第8話


「で、どう思う……?」

「何が?」

「あれだよ、あれ! あれだってば! わかるでしょ? あれ」

「だから、気にしないで言いなよ。言いたくてたまらないって顔してるよ?」

「……うん、わかった! じゃあ言うね? 何となくソウくんの前では言いにくいんだけど……」

 彼はクスクス笑いながら『はいはい、どうぞ』と、私に返した。

「夜科蛍だよ! 夜科蛍! あの鬼の面を被ってた女の人の言葉って、夜科蛍の鏡花水月の事だよね⁉ ソウくんわかってた⁉」

「当たり前だろ? 勿論わかってたよ。鏡花水月は俺にとってかなり特別な作品だから、最初から最後まで、一語一句ちゃんと覚えてる」

「でも、どうして鬼が? 鬼の世界にも名を轟かせているの⁉ 夜科蛍って! 大体、鬼の世界って何? 鬼ヶ島の事? あーもう意味わかんない!」

「ちょっと落ち着こうよ、ミズホ。話がかなり脱線してるから」

 彼はそう言って優しく笑うと、私の頭を軽くポンポンと叩く。昨夜あんな目にあったというのに、随分余裕そうだ。

「ソウくん何でそんなに余裕なの? 殺されかけたんだよ? 避けなきゃ本当に死んでたんだよ⁉」

 彼は顎に手を当て『うーん』と、難しい顔をして答えた。

「……何かおかしいんだけどさ。自分が体験した事なのに、いまいち実感が湧かないんだよね。まるで新しい小説を買って、ミズホと1日ごとに感想を言いあってるような……そんな感じ」

「あ〜……何だかそれ、わからなくもない」

 朝早くからバイト先近くの公園に集まった私達は、昨夜の話を一つずつまとめていく事にした。

 彼とわかれた後、宴の場に戻った私が不気味な老婆に言われるがまま、あの謎のドリンクを飲んでしまった事は……勿論こっぴどく叱られた。

 けれど彼は、私とわかれた直後に、私が【あれ】を飲んでしまう可能性も少なからずあるだろうな、と何となく予測がついていたらしい。彼曰く、私は甘い誘惑に弱く、駄目だと言われたら余計に飲みたくなるタイプとの事だ。……当たっているからこそ何も言えない。

 あと老婆の言っていた三日間というのは、どうやらあの世界での三日という意味らしく、取り敢えず今は普通の目に戻っていた。片目を隠しても何も見えない、見えるのはただの暗闇だけだ。

「けど、鷹の目かぁ。何だか、ますますファンタジーな展開になってきたよね」

「ははっ、確かにファンタジー! けど……もしもだよ? もしもあのまま一生目が治らなかったらどうしよう。もしかしたら私、そのまま本物の鷹になっちゃうのかもしれない……」

 私はそう言うと、しょんぼりと膝を抱えた。実は不安で不安で仕方がないのだ。それ程までに、あの目は不気味で恐ろしい。

「大丈夫。もし治らなかったら、俺もそれを飲むから。ミズホを絶対に一人にはしないよ」

「ソウくん……」

「それに鷹になるだなんて、かっこいいじゃないか!」

 彼はそう言って、軽快に笑った。

「鷹は人間より、約八倍もの視力を持っているらしいよ。高い空を飛ぶために、目の性能の進化をさせてきたんだ。遠くにいる獲物もすぐに見つけられる目、空を自由に飛べる翼……空を飛ぶという事は、人間にとって永遠の憧れだよ」

「……私はいいや。空は飛んでみたいけど、鳥や蝶にはなりたくない」

「それは、どうして?」

「鳥だと撃たれるかもしれないし、蝶だと捕まって標本にされるかも。あと、絶対に虫は食べたくない!」

「ははっ! 現実的だね、そういうところは。けど君の理想とする空の飛び方はきっと、もっと幻想的なんだろうけど」

 彼はくっくっと笑った。……うん、やはり馬鹿にされている気分だ。

 まぁ……空の飛び方については、きっと彼の想像通りで間違いないとは思うけどね。……やっぱり夢がある方がいいよ、うん。

「まぁ、心配しなくても大丈夫だと思うけどね。この世界までは干渉出来ないのか、今のミズホの目は至って普通だし、宴の夜が終わった暁には元の世界に戻れるんだから、目も元に戻る筈だよ、きっと。……帰ってこれたらの話だけどね」

「ちょっと、脅かさないでよ!」

「ごめん、ごめん! けど万が一、俺達がこの世界に戻ってこれなくてミズホの目もずっとそのままだったら、その時にまた二人で考えたらいい。たとえ俺達の姿が本物の鷹になったとしても、新しい世界が広がるだけさ。二度目の生の誕生だよ」

 そう言って朗らかに笑う彼は、ポジティブというか、前向きというか…… けれど、私にはそんな彼がとても輝いて見えた。

「……成る程。そうだね! 戻らなかったら、またその時に考える! 今悩んでたって仕方ないもんね!」

「そういう事」

 彼はそう言うと、立ち上がって『んー!』と背筋を伸ばし、青い空を見上げた。

 そして突然、彼は何かを思い出したかのように『あっ』と声を出すと、こちらに振り返り、少し神妙な面持ちで言った

「……ミズホ。あの鬼女について、少し気になる事があるんだ。だから……あの鬼女は、俺に任せてくれないかな?」

「気になる事って、大丈夫なの……? 危険じゃない?」

「大丈夫、大丈夫! まだ確証が得られてないから何とも言えないんだけどね。勘違いだったらいいんだけど……ま、分かり次第、報告する」

「……うん、わかった。本当に気をつけてね」

 私は、彼の言葉がほんの少しだけ気になったけれど……それ以上彼を問い詰める事はしなかった。

 今夜は一体、どんな夜が待っているのだろう? 何か、恐ろしい事が起きなければいいが。

 兎狩りなんて物騒なイベントなど、さっさと終わってしまえばいいのに。

「じゃあそろそろ解散しますか。私やらなきゃいけない事も、やっておきたい事も沢山あるからね! まだ話し足りないのが残念だけど。それに……ずっと家に引き篭もってるわけにもいかないしね。明日からはちゃんと学校に行くし、新しいバイトも探さないと」

「もう、書店でバイトはしないの?」

「したいよ? けど、夏の間閉めちゃってるんだからどうしようもないしね。取り敢えず、短期のバイトでも探すつもり。で、秋になったらまた店に戻る」

「昨日まではあんなに夜宴の島の虜になってたのに、どういう風の吹き回し?」

 彼はクスクス笑いながら、小さな滑り台の階段を一段ずつ登っていく。

「んー、何でだろうね? 確かに昨日は、一日中夜宴の島の事ばかり考えてた。早く行きたくてたまらなかったし、こんな平凡な世界から抜け出して、ずっとあっちの世界にいられたら……なんて思ってたのに」

 一日引き篭もっていて気付いた。たとえ、どれ程あの世界に恋い焦がれようとも、あの世界は私達がいるべきではない世界だ。いつかはきっと、夢や幻のように儚く消えてしまうだろう。

 その時に私がこんなに腑抜けたままじゃ、これからの生き方を見失い、一生現実と幻想の狭間を彷徨い続ける事になる。

 だから……やるべき事、やらなくてはいけない事は、ちゃんとやっておく方がいい。

「……本当は今だって夜宴の島に行きたいよ。こんな退屈な世界より、あっちの世界がいい。でも、やっぱり……いつかは夢から覚めて、私達は普段の生活に戻るんだよね。そうなった時に、このままじゃ駄目だとか今更ながらに考えちゃって」

「……そうだね。夜宴の島の物語は、いつか必ず終わる。あの不思議な世界も、奇妙な面達も……いつかは俺達の前から、まるで最初から何もなかったかのように姿を消すんだ。……ミズホは賢い生き方が出来る人だね。先をちゃんと見据える事が出来ている。決して廃人には成り得ないタイプの人間だ」

