荒野の狼

三石 警太

荒野の狼

君が笑えば、


世界は君とともに笑う。


君が泣けば、


君は一人きりで泣くのだ。




- エラ・ウィーラー・ウィルコックス -


彼は、一人佇み風に吹かれていた。

何をするでもなく、何かを考えるでもなく、野生の本能に従い、ただひたすらに生きようと必死だった。


彼に、親など居ぬ。

いや、もしかしたら居たのかもしれないが、いや必ず居たのだが、彼は親のことを何一つ知らない。


生まれながらに一人で生きてきた。

そういう宿命だった。


それが変わったのは、あの時からだった。

あの時、彼は根本的に、決定的に、変わった。



ぐぁぁぁ。

少年は精一杯の低い声を出し、対面でこちらを睨んでいる鰐に対し、威嚇した。

鰐は、何も言わず、ただ機会を伺っている。

こちらをパクリと丸呑みにする機会を。

重く鉛のような空気が辺りに満ちる。

少年は少しずつ後ろに下がり、足元に散らばる砂利が、ザザッと音を立てた。

その瞬間、鰐が目にも留まらぬ速さで少年の元に迫った。

四肢をバタつかせ猛スピードで迫る鰐をヒョイっと身軽に躱すと、カウンターのように持っていた石槍を鰐めがけ振りかざした。

石槍はひゅぉっと言う音を一瞬立て、直線上に鰐に向かい飛んだ。

がごっという音と共に、石槍は鰐の左の眼球を貫いた。

少量の血が流れる。

それに怯んだ鰐は、川へと戻っていった。


ぽたぽたと水滴が滴ってくる。

気づくと少年は大量の汗をかいていた。



少年は、生まれながらに一人で生きてきた。

猛獣に襲われた時は木に登り、草食獣を見つけると、手製の石槍を喉めがけて突き刺した。

その生活に疑問を抱いたことはない。

野生の本能に従い生きてきたからだ。

それが自然の掟。

殺るか殺られるかの世界なのだ。


太陽が落ちかけている。

あたりはオレンジ色の光に包まれ、昼間に見ると白く感じる岩石も今は赤く染まって、まるで、ごつごつしたトマトのようだった。

空を見ると、少しばかりのもくもくとした雲と、綺麗なまんまるの太陽が浮かんでいた。

なぜ、空は明るいのか、なぜ、陽は落ちるのか、なぜ、夜は暗いのか。

少年は知らないし、疑問にも思わない。

それが普通だからだ。

薄暗くなり、見えるか見えないかぐらいの明るさになり、少年はねぐらにたどり着いた。

小ぶりの洞窟が少年の住処で、周りを木々に囲まれ、外敵にも見つからないようになっている。

その最深部に取ってきたふかふかの葉をしき、ベッドにしている。

その上で少年は夜を明かす。


ぐぅと腹の虫が鳴ったのに気づき、少年はあたりを見回した。

たくさんの木々の中にキラリと光る一本の木があったことを少年は見落とさなかった。

目を瞑ると、かすかに、複数の虫の羽音が聞こえてくる。

その木までさくさくと落ち葉を踏みしめ向かう。

近づくにつれ、羽音や、虫の音が強まっていく。

その木には、樹液が染み出していた。

ねとっとした樹液めがけ、緑色や、こがねいろなどたくさんの虫が集まっている。

その中の一つ、もぞもぞと動く幼虫をひょいと持ち上げパクリと丸呑みにする。

中から体液が流れ出し、ドロドロと喉を伝う。

やはり生肉のほうがうまいが、まあ腹の足しにはなるだろう。

そのまま2.3匹食べ、住処に向かった。

暗闇に何匹か、わおーんと声を響かせる動物がいた。

かなり遠くだ。

様々な種類の動物たちの呼応する声がうっすらと聞こえる。

じーじーと虫は鳴き、かさかさと葉を鳴らす者もいた。

皆、仲間がいる。

共に狩をしたり、共に敵から逃げ惑ったり。

しかし、少年には、何もいない。

1人だ。

孤独に苛まれながら、少年は眠りについた。


どこかから聞こえる鳥の囀りで、少年は目を覚ました。

のそのそとねぐらから離れ、洞窟の前でぐいっと体を伸ばす。

獲物を取りに行かなければ、少年は空腹感の絶頂にいた。

