つからない。本当に突然、前触れもなく花を咲かすのだ。大体の新入生はこの桜を一回は気味悪がるものだが、これが時を重ねるとだんだん慣れてきて日常化してしまい何とも思わなくなってしまう。仮に、俺に紫咲町の外に友達がいたして、そいつとの会話で。


――――うちの学校には必ず夏に咲く桜がある。しかも蕾とかの前段階が無い状態からだ。


 なんて言った日には、眼科か脳外科を推奨されること間違いないだろう。冗談と取ってくれればただの笑い話にもなるが実際に見た事が無い人の大半は前者であろう。


 とにかく、そんな奇妙な桜は一部の学生からは季節感が無い、と否定的な意見が出る一方で季節感を除けば普通に綺麗。などと肯定的な意見もあり賛否両論である。そして学園側としてはセールスポイントとして売り出したいらしく、桜夏が咲くと学園が見物客目的での来訪者に対して日中は学園を開放している。それによって警備員の仕事が増えるため、俺はあの桜を『警備員殺しの桜』と心の中で呼んでいる。因みに俺は、あの桜の事があまり好きではない。


 なにがともあれ、葉桜のままであるのならそこら辺の桜と変わりがないただの木であり別段気に掛ける必要もない。更に言えば、桜夏が咲いたとしても俺の日常に何ら変わることは無い。少々見物人が鬱陶しい位のものだろう。


 自分の日常に差し当たりが無い事に気づいて興味が無くなると、そういえばと能代が横で何か思い出したようにとある噂についての話をしてきた。


「桜夏が咲くタイミングには少女の幽霊が関係している、なんて話を聞いたことがあるぞ」


「…は?幽霊?」


そうだ、と能代は肯定してその聞いたとされる噂話を俺に話してくれた。なんでもこの日ノ本学園にも一般的な学校では定番の七不思議が御多分に漏れずあるらしく、そこそこにオリジナリティー溢れるミステリーな内容が揃っているらしい。その中で最も有名なのが桜夏の咲いた木の下に現れる桜の幽霊、『桜に哭く少女』。それの内容は実にシンプル。その少女に目を付けられると憑りつかれてしまい、生前の未練を果たすべく初恋の男に似た人を見つけて心中してしまう、という何ともはた迷惑な話である。七不思議程度で見ず知らずの人と心中させられてしまってはあまりにも不憫すぎる。


「まぁ、所詮は七不思議。実際に起こるわけも無い与太話など話のタネにしかならんがな」


 教えてくれた能代は笑いながら話をそう締める。俺もあまり幽霊などの非科学的な存在は信じていなかったので二人して荒唐無稽だと笑いながら改めて体育棟の方に歩き出した。


 体育棟は俺たちがこの学園に入学したくらいの頃に改築工事が終わり学内の建物では比較的新しい部類の建物になる。元は二階建ての体育館だった所に道場を作るために三階建てに改築したらしい。そこの二階に剣道場があり、一階が一般的な体育館、三階が柔道場という階層になっている。


 二階に着いて、俺と能代は道着に着替える。能代は同じ階にある女子剣道部室で、俺は無礼ながらも場所が無い故に剣道場で着替えることにした。


「先に着替えて待っていてくれ」


 能代とそう言って別れてから、俺は手早く着替えを済ませる。こういうものは大抵男の方が早いのが相場というもので、脱ぐのに二十秒、鞄から取り出した道着を着るのに二分半と三分もかからない。昔はよく着ていたのでその感覚を手が覚えていたというのもあるだろうが、兎にも角にも時間ができてしまったので制服を鞄の中に詰めた後、無礼を詫びる為に神棚の前で正座して一礼。、その後は座禅を組んで待っていると、入口の方から足音が聞こえてきたので立ち上がりそちらに戻る。