 彼は滑り台から勢いよく滑り降りてきて、華麗に着地した。

「小説でも映画でもゲームでも、最後は必ず終わりがくる。終わりを迎えてしまったものは、悲しくも、終わりを迎えるまでの物語には太刀打ちする事が出来ない。――ほら、ミズホも言ってたろ? 恋愛が成就する物語は好きじゃない。結ばれた後の二人がその後もずっと幸せだとは限らないから、って……」

「うん……」

「あの時は何も言わなかったけど、俺も小さい頃に、少しミズホと近い事を考えた事があるんだ。一つ例をあげるとしたら……TVゲーム?」

「ゲーム?」

「仮に魔王を倒す為、勇者が仲間と共に旅に出るって設定だったとしよう。勇者は世界を守る為に必死にレベルを上げたり、傷付きながらも強い敵と戦っていくわけだ。そして、やっとの事でラスボスを倒して、世界は平和になる。……その平和になった後の世界で、勇者はそれから、どうやって生きていくのだろう?」

 彼は突然ブランコに乗ると、立ち漕ぎしながら話を続けた。

「勇者は平和になった世界で、剣を捨て、普通の村人に戻る。……物足りるのかな? 今更、そんな生き方で」

 だんだんとスピードを増し、高く上がっていくそれは、ギーコギーコと耳障りな擦り音を立てる。

「それって本当にハッピーエンドなのか? って俺は思うんだよ。今も昔もね! ……よっと!」

 彼は高く上がったブランコからヒョイっと優雅に飛び降り、着地した。

「だから俺は、ゲームをクリアするのが嫌いだった。大好きな物語がそこで終わってしまうから。物語を終えた勇者が、幸せだったとは幼い俺には到底思えなかったから……」

 彼は、ゆっくりと鉄棒の前に移動する。

「だから俺は思ったんだ。永遠に終わる事のない物語を見つけたいって」

「終わらない……物語……?」

「そう」

 そう言うと、彼は鉄棒を掴んでクルッと逆上がりをし始めた。

「俺は……やるからには保険なんてかけていられない。いつでも全て捨てていい、失ってもいいという覚悟を持ってるんだ。馬鹿みたいだろうけど本気。終わらせるつもりなんて、最初からない」

「ソウくん……それ、簡単に言っちゃってるけど普通の人はね、そこまで簡単に踏み切れないんだよ。どうしても保身的になってしまうものだから」

「うん。だからきっと……俺は普通ではないんだろうね」

 彼は一人シーソーに跨ると、私に合図を送るが……私は丁重にお断りした。

「……ソウくんってさ、やっぱり変。変わり者の域を超してるよね。もはや変人レベル」

「ははっ! そこまで言う? 手厳しいなミズホは。……ま、いいや。本当の事だしね」

 彼はようやくシーソーから降りてきて、元通り私の隣に座った。

「……けどね、本当は私だって、終わらない物語の中で生きていきたい。ソウくんと一緒に、ずっとずっと夜宴の島で過ごしたい。たとえ夜宴の島が消えてしまったとしても……私、ずっとソウくんと一緒に新しい物語を作っていきたいの。他の誰もソウくんの代わりにはなれっこないからね! 変わり者だし変人だけど、それでも私、やっぱりソウくんがいいんだ!」

 私は彼にニコリと笑いかけるが、彼は不自然に横を向いた。

「……あのさー、ミズホ」

「ん? 何?」

「……そういう事、あんま男相手に言ったりしない方がいいと思う」

 彼は、そっぽ向きながら私にそう言った。

「……え、何で? ソウくんだって言ってたよね? どこかへ行きたいなら、夜宴の島から帰ってきたその後、また新しい場所を探せばいい。勿論その時はミズホも一緒だ、って」

「俺はいいの。男だから」

「何それ、不公平! ……ん? あれ?」

 この位置から見える彼の横顔は、まるでトマトのように赤く、前髪を掻き上げながら、何だか落ち着かないように視線を泳がせていた。

「ちょっと! ソウくん顔真っ赤なんだけど!」

「赤くなんかなってねーよ! うるせぇな!」

「おやおや? 話し方まで変わってますよ⁉」

「……言われ慣れてないんだよ。仕方ないだろ」

「慣れてない⁉ よくもまぁいけしゃあしゃあとそんな事を……この天然タラシが」

「……ばっ! ミズホは俺の事を一体、どんな人間だと思ってるんだよ! 心外だな!」

 いちいち慌てふためく彼の姿が面白くて、わざとからかってみせる。

「どんな人間って……キザだし、いちいち台詞がクサくて小説みたいだし、思わせぶりが激しいし、簡単に女の子の事を抱きしめちゃったりしちゃうしね。とにかく、チャラい。 ――って、ちょっとソウくん⁉」

 彼はあからさまに項垂れる。相当ショックを受けているみたいだ。少しからかっただけなのに……と、私は思わず苦笑いを浮かべていると、彼はぽつりと小声で呟き始めた。

「……だって仕方がないだろう。小さい頃からあまり外にも出ず、毎日本ばかり読んでいたんだから。その影響で今こんな話し方なんだろうし、正直……人とどう接していいのかもよくわからないんだ」

「……は、はぁ?」

 こんな彼は初めて見る。物凄く新鮮だが、とにかくウジウジしていて何だか暗い。

「……でも、俺こんなだからさ。昔から変わり者呼ばわりされたりして、仲間に入れてもらえなかったり、嫌われてたりしたんだけど、ミズホと話すのは凄く楽だし、価値観が合うというか何というか……」

 ……何となく読めてきた。彼の性格が全く掴めなかった理由。

 あのミステリアスで危険な感じがした彼は、多分……ミステリー小説を読みすぎて影響を受けた。紳士的で優しく、積極的な彼はきっと……恋愛小説に影響されてしまったのだろう。

 そしてバイトの初日以降、やたらと私に懐いてきたのは【小説&夜科蛍】という共通の話題があって、単に話しやすかったから。

 押しが強いサユリさんの事が苦手だったのは、多分ぐいぐいきて怖かったから。

 私の連絡先を直接聞かなかったのは、きっと自分で聞く勇気がなかったから。

 公園での夜、彼の言葉に腹を立てて泣いてしまった私を抱きしめたのは、きっと【泣いてる女性は抱きしめる】という小説からの知識。

 オロオロとうろたえ、好きな小説を何冊も持ってきたり、小説を私の為に書いてくれたのは、コミュニケーションの取り方がよくわからなかった彼なりの、精一杯の誠意。

「あー! もう、馬鹿馬鹿しい!」

 私は大声でケラケラと笑った。

「完璧なんかじゃないじゃん、全然」

「……笑うなよ、馬鹿」

 まだ赤い顔のままで拗ねたようにいじける彼の姿に、何だかほんのりと心が温まる。初めて会った時の彼とは、まるで別人だ。

 出会ったばかりの彼は完璧すぎて、何だか少しだけ怖かった。本性が見えなくて、何を考えているのかなんてさっぱりわからなくて……優しいけど、本当の意味では優しくなくて、怖くないけど……多分、誰よりも怖かった。