考えてみれば、昨日は幼虫3匹しか食べていないので、当然ではあった。


少年が今いる場所、住処は"ウッドジャングル"と言われる場所で、木々が特に鬱蒼としている地帯だ。

昨日鰐と死闘を繰り広げた川は"サンドリバー"と呼ばれており、鰐達が獲物を求め上流に来ていることもつゆ知らず、痛い目にあった。

実際無傷ではあるが、危なかった。

ウッドジャングルの南には"ビートルジャングル"と呼ばれるジャングルがあり、たくさんの種類の昆虫と小型動物の宝庫だ。

今日は、ウッドジャングルの北西にある、荒れ地に行こうと少年は決めた。

荒れ地には、植物など生えていない、荒れ果てた土地が広大に広がっている。

そこは、大型動物が住処としている。

その子供を、今日は狩に行こう。

そう決めたのだった。


住処を出て、鬱蒼とした木々を後にし、段々と足元が荒れてきた。

落ち葉や湿った土から、ごつごつとした岩石や、乾いた砂になり、体力を削られる。

早く獲物を探さねば…。

キョロキョロと辺りを見回すと、急にひらけた場所に出た。

そこは小さな水場になっていて、たくさんの動物たちがたむろしていた。

足が細く、赤い毛に包まれたフラミンゴは片足を90度に折り曲げ、水に足をつけて涼んでいる。

こいつは食べても美味しくなさそうだ。

他の動物を探す。

水を飲むシマシマの模様が印象的なシマウマがいた。

足の蹄は力強く、あれで蹴られたらひとたまりもなさそうだ。関節は異様に膨らみ、威圧感を感じさせる。

その奥で、群になり水を飲む子供のシマウマを見つけた。

そばには、前足を八の字に大きく広げ、体勢を低くし水を飲むキリンの姿もある。

それがいい具合に子供のシマウマの壁となって親に見つからないようになっている。

少年はじっと息を止め、子供のシマウマに近寄っていく。

警戒心0の子シマウマ達が一斉に水に口をつけたのを見計らい、岩に身を隠していた少年は鋭利な石槍で少しばかり離れて水を飲んでいた子シマウマの喉を突き刺す。

場は騒然となり、ドタバタとその場を逃げ出した。

さっきまでの活気と裏腹に、しーんと音もしないこの場所に1匹、精気を失った子シマウマが横になり息絶えた光景は物悲しいものだった。

しかし、生きていくためには致し方のないことだ。

それくらい自然界は厳しいのだ。

久々のご馳走に、周りも見えないくらいガツガツと貪り食っていた少年は近づいてくるハイエナの気配に気がつくことが出来なかった。

「おい、それは俺たちハイエナの獲物だ。どっかに行きな」

少年は、この自然界で生きているうちにある能力を授かった。

動物と会話する能力。

何を言っているか、理解することもできるし、それに受け答えすることもできる。

しかし、その能力に首を絞められることもある。

それが今だ。

ハイエナ達に獲物をよこせと脅されている。

数十匹のハイエナの群れに睨まれちゃ、やることもやれない。

「このシマウマは俺が狩った。だから、俺のもんだ。だけど、お前らには、少なくともその量じゃ、勝ち目はない。だから、半分にするのはどうだ?」

ハイエナ達は口々に少年を罵った。

あのガキに舐められてるぞ

半分じゃ足りねーよ

さっさと失せろ

それを一括し、リーダー格の雰囲気が漂う先頭のハイエナが話し出した。

「聞こえなかったか?それは俺たちハイエナの獲物だ。逃げた方が身のためだぜ。じゃなきゃ、俺たちの飯が増えるだけだ」

リーダー格のハイエナはヨダレを垂らしながら、少年に向かい威嚇した。

少年は仕方なく、その獲物をハイエナに渡し、ウッドジャングルの方角に向かっていった。

「さっすが、タバリの兄貴。痺れますね!」

「喋ってねえで、さっさと食べろ。日が暮れちまう」

ハイエナ達は獲物をせっせと食べ始め、少し遠くで恨めしそうに睨みを利かす少年に気づかなかった。


幸い、腹八分の食事はできた。

空腹感は今のところない。