「待たせてすまない、名蔵」


「さっき言ったろ、俺は待つのが好きだって」


 そうだったな、と能代が笑いながら持っていた二本の竹刀の一本を俺に渡す。俺もそれを受け取ると能代と共に道場の中央で横に並ぶ。そうして素振り、足捌きの練習を軽く済ませた後、能代が頼んできた地稽古を行おうと対面して、打ち合いを三十分程行った。





「一旦休憩にするか」


面の奥から能代の疲労を感じ取って休憩を提案して面を外す。能代もそれに応じ、礼をした後に防具を外すと二人並んで道場の隅にて座り込んだ。


「結局、今日も私は一本も取れなかったな…」


鞄から取り出した水筒の中身を飲みながら彼女はそう漏らした。今日の能代が撃ち込まれた回数は十四回、前に比べればだいぶ減ってきているし動きも良くなってきているのだが、どうやらそれでは納得できないようだ。


「動きは確実に良くなっている。あとはフェイントに引っかからないようにすれば、大会でもそう打ち負けることは無いだろうさ」


「もはやフォローにもなっていない気がするな…、前に聞いた時は少しと言っていたが、実際どのくらい剣道をやっていたのだ?」


「少しは少しだ。小学校の頃に二年と授業くらいしかやってない」


「それでこの力量差か…。剣の道は長そうだ」


 励ましたつもりが更にしょげさせてしまったらしい。何か違う言葉でもかけてやろうかと思ったが、結局はまた気落ちさせるだけの悪循環になりかねなかったので、俺は話題を変えることにした。


「にしても、夏休みなのに剣道場の使用許可なんか出るもんなんだな」


「これでも部長だからな。昨日の内に内田先生に確認を取ったら今日はフリーだったそうだから今日は一日女子剣道部が使わせてもらうことにした。統一剣道大会が来月に迫っているこの時期、普段なら男子剣道部との兼ね合いがあって中々一日は借りられないのだがな。」


 成る程。どうやら今日は個人として場所を借りたのではなく部として借りたらしい。確かに今能代が照準を合わせている大会の事を考えれば学園が休みでも練習を休む気は起きないだろう。能代の言った統一剣道大会、正式名称『日本統一剣道大会』と言うのは毎年八月十七日に行われている紫咲町と日本を一纏めにした剣道の交流大会のようなものである。女子と男子、個人戦と団体戦に分けられて行われていて、主催が『十王』の一人である四谷さんが開いているだけあって知名度も高く、今では日本におけるもっとも有名な大会の一つである。因みに能代は個人戦に出る予定らしい。


「ほかの部員に剣道場の使用許可を取ったことは言っているのか?」


「あぁ、一応九時から五時まで使えるから練習したい者は来ても構わない、と言ってある。参加は自由だし今日は顧問が用事でこちらには来られないらしく自主練の形になるとも言ってあるので恐らくそんなに早く来る部員はいないだろう」


「ふむ……それはどうかな」


 能代と話している時に、入口の扉の奥の方から談笑が小さく聞こえてきた気がして耳を澄ませて集中する。階段を歩きながらなので人数までは特定できないが話声という事は少なくとも二人は居るはず。随分と真面目な部員が居るものだと感心しながらも、それを聞いた俺はそそくさとここを出る準備をする。


「ん、どうしたのだ?」


「いや、女子部員の中に俺がいたら雰囲気が悪くなるかと思ってな。俺はいつも通り屋上にいるから昼になったら連絡してくれ」


 そう言って道場を出ようとした俺を見て能代も立ち上がりはしたが、俺はすいすいと入口の扉を開ける。目の前には剣道部員らしき人達が四人ほど居て、それを見た能代と俺を見た部員たちがピタリと止まる。俺はなるべく彼女たちを驚かせないために、悪いなと彼女達に一言謝り、能代に明るい口調で声を掛けた。