 でもそれはきっと、私が彼を【完璧】だなんて思い過ぎていたからだ。

 彼はこういう人なんだって、無理矢理枠にはめ込んで、彼という人物を勝手にそう決めつけてしまっていたのかもしれない。

 完璧な人間なんて、どこにもいやしないのに……

「ねぇ、ねぇ、ソウくん?」

「……何?」

「不器用な男だねぇ、ほんと」

 私はよしよしと、彼の頭を優しく撫でた。

「あー! もう! 子供扱いするなよな? 俺これでもミズホより二つも歳上なんだから」

「真っ赤。ソウくん、かーわいっ!」

「……可愛いとか、男に言う言葉じゃないだろ、まったく」

 彼は、『帰る!』と言って立ち上がる。きっと、怒ってるわけではない。照れ臭いのだろう。

「ソウくん、ちょっと待ってよー! それにしても……自分から何かしたり言うのは全然平気なのに、逆だと駄目だなんて、何だかおっかしいの! あはは!」

「煩いなぁ……少し黙ろうか、ミズホちゃんは。じゃないと、今夜もし夜宴の島で何かあっても俺、絶対に助けてやらないからな?」

「いいもんねーっだ! 寧ろ、一日目も二日目も絶対私の方がソウくんを助けてると思うんですけどね~」

「……おっしゃる通りです。面目ない」

「もっと、しっかりして下さいね」

「……はい」

 憎まれ口を叩きあっても、肩を並べて歩いていける……その空間がとても好き。

 何だか、ようやく本当の意味で彼に一歩近付けたような気がした。それは彼が、少しずつ私に心を開いてくれているから。その事が本当に嬉しい。

 恐らく、彼が一日目の夜に吐き出した黒い液体も彼が心を開いてくれた原因の一つなのだろう。あの時はどうであれ、結果オーライかもしれないね? 彼の心が、少しでも楽になれたというのなら。

 けれど……きっと彼には、まだまだ沢山の秘密が隠されている。

 黒兎と白兎が言ってた、【二つ持つ者、異色の者】という言葉。

 夜科蛍を尊敬しながらも、とても憎んでいるように思えた事。

 夜宴の島に行けるようになった時に一瞬だけ見せた、あの狂気を含んだ妖しげな笑顔。

 そして、宴の主催に会う為にここに来たと言った彼の、怖いくらいに追いつめられた表情。……吐き出された黒い闇の中身。

「ソウくん……ずっとこのままのソウくんでいてね。いきなり、一人でどこか遠くに行っちゃわないでね?」

「ミズホ? 急にどうしたんだよ?」

 本当にそうだ。私はいきなり何を言ってるのだろう?

 けれど止まらない。想いが止まらない。普段と違う彼の姿を見て、ほんの少し欲張りになってしまったのだろうか?

 でも嫌なんだ。怖いんだ……不安なんだ。兎狩りのイベントで、また彼が危険な目に合うかもしれない。

 双子達が彼は闇を吐き出したと言っていたから、もう黒いソウくんは出てこないと思うけど……もしかしたら何かのきっかけで、また出てきてしまうかもしれない。

 ――そして、あの鬼女。

 彼は、彼女の何が気になるのだろうか? また殺されかけるかもしれないのに……

 私は今夜初めて、夜宴の島に行きたくない……そう思ってしまった。私はしゃがみ込み、俯き、膝に顔を埋める。

「ずっとずっと、小説の話をしよう。物語の話をしようよ? ……二人で馬鹿みたいに、色んな空想や妄想を膨らませてさ」

「……大丈夫、俺は変わらないよ。ずっと」

 彼は安心させるように、ゆっくりと私に話す。

「……おっかしいなぁ、私。まだソウくんと知り合って数日だよ? なのに……もうずっと前から、貴方の事を知っているような気がする」

「俺も同じ事を考えていたよ。ミズホと出会ってまだ数日だけど、一緒にいる時間が長いせいか、過ごしてる時間の中身が濃いせいか……もう随分と昔からこうしてるような気がするんだ」

 彼は膝を曲げると、俯く私の頭にそっと手のひらを乗せる。ゆっくりと顔を上げてみると、彼の優しい笑顔がキラキラと私に降り注いだ。

「……ミズホ。こういうのをさ、人は【運命】って呼ぶのかな?」

「運命……?」

「そ。運命の出会いってやつ。俺とミズホはきっと、出会うべくして出会ったんじゃないかな? この広い地球の中でね。言わば同士だよ。普通の友人同士より、ずっと深い絆で結ばれている。俺、そんな君に出会えた事が、本当に凄く嬉しいんだよ」

「ソウくん……」

「ありがとう、ミズホ。こんな俺と出会ってくれて」

 彼はそう言って微笑み、同じように隣にしゃがみ込むと……両手を私の肩に添え、突然意味不明に『うんうん』と頷き始めた。……何だ?

「それに、ミズホの気持ちはよーく伝わったからさ。本当に君は素直じゃないんだから」

「……? 気持ちって?」

「ミズホがどんなに俺の事を大好きなのか、って事がだよ」

 彼はにししと笑いながら、私の肩にぽんぽんと手を置いた。

「ば、ばっかじゃないの! ……これは、あれよ! 友好的なもので……そ、そう! 親愛みたいなものよ! 勘違いしないでよね⁉」

「【しんあい】って、深い愛? それとも、信じる愛?」

「親で愛の親愛よ! 友人に対する愛だよ愛! ……ソウくん、わかってて言ってるでしょ?」

「あ、バレた?」

 彼はペロッと舌を出し、まるで悪戯っ子のようにクスリと笑った。

「ほんと、自意識過剰……やってらんない!」

「ミズホの顔、真っ赤だよ? かーわいっ」

 まるで、形成逆転とでも言うかのように、同じ言葉を並べてくる彼が、とても腹立たしい。

 でも――

「けど、ミズホが元気になったみたいで本当に良かった。あんまり不安になるなよ……なっ? そんなに心配しなくても俺は大丈夫だから。約束……ちゃんと覚えてる? 俺、絶対にミズホに悲しい想いはさせない。だからもうちょっとだけ、俺の事信じてみてよ?」

 ――ほら。最後はいつも、そんな風に……お日様のように明るく、優しく笑うんだ。

 そんな風に言われたら、これ以上何も言う事が出来ない。……やっぱりソウくんは狡い。

「……わかった。信じてるからね?」

「当たり前。俺は嘘なんて吐かないって」

 うん、彼なら大丈夫だ。たとえ何かが起きたとしても、きっと何とかなる。……そう信じてみよう。

 深く考えるのはもうやめにして、風のゆくまま流れに身を任せるのも悪くないだろう。

 ――きっと、私達の関係は変わらない。ずっとずっと、このままだ。

 ……ソウくん。私も貴方と出会えて、本当に良かった。

 これが彼の言うように、運命の出会いだというのなら……どうか、その運命を悲しいものにはしないで欲しい。

 ずっと、彼と笑っていられる未来を……私に。

 私は心の中で、そう何度も何度も呟いた。


 彼とわかれた後、家に帰った私はペンを握り、小説の続きをひたすら書き続けた。

 今夜は一体、どんな夜が私達を待っているのだろう?

 やはり少しの不安が私の心を締め付けたが、わざと意識を逸らして、出来るだけ考えないようにと心がけた。

 今回は、初っ端から兎狩りが始まっている。取り敢えずこのイベント早く終わらせる為にも、白兎と黒兎を捜さなきゃ。

 ……あ。今日はちゃんとした恰好をしておかないとな。

 三日目の夜が始まろうとしていた。

 彼の深い闇が、より一層彼の心を蝕み始め、私達のこんな曖昧な関係に簡単に亀裂を生み出していくという事を……私はまだ、気付いていなかった。



***


 黒く深い穴に落っこちて始まる、三日目の夜。いつも通り、辺りには誰もいなく、静まり返っていた。

 森の中でゆっくりと目を覚ました私は、身体についていた土を払うと、恐る恐る片目を塞ぎ、確認する。

 ――やはり見える、黒兎と白兎の姿が。

 しかし、今日は少しばかり状況が悪い。二人がいる場所はバラバラで、どちらも森の中。昨夜のように目印になるものなど、何一つ見当たらない。……これじゃ、闇雲に捜すしかなさそうだ。