当然、あのハイエナ達にははらわたが煮え繰り返るくらいの怒りを抱いてはいるが、羨ましくもあった。

あのハイエナ達には、仲間がいる。

それも何十匹も。

あれなら、孤独感も無いし、さっきみたいにしていれば安全に食料にありつける。

それに比べ、少年は独り。

少年にとって、最大の外敵は孤独だった。

行きはあんなにも時間の流れが早く感じたのに、今はとてもゆっくりしている。

行ききた道を意気消沈といった具合にトボトボと歩いて帰っていると、日が暮れてきた。

昨日はあんなにも、煌びやかな世界だったのに、今はモノクロの世界に包まれている。

雲が太陽の邪魔をし、西は夕暮れに染まっているのに、こちらは薄暗い。

まるで一足先に夜が来たようだった。


ウッドジャングルにある住処の洞窟の上は見晴らしが良く、荒れ地がよく見渡せる。

ごつごつといくつかの岩が重なり合い、その隙間にこんもりと丸々した植物が生えていたりする。

頂上にだけ光が差し、神聖な雰囲気が漂っていた。

奥には名も知れぬ山々が無数にそびえ立ち、幾つかの鳥が空を飛び、巣に戻って行く途中のようだった。

ここから見ると、木々はまちまちに生えており、その木々が生える荒れ地と山々の間に薄暗く見えるのが"骸の巣"と言われる場所だ。

無数の骸骨が無残に残り、冷徹なハイエナ達の巣になっている。

さっきのタバリというハイエナ達は骸の巣からやってきた一派だろう。

そう考えると、自分もあの時もっと抵抗していれば、骸の巣に無数に無残に散らかる骸骨達の一部になっていたのかと、虫酸が走った。

完全に陽が落ち、その忌々しい骸の巣も見えなくなった。

少年はねぐらに戻り、現実に目を背けるように眠りについた。


聞き覚えのある鳥の鳴き声で目を覚ます。半ば、その鳥の鳴き声が目覚ましになっている。

荒れ地には、ハイエナの群れがいるし、サンドリバーには鰐の群れがいる。

そんなのに負けず、生きるためにはまた行かねばならないのだが、2日連続で危険な目にあっている。

今日は安全に南のビートルジャングルで小動物を狩るのがいいだろう。

そう判断し、少年は南の方角に歩き始めた。


ウッドジャングルも木々が鬱蒼としていたが、ビートルジャングルは、活き活きとしていた。

ウッドジャングルが深緑色だとしたら、ビートルジャングルは薄緑色。太陽の光を燦々と受け、光り輝く木々の下、虫たちが活発に蠢いていた。

ウッドジャングルと異なり、緑色の植物だけでなく、赤い植物や、黄色い植物、紫色の植物などカラフルに彩られていた。

横たわり、朽ちた木には、赤や緑の幼虫が潜み、生命の循環が行われていた。

何一つ無駄がないのだ。命は循環する。

空気が澄んでいる、晴れ晴れとした気持ちになった。

霧が濃い。

少し進むと、木々と木々の切れ間に大きな穴が空いたように光が差しこむ場所があった。

そこには背の低いつくしや、ヤシのような葉っぱなどが生え、これまでとは違う顔を見せた。

そこにチョロチョロと音が流れていることに気づき、その音源の方へ向かうと、細い滝があった。

豊かな自然に挟まれたその滝から流れる小川にはどこか心を癒される。

ひょろひょろと細い枝が伸び、傘のように太陽を遮り、木漏れ日が小川に反射しキラキラとまるで宝石のように輝いていた。

そこにピチョンと跳ねる小魚を見つけ、小川を覗くと、たくさんの小魚が群れをなし、流れのない場所でたむろしていた。

少年は顔をがぶっと突っ込む。

何匹かは水とともに食べることができた。

腹も喉も潤い、さらに奥へと進む。

今度は鬱蒼とした緑が光を遮り、薄暗い場所になった。

上を見上げると、枝から生えた葉がしなり、下に垂れてきている。

その姿はまるで時の止まったスコールのようだった。

いや、ハイエナのよだれのようでもあるな。

足元には所狭しとコケが生え、柔らかい感触が気持ちいい。

その感触を楽しむことに夢中になり、気づけば夜になっていた。