「んじゃ能代、また後で」


 とりあえずこの場を離れようと、俺は能代の呼びかけにも反応せず、入口を塞いでしまっている部員たちの合間をすり抜けて、道着のまま剣道場を後にした。


 体育棟から出た俺はとりあえずうんと伸びをしながらいつもの居場所である教室棟の屋上を目指して歩いた。普段だったら人目を惹いてしまう今の格好も、人気の無い夏休みにおいてはあまり気にすることはなく校内を移動できる。強いて言うならば裾が長いので歩を進めるたびにバサバサと五月蠅い位か。しかしそれすらも人がいないのであれば何も問題は無い。俺は何食わぬ顔で教室棟を歩いて屋上を目指す。あまり知られていない事であるが、不用心な事にこの学園は屋上の鍵が基本的に開いている。そこから侵入する輩などいやしないからなのだろうが、清掃員が掃除に来たりとかもしないため何故開いているのかは謎である。もっとも、俺にとっては格好のサボり場となっているので文句などありはせず、むしろありがたいものだと思っている。


 四階の上に向かう階段を昇り鉄製のドアを開けると、熱風と共に街を一望する景色がフェンスの奥に広がっていた。と言ってもそこまで高い校舎ではないのだが、元々この町が平地なためかなり遠くまで見渡せる。俺は日陰になっている場所に座り、鞄から適当に持って来ていた本を取り出してみる。今日は近代哲学書であった.


 ついでに時間を確認しようと携帯を開くと、移動の間に能代から通知が来ていた。内容は、先程は追い出すような感じになってしまい申し訳なかった、との事。自分から出ていったことであるし気にすることでもないようなものだが、能代は本当に律義である。時間は九時十分。今返信をしても練習中であろうしそれを邪魔する気も無い。後で会った時にでも何か言えばいいだろうと、鞄に突っ込む。そして制服に着替えた後、そのまま読書の時間に没入した。


 何もないこの空間で、俺のめくるページの音だけが宙に舞う事のなんと贅沢な事か。哲学書なんてものは本来このような空間で読むべき代物だ。昔の人が考え抜いた結論に対して、自分の知識と価値観でそれに立ち向かう。ある時は論理的に、ある時は情熱的にそれらを否定、または肯定して自分の見解を深めていく。これは決して、喧騒にまみれた人ごみの中や乗り物の中での移動時間には出来ないものである。独りで、静かに、そして優雅に読む本。それが哲学書だ。そしてそれが自分と波長の合う内容だったら、なおよい。今日持ってきたのは自分のお気に入りの著者の本であったので楽しく読ませてもらおうと鼻歌を歌いながら読み進める。


 ―――――そして三十分後、この環境が決して良くなかったというのを知った。


「暑すぎるだろ…、流石に」


俺はこの殺人的な暑さにウンザリしていた。朝のテレビを横耳で聞いていたのを思い出すと、確か今日の最高気温は31℃。七月にしては少々熱い程度の認識でいたが、まだ九時半なのにも関わらずコンクリートの床が照り返しで空気を温めている所為で体感的には猛暑日に近いそれを感じる。雑音的には確かに理想と言えた屋上であったがその実、滴り落ちる汗と脱水症状に気を配らねばならない危険な場所でもあったのだ。当然、集中力は落ちてしまい世界に浸ることも出来ない。それどころか身動ぎ一つ取らないものなら黒のズボンが熱を籠らせ、地面に付けた尻がステーキになってしまう。これにはさすがにため息を漏らすしかない。


「かといって図書室とかの室内はな……」


 どうしようもないようなため息がまた漏れて、本格的にどうしようか悩みだす。待つなら待つで別の場所に移動したいが、ここ以外だとすれ違う人とかがいるかもしれない。ここなら人はまず来ないだろうが半端なく暑い。どちらにしたってデメリットが大き過ぎる。更に悩んでいる間にも、俺が焼ける。


