第3話

 わたしは全文を読むことなく、そのメッセージを削除した。


 オクトパス。同業者の間で煙たがられている厄介なファンだ。気に入った女性VTuberに高額の投げ銭をしては、コメントで身勝手な要求をしてくるため、要注意人物としてマークされている。


「なにが信頼を踏みにじる、よ」


 わたしは雑談で灰の館に少し触れただけで、プレイすると断言した覚えはない。それに、灰の館自体そこまでメジャーではないし、多くの訓練兵が悲しんでいるというのも主語が大きいだけだ。思いこみが激しい性格なのだろう。


 けれど文句を直接告げてしまえば、オクトパスは一転して攻撃的なアンチと化す。


 毎日罵倒ばとうメッセージを送りつけたり、誹謗中傷ひぼうちゅうしょう匿名とくめい掲示板に書きこむのは日常茶飯事だ。


 ときにはSNSで殺害予告とも取れる文章を残すこともある。この男に粘着されて休業や引退に追いこまれた同業者は、片手で数えきれない。


 ゆえにわたしがとるべき行動は、この男が別のVTuberに心変わりするまで黙秘を貫くこと。触らぬ神にたたりなしだ。


 ただこの業界ではオクトパスのような、何様だといいたくなるファンが珍しくない。VTuberは芸能人のような憧れの存在というより、友人のような親しみやすさを武器にしているからだ。それだけに、距離感を間違えて言葉のナイフを刺してくるファンが後を絶たない。


 けれどこの活動を続ける以上、飛んできたナイフを折り曲げるくらいの精神力が必要だろう。食事を終えたわたしは、オクトパスのメッセージを気にとめることなくデスクに向かった。今日は二十時からFPSの実況配信をひかえている。


 準備を整えて壁かけ時計を見ると、配信開始の予定時間まで五分を切った。


 わたしはゲーミングチェアに腰を落ちつけた。マッサージ機のような座り心地を味わいながら、周辺の機材を指さし確認する。


 まずはデスクの上にある、会社支給のスマートフォン。専用スタンドに立てかけたそれは、インカメラでわたしの正面の姿を捉えている。その映像情報がパソコンに送られることで、CGモデルも同じ動作をする。


 次に二台のパソコンモニター。一台はわたしと向き合って、今回遊ぶFPSのタイトル画面を映している。


 その右側に置いてある二台目はサブモニターだ。画面には、チャットらんの視聴者コメントを確認できるウインドウと、配信用ソフトのウインドウが並んでいる。


 配信用ソフトには、視聴者が配信中に見る映像を表示できる。現在映っているのはFPSのタイトル画面と、その上に重なるようにして映る、バストアップされたマオちゃんの2Dモデルだ。


 マオちゃんはいま、こちらから見て若干右を向いている。インカメラに映るわたしが、右側のサブモニターを眺めているからだ。ウインクをしてみると、一瞬遅れてマオちゃんもかわいらしくまぶたを閉じた。


 その他の機材は、デスク脇のスタンドマイクと、イヤホン、ゲームのコントローラー、あとはお茶のペットボトルだ。準備は万端。問題なし。


「よしっ、今日こそは」


 気合いを口にして、FPSの画面をにらんだ。


 わたしはシューティングゲームが苦手だ。けれど軍人として銃を手にすることもあるマオちゃんなら、これくらいお手の物だろう。


 そのキャラクター設定と、負けず嫌いなマオちゃんのプライドを守るべく、今日中にゲーム内の階級を少佐から中佐に上げておきたい。


 マウスを力強くつかんだわたしは、配信用ソフトの『配信開始』ボタンを押した。


 そしてマイクのスイッチに指をかけ、第一声を吹きこむ——


 そのまぎわ、背筋に悪寒が駆け抜けた。


 反射的に振り返る。


「…………」


 当然ながら、誰もいない。視線の先にあるのは、寂しい独り身の八畳間だけだ。


 にもかかわらず、いま、誰かに見られているような感覚に襲われた。


 イヤホンをはずして、いったん配信を止める。そうっと爪先立ちになり、息を殺しながらベッドの下や洗面所、トイレを確認する。


 どこも無人の空間だった。ほっと胸をなで下ろしてデスクまで戻る。


 そのとき、玄関ドアが大きな音を立てた。


 息を吐いたばかりの喉が引きつる。とっさに体が玄関へ向いた。


 ドアレバーを勢いよく引っ張ったような音だった。脳裏に浮かんだのは、ドアの外で巨大なタコが、怒りに任せて腕をドアに叩きつけている光景だった。


 ……なに考えてるの、わたしは。


 今日は台風の影響で風が強い。その風圧でドアが動いたと考えるのが自然だろう。


 一応ドアスコープをのぞいてみた。やはり人影はなかった。


 おかしな想像をした自分が恥ずかしくなってきた。けれど、これは職業病なのかもしれない。


 イヤホンで耳を塞ぎ、意識をパソコンに集中させている状況は、はたから見ればあまりに無防備だ。だからふとしたとき、急に背後の空間が怖くなる。いるはずのないなにかを作り上げてしまう。


 わたしは目を閉じて咳ばらいをした。


「余計なことは考えるな。戦場では命取りだぞ」


 マオちゃんになりきって気持ちを切り替える。すると、次第に雑念が薄らいでいった。こういうとき、彼女に助けられているなと実感する。


 席に戻ったわたしは深呼吸をして、マイクのスイッチを入れた。そして改めて『配信開始』ボタンを押した。


「訓練兵の諸君、本日もご苦労。ウォールト帝国陸軍中佐、マオス・ラッテだ。ここのところ猛暑が続くが、睡眠はしっかりとれているか? わたしは花火の音を聞くたび、かの日の砲撃戦を思いだしてな、目が冴えてまったく眠れん!」


 まずはノルマにしている軍人あるあるを飛ばす。コメント確認用ウインドウは敬礼の顔文字であふれ返っていた。遅れて、笑いを意味するネットスラングが続く。


今宵こよいは、諸君に報告がある。おお、すでに知っている者もいるようだな。そう、ついに我がチャンネルの登録者数、もとい訓練兵の人数が九万人に達した。実に喜ばしいことだ」


 わたしが意識して口角を上げると、マオちゃんはにっこりと笑顔を浮かべた。『かわいい』というコメントが嵐のごとくウインドウに吹き荒れる。


 その後は予定通り、FPS実況で時間を過ごした。けれど配信前の気合いを打ち砕かれる勢いで負けてしまい、少佐の階級さえ危なくなる結果に終わった。


 言い訳をするなら、ゲーム中に何度も視線を感じて集中できなかったのだ。ときたまイヤホンを貫通する風雨の騒ぎが、恐怖心を助長していたように思う。


 もしマオちゃんが見ていたら怒るだろうな、と反省する。


「諸君。本日の訓練、ご苦労であった。次回の訓練は明日、時刻は二十一時ふたひとまるまるにおこなう。遅刻した者は腹筋五百回だ。以上、解散!」


 わたしはマイクを切り、配信用ソフトの『配信終了』ボタンを押して一息ついた。


 首を回して、大きく伸びをする。


 今回も無事に配信を終えられた。全身に心地良い疲労感がにじむ。


「あ、のんびりしてる場合じゃないんだった」


 わたしはサブモニターを消した。そして機材の片づけもそこそこに、メインモニターのインターネットブラウザをひらいた。

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