木々の間から見える星空は格別で、今にも降ってくるような気がした。

星空に照らされた木々はまたこれまでと雰囲気が異なり、美しいが、不気味でもあった。

月がくっきりと見え、太陽にも負けない大きさのように感じられた。


洞窟に帰ってきたのは朝方のことだった。夜が明ける少し前に、ねぐらについた。

大変な生活をひと時でも忘れることができて、心が潤った気がした。

今日は、寝よう。

明日からまた、激しい毎日が始まる。

生きねば。


早く寝てしまったので、いつもの鳥の鳴き声を聞くことなく早朝に起きることができた。

さて、どうしたものか。と、少年は考えていた。

今日は、どこに獲物を狩りに行くか。

そして、少年は南西の方角にある砂漠。通称フロルサンドに向かった。

フロルサンドには、果実の豊富な甘いサボテンがある。

それを食べに向かった。

砂漠には、砂以外何もなく、サラサラとしていてとても暑かった。

地面も熱いし、歩く度に足が沈み歩きにくい。

しかし、こんな過酷な場所に咲くサボテンだからこそ豊富な甘みを蓄えたデザートになり得るのだ。

砂漠にポツンと佇む、サボテンの果実を食し、帰りはビートルジャングルを迂回するルートをとることにした。

なんとなく、これだけで帰るのは嫌だったのだ。

フロルサンドとビートルジャングルのちょうど境目あたり、夕暮れに輝く、自然の混合に感動していると、甲高い笑い声が背後からしてきた。

後ろに振り向くと、枯れ木から猿が降りてきた。

うきゃっうきゃっと鳴いている。

やがてこちらを見つけると、じっとこちらを見つめゆっくりと歩いてきた。

その猿は茶色の毛で覆われており、鼻が赤く、異様に大きかった。

つぶらな目と鼻の間には白い線が入っており、知的な佇まいをしていた。

「おや、あんた見ない顔だ。どこから来たんだい?」

「ウッドジャングルから来た」

「名はなんという?」

「名前?名前などない。ずっと1人で生きてきた。お前は誰だ」

猿は陽気な笑い声を立てながら縦によく伸びた手を叩いた。

「威勢がいいのう、良いことだ。わしはなんでも知っておる。長年ここに住んできたからなあ。見たところお前さん、かなり若いの」

話ぶりからして、この猿はかなりの高齢のようだ。

「わしはシュリファ、ここビートルジャングルとフロルサンドに住んでおる。お前さん、いい目をしておる。野心に満ちた、飢えた目じゃ。若さは罪か、原動力か」

嬉しそうに体を上下に揺らしながら訳がわからないことを呟く。

「お前さん、今夜はうちに泊まっていくといい、夜も更けてきた。夜のビートルジャングルは危険じゃからのう」

「何が危険なんだよ、お前さん見たところによると、狩られる側ではなく狩る側じゃろう」

どういうことだろう?

成熟しきっていない少年は何を言っているかわからなかった。

シュリファはビートルジャングルへと向かっていった。

付いて来いと言わんばかりに手を縦にこまねいている。

仕方なくとぼとぼと背中を追う。

シュリファは軽い身のこなしでひょいひょいと木と木の間をすり抜けていく。

少年はその間を通るのに一苦労。

やがて辿り着いたシュリファの住処はバオバブの木の上にあった。

異様に太い幹の上にシュリファは住み、暗闇の中で光る蛍が幻想的だった。

「ここじゃ、素晴らしいだろう」

「ああ、いいところだな」

「ここはのう、たくさんの顔を持っているんじゃ」

「顔?この木に?」

「そう杓子定規に物事を捉えるな。一点を見るのではない、全体を見据えるのじゃ」

シュリファはいちいち言うことが難しく、少年には理解不能だった。

「朝には雲の上に立つ仏の家のように静かな顔を見せるのじゃが、昼にはほとばしる情熱のごとき熱い顔をちらつかせる。そして夜にはこうして神聖な、桃源郷のような場所に変わる。だからわしは気に入っておるのじゃ、飽きないからのう」