 尻の熱さに耐え、炎天下の中で必死に考えた結果。最終的にまとまった俺の結論はこうなった。


「……寝るか」


 元よりここ以外に居場所はなく、本を読むのも辛いのなら寝て忘れてしまうのが一番ではないか。なんとも逃げの姿勢ではあるかも知れないが時間が余っているのならそんな過ごし方も良いだろう。俺は学園までの途中で買ったミネラルウォーターの中身を全部飲み切って、日が昇っても日陰そうな場所を選んで寝転がり、ペットボトルを枕代わりにして遠い空の蒼を視界一杯に写しながら目を閉じた。


 朝の日課から始まり能代との練習を終えて、疲れたとまではいかないものの良い感じの充足感に満ちていた俺の体は、目を閉じながら先程まで読んでいた本を思い出していた。独我論を突き詰めようとした彼は、世界を事実の群体だと唱えて、果ては私の限界は世界の限界である。語れない事には沈黙しかないとまで言ってのけた。最終的に彼が言った言葉は「人よ、幸福であれ!」自分が幸せであることが幸福な日常を送るために一番重要な事なのだと発したかったのだろう。そして、彼はきっと、何でもないごく当たり前の事に気づいたからこそ、命令口調でこの文を書いたに違いない。


 だが、俺は独我論に対してあまり賛同する気はない。それが通るのなら、根源的に俺と他人が同じ存在だということになる。あんな奴らと一緒とか夏場なのに寒気がする。それに、世界がもし事実の集合体であるのならば、俺の世界は幸福からさぞほど遠い場所に位置するだろう。俺の人生は、自分の幸せを捨てた贖いで構成されているのだから。


 何となくつまらない方向に思考が向いている気がする。夢現でふわふわした意識の今、こんなことを考えるのはマズいのではないか、何て事を考えた頃には――――もう遅かった。


――――なんで死なないの?


――――――――生きててもしょうがなくない?


――――――――――視界から消えてよ。


―――死ね。


―――――死ね。


―――――――死ね。


―――――――――死ね。


―――――――――――死ね。


―――――――――――――死ね。


―――――――――――――――死ね。


 暗闇の中で、気がつけば、俺は二年前の怨嗟に囲まれていた。今日はやることなすことが裏目に出る日なのか、ここまで来るとそう思えてしまうほど笑えてくる。断ち切っただのなんだの言ってもこればっかりは恐らく死ぬまで付きまとってくるのかもしれない。何故俺は、寝つきの悪い時とかに今でもこの夢を見るのを忘れていたのか。炎天下の屋上という悪条件ならこの夢を見る可能性も十二分にある事を何故考えなかったのか。自分でも呆れて物が言えない。


 周囲から、昔の知人達が投げかけてくる罵詈雑言が声色までくっきりと再現されて俺の脳に届く。これくらいならばまだ耐えられる。彼らに何を言われようが俺の知った事では無い。それが夢ならなおさらである。しかし、この夢はこれで終わりではない。寧ろこの後が、悪夢たる所以なのだ。


―――――死ね。


――――死ね。


―――――死ね。


――――死ね。


―――――死ね。


―――――――――――――――――ごめんなさい。


 やはり、聞こえてきた。怨念の籠った死の合唱からはあまりにも場違いな懺悔の嘆き。自信に満ち溢れた今と違うおどおどしていて小さな声。けれどもその声の主は、誰よりも俺が一番よく分かっている。だからこそ言いたい。お前が謝る必要なんかどこにも無いのだと。しかし、そんな俺の意思とは裏腹に彼女の声は次第に大きくなり、いつしか暴言をかき消してそれしか聞こえなくする。


――――――――――――――ごめんなさい。


――――――――――――――ごめんなさい。


――――――――――――――ごめんなさい。


――――――――――――――ごめんなさい。


――――――――――――――ごめんなさい。


――――――――――――――ごめんなさい。


 なぜ彼女は謝るのか。彼女が誰に謝っているのか。彼女が謝って何がしたいのか。俺はそれ全部知っている。ふざけるな、と今のアイツが見たらそう言うに違いないだろうが、俺は彼女に対して何も言えない。俺に謝るのは見当違いなのだ。


