陽炎の少女

夢ノ仲人

第1話 浮浪雲の憂鬱

人間、命の危機に瀕するといつも以上のスペックを出すことができるとの事。生存本能だか種を残そうとするだとかという話を、昔ある人に語られたのをふと思い出した。成る程、確かに今の俺はいつもの三割増し程度の動きはしているだろうと風切り音で理解できる。今まさに、命の危機に瀕しているといっても過言ではないこの状況で、俺は文字通り全力で校内を疾走していた。


 階段を三段飛ばしで駆け下り無人の廊下を走り抜けていると、今が夏休みで本当によかったと思える。これがもし平日であったのならば、人は多くて邪魔だし教師に廊下は走るなと小言を言われていたら碌にアレと距離を置けないだろう。


「最も、アレが何なのかとか、追ってくるか、なんて、分からないけどな!…っと」


気がつけば行き止まりだった。一応は外に出ようと玄関口に向かっていたはずなのだが、無我夢中とは恐ろしいもので周りの部屋を見ると、現在地が部室棟の二階だと分かった。どうやら一階と二階を間違えて本館との渡り廊下を通ったらしい。


「そのまま一階まで、下りればいいものを…。アホか俺は」


額を掻きながら元来た道を引き返そうとした所で、想像以上に自分の息が上がっていることに気づいてその場に座りこむ。能代が居れば廊下に座るなと言われそうだが、今は勘弁してもらいたい所だ。


それにしても実にだらしがない。普段の早朝トレーニングをサボっていたつもりはないにも関わらずこれしきの全力疾走で息が上がってしまうとは。何とも情けない話だと心の中で自分に悪態を吐きながら、行きを整えるのもかねて先程の屋上での一件を思い返す。俺の目の前に突然現れてはひとしきり騒いだ後に俺に話しかけてきた女。基本、屋上が生徒立ち入り禁止の場所ということ以外は何も不思議な事は無かった。いや、強いて言うならばあの女の制服はこの学校指定の制服ではなかったというのも会ったのだが。その程度だ。


「だけど……なぁ?」


誰に向けたわけでも無い言葉を吐き出しながらその先を思い出す。そう、あの女と馬鹿みたいな会話をしているだけならまだ普通だった。奴の全身に気を配るまでは。


「ハァ…、こんな場所で休憩してる場合じゃねぇか?」


不意に思う。アレがもし本当に、自称した存在なら息を切らすまで必死に逃げたり隠れるのは無意味な行為でははないか。実物を見るのはもちろん初めてであるが、小説などの空想の世界でなら何度か読んだりした事はある。その中でのアレは、壁などの障害物をすり抜けていた。現実でのアレにどの程度のスペックがあるのかは不明だが、ある程度用心して越したことはないだろう。用心して何とかなるのならの話ではあるが何も考えないよりはマシだろう。


そして息も落ち着いてきた所で別の場所に逃げようと立ち上がり、少し考えてまたしゃがむ。


「なんでこんなことになっちまうかな…ツイてない」


そもそも、自分の人生においてツイていた事があったかどうかすら定かではないが、俺はまた大きくため息を吐く。ため息つくと幸せが逃げるなんてのも誰かに言われた気もするが吐きたくなる現状なのだから仕方がない。一体俺は、ここからどこに逃げろというのか。


自分で言うのも何だが、俺は友達というのが極端に少なく、仮に頼れる奴がいたとしてもこの状況で俺はそいつになんて説明すればいいのかなんてさっぱり思いつかない。俺でさえ理解が追いついてない状況を他人に話せるわけが無いのだ。


「そもそも能代に助けを求めようにも、この校舎から出られる保証はないしな…」


 携帯で助けを呼ぶにしても今のアイツは部活の練習中だ。携帯なんて覗いている暇などないだろう。となれば結局は自分で解決するしかないと回らない頭をフル回転させる。唯一の救いといえば、今は夏休み中でこんな所で屈んでいても誰にも怒られないから暑さを度外視すれば集中できる環境であるという所か。


「……アレってもしかしなくても…アレだよ、な」


先程からアレとしか言えないのは、ただ純粋に存在を認めたくないから、なんて子供っぽい思考だと自己分析をしながら纏まらない思考を一つずつ認識していく。あんなモノの存在を認めなければならない、あまつさえそれが本当に目の前に現れたという事実が容赦なく俺の現実を侵食していく。あまりの内容に悪質なドッキリと言われて能代がプラカードを携えてひょっこり出てきてくれないかと現実逃避してしまいたくなる程だ。そんな奴ではないのは俺が一番よく知っているが、そんな阿呆な事を考える程度には気が動転していた。


「普通だったら欠片も信じることはないんだが……足浮いてたしな」


逃げ出した際に写っていた景色を思い出すと鳥肌が立つ。あの恐怖は実体験した人にしか分からないだろう。自分と何ら変わりない一般人だと思っていたら、ただ一点。足が浮いているというだけの違いの恐ろしさが。あれこそ不気味の谷を体現した存在だったと思う。


