私のお父さん

賢者テラ

短編

 東京郊外の閑静な住宅街の片隅に、その自動販売機はあった。



 見上げれば、突き抜けるようなスカイブルー。

 雲ひとつない空の広がりの中央に輝く太陽は、同じようなタイプの家屋が連立する新興住宅地の上に、熱を含んだ光線を容赦なく注ぎ込んでいた。

 猛暑と言われる今夏。

 アスファルトの道路からゆらめく熱波で空気さえも歪んで見える、午後二時。

 遠くから、一台の商用車らしいトラックが近付いてくる。

 法定速度を守って焦ることなく走ってきたその車は、真っ赤な 『コカ・コーラ』 のロゴが入ったジュースの自動販売機の前でゆっくり停止した。その車も自販機とお揃いでもあるかのように真っ赤で、車体にはやはりコカ・コーラの商標マーク。

 やがて運転席側のドアが開き、カーキ色のつなぎの作業着を着た中年男が降りてきた。



 今年で43歳になる岡部賢二は、二年前からこの仕事に就いている。担当エリアの自販機の売り上げを回収し、売れた分の商品、つまり缶ジュースを補充して回るのだ。

 賢二はもともと、大手企業に勤める商社マンだったが、不景気と実績不振のあおりを食って、リストラされた。

 リストラはずいぶん前から社会問題になってはいたが、賢二はテレビのニュースや報道の特集番組などを見ながらもそれは『ひとごと』の次元であり、、まさか自分がそんな目に遭うとはまったく思っていなかった。

 それまでのキャリアでつちかったスキル(能力)がまるで生かせない現在の仕事は、賢二のプライドを粉々に砕いた。しかし、彼には文句の言いようがなかった。

 この歳になっての再就職など、できるだけでもありがたいものなのだ、という社会の現実があった。実際この仕事だって、賢二が失業保険で食いつないできて、いよいよそれも切れてしまうというタイミングでようやく見つかったものなのだ。この際、生きるためにゼイタクは言ってられなかった。

 彼には妻も子どももおらず、独り身であった。

 寂しくはあったが、それでよかったのかも、と思うことにした。

 もし家庭があれば、独り身よりもより大変な事態に陥ったはずだからだ。



 冷房の効いた車内から出るのは、少し気合を必要とした。

 エイッ、とばかりにドアを開け、腰にジャラジャラとぶら下げている鍵束からひとつを選び分けると、目指す自販機に近付いた。歩くだけで、皮膚から汗が噴き出してくる。

 住宅地の狭間に設けられた、申し訳程度のこじんまりとした公園。

 砂場とすべり台、そして鉄棒くらいしかない。

 その片隅に、向かいの道路に前面を向けてその販売機は立っていた。



 賢二は、販売機の横に誰かが座っているのに気付いた。

 顔は見えないが…どうも小さな女の子のようだ。

 多分、小学校1、2年くらいだろう。長い髪が彼女の背中をすっぽりと覆い隠していた。

 体育座りをして、自販機の側面に背中をもたれかけさせて、膝の間に顔を埋めている。



 ……この炎天下で、帽子もかぶらないでそんなところにいたら、マズくないか?



 心配になった賢二は、しゃがんで声をかけた。

「あのさあ。そんな所でずっと座ってたら……日射病になっちゃうよ?」

 賢二に気付いた女の子は、スッと顔を上げた。

 涼しげな、キリッとした目をした少女は、少々大人びて見えた。

 しかし、彼女がその後口にした言葉は、幼い子どもらしい一言だった。

「この販売機には置いてくれてないの? Qooのマスカット・グレープ味」



『Qoo(クー』というのは、コカ・コーラ社が販売している果汁入りのジュースである。かわいい不思議な生き物のキャラクターを使って広告を打ち、低年齢層もターゲットとして視野に入れて商戦を展開している。

