第39話 お粥

 私は一人雪の降りしきる街を歩いていた。

 私の心の底流には、凄まじい怒りのマグマが流れている。それを強烈に感じる時がある。意味もなく怒りが湧き、どうしようもなく惨めになる。抑えがたい訳の分からない衝動。

 ――私は確かに怒っている。それは、自分の人生に対してなのか、運命に対してなのか、家族に対してなのか。そして、雅男に対してなのか・・。

 私は耐え難い怒りの湧き水にこの身を侵されている。私はそれを感じる。だから、よりちゃんに何も言い返せなかった。私は・・。私は・・。

 私は、今も雅男を憎んでいる・・。認めたくない自分の意識との葛藤。

 許したはずのあの人をまだ憎んでいる自分が、怖かった。

「あなたは今でも憎んでいるのよ。雅男はそれを知っている」

 よりちゃんの言葉が、再び私の胸に突き刺さった。


「・・・」

 結局私は雅男の部屋の前に立っていた。私に行くところはここしかなかった。体は芯から冷え切って、震えていた。

 部屋に入り、リビングの入り口に突っ立つ惨めな私に、雅男は一瞥をくれただけで、黙って自分の部屋に行ってしまった。

「・・・」

 よりちゃんはもういなかった。


「大丈夫か。風邪じゃないのか」

 マコ姐さんが私の赤く火照る顔を覗き込む。

「はい、ちょっと熱があるみたいです」

 私は体調が悪かったがいつも通り、出勤していた。

「今日は休め」

「でも・・」

「いいから休め」

「・・・」

「どうしたんだよ。元気ないな」

「私たちもうダメなのかな・・」

「どうしたんだよ。唐突に弱気だな。前は滅茶苦茶燃えてただろ」

「・・・」

 私は漠然と、私たちの間に何かもう修復できない何かを感じていた。今までは、情熱だけで何とか乗り越えられていた二人の様々な障害が、今は遥か高い壁のように感じられていた。

 結局、私は寝込んでしまった。子供の時以来っていうくらいの、風邪を思いっきりひいてしまった。

 二、三日で仕事に復帰するつもりだったが、三日経っても、布団から起き上がることが出来なかった。

「雅男・・」

 ふと見ると、雅男が私の枕元に座っていた。

「・・・」

 雅男はずっと私の顔を見つめている。その目は何か憑き物が取れたみたいにやさしい目をしていた。

 雅男は私の額に濡れたタオルを置いてくれた。

「お腹空いてないか」

「うん・・」

「お粥作ってやるよ」

「ありがとう」

 そう言って、雅男は静かに台所に立った。昨日とは別人みたいに雅男はやさしかった。

「起きれるか?」

「うん」

 私は上体を起こす。

「ほら」

 雅男はお粥をふうふうと冷まして、私に食べさせてくれた。

「おいしい」

 本当においしかった。雅男は料理も出来るのだとこの時初めて知った。

「一人が長かったからな」

 照れたように雅男が言った。そこにはやさしかった頃の雅男がいた。私は幸せだった。

「母さんが生きていた頃・・」

 雅男がぼそりと言った。

「えっ」

「母さんが生きていた頃、同じようにお粥を作って、食べさせてくれたよ」

「・・・」

 雅男の蓮華を持つ手が震えていた。

「あいつだけは、あいつだけは許せなかった・・」

 雅男の声に怒りが滲んだ。

「絶対にぶっ殺そうと思っていたんだ」

 雅男の目に、凶暴な憎しみの光が浮かんだ。

「あいつだけは、あいつだけは許せなかった」

 雅男は歯茎から血が出るほどに力いっぱい歯を食いしばった。

「あいつは今精神病院にいる」

「えっ」

「あいつはアル中になって酒の飲み過ぎで、頭おかしくなって精神病院にいる」

「会いに行ったの」

 私は驚いて雅男に問い返した。雅男は静かに頷いた。

「復讐したくても、今じゃ俺の顔も分からなくなってる。完全にイカレちまってるんだ」

 雅男はそこで笑った。

「はははっ、はははっ、俺の顔すら覚えてないんだぜ。はははっ、全然覚えてないんだ」

 雅男は狂ったみたいに笑った。

「俺の顔見てさ。ぽか~んてしてんだよ。はははっ」

「・・・」

「こんなことってあるかよ」

 雅男は突然笑うのをやめ、怒りの形相になった。

「くそ~っ」

 雅男は叫び、拳で床を思いっきり叩いた。

「あの野郎」

 拳で思いっきり床を何度も何度も叩いた。

「やめて、雅男」

 私は雅男を抱きしめた。

「チクショウ。あの野郎」

 雅男は泣いた。泣き叫んだ。

「チクショウ、俺が殺すはずだったんだ。あの野郎は俺がボコボコにして、最大の苦痛を味わわせて、そして 殺すはずだったんだ」

「雅男」

「くっそぉ~、勝手に壊れてんじゃねぇよ。壊すのは俺なんだよ」

「・・・」

「もう、あいつはあいつじゃなかった。よだれたらして目はどっか別の世界を見ていた。もう、この世界を見てないんだ。俺のことも覚えてねぇ。俺たち家族にしたことも完全に忘れている」

「・・・」

「こんなことってあるかよ。こんなことって・・」

「・・・」

「こんなことって・・」

 雅男は、この世の全ての理不尽を抱えるように頭を抱え、その場に崩れ落ちた。

「・・・」

 私は、かける言葉も見つからず、ただそんな雅男を見つめることしかできなかった。

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