第12話 詩織さんの話

「あっ、詩織さん」

 詩織さんだった。詩織さんは撮影施設裏のコンクリート階段に一人、たそがれるように座っていた。

「ああ、メグちゃん」

 詩織さんとは先週の撮影で知り合った同じ女優仲間だった。

「どうしたんですか。こんなとこで」

「うん、ちょっと時間が空いてね」

「そうだったんですか。あ、ここいいですか」

「うん」

 私は、ミルミル片手に詩織さんの右隣りに座った。私は小さい時からなぜかミルミルが大好きだった。撮影所の自動販売機に珍しくミルミルがあったので私は迷わず買った。

「だいたい、撮影で時間が出来ると、いつもここにいるんだ」

「へぇ~、そうだったんですか」

「うん、なんか落ち着くんだよね。ここ」

 そこは別になんてことない、大きなコンテナみたいな撮影施設の裏手だった。そこから、広い敷地に何個も同じようなサイズの丸屋根のコンテナみたいな施設が並んでいるのが見える。良く晴れた昼前ということもあって、なんか人もまばらで雰囲気はのほほんとしていた。

「・・・」

 詩織さんは何を見ているのだろう、口元になんとなく微笑みを浮かべ、視線はどこか遠くを見ながら、物思いに沈んでいた。

 詩織さんは、どこか大きな陰りを滲ませたとても美しい人だった。陽炎のような何とも言えない儚さを漂わせた、他の人とはどこか違う雰囲気を醸した美しさだった。その美しさがどこから来るのか、多分、詩織さんの人生に何か、人と違った何かがあるのかもしれない。私はそう思った。

「あっ」

 詩織さんの、ノースリーブのシャツからのぞく二の腕にあざが見えた。

「ふふふっ、これ?」

 詩織さんは私の視線に気づき笑った。

「ちょっと彼氏とね」

「・・・」

 詩織さんはそれ以上何も言わなかった。私もそれ以上は何も聞かなかった。

 詩織さんのマネージャーをしているという彼氏については、なんとなく悪いうわさを聞いていた。一度だけ見たことがあるが、雰囲気も決していい人ではなかった。

 詩織さんは、細長いどこに売っているのか分からない外国の銘柄のタバコを薄い金属ケースから一本取り出すと、それをくわえ火をつけた。

「私がなんでAV女優になったか知ってる」

 ゆっくりとたばこの煙を吐きながら穏やかに詩織さんは言った。

「いえ・・」

「私、人殺しなの」

「えっ!」

「私、人を殺したのよ」

「・・そうだったんですか。全然そんな人に見えない・・」

 突然そう言われても私は驚くよりも何よりも、実感が全然湧かなかった。

「ふふふっ」

 そこで薄っすらと詩織さんは笑った。

「私いじめられっ子だったの。それも小、中、高ずっと。田舎だからクラスメートが同じになっちゃうのね。本当に酷いいじめだった」

「とても辛かったわ」

 詩織さんは遠い目をした。

「犬のうんこ食わされたわ」

「・・・」

「朝、机の上にハトの死骸があったり」

「・・・」

「お前の友達だろって。笑うの。みんな。友達なわけないのに」

 詩織さんはゆっくりとおいしそうに煙草を吸った。そしてゆっくりと吐いた。

「屈辱だった。耐えられない屈辱を耐えてもまだ続く屈辱。絶望しても絶望しても許してもらえなかった。憎んでも憎んでも、何も報われることはなかった」

 光り輝く真っ青な空を見つめたまま詩織さんは言った。

「ずっと耐えていたんだけど、さすがに高校の時、不登校になった。もうダメだった。心の深いところでもう限界だった」

「学校に行こうとすると吐くの。めまいがして、体が震えるの。痙攣したみたいに」

「・・・」

「でも、学校休むって決まると全部治るの。不思議なくらいあっさりと。だから仮病だって思われた。でも、やっぱり次の日、同じようになるの。本当に限界だったんだと思う」

「私は高校を辞めたいって言った。当時はまだ不登校ってものすごく特殊なことで、とても恥ずかしいことだったし、高校中退なんてとんでもない話だった。でも、もう限界だった。だから私は、勇気を出して高校を辞めたいって言った」

「でも、担任が家にやって来て、がんばれがんばれって、私もうダメですって、恥も外聞も無くギブアップしているのに、がんばれがんばれって、ここで逃げたら一生逃げ続けることになるぞって。最後は死ぬしかないぞって。自殺するしかないぞって。一生逃げ続けるような人間になるぞって。それでも私が行かないって言ったら、お前は頭がおかしいって、精神病院に連れてかれた・・」

「医者もカウンセラーも何の助けにもならなかったけど、薬とか山ほど飲まされて完全にグロッキーで意識も朦朧としながら、吐いたり悶えたり、痙攣しながら親とか担任に引きずられるように高校に通ったわ。そしてなんとか高校だけは卒業した」