「アレは…いったい何だったんだ?」


認めなければ話が進まない現実と認めがたい固定概念が堂々巡りを起こして独り言も意味を成さないものになりつつある。これが俗に言うパニックというものなのだろう。化学が発展したこのご時世にあんなものがこの世に本当に居ると言うのを認めるには俺の頭は固すぎる様で、もう正直何も考えたくもない、というか忘れたいと思考放棄を始めてしまった。


「…もう、考えるのを止めるか」


 何もかもを投げだしたい頭で行き着いた結論は、先程までの十五分をさっぱり忘れて、何食わぬ顔で校内を闊歩して適当に能代にでも会いに行けば普通の日常に戻れるのではないか。という妄想に等しい考えだった。逃げと言われても仕方ない。あんなよく分からないモノに目を付けられてしまったのだから、引け腰になっても仕方ないだろうと誰に向けたでも無い言い訳をする。もし、祟り殺されたとしても、今までの人生の報いだろうと甘んじて受け入れるべきかとまで、俺の思考は悟っていた。


 その時、校内にチャイムが鳴る。時計は見ていないが先程までの時間を考えるに十一時の合図だろう。夏休み中とはいえきっちり授業開始の鐘が鳴るのはどうなのかと一瞬考えるが、今の俺みたいに時間を気にする暇がない人には実に良い。


「少し早いが、能代にでも会いに行くかな…」


 能代はまだ部活動の真っ只中であろうし迷惑かもとも思ったが、とにかく今は一秒でも早く人に会いたかった。この学園で気軽に会える人間なんて能代くらいであり、必然的に向かう先は決まったようなものだった。今までの人生でこれほど人が恋しくなったのはあまり無かったと自嘲気味に考えると、追われていた恐怖も少しは薄れてきた。


 俺が腰を上げて軽くひねると、バキバキと背骨の鳴る音が誰もいない廊下に響く。そして大きく深呼吸して気持ちを切り替えた後、入口に向かって歩き始めた。


 ―――――この瞬間、完全に油断していた。


「あ~っ!やーっと見つけた!!」


突如、先程恐怖を感じた声が俺の耳に届く。気を抜いていた俺はビクリと体を震わせて廊下を見回す。だが俺がいたのは廊下のどん詰まりであって正面にしか道はない。見渡すまでもなくどこにもいないのは明らかだ。相手が、普通の人間であるならば。


「っ!…どこにいやがる!」


誰もいないはずの廊下に俺の声が響き渡る。しかしそれは奴の耳に届けども廊下から返答がくる事は無かった。


焦りを感じて、冷たい汗が流れ始めた俺のことを知っては知らずか、呑気な声がまた聞こえてくる。それでやっと声の出所が分かりそちらに振り向く。声の主は、高さ10mはあろう校舎の壁を何食わぬ顔ですり抜けて入ってきたのだ。


「こっちだよ~。こっちこっち」


「うわぁッ⁉」


 ひょっこりと上半身だけを校舎内に入れて手をぶんぶん振って自身をアピールしてくる姿はコミカルともホラーとも言い難い絵面をしていて、俺は歩き出そうとした足を引っ込めて後ずさる。


「もー、会っていきなり逃げるとか酷くないですか?しかもめっちゃ早いし…見つけるの大変だったんですけど」


お気楽そうに喋りながら女は喜々と俺の方ににじり寄ってくる。その足はバタバタ動かしてはいるが空中で振り回しているだけで前に進む推進力とはとても言い難く、フワフワと浮きながら等速で寄ってくる。そんなものを間近でみて、逃げ出さない奴はいないだろう。奴は俺の道を塞ぐかのように目の前に現れたので後退するしかなく、熊対策ではないが、俺は後ろを見せないように後ずさりして距離を取ろうとした。


しかし、先程から周知の通り、ここは廊下のどん詰まり。十歩程度で、部室準備室の壁に背中がぶつかってしまいバランスを崩してコケてしまいへたり込んでしまった。


「うぉっ!」


「よーしよし、もーう逃げられないよ~。…なんか私がワルモノみたいな感じになっちゃってる気がするけどこの際どうでもいいや!観念しなさい!」


 指をびしっと指してきて仁王立ちする相手、それに対して俺は動けずにただ声を上げるしか出来ずにいた。


「なんだよ…お前いったい何なんだよ!」


 俺の問いかけに、目の前の女はさも当然そうに、先程と同じことを言い放つ。


「さっきも言ったじゃん。幽霊だよ、ユーレイ。ちょっと可愛い女の子の」


 その内容は俺の脳に届くことはなく、なんでこんなことになってしまったのかと現実から意識を飛ばし、今日を振り返るばかりであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る