第四章 ありがとう

「わーたるくんっ」

「おー大垣、おはよう」

「えへへ、おはよ」

 太陽が眩しい夏の朝、学校へ向かっている途中、大垣が声をかけてきた。暑いからか、大垣は横に流した前髪をピンで留めていて、なんかすごく新鮮だ。

「昨日はありがとね」

 歩きながら、大垣が言う。昨日、というのは、僕がひとりで大垣の家に押しかけて、色々と熱弁したことだ。

「いやいや」

「あと、今日からよろしくお願いします」

「あ、こちらこそ」

 と、彼女に合わせて頭を下げる。

 これは、今日からお付き合いを始めることへの言葉だった。

 付き合い始めというのはこんな感じなのか、と初めての経験に少し照れくさく思う。

「それにしても、毎日暑いね~」

 大垣が天を仰いで言う。僕も同じように空を見上げて「そうだな~」と返した。

 雲ひとつない青空は、色の付いた無地のキャンバスみたいで、これから自分の手でどんな絵にでもできそうな気がした。

「あ、そういえば!」

 大垣が僕を見上げて言う。

「今朝ね、不思議なことがあったの」

「不思議なこと?」

「そう。朝起きてすぐにね、いつもと同じように、今日は何の記憶が消えたかなーって幸楽日記を確認したら、何も消えてなかったの! 綺麗に全部覚えていたの」

「おー! すごいじゃん」

「だよね! こんなの生まれてはじめて。神様がお祝いしてくれたのかな?」

「なにをだよ」

「わたしたちのお付き合いを、だよ!」

「痛って!」

 バシ、と大垣に背中を叩かれた。

 よく恥ずかしげもなくそんなことが言えるな、なんて、そんな事を言ったら一日で別れ話をされそうだからやめておく。

「あ、そういえば」

 と、大垣の話を聞いて、僕も一つ思い出したことがあった。

「僕も今朝、不思議なことがあったよ」

「え? 航くんも?」

 僕は自分の制服のポケットに手を突っ込んで、雑に破られたルーズリーフを取り出す。それを丁寧に開いて、大垣に見せた。


『センドさん、

 健ちゃん、

 絶対に忘れたくない』


「どうしたの、これ」

「今朝、勉強机の上に置いてあったんだ。字的には僕なんだけど、これを書いた覚えも、ここに書かれている人が誰なのかもわからないんだよね」

「それは不思議だね。でも、たしかにこれは、航くんの字だ」

 大垣が破れたルーズリーフをしげしげと見つめて言う。

 僕だけじゃなくて大垣も言うのだから、これは僕が書いたものだ。でも、やっぱり思い出せない。

 センドさん、健ちゃん。

 どんなに頭をフル回転させても、そんな洋風な名前の人も、どこの近所にもいそうなニックネームの人も、記憶の中から探せない。

「思い出せないってことは特に意味はないってことなのかな」

「んー……それは違うと思うなぁ……」

 大垣が、もう一度メモを見て言った。

「だってほら、ここの部分。『絶対に忘れたくない』ってすごい意思を感じると思わない?」

「意思?」

「うん。わたし自身、記憶が無くなる人だからわかるんだけど、この一文て、なんだか忘れてしまうことがわかってて、それに抵抗しているみたいに感じるの」

 抵抗――そう言われても、僕にはしっくりこない。

「だからきっと、航くんが覚えていないだけで、このメモはすごく大切なもので、大切なことなんだと思う。ここに書かれている名前の人も、すごく大切な人なんだと思う」

 大垣が「だから、絶対に捨てちゃダメだよ」と言いながら僕を指さす。

 言われたとおり、僕はその破れたルーズリーフを丁寧に折りたたんでポケットにしまった。

 センドさん、健ちゃん。

 センドさん、健ちゃん――。

 センドさん、健ちゃん――……。

 カケラも知らないような人たちだけど、大垣が言うとおり、もしかしたらこの二人は僕にとって大切な人だったのかもしれない。

 そのとき空を見上げたのは、完全に無意識だった。

 眩しい太陽の奥に誰かがいるような気がして、ずっと見つめていた。

「ありがとう」

 小さな呟きは、隣を歩く大垣にも聞こえていたみたいで、彼女が笑う。

「どうしたの、急に。ありがとう、なんて」

「あ、いや……なんでだろ?」

 そう言って前を見た。

 どうして僕は、『ありがとう』なんて言ったんだろう。メモの名前と同じで、それはいくら考えてもわからなかった。

 でも僕は、やっぱりそこに誰かがいるような気がして、誰かがジッと僕を見つめているような気がして、すい込まれるように再び太陽を見上げた。

 一瞬雲に隠れた太陽が、人の瞬きのように見えた。


「長生きするよ」


 よくわからないけど、僕は太陽に向かってそう呟いていた。

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