それは、なんとなくわかる。

以前にビートルジャングルに入った時も、行きと帰りでは漂う雰囲気が違った。

根幹の部分でシュリファに通ずる何かがあった。

「これを飲むか?木の実を擦って作ったパウダーを幼虫にかけると絶品なんじゃ」

シュリファが勧めたそれは、とても奥深い味がした。

これは長年の経験を培ったからこそ出せる味だった。

「我々は命をいただく。たくさんの命を奪わないと、生きることはできない。そして、我々が死ぬと土に還り植物の栄養となる。そして、お前さんが食べるように草を食べる動物や昆虫が育つ。命は輪っかなんじゃ。皆繋がっておる」

さっきシュリファが言っていた通り、一点ではなく全体を見据えると今の話はわかるような気がする。

そして、シュリファは電池が切れたようにいきなり寝息を立て夢の世界に誘われた。


周りは鮮やかに明るくなり、少年はシュリファのもとを後にした。

「お前さん、一つ忠告しておいてやろう。フロルサンドの北にある、いや、お前さんはウッドジャングルに住んでいたのだったな。ウッドジャングルの西にある"龍の巣"には近づくな、言い伝えじゃがあそこには自分と瓜二つの"何か"が襲ってくるらしいからの」

そう別れがけにシュリファは教えてくれた。


洞窟に帰ってきたのは昼過ぎだった。

一休みし、少年はサンドリバーで水分補給をする草食獣を狩りに出かけた。

鰐には気をつけよう。

荒れ地のハイエナ達もサンドリバーに行くためには骸の巣から向かわなければいけない。

となると、上流で狩ることになる。

ならば、下流寄りのサンドリバーで狩れば、ハイエナに邪魔されることはない。

下流にはビートルジャングルがあるだけだから、鰐に気をつけさえすれば心置きなく生肉にありつける。

そう考えていたのが間違いだった。

軽んじ過ぎていた。"鰐"を。


少年はウッドジャングルを東の方角に進み始め、地面の材質が柔らかくなり、サンドリバーまで近いことに気付く。

そして、サンドリバーでゴクゴクと喉を潤す、ヌーの大群を見つけた。

幾十にもいるヌーの中で、1匹だけ、群れと離れ、水分補給をするヌーがいた。

そのヌーに狙いを定め、ぎゅっと石槍を構える。

いまだっ!