「・・・」

「その結果、辿り着いたのが地元の名も無い短大よ。今考えたら本当に馬鹿々々しい話だわ」

 詩織さんは自嘲気味に笑った。

「私、結婚してたのよ」

「えっ、そうだったんですか」

「とても素敵な人だったのよ。本当にハンサムで、頭が良くて、やさしくて、お金持ちで、信じられないくらい素敵な人だった。子供もできた。本当に、もういいかって、思えていたの。いじめられて辛かったけど、でもこんな素敵な人と出会えたんだからって。こんなかわいい子も授かったしって。大人になって、もういじめの記憶もなんとなく自分の中で消化出来てた。夫の仕事の関係で、嫌な思い出ばかりの故郷の田舎町も離れられた。私にはもう遠い記憶になりつつあった」

 そこで詩織さんは少し遠い目をした。

「そんな時だった。私の地元で花火大会があったの。それは全国的にとても有名な花火大会だった。だから、夫も子供も行きたいと言った。でも私は、いじめっ子たちに会うのが怖かった。地元から遠く離れた都会だったから、もう思い出すことも無く、穏やかに暮らせていた。辛い記憶も薄れていたけど、地元に帰るのはやっぱり怖かった。だから、地元には帰ってなかった。時々どうしても帰らなきゃいけない時は、家から殆ど出なかった」

 詩織さんの遠い目は、細く鋭くなった。

「でも、子供がどうしても行きたいって・・、そして 行くことになった」

「・・・」

「すごく怯えていたんだけど、花火大会は県外からもたくさんの人が来て、ものすごい人だったし、運も良くて私を知っている人には誰にも会わなかった。なぁ~んだって思った。実家に帰りついた時、全身の緊張が解けるみたいに脱力した。な~んだ。勝手に私が怯えていただけだったんだって。心からほっとした。もう終わったんだって思った。あのいじめはもう終わった事なんだって、心の底から思えた」

 そこで詩織さんはしばらく口を閉ざした。

「でも・・」

「でも?」

「実家に帰って、遅い夕食を食べた後だった。子供が急にアイスが食べたいと言い出した」

「アイス・・」

 詩織さんはゆっくりうなずいた。

「いつもそんなこと言わないのに、その日はなぜかその事でぐずったの。普段本当にいい子で、我がままを言うことすら殆どしないのに、なぜかその日だけはとてもぐずった。それで私が近くのコンビニに買いに行くことになった。両親に頼むこともできたんだけど、花火大会で誰にも会わなかったから、気が大きくなってたのね」

「歩いて十分ぐらいのコンビニだった。少し雨が降り始めてたけど夏で暖かかったし、久しぶりに夜一人で地元を歩くのもなんか気持ちよかった。コンビニで子供が好きなイチゴ味のアイスも置いてあった。ラッキーって思ってレジまで持っていった。後は帰るだけだった」

「・・・」

「コンビニを出たところだった」

 詩織さんはそこで口を固く結ぶように動かした。

「重い開きドアを開けて、出た瞬間だった。そこで、ばったり会ってしまった。私をいじめていた奴の一人に・・」

 そこで初めて詩織さんの表情が険しくなった。

「そいつが「よおっ」って、言ったの」

 詩織さんの声は小さく消え入りそうだった。

「狐みたいな奴だった。一番最低でむかつくタイプだった。力の強い奴の影に隠れて、自分は関係ないのに、全然関係ないのに、面白がって・・・。イジメの時、そういう奴が一番質が悪かった。何かあっても自分が矢面に立つわけじゃないから」

「そいつ、「よおっ」って、なんでもないみたいに。「よおっ」って。本当にただのクラスメートみたいに、「よおっ」って。普通に話とかしてた仲みたいに、「よおっ」って。何の躊躇も違和感も、罪悪感も何も無く「よおっ」って。久しぶりに会った友だちみたいに、「よおっ」って・・、私はそれで頭が真っ白になってしまった・・・」

「・・・」

「その時、たまたま雨が降り始めていた。そして、持っていた傘の先がたまたま金属だった。そしてたまたまその先が尖っていた」

「・・・」

「ぴゅーって噴水みたいに首から血が噴き出たわ。本当に蛇口捻ったみたいなすごい勢いだった。ほんと、ぴゅーって」

「そういう時人って、気が動転しておかしくなるのね。そいつ、両手を腰のあたりで広げて、足蟹股にして、ピエロみたいにクルクル回ってた。血をドバドバ出しながら。クルクル、クルクル。どうしていいのか分からなかったのね」

「そして倒れた。バタンって。私そんな風に意識なく人が倒れるの初めて見た。バタンって。本当にそのままバタンって。何か大きな看板が倒れるみたいに、そのままバタン。そして死んだわ」