―――――――何故なら、俺はあの時彼女を信用しきれなかったのだから。


「くぁッ!」


「うわぁっ!」


夢の内容に耐えかねて無理矢理頭を覚醒させながら上体を跳ね上げる。着ていたYシャツは、太陽光で焼けるのではないかと思われる程熱が籠っている前面に対して背面は見なくても分かるほど汗で濡れていた。俺はシャツの胸元を片手で仰ぎながらもう片方の手で額と目頭の汗を払う。最近は久しく見ていなかったから、完全に失念していた。


「学校という場所で寝るのはマズかったか…、未だに抜け切らんものだ」


 伸びをして気分を入れ替えながら周囲を見回す。そういえば起き抜けに俺とは違う悲鳴が上がったような気がしたのだが、当然ながら誰もいなかった。こんな辺鄙な場所に来る人など居ないだろうし誰かが寝ている、しかもそれが俺なら大抵の人はそっと逃げるだろう。あんなものを見ていたのだ、幻聴の一つや二つあってもおかしくはない。


 置き方が悪かったせいか頭痛が酷い頭で横に置いといた鞄から携帯を取り出して時間を確認する。示していた時間は十時四十分。結局一時間ほどしか寝られなかったらしい。そのまま鞄に戻した後、鉄板の如く熱いコンクリートの地面から立ち上がる。その時、俺の視界の端にはとある色が写った。


「……ん?」


 それが見えたのはグラウンドの方の端くれ、ここからはほんの先端しか見えなかったが確実に先程までは無かったピンク色が見えていた。


 俺はそれを確認するためにフェンスの方に向かいグラウンドを見下ろす。そこには、緑一色の体が桃色に移り変わっている桜夏が場違いな存在感を出していた。つい先程まで葉桜だった桜夏が、満開に咲いていたのだ。


「…マジで咲いてやがるよ」


 目の疲れや熱中症による錯覚ではないかと目を擦ったり首を振ったりして体調を気にしてみたが少しづつ引いてきた頭痛以外は正常。二度三度遠目で見ても変わることなく咲き誇る桜夏。良く見れば下の方では練習中だったらしい男子サッカー部が、休憩がてらか皆で座りながら眺めていた。


 俺もそこで諦めて桜夏を目を凝らして遠目ながらも観察してみることにした。自慢ではないが視力は2.0以上あるのである程度は分かる。この学校に中高合わせて五年も通いながら実の所一度も関心を持ったことの無いあの桜。正確にいえば関心を持つ暇が無かったというべきなのだろうが、とにかくいつも気が付けば咲いていた桜夏は、正直本物の桜とは思ってなかった。では何なのかと聞かれたら答えに窮するのではあるが、そもそも前触れもなしにいきなり花を付けるなんて桜を毎年の事だからと言って流せるほど寛容なつもりはない。まやかしの類と言われた方がまだ合理的な気すらする。


 そう思いながらじっと見ていて、まず気になったのが花の色合いである。俺の記憶が正しければ、あの桜の品種はソメイヨシノであったはず。だが、それにしてはあの色合いは少々濃い、気がする。前にニュースとかで見た程度の知識だが、ソメイヨシノの花の色はだいぶ昔から少しずつ薄れて来ていて、今ではだいぶ白に近づいていたはず。にもかかわらず、あの桜は、写真でしか見たことの無いようなピンク色をしている。


 次に気になったのは風に舞う花びらだ。風にたなびいて宙に浮く桜の花びらはふわふわとゆるやかに地面に落ちていくのが分かる。そしてそれは、道に落ちてなお残り続けていて、今まさに桜夏の下の道はうっすらとピンクに色づき始めている。幻覚にしても何にしても下に溜まっている以上、あの花は共通認識としてこの世に実在するものなのだろう。もしかしたら、下に行けば実際に触れるかもしれない。


