第40話 請求書

 私のこじらせた風邪はすっかりよくなっていた。雅男の献身的な看病が、私に希望と力をくれた。そのことが私はうれしかった。

 雅男がリビングの床にうずくまり震えていた。

「どうしたの」

「うるせぇ」

 やさしかった雅男は消えていた。

「どうしたの・・」

「・・・」

 私は雅男の手元を見た。何か書類が握られている。

「請求書?」

 私はすぐにピンときた。雅男は黙っている。雅男の反応で、それがやはり請求書であることが分かった。そして、それがとてつもない額だということも分かった。

 雅男がふり返って私を見た。

「・・・」

 またあの凶暴な雅男の目がそこにあった。状況は何も変わってはいなかった。もしかしたらという私の希望は、かんたんに砕け散った。

「お金は何とかなるよ」

 私は励ますように言った。

「なんとかなるか。三億だぞ。三億。どうすんだよ。そんな金。まともに仕事もないような状況でどうやって返すんだよ」

 雅男が怒鳴る。

「三億・・」

「お前が三億返すのか。お前が全額背負えるのか」

「・・・」

「払えるのかよ」

 雅男が私に迫る。

「えっ、払えるのかよ」

「払うわよ」

 私はキッと、雅男を睨み返した。

「何!」

「私が払うわ。私の命に代えても。絶対に払う。何としても絶対に払うわ。どんなことをしたって払う。払うわ。絶対払う。払ってやるわよ」

 私は迫る雅男に迫り返した。

「一生かかったって払うわ。払ってやるわよ」

 私はさらに雅男の顔近くギリギリまで顔を近づけ言った。

「だから戻ってよ。あの雅男に。あの希望に輝いていた頃の雅男に・・、またあの輝いていた雅男に戻ってよ」

「うううっ」

 雅男は私を真正面から睨みつつ、何も言えず唸った。

「戻ってよ・・」

 私の目から涙がこぼれ落ちた。

「あのやさしかった希望に燃えていたあの頃の雅男に戻ってよ・・」

「うるせぇ」

 雅男は私を突き飛ばした。

「うわっ」

 私は壁までぶっ飛んで、そこにしたたか背中をぶつけた。

「いてててっ」

 私はなんとか上体を起こし、雅男を見た。

「その目だ。その目」

 その瞬間、雅男は私を指さし叫んだ。

「えっ?」

「お前は俺を今でも憎んでいる」

 そう言う雅男のその目の奥に、凄まじい憎しみの渦が宿っていた。

「憎んでなんかいない。憎んでなんかいないよ」

 私は必死で訴えた。

「いや、お前は、俺を憎んでいる。お前の目は俺を責めてる。毎日毎日、俺をその目で」

 雅男の目は、完全にすわっていた。

「なんで俺なんか好きになったんだ」

「えっ?」

「なんで俺なんか好きになったんだ。俺はお前が嫌いだと言えば諦めたんだ」

 そう言って私に持っていた請求書を投げつけた。

「お前が、俺を憎んで、憎み切ってくれていたら、俺はその方が楽だったんだ」

 私だってそうだった。憎むだけだったら、どんなに楽だったろうか・・。

「なんで、俺なんか好きになったんだ」

 雅男はよだれをたらし、狂ったように叫んだ。

「なんで俺なんか好きになったんだ」

 もう言っていることは無茶苦茶だった。

「しょうがないじゃない。好きになっちゃったんだから・・・、好きになってしまったんだから。こうなってしまったんだから」

 私は床の上に突っ伏し泣き崩れた。

「好きになっちゃったんだもん・・・、好きなっちゃったんだもん・・」

「・・・」

「・・しょうがないじゃない」

 雅男はそんな私の前で立ち尽くしたまま、何か強烈な感情に震えていた。

「なんで、俺たちこうなっちゃったんだろうなぁ。なんで・・、なんで・・」

 雅男もその場に、泣き崩れた。

「俺たち・・・、俺たちダメなのかなぁ。このままダメになってしまうのかなぁ」

 私はそんな雅男にすり寄りしがみつくように抱き着いた。雅男もそんな私を力いっぱい抱きしめた。

 なんで、こんなに傷つけ合ってまで、お互いを愛さなければならないのか分からないまま、私たちは抱き合った。この先に地獄が待っていると分かっていながら、それでも愛し合わなければならない自分たちに絶望し、それでもやはり、離れないよう私たちは必死で抱き合った。

 どこまでも傷つけあった私たちは、セックスをした。朝まで何回も何回も、もう気持ちよさなど通り越して苦痛でしかなくなっても、何かを忘れるために、何かから逃げるためにそれを私たちは繰り返した。何度も何度も、私たちは憑りつかれたように同じ原始的な行為を繰り返した。そうすることでしか、そうすることでしか、今の私たちは私たちであり続けることが出来なかった。たとえそれが間違っていても、たとえそれがなんの解決にならなくても、私たちはその愚かな行為を繰り返した。

 それがただ悲しさを増すだけだと、お互いの傷を深めるだけだと分かっていても、私たちはやめられなかった。

 私たちは一つになり、対立する二つの世界から切り取られた個から解放される。私たちは溶け合い、どこまでも交じり合う。私たちは確かに愛し合っている。確かに愛し合っているのだ。それは絶対の確信だった。私たちが私たちの苦しみを生きている意味を、私たちはその愛の中に感じる。愛することの苦しみの果ての絶望の中にあったとしても、それが私たちの生きる意味だった。その確信だけが私たちを繋ぎ、生かしていた。

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