 取り敢えず、ソウくんと合流しないと。

「……今日の宴は、どこでやるんだろ?」

 私は振り返り、合図の煙が打ち上げられていないかを確認をする。――その時、一瞬心臓が止まりそうになった。

 鬼が、鬼が一人……森の奥の方から、じっとこっちを見ていたから。

 全身から、サッと血の気が引いていくのがわかる。喉を締めつけられるような恐怖が、私の元へとやってくる。戦慄が走った。

 その鬼は樹の葉を掻き分けて、一歩ずつこちらに向かって歩いてくる。そして、低いような高いような不気味な声で私に語りかけてきた。

「その目、黄色の目……お前兎の場所がわかるのだな……?」

 ――しまった。顔を隠すのを忘れていた。

 私はその場に落ちていたおかめの面を拾うと、ギュッと強く握りしめた。

 鬼面を被った男は、躊躇なく腰から脇差しを抜く。

 私は、恐ろしくて腰が抜けそうになりながらも、必死でその場から逃げ出した。……本当に恐ろしい時には、声すら出ない。それが立証された瞬間でもあった。

 目尻に涙が溜まり、恐怖のあまり呼吸も早くなっていく。足がもつれていう事を聞いてくれない。心臓がドッドッと煩いくらいに音を立てている。

 ――ソウくんどうしよう。私、このまま死んじゃうかもしれない。

 そんな時に運悪く、私は木の幹に躓き、派手に転んでしまった。

「いったぁ……!」

 肘や膝を擦りむき、じわっと血が滲む。半泣き状態になりながらも後方に顔を向けると、既にそこには、私を見下ろす恐ろしい鬼面の姿があった。

「あ、あ……っ……」

 尻餅をついたままの私は、手で土を掻きながら必死に後退るが……背中が樹にぶつかり、ついに逃げ場を無くした。

「俺はどうしても奴らを見つけ、願いを叶えてもらわないと駄目なんだ……だから、今すぐ兎共の場所に案内しろ。それが嫌ならその目を、その眼球を、俺に寄こせぇええええ!」

 鬼が私の目に向かって脇差しを振り上げた。

 私は『もう駄目だ』と覚悟を決め、両目を閉じた。すると突然、真っ暗な視界の中に彼の姿が現れた。

 視界の中の彼は、私の目の前にいる鬼面の背後に立ち、太くて頑丈そうな棒で後ろから叩きつけようと腕を思いっきり振り上げた。

 ――何だこれは? 何故、ソウくんが私の視界に……⁉

 ちょうどその時、現実にも鈍い音が鳴り響き、私は驚いて目を開ける。その視線の先には、『ハァハァ』と浅い呼吸を吐きながら棒を握りしめている彼と、その場に倒れ込む鬼面の姿があった。

「ソウくん!」

「危機一髪……ってところだな」

 彼はふぅっと息を吐きながら、額から流れる汗を乱暴に拭き取った。

「……あ、本当に目が黄色くなってる。いや、そんな事より……ミズホ、大丈夫か?」

 彼は棒を地面に放り投げ、私を引っ張り起こすと、頬に手を当て、安否を確認した。

「あ、ありがと、ソウくん……助けて、くれて…………ううっ!」

 私は彼の姿を見て安心したのか、目からじわじわと涙が溢れ出してきて、彼の暖かい手のひらを濡らすと声を上げて泣いた。

「大丈夫、ミズホ。もう大丈夫だから」

「……もうやだぁ! こんな所から帰りたいよ! 私達いつか殺されちゃうよぉ!」

 子供のように泣き喚く私に、彼は慌てながら……恐らく彼のポケットに入っていたのであろう飴玉を包み紙から取り出し、私の口内にポイッと放り込んだ。

「甘い……」

 彼のくれた苺味の飴玉は、私の心を落ち着かせるには充分な効果があった。私は舌の上でそれをコロコロと転がした。

「ミズホ、リラックスして。リラックス。あー、それにしても派手に転んだなぁ」

 彼は私の腕を手に取ると、肘の辺りをマジマジと見つめる。膝からも赤い血液が流れていていて、我ながら痛々しい状態だ。

「どこかで手当が出来るといいんだけど。……けどその前に、こいつだな」

 彼は倒れた鬼面の姿をじっと見つめ、ゆっくりと近付いた。

「ソウくん……? 駄目だよ、危ないよ!」

「……大丈夫。この面の下の顔を拝んでおきたいだけだから」

 彼は鬼面に手を触れ、ゆっくりと面を外した。

 ――普通。

 おっかない鬼面を外してみると、普通にどこにでもいそうな痩せっぽっちの若い男の人だった。

 彼はしっかりと閉じられている男の眼球をそっと開いてみる。気を失っているその目は白目に黒目。……私達と同じだ。

「人間……?」

「いや、そうではないと思うけど……もしかして鬼って奴らは意外と俺達に近い存在なのかもしれないね」

 彼は鬼の面をじっと見つめると、何やら考え込んでいるような複雑な面持ちで、そっと目を閉じた。

 一先ず、安全の為にも倒れている男を樹に縛り付けておきたい気分だったのだが、生憎ロープなど持っていない私達は男をその場に放置する他なかった。男の脇差しと鬼面は彼が持つ事となった。

 脇差しはいざという時に役に立つかもしれないし、鬼面をなくした男は、狩りの【参加者】から外されるかもしれないからだ。

 男の袴を奪って彼が変装するという案も思いついたのだが、いくら彼でも……あんな忍者のように素早く身軽な動きなど出来ないし、樹の上を移動なんて、そんな芸当は出来っこないので断念した。

 私は、持っていたおかめの面を顔に被せる。彼も、隣でひょっとこの面を顔に被せた。

 その瞬間、発砲音が響き渡り、色鮮やかな煙が達が線を描くように、空高く昇っていった。――今夜もまた、宴が始まったようだ。

「ミズホ。兎達はまだ森の中にいる?」

「ちょっと待って、今確認する……」

 私は右手、左手……と順に目の上にかざし、兎面の双子達の居場所を確認してみせる。

「……うん。まだ森の中にいるよ! 二人とも別々の場所にいるみたいだけど」

 その言葉を聞くや否や、彼は振り返り、まるで覚悟を決めたかのように低いトーンで私に話しかけた。

「……ミズホ。一度宴の場所に行ってみよう」

「え? でも……宴の場所には双子はいないよ?」

「それでいいんだ。ミズホ……俺、魔女が作ったあのドリンクを飲もうと思う」

 彼の言葉に、私は一瞬で【黒い】彼の姿を思い浮かべ、激しく動揺した。

「え? 何で……? ソウくん、もう絶対にあのドリンクは飲まないって言ってたよね? もしも前みたいにおかしくなっちゃったらどうするの⁉ 私、嫌だよ……そんなの」

「……大丈夫だよ。あの不思議な飲み物は、望みを持つ者の潜在意識を読み取り、それに取り込まれた者は無意識に今、自分が一番望んでいる物を手に取る。なら、今の俺が欲し、望むものは……たった一つしかないんだ」

 彼は丸い月に、赤や黄色、緑の煙が立ち昇る夜空を見上げながら、そっと呟いた。

「真実を知りたい。ミズホが兎達を見つけられる目を持つなら、俺は真実を見極める目が欲しい。別に目でなくても構わないけれど……俺は今、どうしても知りたいんだ。この宴に隠された秘密を」

「ソウくん……」

「多分その答え次第で、俺の運命は大きく変わってしまうだろう。けど、知らないままではいられないんだ。……それが、どれだけ俺の心を苦しめる事になったとしても」

 彼が今、どんな表情をしているかだなんて……ひょっとこの面に隠されていて、私には知る事など出来ない。けれど彼の意思が固いという事くらいは、私にだって容易に判断出来た。