タイミングを見計らい、ヌーに石槍を突き刺そうとしたその瞬間、水面に大きな水しぶきが上がった。

鰐だった。

ヌーを襲おうとしたのか、ヌーを襲う少年をターゲットにしたのか、鰐が飛び出してきた。

意表を突かれた少年は右腕を噛み付かれた。

「うわぁっ!い、いてぇっあっ!」

あまりの痛さに悶絶する。

「お前に付けられたこの傷、痛かったぜ?」

鰐が囁く。

鰐の目は痛々しい傷とともに白く濁り、盲目だと一瞬で気づいた。

少年が目を突き刺した、あの鰐だったのだ。

あの時の報復だと言わんばかりに、荒々しく殺しにかかる。

その時、後方から、ばんっと炸裂する音が聞こえ、瞬間鰐はサンドリバーに沈んだ。

「だ、大丈夫か?」

見知らぬ人間がライフルの先から煙を出しながらこちらを心配そうに見ている。

噛まれた足は凄まじく痛く、動かせなかった。

残された3本の足で、強引に鰐に連れ込まれたサンドリバーの真ん中あたりから見知らぬ人間が乗るボートに向かい一生懸命に泳ぐ。

ボートに乗ると、見知らぬ人間が優しくて穏やかな声で「足を見せてくれ」と言った。

「こりゃひどいな、うちで手当てしよう」

サンドリバーの対岸につき、向こう岸を見るとウッドジャングルが遠くに見えた。

対岸に来た者はいない。

とても川幅が広く、こちら側には動物がいない。

サンドリバーから陸地におり、すぐ近くに家はあった。

木で作られており、少し作りは粗いが頑丈そうな家だった。

応急処置が終わり、見知らぬ人間はスープを作ってくれた。

暖かくて、安心する味。暖かいが、殺したての子シマウマの生暖かさとは違う。

もっと安心する暖かさ。

「僕は、フィック。君は?」

「名前などない。助かった、ありがとう」

「当然のことをしたまでさ、傷が癒えるまでここにいるといい」

フィックは穏やかに笑いかけてきた。

なぜか、心がこれまでにないほど安らかになった。

なんだか、眠い。

少年はそのまま横になり、スヤスヤと眠り始めた。


目を覚ますと、夜が更け、フィックは少年が起きたことに気づくと夕食を持ってきた。

「お前は、なぜここまで親切にするのだ?」

少年は、生まれてきてずっと1人だった。

誰にも頼らず生きてきた。

それが、今、親切な1人の人間に頼りっきりになっている。

疑問と安堵がまぜこぜになった気分だった。

「あの時の、恩返しかな」

フィックは宙を見上げながら、誰に言うでもなくポツリと呟いた。

「いま、なんと?聞き取れなかった」

「いや、なんでもないよ。さっきも言っただろう?当然のことをしたまでさ」

少し気になったが、腹がぐうと鳴ったので出された夕食を無我夢中で食べ始めた。

満腹になり、また眠った。


「少し痛いかもしれない、ちょっとばかし我慢してね」

フィックは手当てに使った包帯を取り外した。

少しズキっとして、その拍子に変な声を出してしまった。

「こりゃ、アミーナ街へ行って薬をもらわなきゃだな」

そう言ってフィックは難しい顔をした。

「アミーナ街?」

少年は聞きなれない文字列に疑問を覚えた。

「アミーナ街はここから少し北に行ったところにあるスラムなんだけどね、闇市で薬品を売っているんだ、しかし…うぅむ…」

フィックは考えごとをしている様子で、あちこちを行ったりきたりしている。

「フィック、俺のことはいいよ。フィックにも事情があるんだろ?無理はするなよ」

「いや、そうじゃないんだ。よし、アミーナ街に行ってくるよ。でも、約束。誰かがノックしても絶対に戸を開いてはダメだ。わかったね?」

「う、うん。わかったよ」

あえて、なぜかとは尋ねなかった。

少年は人の優しさに触れ、フィックを大事に思うようになっていた。

出来るだけフィックには迷惑をかけたくない。

それを思っての行動だった。

フィックは、アミーナ街に向けスタスタと歩いて行った。

少年は安静にしていたが、喉が渇き小屋の中を漁り始めた。

スープが残っていたので、少しだけよそい飲みながら部屋を見渡した。

部屋はあっけらかんとしていて、必要最低限のものしかなかった。

その時、引き出しに何かの先端がはみ出ていた。

それが気になり、中身を確認してみる。

それは、写真だった。

ずいぶん年季が入っており、皺などがたくさん入っているが、何が映されているか判別はついた。

ちょうど今頃のフィックの年齢のおじさんと狐が写っていた。

なんだ?この写真?

フィックには関係が無さそうな写真をなぜ?

その時、不意にノックされ、驚いて写真を落としてしまった。

それを拾おうとした時、音を立ててしまった。

「おい、フィック。いるんだろ?苦情が入ってんだよ、"獣臭い"ってね。また変なことしてんじゃないだろうな?」

どうするべきだろう。フィックには戸を開けるなと言われているし、しかし、音を立ててしまったから誰かがいることはバレているし…。

少年が思考を巡らせていると、乱暴に戸を殴る音が聞こえた。

「おい、無視してんじゃねーぞてめぇ!村の変人のてめぇがここにいさせてもらえてるのは誰のおかげだと思ってる!」

村の、変人?

フィックが?

