シルバーガール

 ここまで二人になれないまま、ひたすら一人で過ごしてしまった。

 最近は歳のせいなのか、正体不明の黒い感情で意味もわからず涙が溢れる。


 店の名前も見ないまま入ったバーは少し古めの洋楽が流れ、ラクダのこぶのような肉の原木が薄暗いキャンドルに照らされていた。先客は二人だけで、古いアンティークの匂いと、狭く閉鎖的で儀式じみた雰囲気が心を安らげる。泣きはらしてしまったカエルのような目を隠すにはもってこいだった。


 奥のカウンターに一人で腰掛ける。椅子の皮がひんやり冷たく、硬い。

 神経質そうなバーテンにレッドアイを注文し、ポケットから小瓶を取り出す。

 年甲斐もなく覚えてしまった遊びをカウンターの下でこっそりと開ける。グラスを置いた店員が戻るのを待ち、到着したレッドアイと一緒に四十粒を三回に分けて飲み込む。


 目に見えないものは何一つ変わらないのに、見えるものだけが変わり続ける。

 あんなに撫でられるのが好きだったツヤのある黒髪も、今では見る影もない。

 錠剤が溶け出し役割を果たし始め、全身の毛穴が広がっていくのを確かめながら、真似して覚えた巻きタバコをひと吸いする。


 誰に理解されなくても、この胸のうちの愛は本物だ。

 覚えているのは全て夜だが、それでもあれは本物の愛だった。


 入り口の鐘を鳴らして隣に座ったヘビ面が、メニューも見ずにデンキブランを注文する。私が飲んでいるのはさしずめデンキブロンか。

 ヘビ面はしきりにバーテンに話しかける。その隣ではラクダ面した男がキャメルをふかしながらゲラゲラ笑っている。

 全てが滑稽でどうでもいい。あの人がいなくなってからは、誰も彼も動物と一緒だ。好意こそ生まれても、愛すべきでもないし、愛されるべきでもない。

 そんなことも今では四十人の小人とアルコールが運ぶ無意味な多幸感のおかげでどうでもよくなっていた。

 

 その時、全ての夜を思い出すような歌を聞いた。

 

 諦めたような声で淡々と歌う、女性の英語の歌。

 あの人の車で送ってもらう時に、降りたくないと駄々をこねる度に聞いたあの歌。


 ——この曲が最後の曲だから、これが終わったらバイバイね


 降りたくなくて、大事にしたくて、ずっと聞いていたかったこの歌。

 あの声あの顔あの匂いあの温度あの唇。全てが原色で一気に広がる。

 この曲があれば、まだあの頃に戻れる。曲名が知りたい。

 カウンターのバーテンに声をかけようとするも、ブロンが回りすぎて呂律が回らない。

 「なになに?どうしたの?」ヘビ面が横から割って入る。

 違う、お前じゃあない。私はバーテンに聞きたいんだ。

 この曲名はなんなの?なんていう曲?誰の曲なの?

 自分の理想とはかけ離れた言語が口から飛び出す度に、ヘビ面がいちいち口を出す。


 ヘビが蛇に、ラクダがラクダに、初めて陥る幻覚の中で周りの速度が徐々に落ち、全てが色彩を失ったスローモーションに感じる。その反面、体の中では極彩色の加速が始まり、何もかもが空回りしているようだった。  


 ——第一アレはリンゴじゃない。嘘もいいとこ大嘘つきだ


 歳を無視したブロン遊びのせいか、記憶の洪水に飲まれたか、ヘビ面を押しのけると同時に視界が狭まり、コントロールを失った体がぼけた景色に倒れこむ。


 暗がりの中で寝転がりながら天井を見上げると、あの人が歌を口ずさんでいた。

 

 「おいおいおいおばあちゃん、マジかよおいおいおい」

 

 曲が徐々にフェードアウトしていく中で、除夜の鐘が遠くで鳴り響く。


 誰か、誰か教えてください。

 ここのこの曲、私も知りたい。

 私も、一緒に歌いたい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シルバーガール ルム @lmu_poplife

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