マリーの部屋(3)
少女はこちらの予想に反し、茫然自失にも恐慌状態にも陥ることなく、ただただ冷静なブルーの目で「挨拶」した。ぺこりと可愛らしい会釈つきで。その様子にかえって私があっけにとられ、「えぇっと」と言い淀む。
「あなたは……」
「わたし、は」
少女はそう言いながら、すっと右手を挙げてみせた。真っ白の手首に、正方形の黒いバーコードマークが刻印されている。マークの下には、その少女の名前らしき文字列が小さく印字されている。
「
最初の4文字は確かにそう読めた。しかしそれ以降のアルファベットは、私の知る英語の文法規則を全く守っていなかった。それはてんで不規則な並びで、まるで誰かがでたらめにキーボードを叩いたかのようだ。
私が少女の手首を眺めていると、グレースが不意に私の前に出て、少女の顔を両手で挟み込むようにして掴んだ。少女は突然そのようなことをされてもなお、人形のように無表情のままだった。その顔はほとんど汚れておらず、まるで今まさに絵本の世界から抜け出してきた天使にさえ見える。
「グレース?」
「この子、例の『逃亡者』かもしれない」
逃亡者。その単語に、ざわっと不快な感情が沸き起こる。「逃亡者」または「脱走者」……その呼ばれる人たちのことを初めて聞いたのは、半年前のことだ。正常な言語を話す人間のコミュニティの中には、それぞれ独自のルールというものが存在している。たとえばそれは、無数の体系から成る厳密な教義であったり、投票によって選ばれたリーダーからの指示であったりだ。もちろんルールというものは、この無秩序な世界で安全に共同生活をしていくには必要不可欠には違いないだが、そのルールの過激さは、そのコミュニティによって全く異なる。
「マクスウェル」という名前のコミュニティがある。
北アメリカ大陸のどこかにある、ということ以外の位置情報はわかっていない。が、マクスウェルはとある巨大な刑務所を拠点として発展したコミュニティだということが知られている。刑務所である以上、外敵に侵入されにくいのはメリットではある(私たちのコミュニティも森に囲まれていてスピーカーに見つかりづらい)。だが、高い塀に囲まれていることは、同時に「内部からの逃走もしにくい」ことを意味する。そしてマクスウェルのルールは、非人道的という言葉ではとても言い尽くせない、ともっぱらの噂なのだった。
目撃・遭遇した他のコミュニティからの情報によれば、彼らは『遠征隊』なるものを組織しており、スピーカーを殲滅するのみならず、他のコミュニティをも襲い、時には皆殺しにさえして備蓄を奪う。そしてその『遠征隊』は、コミュニティで生まれた子供の中で身寄りのない者、あるいは特に身体能力に秀でた者を選んで隔離し、幼少より『従順な兵士』として育て上げた軍隊であり、そして聞くところによれば皆一様に──舌がない。
「ねぇ、お願い」
グレースがそっと片膝をつき、少女に語りかける。
「私の言ってることがわかるなら、少しだけ、口を開けてみて貰える?」
「……」
少女は数秒ほど、投げかけられた言葉をゆっくり咀嚼して飲み込むような間を開けた後、ゆっくりと小さな口を開いた。素晴らしく整った白い歯が整然と並んでいるのが見える。舌は健常な輝きを持ってそこにあった。柔らかな桃色で、少し乾燥してはいるが、傷などはどこにもない。
「……良かった」
グレースは緊張の糸が切れたようにどっと大きく息を吐いた。
「どうやらマクスウェルからの逃亡者ではないみたいね。でもね、あなたこのままずっとここにいたら、遠征隊や他のスピーカーたちに見つかっちゃうわ。危ないから、ひとまず私たちと一緒に来なさい。いい?」
「……」
青い目の少女――ひとまずマリーと呼ぶべきか――は、どこかぼんやりした瞳を、意見を求めるようにこちらへ向けた。私は真剣に彼女を見つめ、頷いてみせる。「わかった」とマリーもついに首を縦に振った。
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