はらわたが煮えくり返っていた。

この気持ちには、見覚えがある。

ああ、ハイエナのタバリに獲物を取られた時と同じだ。

少年は思わず、戸を開けてしまった。

「フィックはいいやつだ!フィックを馬鹿にする奴は許さない!」

戸を叩いていた人間は意外に小柄で、少年を見るなり血相を変えた。

「ひ、ひえっ…。フィックのやつ何飼ってんだよ…」

腰が抜けたように尻餅をつきながら後ろに少しずつ逃げていく。

「飼う?俺はペットじゃないっ!」

「う、うわっ、吠えたぁっ!」

全く会話が成り立たない。言葉が通じていないようだった。

そのような全く噛み合わない会話を何回か繰り返した後、小柄な男性は逃げて行った。


しばらくし、フィックが帰ってきた。

フィックが持ち帰った薬を服用すると、たちまち痛みが和らいだ。

フィックには、戸を開けたことは黙っていた。

話せなかった。これ以上フィックに迷惑をかけるわけにはいかなかった。

フィックと夕食を食べていると、また戸を殴る音が聞こえた。

「おい、フィック。今すぐ出てこい、でないとこの家を燃やしてしまうぞ」

さっき戸を叩いた人物ではないようだった。

しかも、複数人で来ていた。

「おい、隠れろ」

フィックが耳打ちする。

そして、床を抜き銃を取り出した。

「俺が、道を作る。その隙に、逃げろ」

え?フィック?何を–––。

ドンっと鈍い音がし、今にも壊れそうな音を扉があげていた。

「なあ、お前はあのボートを使って元いた場所に帰れ、お前の居場所は、ここじゃない」

なんでだよ、また、1人になっちゃうの–––?

「あと、お前に一つ頼みごとがあるんだ。向こうに安全につけたらさ」

状況がよく飲み込めないまま、フィックの言葉を一生懸命拾おうと意識を集中させていた。

「龍の巣に行って、彼女に、ありがとうって、伝えてほしいんだ。これまでありがとうってさ–––」

彼女って、誰だよ–––。

聞く前に、フィックは外にいる人間に壊された戸をめがけ、何発も銃を撃った。

怯んで四方に散った瞬間、

今だっ!

と叫ぶフィックに呼応するように今ある力を全て振り絞り走った。

「狼なんぞ飼いやがって!」

背中でフィックが鈍い悲鳴をあげた。


ウッドジャングルにつき、対岸のフィックの家を見ると火が上がっていた。

黙々と煙をあげる家を見て、激しく後悔した。

あの時、見捨なければ

あの時、戸を開けなければ

あの時、フィックを行かせなければ

あの時、フィックに助けられずに、鰐に殺されていれば

…ごめん、ごめん、ごめんフィック。

少年はフィックの頼みを思い出した。

そして龍の巣に向かった。


ウッドジャングルを抜け、フロルサンドを北に行くと、ガラッと雰囲気の違う場所にたどり着いた。

ここが龍の巣…?

あたりは不気味な雰囲気が漂い、見晴らしが悪かった。

足場は石でできており、グレー色の石がごつごつと覆っていた。

いくつもの穴がボコボコと空き、空にはハゲタカやカラスなどがけたたましく泣きながら旋回していた。

途端、一瞬にして周りが見えなくなり、霧の中から何がが近づいてきた。

それは、一頭の幼い狼だった。

そこでシュリファの言葉を思い出す。

『龍の巣"には近づくな、言い伝えじゃがあそこには自分と瓜二つの"何か"が襲ってくるらしいからの』

これは、自分?

「ここに、何用だ」

声色と口調が似合わず、違和感が不気味に感じる。

「フィックに頼まれてきた」

"何か"は驚いたような顔をし、すぐ睨みを効かした。

「なぜ、フィックを知っている」

「俺は、フィックに二度も助けてもらった。せめて彼の頼みは叶えないと、俺は、罪に押しつぶされてしまう」

霧はたちまち晴れ、周りには大量の狐が少年を取り囲んでいた。

その中から1匹のメス狐が静かに前に出た。

「フィックは、なんて?」

「…これまで、ありがとう、と。」

メス狐は静かに泣き、夜空に向かい咆哮した。


少年は、狐の大群に夕食の席に招かれた。

そこでフィックについて聞かれ、フィックについて、龍の巣について教えてくれた。


龍の巣とは、狐達の隠れ蓑で、群れで狩をし、侵入者には狐が持つ力、"化ける"力を使い、代々この土地を守ってきた。

その時、フィックとそのメス狐は恋に落ち、2人で行動するようになった。

2人でサンドリバーを散歩していた時、鰐に襲われた。

ちょうど少年のように。

その時助けてくれたのが、あの写真のおじさんだったのだ。

そして、帰ってくることもできたのに、フィックはその土地に住むことに決めた。

おじさんに恩を返すために。


「だから、俺を助てくれたのか…」

俺は泣いた。

一晩中泣き続けた。


そして、その狼は龍の巣の一員となった。


フィックの意思を継ぐ者として、その荒野の狼は、龍となった。



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荒野の狼 三石 警太 @3214keita

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