「…怪しすぎて触りたくもないけどな」


 欠伸を一つ洩らし、目頭を押さえながら考える。結局良く観察した結果は桜の実在という現実を固めるだけとなってしまった。オカルトに過ぎるが現実であり、日差しや寝起きの所為でなくとも頭が痛くなる。あんな異常な代物が、よくもまぁこんな身近にあるものだと笑えてしまうものだ。


「なんか、さっきまでとは違う汗が滲んできた気がするな……」


 太陽を背にしているにも拘わらず、背中の汗は一向に乾かない。あんな奇怪な物について考えているからだろうと判断した俺は、目を背けてシャツを天日干ししようとした。風も吹いていない事だしフェンスにでも掛けて置けば十分もしない内に乾ききるだろうと踏み。その間、上半身は裸体になるがこんな場所に人が来るわけないのだから見られる心配も、通報される心配もないと確信していた俺は第二ボタンまでを外して一気にシャツを脱いだ。その瞬間。


「わっ、わッー!わッー!な、何でいきなり脱ぐのさ⁉」


 斜め後ろの方から誰かの悲鳴が上がった。まさか、こんな場所に他人がいるのかと驚いて、何事かと思いながら勢いよく振り向くと、そこには両手で目を覆い屋上の隅で体を丸める女子生徒が居た。日陰に潜り込まれたので正確には分からないが、少し茶色が差した黒髪のショートヘアに蝶のような物をあしらった特徴的な櫛。そして何故か校内なのに上履きではなくパンプスを履いていて、更に着ているものは学校指定のソレとは違う制服である。


 普通、このような相手を見たらこの学校の人では無いのか?とか何でこんな所にいるのだろう、とかを気にするのであろうが、この時の俺は全く違う疑問を持っていた。


「俺が他人の存在に気づけなかった……だと?」


 とある事情から、人の気配に大層敏感な体になってしまった俺が、屋上にいる人の存在に気づけない、あまつさえそれで背後を取られるなど今まで無かった。いくら桜夏に気を取られていたとしても、そこまで気は緩んでいなかった筈だと自問を繰り返す。


「…えーっと。もう、着た? 上」


 尽きない疑問に悩まされていると、相手の女子は震えた声でそう聞いてきた。それで、やっと我に返った俺はとりあえず服を着直す。


「悪かったな、まさかこんな場所に人がいるとは思わなくて。もう着たぞ」


そう言うと、彼女は指の間からちらと俺の方を見て、安堵のため息を吐いた後立ち上がり、トテトテこっちに寄りながら喋りかけてきた。


「いや~、最初見かけた時はだいぶ焦ったでんすよ?今日は何しようかな~って貯水タンクの上から町を眺めながらぼ~ッとしてたら呻き声が聞こえてきて、何事⁉と思ってそっち寄ったら日陰からはみ出てる干物志願者がいてどうにかして起こしてあげようかな~、でもどうやって起こそうかな~なんて考えてたら突然跳ね起きるモンだから吃驚しましたよ。しかもうろうろした後いきなり脱ぐし…。あ、体調は大丈夫ですか?」


「…ああ、問題ない」


相槌を打ちながら俺は、矢継ぎ早に投げかけてくる相手の話を一個ずつ反芻しながら理解する。どうやら目の前の女は俺が昼寝している時からこの場にいたらしい。


「俺からも質問させてくれ。どうしてこんな場所にいるんだ?一応ここは生徒立ち入り禁止の場所な筈なんだが」


「むむっ、それは難しい質問ですね…、私が何故此処に居るのか。これはとても哲学的な命題になりますよ。考えても考えても決して答えの出ることの無い、というか答えが無い問題は果たして問題と呼べるのでしょうか?実に悩ましい所です」