 私は彼の両手をぎゅっと握り、出来るだけ明るい声で彼に伝える。

「行こう、ソウくん! きっと、何とかなるよ! 何かあったら、また私がソウくんの事を引っ叩いてやるんだから!」

「……ありがとう、ミズホ」

 そう言った彼の手は、少し震えているように思えた。


「ミズホ、足……痛くない?」

 煙の位置を頼りに歩いていると、突然彼がそう話しかけてきた。

 ――確かに痛い。しかし、そんな事は言ってられない。

「ううん、大丈夫だよ? 早く急ごう!」

 彼は無言で私を見つめると、いきなり背を向けてその場にしゃがみ込む。

「ん」

「……? 何よ?」

「背中。おぶるから乗って」

「はぁ⁉ 嫌だよ! 絶対に嫌だからね!」

「……ふーん。そ?」

 彼は立ち上がり、こちらに振り返ると、両手を大きく広げる。

「じゃあ、お姫様だっこにする? 別に俺はどっちでもいいけど。そのペースじゃ夜も明けちゃうし、兎達も鬼達に捕まってしまうよ?」

「……そんな言い方しなくてもいいじゃない」

「ごめん。別に急かしてるとかそんなわけじゃないんだ。……さっきから辛そうだからさ。俺に気を使ってるなら、別に気にしなくても大丈夫! きつい時は甘えればいいんだよ」

 笑いを含んだ優しい声で、私にそう話す彼。……怪我のせいでスピードが落ちているのは間違いない。私は、どっちの方が迷惑かを天秤にかけてみる。

 彼は出来るだけ早く宴の場に着きたいと思うし、足手まといにだけはなりたくない。

 彼の言う通りにして甘えさせてもらった方がいいのかもしれない。……どっちにしたって迷惑をかける事には変わりないが。

 けど、おんぶかお姫様だっこって……

 その二択しかないなら、どちらかというと……

「……おんぶでお願いします」

「素直でよろしい」

 彼はわたしを『よっと』と背負うと、ゆっくりと歩き出した。

 ひょっとこがおかめを背負う姿。……想像しただけでカオスだ。

 笑いの場なら、そんな二人組がいればお腹を抱えて笑い転げるだろうけど、こんなに暗く不気味な森の中では、二人の姿は恐怖そのものだろう。……私なら泣き叫ぶ。

 ――まぁ、冗談はさておき。

 彼の背中は大きくて、暖かくて……何だかとても安心出来た。男の人におぶってもらうなんて、うんと幼い頃に父親にしてもらった以来だ。

 優しかった頃の父親の背中を思い出して、何だか少し切なくなった。

「ソウくん、ありがと……」

「いいよ、これくらい! けど、ミズホって意外と着痩せするタイプなんだね」

「……はい?」

「いや、結構重いからさ! 島から帰ったらダイエットだね!」

「……降ろせ。この無神経で女心もわかんない、デリカシーなしの馬っ鹿男!」


 彼の背で暴れまくって……数分後。

 やっとの事で私達は宴の場に着いた。私は彼の背からゆっくり降ろされると、いつものように美しい夜の空を見上げた。

 沢山のシャボン玉が浮遊している。大きなものから小さなものまで。流れるように、星の綺麗な紺碧の海原をふわりと舞う。

 大きな樹の枝に座った童達はとても楽しそうにこの宴の場を、まるで海の底に沈んでしまった水中世界かのように演出していた。

「何度見ても綺麗……」

「……うん、そうだね。水中月下だ」

 水中から見る月は、地上から見る月よりももっと美しく見えた。優雅に泳ぐ魚達もそんな事を思いながら毎日を過ごしているのだろうか?

 ――大きな月の下の、水の中。

 私は無意識に……夜科蛍の、【朧月夜に泳ぐ魚】を思い出していた。


「おっ! あんたら確か、奥岩島の爺さんと一緒にいた子らじゃのう。どうじゃ? 宴を楽しんでおるか? ――ん? ……娘さん、どうしたんじゃ? 兎狩りの最中に怪我でもしたんか?」

「あ、貴方は……」

 空を見上げていた私達に突然話しかけてきたのは、初日の夜に仙人と親しげに話をしていた、狸面を被った小さな小太りの老人だった。

「……ありゃりゃ、こりゃあ痛そうだ。ちょっと待ちんしゃいね」

 狸は小さなポシェットから葉っぱを一枚取り出すと、膝の傷にぴたっとそれをくっつけた。

 その葉はまるで、血液を吸いあげる蛭(ひる)のようにしっかりと傷口ひっつくと、地面に落ちる事はなく、皮膚と一体化していった。

「あった、あった。次はこれじゃわ」

 そう言うと、狸面の老人は液体の入った小さな小瓶の蓋を開ける。そしてそれを、葉っぱの上から傷口に向かって数滴程度振りかけた。

 じゅわあぁと、傷口周辺から白い蒸気が出る。滲みたり痛みなどは不思議と感じなかった。

 やがて白い気体は消え去り、狸は口を開いた。

「これで平気じゃ。もう傷は消えとるよ」

 狸が葉っぱをゆっくりと外すと、まるで最初から傷などなかったかのように、皮膚は元通り綺麗になっていた。

「え⁉ どうして⁉ ……治ってる。痛みもないよ!」

「嘘だろ……!」

 私達は面食らったようにポカンとした表情を浮かべていると、それを見た老人は『ひっひ』と愉快そうに笑った。

「ほれほれ、次は肘だ。肘を出しんしゃい」


 肘の傷口もすっかり消えたので、狸面の老人はポシェットの中に葉っぱと小瓶をしまった。

「あの、本当にありがとうございました!」

 私が老人にお礼の言葉を述べると、老人は手をヒラヒラと振り『気にせんでいい』と告げた。

「じゃあ儂は、酒を呑みに戻るけんのう。さっさと兎狩りに行ってきんしゃい。儂らは鬼面の輩よりもあんたらを支持しておるからの。酒のつまみに丁度良い催しじゃわ」

 魔女は『見世物』と言ったが、狸のお爺さんは『催し』と言った。きっと言葉を選んでくれたに違いない。

 仙人といい、狸さんといい……本当に良い方達ばかりだと思った。

 私は去り際に一つだけ、老人に問いかける。

「あの……鬼って、一体何者なんですか?」

「……あー、鬼かぁ? 憐れな者の成れの果てよ。人でもない、神でもない、何者でもない存在……それが鬼の姿じゃ。あんたらも気ぃつけな。鬼なんぞにならんようにな」

「私達が……鬼に……?」

 狸面の老人はそう言うと、群れの中に溶け込み、姿を消していった。

「人ではない……人を捨てた……? 神ではない……神に、近付こうとしたのか? そして、何者でもなくなった……」

「……ソウくん?」

 その時、突然背後から『ヒッヒッヒ』と不気味な笑い声が聞こえ、私達は急いで振り返える。

 フードを被った背の低い老婆が、後ろで手を組み、腰を曲げてしっかりとそこに立っていた。

「……あんたら、儂に御用なんだってねぇ」

「魔女の、お婆さん……!」

 私の言葉に彼は反応し、唐突に老婆に問いかけた。

「今日はあの不思議なドリンクは置いていないのか?」

「勿論置いてあるさ。けれど……あんたの求めている物はきっと、手にする事は出来ないだろうねぇ」

「……それは、何故?」

「あんたが今望んでいるのは、真実を知る為の物だね。……しかし、薬の力を侮ってはいけないよ? あんたが胸の奥に秘めている、どうしても知りたい真実というのは、この世界というより【鬼】についての真実の事じゃろうて? ――なら無理じゃの。薬は決して現れない」

「……そのわけを聞かせてくれないか?」

「いいじゃろ。理由は簡単。……お主、もう気付いておるじゃろうが? 答えに辿り着いておる。既に真実を知っている者に、真実を知る為の薬など出やせんわ」

 ――ソウくんが、真実に気付いている?

