マクスウェルの悪魔⑷
足を踏み入れた廃墟で子供を見つけることは、私たちにとって、そう珍しいことではなかった。もっとも、絵本の中から飛び出してきたような部屋で、お人形のような美しい少女と遭遇することなどもちろんなかったのだが——少なくとも、今、目の前で震えている少年は、私たちが今まで出くわしてきた数々の悲劇にとてもよく似ていた。
そう、似ていた。
たったそれだけのことで、私たちはいつも、道を容易に間違える。
「ねえ、あなた。聞こえる?」
こう聞くのは、もはや習わしのようなものだった。パンデミック初期の頃、実にさまざまな憶測が飛び交った。感染を防ぐには、言葉さえ聞こえなければいい。DTLの潜伏期間はかなり長い。まだ言葉を覚えていない幼児ほど大人への感染力が高い。憶測の数々は、コミュニティに新しく入ってきたメンバーへの疑念を呼び、特に、感情の読めない無垢な目をした幼子への恐怖を産んだ。そうして過熱した集団の恐怖は、一つの意志に帰結する。
認められたいのなら、証明しろ。
みんなの安全のために、舌を切れ。
針を刺して、鼓膜を破れ。
「……?」
かろうじて。
かろうじて何か聞こえた——といった具合の顔色で、恐る恐る子供は顔を上げる。そして小さく悲鳴を上げ、がたがた震えながら壁にぴたりと身を寄せる。グレースはライトを床に置くと、再び呼びかけた。
「大丈夫。私たちは、あなたの味方よ」
その聖母にも似た後ろ姿と、安堵させる囁き声に、私はぎゅっと心臓を握りつぶされる心地がした。私が先に彼を見つけていたら、こんなふうにできただろうか。いや、きっと無理だ。
長い髪の中に隠れた少年の目は、怯え混じりにグレースの瞳を見上げ、やがて、ぽろぽろと大粒の涙を落とした。グレースは彼に近づいて、そっと慈愛を込めた抱擁をする。見慣れた救済のシーンだった。
「……痛ぁい!」
そんなありふれた奇跡の情景を裂くように、また、少女の痛々しい悲鳴が響く。
「痛い、痛いよお」
「……うるさい」
私はすでに、この謎めいた不気味な子供に対して、あれこれと配慮するのをやめていた。ただその大人げない態度を抜きにしたとしても、私の声には相応以上の苛立ちが篭っていた。私は、彼女が「痛い」と言ったのは、私が彼女の手を握る強さのことだと思ったのだ。別にきつく握り締めているわけでもないのに、全くこれは、陶器人形か何かだとでもいうのかと、心の中で八つ当たり混じりの悪態さえ吐いて。
でもそうではなかった。
私はマリーの後頭部を見下ろして、危うく大声で叫びを上げかける。姫君のように艶やかな髪の隙間から、茹る湯気を伴って、煮えたつコールタールのような粘ついた液体が湧き出ていた。
「痛い、いたい……あつ、い」
私は、ただ、狼狽えた。いよいよ化け物と叫んで手を解いてしまっても良かったのに、そうしなかった。できなかった。習慣というものは——見えぬ空気の中で日々呼吸をしてきた積み重ねの結果は、そう簡単に変えられるものではなかった。訛りのように。それがたとえ、自分の本質とは全く関係なかったとしても。
だから——助けを求めた。
こういう問題に関して、欠陥品の私などよりも、ずっとずっと適任の彼女に。彼女ならなんとかできる。彼女ならなんとかしてくれる。……こんな出鱈目な生き物には、どんな人間も打つ手など持たないことは分かりきっていたのに、それでも呆れるほどに信頼を込めた眼で、私は親友を振り返る。
「グレース、」
——そして。
言葉が止まった。
言葉がそれ自体に意志を持ち、喉奥の、ぬるりと湿り気を帯びて温かい、安全な暗がりなら出てくるのを嫌がっているのがよくわかる。消化管の中で吸収される栄養よろしく、体内にそれが溶けるまで、私の目は、親友の可愛らしいブルーの上着の真ん中に、釘付けになった。紅い花が、童歌のように、咲いている。
「え」
花の中心できらめく先端が、ぐるりと回転する。捻じ切れて散った花弁が、べちゃべちゃっ、と床に落ちる。虫の声。苦悶と驚愕に満ちた表情が、真っ直ぐに——いつもと同じ、目を逸らせない愚直さで、私を見据えていた。
「グレース、」
その瞳が、ずれた。
まるで積み木崩しの兵隊のように。髪をふわりと揺らし、その首が汚い床に落ちるまで、ただ立ち尽くすことしかできなかった。声が。言葉が出ない。倒れ伏すグレースの身体を見ながら、漠然と考えていたのは、なぜいつも
「……」
血染めの友の亡骸の奥から、飛び出す絵本さながらに、空洞の目をした少年がぱらりと現れる。狼だ。私は思う。か弱い羊の皮を被った狡猾な人狼。嘘吐き。化け物。物言う舌さえない——マクスウェルの悪魔。
デッドメンスピーク/Dead men speak 名取 @sweepblack3
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