 問題の『マスカット・グレープ味』というのは、この前発売されたばかりの新商品のはずである。だから、発売中とはいえまだお目見えしていない自販機も多いはずだ。

 また、数ある商品の中でどれがラインアップに並ぶかは、自販機の『オーナー』の采配によるのである。



 その自販機にはなかったが、賢二のトラックのコンテナにも似た荷台の中には、女の子の欲しているそのジュースがあった。先駆けてその商品を導入している販売機が、他にあったからだ。

 四角四面に規則のことだけで言えば、本当はそんなことをしてはいけないのだが……

「よっしゃ。オジサンに任せとき。今、それ持ってきたるわ」

 賢二は胸をポン、と叩いて請け合った。

「ホント?」

 女の子の顔は、花が咲いたようにパッと輝いた。

「ちょっと、待っててくれよ——」

 賢二は女の子のもとを離れ、路肩に駐車してあったトラックの荷台をかき回した。

 探し当てたジュースを手に、賢二はふと考えた。



 ……ただ渡すだけじゃ、面白味がないな——。



「待たせちゃったな」

 手ぶらで、賢二は自販機のそばで待つ女の子のもとに駆け寄った。

「ゴメンな。てっきりあると思ったんやけど——。オジサンの勘違いでな、やっぱりなかったわ」

「……そう」 

 女の子の顔が曇った。

「でもな、オジサンは魔法を使って好きなジュースが出せるねんで。見ててみ~」

 賢二は、まだ商社に勤めていた頃、忘年会の余興のために、と初歩的な手品を一通りマスターしていた。手品のタネ自体は、袖口に物を隠しておく、という分かってしまえば実に子どもだましなものだったが、センスのあった賢二は『効果的な見せ方』というものを心得ていた。



「…来てます来てますっ」

 まるで往年のマジシャン、Mr.マリックのような手つきでハンドパワーを放出するかのようなパフォーマンスをしてみせた。ネタが昔すぎて、子どもにはまず分からないだろうが。