「……そうか。飲まなくても真実に辿り着けたのなら、それに越した事はない。助かったよ、ようやく確信が持てた」

 彼は私の方に振り返ると、まるで覚悟を決めたかのように自らの意思を伝えてきた。

「……ミズホ。俺、兎狩りの勝者になる。叶えてもらいたい願いがあるんだ。 ――力を貸してくれ」

 彼の声があまりにも真剣なので、思わず返答に戸惑っていると……突然、宴の場で大きな打撃音が響き渡った。私達はその方向に、即座に目を向ける。

 そこには、昨夜見たあの巨体な鬼が木の棒を振り回しながら、叫び、狂ったように暴れている姿があった。

 先程の打撃音は、木で作られたテーブルやその上に置いてあった食器等が粉砕、破壊された音のようだった。土の上に破片がばらつく。

 周りにいた者達は、さも迷惑そうにこそこそと話しながら、鬼から距離を取っていた。

「な、何⁉ 一体、何が起きてるの⁉」

 私は奇声を発しながら棒を振り回す鬼に恐怖を覚えていた。

「! ミズホ! 目だ! 確認してみて!」

「……え? あっ! ……うん!」

 私は彼に言われるがまま、左右……片目ずつ閉じて、兎の居場所を確認する。

「――いた」

 左目を閉じた際に映ったのは、甚平を纏った白兎の姿。

「やっぱり。……どっち?」

「……白兎の方」

 兎面の少年は、あの巨体の鬼面が振り回す棒をひょいと身軽に、そして器用に避けていた。

「あの巨体には、もしかして……白兎の姿が見えている?」

 ――その時。私は、今の今まですっかり忘れていた【ある事】を思い出した。

 どうして忘れてしまっていたのだろう? 私は、堰を切ったように老婆に問いかけた。

「お婆さん! あの鬼が昨夜飲んだ白い飲み物の中身は、一体何だったの⁉」

「……ようやく気付いたようだねぇ。昨夜、あやつが飲み干したのはあんたも一度は望んだもの。夢を叶える為、その手助けをするものさ」

 老婆はそう言うと、とても愉快そうに笑った。その声は、周りの植物を一瞬で枯らしてしまう効果がありそうな程、不気味で禍々しい。

「夢を叶える……手助け?」

「お婆さん……鬼面達の夢って、一体?」

 私がそう尋ねると、老婆は眼球が飛び出しそうなくらいに思いっきり目を見開いた。

「鬼の夢など一つしかあるまい! 兎を捕らえて、願いを叶えてもらう事じゃよ」

 老婆はさもそれが当たり前かのような物言いだ。私は、更に核心をつく。

「鬼達の願いって、なんなんですか?」

「支配からの解放。……それとも神の称号を得る事、かのぅ?」

「支配からの解放? 神の称号を得る事?」

「……なるほど、ね。理由も大体読めてきたよ」

 老婆が何を言っているのか、私にはまったくわからない。……彼には、わかっているというのだろうか? 老婆の魔女が言っている言葉の全てを――

「――行こう! ミズホ!」

 彼は私の腕を掴むが、私は咄嗟にその手を振り払う。振り払われた彼の手は、虚しく宙を舞った。

「……ミズホ?」

「ソウくん。どういう事なのかちゃんと説明してよ。私、もう……わけわかんないよ」

「ミズホ……どうしたんだよ? 今はそんな事より白兎を捕まえる事の方が先決だろ? 急がなきゃ、あいつらも無事で済むとは限らないんだぞ⁉」

「そうじゃそうじゃ。こんなところでモタモタしておると兎は奴らに奪われてしまうぞ?」

 横目で鬼面を見ながらそっと片目を瞑り、白兎の姿を確認する。白兎は、今も攻撃を避け続けているものの……先程までのキレは感じられない。

 このままだと白兎は捕まってしまうかもしれない。小さく華奢なその身体と、あの巨体を比べてみれば……体力の差は一目瞭然だ。

 けれど、やはり私は頭をぶんぶんと左右に振る。

「……駄目、やっぱり納得出来ない。私ばっかり何も知らないままでいられないし、いたくないの。話してくれるまで絶対にここから動かない」

「ミズホ……」

 彼は腰を屈めて私の髪をわしゃわしゃと掻き回すと、周りに見つからないように少しだけ仮面をずらす。仮面の隙間から覗いたその顔は、にっこりと優しい顔で笑っていた。

「ミズホ、安心して? この夜が終わればちゃんと話すから。……約束しただろ? 確信が持てたら説明するって。全部話す。俺が知っている事も、俺が今までミズホに隠していた事も全部……ミズホに話すよ」

「ソウくん……」

「……だからお願いだ。力を貸してくれないか? 俺一人じゃ駄目なんだ。ミズホの協力が必要なんだよ」

 彼は私の両腕をギュッと握る。今の彼の手は、微塵も震えてなんていない。

「本当に……本当に全部教えてくれる?」

「うん」

「約束……だよ?」

「俺を信じろ」

 私はふうと一息吐くと、彼の顔を見上げて深く頷いた。

「わかった。私……どうすればいい?」

 彼は『ありがとう』と言い、ひょっとこの面を被り直すと、私に作戦の内容を伝え始めた。

「俺があの鬼を引きつける。その間にミズホは白兎を連れて、出来るだけ遠くに逃げて。他の鬼面達には兎の姿は見えていないのだから、奴等からはミズホが一人で走っているように見える筈。出来るだけ白兎との会話は避けるんだよ? 話しているとバレてしまうからね。とにかく、あの鬼面の意識が俺に集中した時……ミズホは兎に接近してここから連れ去るんだ。――わかったね?」

「え……? でもそれって、ソウくんが囮になるって事だよね? いくら何でも無茶だよ! 危険だよ……他に、他に何か作戦はないの……?」

「ない。大丈夫、俺逃げるのは得意だから」

 彼はあまり自慢にならない名言を私に残すと雑踏の中をかき分け、一目散に鬼の元へと走り出した。

「ソウくん! ……お願い、無事でいて」

 ちょうどその頃、周りから大ブーイングが巻き起こり、場の雰囲気が途轍もなく悪くなり始めていた。

 楽しい宴を邪魔したせいか、面を被った者達から禍々しく、ドス黒いオーラを感じる。

 当の乱暴者はまったく気にする事もなく、巨大な木の棒を振り回し、暴れ続けた。

「ひっひっひ、この兎狩りはのう? 参加者以外は関与してはならん決まりなんじゃよ。今頃神々や崇高なる者達のはらわたは煮えくり返っている事だろうよ。さぁて、そろそろ面白いショーが始まるわ。ほら、お主もさっさと行くがいい」

 老婆がシッシと、まるで野良犬を追い払うように手首を上下に振り払う。

 私は老婆から離れると、バレないように彼とは逆方向から、ゆっくり……ゆっくりと……白兎に近付いていった。

「――おい、そこの木偶の坊!」

 彼の大きな声が宴中に響き渡り、先程までの野次やブーイングの声がピタリと止んだ。

「そんなにでかい図体をしていて、あんなに小さな兎一匹、捕まえられねぇのかよ? 小動物以上に小物だなぁ、おい?」

 彼は馬鹿にするように鬼を挑発し、豪快に笑う。鬼面の男は、視線を白兎から彼に向けた。

「んなもん、闇雲に振り回しても当たるわけがないだろうが? 少しは脳ミソ使って考えろよ、バーカ! あ。もしかして図体にばっか栄養がいき過ぎて、オツムの方には回んなかったのか? 悪い悪い! それなら馬鹿なのも頷ける」

 背後からピューイと指笛や拍手、そして彼に対する賛辞の声が上がる。鬼は黙って彼を見据えていたが、彼の方は御構い無しに、ただひたすら目の前の鬼を罵倒し続けた。

「ウゥ……」

 彼の度重なる挑発に、ついに我慢の限界がきたのか? 怒りが頂点まで達してしまったのか? 鬼は頑丈そうな棒を高く振り上げると、ようやくその重い口を開く。

「オマエ……コロス」

それは低く野太い声で、わかりやすいくらいに殺意を放っていた。

「……殺ってみろよ?」

 彼は鬼に背を向け、猛ダッシュで走り出す。

 振り落とされた木の棒は、激しく地面にのめり込んだ。その威力は計り知れない。

 私はとっくに白兎の近くまで来ていたが、彼の事が心配になり、その場に立ち尽くしていた。

 ――駄目だ。動け、足!

