「古代の戦史① カデシュの戦い(後編)」

 シリア遠征を決意したラムセス二世は、シリア遠征軍を『アメン師団』『ラー師団』『プタハ師団』『セト師団』の四つに分けた(師団とはそれ一個で補給から戦闘までをこなすことができる、独立した戦闘集団を指す)

。 また傭兵を雇ってネアリム師団を追加で編成し、五個師団を以ってヒッタイト領シリアへの侵攻を開始する。

 ラムセス二世はヒッタイトの属国であるアムル王国(現在のレバノン地域)を陥落させるなど、当初は非常に順調だった。『肥沃な三日月地帯のため大軍を補給するだけの食料があり、海沿いを進軍している間は船による容易な補給が可能だったであろう』

 エジプトによるアムル王国陥落の報を受けたヒッタイト王ムワタリ二世はすぐさま軍を編成し、アムル王国奪回のために出撃する。

 ラムセス二世はヒッタイト軍との接敵を常に警戒していた。彼の計画では五個師団をカデシュ到着前に展開し、じっくりとこれを攻略するつもりであった(ヒ◯トリーチャンネル情報)。

 しかし進軍途上に捕らえたヒッタイトのスパイから「ヒッタイトの軍は、未だに遠く離れたアレッポ(現シリア最大の都市)にいる」との情報を得ると、ラムセス二世は戦略を急遽変更。ヒッタイト軍よりも先にカデシュに到着しようと急速かつ無警戒に進軍した。確かにカデシュは壁に囲まれた防御に優れた都市であり、建てこもられると厄介なため妥当な作戦変更かもしれない——情報源が信頼でき、なおかつそれに適した編成ならば。


 ラムセス二世が直接率いるアメン師団は慌ただしく前進して、他の師団を置き去りにしてオロンテス川を越え、カデシュ近辺に野営地を築いた。

 そこでエジプトの斥候が捕らえた二人の捕虜を拷問すると、彼らは言った。


「見よ! ヒッタイトの王は既に、多数の同盟軍と共にカデシュに到着している。その数は浜辺の砂粒よりも多し!」


 ラムセス二世はヒッタイトのスパイにまんまと騙された格好となった。慌てて戦闘態勢を取ったものの、その情報が後続の各師団に届く時間を考えると遅すぎた。


 最初の標的は、アメン師団に遅れまいと強行軍を行っていたラー師団だった。ヒッタイトの戦車隊2,500両が側面から奇襲を仕掛けるとラー師団は瞬く間に崩壊する。

 返す刀でヒッタイト軍はアメン師団野営地に突入し、アメン師団を壊滅寸前にまで追い込んだものの、エジプト側の文献に残されてある限りでは王の奮戦、実際のところではネアリム師団が北西方向から到着したことによりラムセス二世は危機を脱した。この間にヒッタイトは戦車部隊しか投入していないが、ここで歩兵部隊を投入していればヒッタイト側が勝利していたと考える学者も多い。兵力的にはヒッタイト側が優勢であったのに、それが活かされることはなかった。

 プタハ師団が到着しつつある中で、これ以上の損害を恐れたムワタリ二世がエジプトのラムセス二世に停戦を申し入れる。ラムセス二世はこれを受諾し、双方共に兵を引き上げた。


 アムル王国は後にヒッタイト支配下に戻ったため戦略的にはヒッタイトの勝利だが、ラムセス二世はエジプトに帰ってカデシュの戦いを大勝利だと喧伝。それを記念したアブシンベル神殿を建てさせ、自らを太陽神と崇めさせた。


 この戦いから伺える教訓は、第一に情報の取捨選択だ。戦場で得られる情報は常に不透明である(これを戦場の霧と呼ぶ)。だからこそ常に警戒を怠ることなく、不意の事態に対応できる態勢を整えてかなくてはならない。

 第二に目的の貫徹だ。いくら臨機応変とは言えども、当初の戦略想定を逸脱した行動を取る場合は確実な情報が必要だ。危機的な場合は賭けに出るような決断も必要とされるが、接敵前の場合はより慎重に判断する必要がある。

 第三に戦争の利用方法だ。勝利の利用方法といっても良い。戦争の利用はただ領土を得たり略奪して金を得たりするだけにとどまらず、国民からの支持や他勢力の弾圧など内政的に利用できる。


 エジプトとヒッタイトの間では後に平和条約が結ばれることになった。


『古の時より、エジプトの偉大なる主とヒッタイトの偉大なる王に関し、神々は条約によってそれらの間に戦争を起こさせなかった。ところが、我が兄、ヒッタイトの偉大なる王、ムワタリの時代、エジプトの偉大な主と戦ったが、しかし、今日この日より、見よ、ヒッタイトの偉大なる王、ハットゥシリは、エジプトとヒッタイトのために、ラー神とセト神が作った、恒久的に戦いを起こさせないための条約に同意する。――我々の平和と友好関係は永久に守られるであろう。――ヒッタイトの子とその子孫は偉大なる主の子とその子孫の間も平和であろう。なぜなら、彼らも平和と友好関係を守って生きるからである。』Wikipediaより引用


 粘土板に記された平和条約の内容は、互いの王を偉大と称している。新興国家アッシリアに対抗するための同盟ではあったが、「平和と友好は永久に守られるであろう」という条文の内容は、戦争で彩られたこの先の人類史に対してある種皮肉的であろう。

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