「・・・」

「そして私は全てを失った。夫の会社は倒産。私の母はショックでくも膜下出血。父は一気に老け込んで、頭がボケておかしくなってしまった。ありとあらゆる親戚縁者に縁を切られた。家族も家も財産も友人知人も信頼も愛情も、本当にありとあらゆるものを全て失った。本当に全て」

「・・・」

「それから十年、刑務所に入った」

「十年・・・」

「十年経って私は刑務所を出た。でも、人の過去ってやっぱり分かっちゃうのね。新しく仕事を初めても噂が広まってすぐに仕事を追われた。どこに行ってもそうだった。でもそんなことはどうでもよかった。そんなのは当たり前だと思っていた。ただ、何かが虚しかった。それが辛かった」

「自分がなぜ生きてるのか分からなかったのね」

 詩織さんは私を見て、少し微笑んだ。

「そんな時だった。あいつに出会ったのは」

「今の彼氏ですね」

 詩織さんは小さくうなずいた。

「刑務所を出てる人殺しのそんな私を愛してくれた。私を必要だと言ってくれた」

「あの・・」

「ふふふふっ」

 私が意見を言いかけると詩織さんが笑った。

「言わなくてもいいわ。私も分かっているの。あいつはただ私を利用しようとして近づいただけだって」

「・・・」

「でも、私はその愛が必要だった。たとえ偽物でも、上っ面でも、私には関係なかった。その時、私に必要だったのは、本気で愛せるかってこと。私が本気で愛し抜けるかってことだった。私にはそれが必要だった。生きるためにそれが必要だった」

「・・・」

「もう典型的なダメ男。飲む打つ買うなんてもんじゃなかった。殴る蹴る、もう、根本が破綻してた」

「私がAV出たのもあいつの借金返すため。その借金だって浮気相手がヤクザの女でって話しで、私全然関係なかった。それなのに、お前は俺のためにAVに出る義務があるとかなんとか訳の分からないこと言って、逆切れ」

「・・・」

「浮気相手の中絶費用まで私が出したのよ」

「・・・」

「しかも病院まで付き添いまでして。慰めたりしてんのよ。私が。その間あいつはまた別の女と浮気」

 詩織さんは、自嘲気味に笑った。

「・・・」

 私はあまりの話に茫然としてしまった。

「全ては経験だって」

「えっ」

「全ては経験だって。苦しみも苦労もいつかそれがあって良かったって思える日が来るって」

「あいつはそう言った。「そんな日がきっと来る」って。「俺がそうだったから」って。ニッて笑うの。あいつ、歯並びだけは良かった。その歯が光るの。キラッて。私はくらくらした。本当に眩暈にも似た感動が、私の脳の中に木霊した。ありとあらゆる脳内麻薬がどぴゅどぴゅ出てるのが分かった。致死量なんじゃないかってくらいくらくらした」

「私は女だった。どうしようもなく女だった」

「私はこいつを愛そうと思った。それが私なんだって思った。私はこの男をとことん愛してやろうと思った。それが私なんだって。これこそが私。絶対愛してやる。とことん愛してやる。殴られても蹴られても殺されても絶対愛してやるって。愛し抜いてやるんだって思った」

「でも、やっぱり、生活は無茶苦茶。階段から突き落とされたこともあった。背中を包丁で刺されたこともあったわ。自分で救急車呼んで、医者に行った。どうしたんだって医者に訊かれて階段で転んでって、階段で転んでなんで背中に包丁が刺さるのよって自分でも思ったけど、必死だったからもうごり押し。医者も訝しんでたけど私の勢いに押されて黙ったわ。入院しろってめちゃくちゃ説得されたけど、家に帰った。私がいないと何も出来ない人だったから」

「・・・」

「でも、やっぱりやばいくらい痛くてちょっと動くともう寝てるしかなくて、でも、そんな私が寝てる直ぐ隣りで別の女引っ張りこんで平気でセックス始めるの。そんなのが日常」

「・・・」

「でも、惚れ抜くの。惚れて惚れて惚れ抜いてやるの。浮気されても、裏切られても、捨てられても、どんなことをされても、惚れて惚れて惚れ抜くの。あんなダメでどうしようもない奴をそこまで愛したやつはいないってところまで私は惚れ抜くの。惚れ抜いてやるの。私はそう誓った」

 そう語る詩織さんの目には鬼気迫るものがあった。

「詩織さん・・」

 詩織さんがなぜそこまで、そんな無茶苦茶な彼氏を愛そうとするのか私には分からなかった。

「あっ、もう時間だわ。私行くね」

 そう言って、詩織さんは撮影所の中に入って行ってしまった。

「・・・」

 私は黙って、そんな詩織さんを去って行った重い鉄の扉を見つめた。

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