 彼は危険を顧みず、必死に時間を稼いでくれているというのに……こんな所で立ち止まっているわけにはいかない。

 辺りを確認すると、運が良い事に、今この宴の場には鬼はあの一体しかいないように思えた。

 私は、樹の上で彼と鬼が争っているのをじっと見つめる白兎に、そっと声をかけた。

「……シロくん」

 白兎は振り返り、樹の下にいる私の姿を見つけた瞬間、そのまま私を目がけて飛び降りてきた。

高い場所から突然の急降下。当然、私はその場で尻餅を付く。

「いったたたた……」

 白兎は愛しそうに、ギュウと私に抱きついた。

「お姉ちゃん〜! 僕、怖かったよぉ」

「……嘘吐け。楽しそうに避けてたよね」

 私の言葉に『えへへ、そうだっけ?』と呑気な返答を返す白兎。私は少々呆れながらも、その身体を引き剥がすと、急いで立ち上がった。

「とにかく話は後! 行こう、シロくん! 彼が時間を稼いでくれてる間に……早く!」

「……え~? 疲れたから抱っこ~」

「馬鹿! 抱っこしながら走ったら、鬼達にバレるでしょうが! ほら、さっさと行くよ!」

「……は~い」


 鬼面達が素早く上空を移動している。私の姿を確認してもすぐに顔を逸らし、私達と正反対の方向……宴の場に向かっているようだった。騒ぎを聞きつけたからか? もう私についてきても兎まで辿り着かないと認識したからか? 彼の事は心配だが、こちらにツキが回っている。

 このまま、どこかに隠れる事が出来れば……

「ねぇ、ミズホ……」

「シッ。今は話しかけちゃ駄目!」

(じゃあ心に語りかけるね? ……ミズホ。君はどうしてこのイベントに参加したの? あと、もう【目】は閉じなくても大丈夫だよ。参加者が標的に触れた時点で、その者は標的を認識する事が出来るんだ。……君は、鷹の目を持っているね。 ――それは何故?)

 白兎は以前のように私の脳に直接語りかけてきた。……本当だ。白兎の言う通り、片目を閉じたり隠したりしなくても、ちゃんと彼の姿が確認出来る。

 私は、頭の中で白兎と会話をした。

(どうして参加したかだなんて、貴方達の事が心配だったからに決まってるじゃない! 無事に見つけられて本当に良かった! あとこの目は、えっと……私の望みがね? 二人を見つけ出す事だったから、鷹の目のドリンクが現れたの。本来出る筈のない特別な薬だって魔女が言ってた。でもこれのお陰でシロくんを見つけ出す事が出来たし……あとはクロちゃんだけだね!)

(……何て愚かな事を。あれはね、本来人間が持っていいものではないんだ。それなのに……あの忌々しい魔女め。まさかミズホに目をつけるなんて。――絶対に許さない)

 鷹の目を持った事が愚か……? え、だってこれ……三日経てば元に戻るんだよね?

(……ミズホ。こっちに来て。海岸に繋がる洞穴があるんだ。一先ず、そこに行こう)


「こっちだよ、ミズホ」

 白兎は私の手を強く握り、洞穴の奥まで進むと大きな岩の上に私を座らせた。

 少年は兎面を外し、近くの岩の上に置く。

 黒兎の言っていた通り、白兎の目はあの禍々しい赤色ではなく、色素は薄めだが普通の綺麗な目の色をしていた。

「ミズホ……目を見せてみて」

 白兎は私の面に手を添えると、ゆっくりと顔からそれを外し、兎面の上に重ねた。

 目の前にいる少年の表情は、今まで見た事がないくらいに悲しそうで、いつもより数段大人のように見えた。

「可哀想なミズホ。憐れなミズホ。……醜い目。悪魔の目だ」

 少年は、私の目元に優しく触れる。

「あの……シロくん?」

「ねぇ、ミズホ。あの場所にいた神や仙人にはね、ちゃんと僕達の姿が見えているんだ」

「え……?」

「見えていないのは参加者だけ。僕達が妖力をかけてあるから。まぁ、力のある神々が狩りに参加したならばきっと、僕達の力なんて簡単に弾かれてしまうだろうけど……その心配はないんだよ。神達が狩りに参加をする事なんて絶対にないからね。神達はまだ未熟で非力な僕達に、願いを叶えてもらう必要なんてないからさ。……だから、こんな馬鹿馬鹿しいイベントに参加するのは低脳な鬼面、あるいは何の力も持たない人間くらいしかない。魔女は……それにつけ込んだんだ」

「つけ込んだって……さっきも言ったけど、これ三日経てば元に戻るんだよね? もしかして、二度と……治らないの?」

少年の言葉に私は動揺を隠す事すら出来ず、不安と戸惑いが一気に押し寄せてきた。

 白兎は透き通るような眼で私の顔をじっと見つめながら、まだ幼さの残るその声で私にそっと語りかけた。

「魔女のドリンクに良いものなんて一つもないんだよ、ミズホ。無条件で飲む者の望みを叶える薬だなんて、そんな都合の良いものなどある筈がない。特に、姿を変えてしまうものは駄目だ。ミズホの身体への負担とリスクが大きすぎる。魔女は、鷹の目を与えたんじゃない。 ――ミズホ。君から目を【奪った】んだよ」

「私の目を……奪った……?」

 白兎はこくりと頷くと、話を続けた。

「確かに、三日経てばその目は元の黒い目に戻るだろうね。……けれど、ミズホの中からその目が完全に消え去ったわけじゃない。身体の中に眠っているだけだよ。そう、それはまるで、君の中に強くて頑丈な根を張るように……僕が妖力を放つ時にだけ、この目が赤く染まるように……君は、少しずつ人知を超える者になろうとしている。それも、神や仙人のような高い地位の者ではなく、亡者に近い穢れた獣のような存在だ。きっと、最初は目、次は耳、と……魔女は甘い言葉で君を言い包めて、力を与えていき、少しずつ君は人間でなくなり……最後には魔女のペットにされてしまうだろうね」

「そんな、嘘よ……そんなのって……」

 私はあまりのショックに、流れる涙を止める術を一切持たないでいた。

 呪われた黄色い目から流れ落ちる涙は、一体何色だろうか? 正常な色をしているのであろうか?

 止めどなく溢れ出す噴水のような涙は、私の手を濡らし、地面にじわりとその跡を残した。

「泣かないで、ミズホ。大丈夫、僕が何とかしてあげるから」

「え……っ?」

 私は頭を上げ、涙に濡れた顔で白兎を見た。

「三日を過ぎると僕にはどうする事も出来ないけど、今なら何とか間に合うよ。 ――ただ、その目は失ってしまうけど……いいよね?」

 鷹の目を……失う?