 つまりは考えナシ、という事だろうか。こちらからすれば実に悩ましいではなく実に分かり辛いとしか言えず。この時点で、変な言い回しで話す女だという認識が俺の中に根付いた。


「ちなみに、お前の着ている服ってこの学校の物じゃないよな?どこの学校の人間だ?」


「ん?私この学校の人ですよ?」


 俺の断定を無視してこの学校の生徒だと言い張る女。だとすると今着ているのは演劇部とかの衣装なのだろうか。それで校内を歩き回るのは、とは言えないが。先程似たようなことをやっていたためこちらとしては何とも言えない。


「…そうか」


だから俺はこの一言で納得することにする。きっと奴も俺と同じ変人の類なのだろう。


ここでいったん会話が途切れ、二人の間に静寂が訪れる。俺が妙な居心地の悪さを感じている一方で、彼女の方は何かを考えながら首を二度三度傾げて何か呟きながら俺の方に少しずつ寄って来ていた。


「何だろ…この既視感。この微妙に世界を見下しているような暗い目にやけに尖がった鼻…、左目下泣き黒子までそっくり……。まさか…まさか?」


 ピタリと止まった時には、俺と彼女の距離は恐らく50cmも無かっただろう。流石に近すぎる。


「聖君?」


 俺に何かを聞いてきた時、距離を開けようと腕を伸ばして距離を開けよう、とした。


「近い」


「うわあぁぁぁぁぁあ!」


 俺が腕を伸ばして彼女の体に当たったと思われる瞬間、彼女凄い勢いで下がっていった。結果的に距離は開いたが、今の流れでまた一つ疑問が沸き上がる。今の瞬間に触れた感触は無かった。


―――――――今、俺は彼女を押せていたか?本当に彼女に触れていただろうか。


 そんな疑問を知らずに目の前のヤツは、たははーと笑い頭を掻きながら話を続けてくる。


「ですよねー、そんな筈無いですよねー。他人の空似に決まってるのに早合点してしまいましたよー。いくら何でもこんな若いままの姿、聖君がしてるワケ無いもんね~。死んで何年経ってるかも分からないのに昔とおんなじ姿してたらそれはもう怪奇現象ってモンだ」


「…は?死んで…?」


奴の発言から何か不穏な単語が聞こえた気がして思わず口から出ていた単語によって思考が一瞬止まった。そんなことお構いなし、と言わんばかりに女はもう一度俺の方に近づいてきた。その時、俺は奴の全身を見て初めて、目の前の存在に明確な恐怖を感じた。どうして、こんな奴と呑気に喋っていたのか。どうして、今まで気が付かなかったのか。


―――――――――俺の方に来るとき、奴の足は動いていなかったのだ。


 偶にパフォーマーがやるものでムーンウォークと呼ばれるものがある。動きだけでは一見すると前に進んでいるように見えるが、その実は後ろにバックしているというもの。奴の動きはそれに準ずるような気がしたが、明らかに違う。足を一切動かさず前に進んでくるソレは、完全なスライド移動だ。物理法則を完全に無視している。更に付け加えるとすれば、奴の膝より下が、陽炎に掠め取られてしまったかのように揺らめいていたのだ。


「…お前……その足は……」


 それは聞いてはいけない質問であった。今脳裏によぎった推測が当たっていて欲しくないし、これの答えを、奴の口から聞きたくも無い。果たして、自分で言っておいて声になっているか怪しい位の声量だったが、奴の耳には届いていたらしく、あっけらかんとした感じで俺の予想通りの単語を口にしてきた。


「あれ?今頃気づきました?私ユーレイですよ。何年前に死んだかもう分かんないけど」


 目の前でニマニマと笑う奴の言葉を聞いた俺の頭には、ここから急いで逃げ出す以外の考えはなく、担いだ鞄を掴み脱兎の如く屋上から逃げ去っていた。


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