聖ペーター聖堂教会の門前に、ディアークはいた。

 夜空に浮かぶ満月はそろそろ南中しようかというところであり、夕方から随分と時間が経過したことを物語る。ディアークが見つめる先には、舗装された石道にぽつんと置かれた一頭の馬とそれが曳く一台の四輪馬車があった。

 屋根が付いていて、黒を基調としたその馬車には見覚えがあった。ディアークが普段暮らしている東市街の屋敷の前にいつも置いてあったものだ。とはいえ帝都の外に出ることが許されていないディアークにとっては無用の長物ではあったが。

 しかしダミアンやゲオルクが乗ってきたものではないだろう。だとすれば、誰があの馬車をここまで曳いてきたのか。顎に手をやって、目を瞑って黙考する。

 すると乾き切っていない血の臭いが、強烈に鼻腔を襲ってきたので慌てて止めた。

 気付けば、さっきまで誰もいなかったはずの馬車の御者台に誰かが座っている。月明かり以外に頼れる光源が無いので、一体どんな人物であるかは皆目見当が付かない。訝しく思いながらも、ディアークは馬車の方へゆっくりと歩みを進めた。

 そこにいたのは……灰色の縮れた髪と髭を無秩序に伸ばし、茶褐色のローブを纏った見すぼらしい老人。その髪のせいで目が隠れて見えない。腰も酷く曲がっている。


「つかぬことをお訊きするが……この馬車は私を乗せるためのものか?」


「へぇ。あっしは貴方様の小間使いの方より遣わされた、一介の御者でありやす」


 その老人は風貌通り皺枯れた声、洗練されていない喋り方で少年に応える。

 ディアークが住む東市街の屋敷には、家事全般を任された小間使いの女性が一人だけ住み込みで働いている。上流階級、しかも皇子に対して使用人が一人というのは本来あり得ないことだが、これも〈災厄の皇子〉であるが故だ。


「そうか。それではありがたく乗らせてもらおう、東市街の屋敷まで」


「へぇ。……そこに足を掛けて登ってくだせぇ。この闇夜です、踏み外さんように」


 ディアークはその老人の気遣いに「すまぬな」と返す。無粋な第一印象の割に意外と気が回るものだなと少し感服しながら、馬車下部の少し出っ張った木の部分に慎重に足を掛ける。その様子を老人は横目で虚ろに眺めている。ぽたぽたと、教会堂の方から石畳の大通りまで続く血痕の終点を、その目に捉えている。

 ディアークが馬車の中に入ると、あと二人ぐらいならば余裕で入ることができそうな縦に長い空間が広がる。代わりに座席のようなものは無い。また屋根付きとはいっても、その屋根の所々が壊れている上に車体側面は吹き晒しの状態だ。どちらかといえば旅馬車というより荷馬車の方が印象が近い。何にしても庶民寄りの造りだ。

 黒を基調とした車体の色といい、ある意味で自分に対しての特注品のようだとディアークは自虐的に苦笑する。そして硬い木板で出来た床に、足を曲げて腰掛けた。


「では、よろしく頼む」


「へぇ」


 短いやり取りを経て、その老人は両手に持つ手綱を動かして馬車を前進させる。石畳で舗装された道なのであまり段差は無いが、少し左右に揺られながら赴く。

 もはや庶民の家々から灯りが漏れることも無い暗黒の夜だ。月明かりだけを頼りにして、ゆっくりと通りを進んでいく。淡々と手綱を繰って、馬が進む方向を統御する御者の表情は当然のことながらディアークの方からは見えない。

 そのこともあってか、ディアークはその御者に対して若干の不安を抱いていた。

 まず第一に。


 自分が、従士のダミアンやゲオルクと共にいないことに、彼は何故言及しない?


 小間使いに依頼されて来たというなら、この聖堂にディアークだけでなく従士の二人もいることを見越して遣わされたはずだ。それなのに、まるでディアーク一人だけを待っていたかのような反応を見せ、従士たちのことについて尋ねることすらしなかった。それに加えて、不可解に思う点がある。

 暗闇の中では少年の姿がよく見えない上、あの老人がいくら口髭を無造作に伸ばしているとはいえ、気付かないはずがないのだ。


 ディアークの全身を染め上げる、乾き切らない多量の血液の臭いに。


 少年の顔にも、髪にも、コットにも、マントにも。べっとりと付いている。

 ふと、御者への懸念など忘れ去ったかのようにディアークは項垂うなだれる。

 そして自分の紅に染まった両手を、じっと見つめる。

 この手でゼバルドゥスの右手を握っていた感触を、思い出しながら。

 少年の髪は黒く、夜風に揺れる。

 眼は紅く、悲哀に濡れている。

 

「ゼバルドゥス……。これでも私を、認めてくれるか……?」


 〈災厄の皇子〉は小さく、消え入るような声で、呟いた。

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