 そしてタイミングを見計らって『エイッ』という掛け声を発する。

 目にも止まらない一瞬の動作で、Qoo のマスカット・グレープ味は突然女の子の目の前に出現した。

「オジサン、すご~い」

 女の子は、惜しみない拍手を賢二に送った。

「冷えてなくて、ゴメンな」

 賢二はそう言って、缶を女の子に手渡す。

「じゃあオジサン、これ」

 その小さな手のひらには、ずっと握られていたであろう、汗を吸った120円分の硬貨。

 賢二はお金を受け取ると、鍵で自販機の機械部を開け、中からQooの普通のアップル味を取り出して、女の子に渡した。

「こっちは冷えてるから、帰りながら飲みな。マスカット・グレープ味のほうはお家で冷やしてから飲むといい。あ、こっちはお金はいらないよ。オジサンからのプレゼントだ」

 ありがとう、と言って少女は帰りかけた。数歩歩いて、賢二を振り返った。

「オジサン、明日も来てくれる?」

 販売機の回り順は好きにできたから、じゃあ今くらいの時間に来よう、と約束した。

 満足した表情を浮かべて、女の子は道を歩いていった。

 途中何度も賢二を振り返り、小さな手を大きく振ってバイバイをした。




 しばらくの付き合いのうちに、その女の子の名前が『安藤久美子』ということが分かった。

 ほぼ毎日、久美子は販売機の前に現れた。

 賢二も、出来るだけ約束した時間には行く努力をした。

 久美子はいつも、Qoo のマスカット・グレープ味を販売機からではなく、賢二から買った。

 久美子が握りしめてきた硬貨を直接渡す。そして、賢二から現物を受け取る。

 販売機を介さないこの不思議なやりとりは、続いた。

 半年ほどして、『季節限定商品』であったそのジュースは手に入らなくなった。

 それでも久美子は、別のジュースを買うことで、賢二との交流を続けた。




 一年ほどたったある日。

 ここ三日ほど、久美子が販売機にやってこないので、賢二は心配した。

 来れない日がある時には必ず前もって言う子だったから、胸騒ぎがした。

 賢二が仕方なく缶ジュースの補充をしていると……

 ある一人の女性が賢二に近付いてきて、頭を下げてきた。



 久美子の母です、と自己紹介した女性は、公園のベンチで賢二と並んで腰掛けた。

 久美子は今、風邪をひいて寝込んでいるらしい。

 それで賢二が心配していると思った彼女は、母に伝言を頼んだのだ。心配しないでね、と。

「あの子を助けてくれて、ありがとうございます」

 自分が久美子をどう助けたのか、賢二にはいま一つ事情がよく呑み込めなかった。

 しかし、久美子の母の話に耳を傾けているうちに、その言葉の意味が分かってきた。

「つい先日、夫と離婚しました。それまではずっと離婚調停の裁判をしてきて、ようやく勝訴して私が親権を得たんです。元夫はひどい人だったので、もう二度と私たち母子には近付かない、ということになっています。

 でも、あの子にとってはひどい父でも、いなくなるのは寂しかったんでしょうねぇ。元夫があの子に最後に買ってやったのが……Qooというジュースの、マスカット・グレープ味だったんです。

 ずっとふさぎ込んで元気のなかった久美子は、最近ではうれしそうに私に話してくれるんです。『外で新しいお父さんができた』って。私、正直ビックリして、何か犯罪に巻き込まれたのか、と気を揉んだのですが……」

 苦笑する賢二の顔を覗き込んで、久美子の母は言った。

「あなたに会って、安心しましたわ。これからも、あの子のことよろしくお願いしますね」




 夕方、賢二が販売機のメンテナンスをしていると、遠くから声がした。

「おじさ~ん」

 中学校の制服姿の久美子は、一緒に下校していた二人の友人に何やら話していたが、別れてこちらに駆け寄ってきた。

 小学校時代と違い、授業時間も伸びクラブ活動などもあったため、賢二と久美子が会うのは夕方が多くなってきた。

「スプライトちょうだい。カロリーオフのやつね」

 ちょっぴり大人になった久美子は、炭酸系の飲料を好むようになってきた。

 あらかじめ用意していたのか、手に握っていた硬貨を賢二の手に置く。

 自販機ではなく直接賢二からジュースを買う習慣は、未だに守られていた。

「じゃ、またね。トモダチ待たせてるから行くね~」

 紺のスカートをはためかせ、久美子は離れた所で待つ友人の元へ駆けていく。

 賢二は軽く手を振って、彼女を見送った。

 その眼差しは、実の娘を見るかのようであった。


 


 あの賢二と久美子の初めての出会いから、17年の歳月が流れた。

 久美子は、2年の交際を経た男性とめでたくゴールインしたのだ。

 今日は、その結婚式。

 賢二は、久美子から式に招待されていた。

 しかし、そこでは大きなサプライズが待っていた。

 久美子自身と母から、『父』としてヴァージンロードを一緒に歩いてほしい、と言われたのだ。

 腰を抜かすほど驚いた賢二は、遠慮から一度は断った。

 しかし断られたショックで、意外にも久美子が泣き出すという展開になり、恐る恐る承諾した。



 大きな教会で挙げられたキリスト教式の式は——

 荘厳かつ神聖なムードに満ち、夫婦の門出を祝うにふさわしいものとなった。

 式の前に新郎とも会って、握手を交わした。

 誠実そうな人柄が感じられ、この人物なら久美子を幸せにしてくれるだろう、と確信した。

 高らかに鳴り響く音楽。

 割れるような拍手の嵐。

 ステンドグラスの窓から極彩色に差し込む光が、腕を組んで歩く賢二と久美子を優しく包む。

 ヴァージンロードの途中で、久美子は賢二の顔をのぞきこんだ。



 ……私の、お父さん。



 そう呼ばれた賢二は胸にこみ上げてくる感情を抑えることができなかった。

 涙に曇ったまなこで、賢二は久美子の晴れ姿を目に焼き付けた。



 娘よ、幸せにな——。



 確かに、久美子は賢二の娘だったのだ。


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私のお父さん 賢者テラ @eyeofgod

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