「……? ミズホ? どうかした?」

 私は少し考えた後、ゆっくりと首を左右に振り、白兎の顔をしっかりと見据えた。

「――駄目だよ、シロくん。この目はまだ手放せない。だってまだ、クロちゃんを見つけていないから」

 白兎は私の言葉に驚き、目を大きく見開く。

「ミズホ、何言ってるのさ……⁉ 君には時間があまり残されていないんだよ? 僕はルール上、君に何も教える事は出来ないし、たとえ目を持っていたとしても黒兎を見つけ出すのは困難だよ? どれくらい時間がかかるかわからない」

「それでも……! それでもいいの。目を治してもらうのは、ちゃんとクロちゃんに触れてから。あんな鬼なんかに二人は渡さない。傷付けさせない」

「ミズホ……」

「勝手な事ばっかり言って、ごめんね」

 私は心配そうに見つめる白兎に、出来るだけとびっきりの笑顔を見せた。

「大丈夫、そんな顔しないで? ……よし! そうと決まればいつまでもこんな所でメソメソしてる場合じゃない! クロちゃんを早く捜さないと! ……ね?」

 白兎はポスッと、私の肩に頭を置く。小さなその身体は、少しだけ震えていた。

「ミズホ、君って本当に馬鹿だね。僕達を捕まえて願いを叶えてもらいたいわけではなく、本気で僕達を助けようとするなんて。正真正銘の大馬鹿ものだよ……お姉ちゃんは」

「……本当に私、馬鹿だよね! でもほっとけないんだもん。仕方ないよ」

「これだから……僕は君が欲しくてたまらない。本当に君の事が大好きなんだ。もしも君の目が一生そのままだったとしても、たとえ君が人ではなくなってしまったとしても……僕はミズホの事がとても、とても大好きだよ」

 白兎は、力なく呟いた。

「……もう! ませた事言わないの! 貴方は私から見れば、まだまだ幼い子供なんだから! 本当はうーんと年上だったとしてもね? でも、ありがとう。シロくん」

「――僕の身体がこんなに幼くなかったら、ミズホは僕の事を愛してくれたかな」

 彼は小さくそう呟くと、私の肩に深く顔を沈めた。


「…………ん?」

 突然ピョンと兎の耳が跳ねるように、少年は顔を上げた。その表情は見る見る内に険しく変わる。

「シロくん? どうしたの?」

「……黒兎が」

「クロちゃん? 彼女が、どうかしたの?」

 その時、急に嫌な雑音が周囲に響き渡った。

「な、なに??」

「……梟、放送の合図だよ。聞こう」

 スピーカーはこの洞穴の中にも設置されているのだろうか? 次第にノイズ音が静まり始めると、その内容ははっきりと私の耳まで届いた。

『あーあー、兎狩りに参加の皆様、そしてそうではない皆様も。ワタクシ、フクロウ、梟で御座います。もうすぐ二日目も終わりを迎えようとしておりますが……現時点で、兎達はそれぞれ鬼面の衆と人間の娘の手に落ちました。……ゴホン』

「何ですって! クロちゃんが⁉」

 私は急いで右目を手で覆い隠し、確認する。

 海辺に集まる大勢の鬼面達。そして、巨体の鬼に首根っこを掴まれ、ぶら下がっている黒兎の姿が確認できた。

 黒兎は暴れ抵抗の意思を見せるが、巨体の鬼はビクともしない。

 そして……その先頭に立つのは、あの鬼面の女。

 その隣には、縛られ、砂浜に転がされている彼の姿があった。

「ソウくん!」

『しかし、双子の兎は二兎で一兎に御座います故、別々では勝者とされませぬ。ご注意を。……いよいよ兎狩り終了まであと一日に御座いまする。皆様、悔いのないようお過ごし下さい。それでは、皆様失礼致します』

 プツリと放送が切れる音と同時に、私は湧き上がる震えと動悸に眩暈を覚えた。

「シロくん、どうしよう! クロちゃんも、ソウくんも……鬼面に捕まっちゃった」

「ミズホ、落ち着いて。……ちょっと静かに」

 切れたばかりの放送から、また新たなノイズが生まれ、この地に響き渡る。

「……今度は鬼面達から、僕達にコンタクトを取ってきたようだ」

「鬼達から⁉」

「まぁ、内容は大体わかるけどね。……あの鬼達の言いだしそうな事だ」

「聞こえるか、人間の娘よ! この男の生命が惜しくば白兎を連れ、今すぐ海岸まで来い! 我々は兎神に手を出す事は出来ないが、この男の命ならば奪う事など容易い事だ。 ――いいか? 我々は待つのが苦手だ。出来るだけ早く来ないと、後々後悔する事になるぞ?」

 その低い男の声を最後に、通信は途絶えた。

「ソウくん! どうしよう……ソウくんが!」

「……ミズホ、しっかり」

 私は首を、凄い勢いで左右に振った。

「しっかりだなんて無理だよ! だってソウくんが殺されちゃうかもしれないんだよ⁉」

 止まったはずの涙が、またじんわりと目尻まで広がる。その姿を見た小さな少年は、そっと私に声をかけた。

「嫌? ……あいつが死ぬの、そんなに嫌?」

「嫌! 絶対に嫌だ! そんなの、当たり前でしょ⁉」

「――なら、ミズホ。僕を連れて海岸に行くんだ。今はもう、それしか方法はないよ」

「……でも! それじゃ、シロくんが身代わりになってしまうよ! ……そ、そうだ魔女! 魔女に何か薬を、薬を出してもらえないかな⁉」

 慌てふためく私の両腕をしっかりと掴み、白兎は真剣な眼差しを向けた。

「駄目だ、ミズホ! これ以上、君は魔女の薬に頼ってはいけない。……さっき言ったばかりでしょ? 君は既に魔女の薬に依存し始めている。それを早く断ち切らなきゃ。……取り敢えず、落ち着いて? ミズホは、あいつを助けたいんでしょう?」

「うん……」

「なら、覚悟を決めるしかないよ」

 白兎は、ゆっくりと私の腕を下ろした。

「でも、じゃあシロくんとクロちゃんは……」

「僕達は平気だよ。兎狩りは【生け捕り】のルールだから殺される事はない。……まぁ、あんな輩に殺される筈もないけど。でもこのままだと、あいつは確実に殺されるだろうね。鬼面の衆は感情というものを一切持たない。ただ本能のまま、善悪の判断もつかずに行動を取る愚かな種族さ。早く行かないと奴らは本当にあいつを簡単に殺すだろうし、そうなれば次に狙われるのは……ミズホ、君なんだよ? 今は鬼面の案に乗る事が、一番賢い選択だと僕は思う」

 白兎の言う通りだ。彼を助けたいのなら、白兎を連れて取引の場に行くしか方法はない。でも…….

「……けどね、ミズホ? 僕は鬼面なんかの願いなど叶えたくはない。それに、【あいつ】の願いを叶えたいわけでもない。叶えるなら君の願いがいい。だから三日目。このイベントの勝者は必ず君でなければならない」

 白兎は立ち上がり、岩の上に置いてある兎面を被ると、おかめの面を私の膝の上に置いた。

「約束だよ? 僕達は獲物であり、ルールに支配されているから協力する事は出来ないけれど……必ず、僕と黒兎を捕まえて。僕達がミズホの願いを叶えてあげるから」

「でも、私には叶えて欲しい願いだなんて……私は、シロくんとクロちゃんが無事だったら、ソウくんが無事ならそれで…….」

 白兎はクスクスと、声を出して笑う。

「……まったく。魔女の薬には異常なまでに依存してしまっている君なのに、欲があるんだかないんだか。……とにかく、今僕が奴らの手に渡ったとしても明日の終了時までには、まだ充分時間がある。――ミズホ。きっと僕と黒兎の事を迎えに来てね」

 白兎はそう言うと、今度は優しく微笑んだ。

「……シロくん。……わかった。行こう、海岸に! でもきっと、絶対に助けに行くから! 約束! 信じて待っていて!」

「うん、待ってる。さぁ、早く行かないと! 鬼達もそんなに待ってはくれないだろうし、黒兎の怒りも限界だ。あいつは……ま、どうでもいいけど」

「もう、そんな事言わないでよ……シロくん」

「だってあいつ、僕と黒兎に酷い事をしたんだよ? 絶対に許してやるもんか」

 そっぽ向く白兎に、私は優しく語りかけた。

「本当は優しい人なの。少し不器用なだけで、とてもいい人なの。きっと彼も反省してる。だからシロくん。彼の事、許してあげてくれないかな? ……お願い」

「……わかったよ。ミズホがそう言うなら。まだ許せるかどうかはわからないけど、とりあえずあいつの事……助ける」

「……ありがとう!」

 私はその小さな身体を優しく抱きしめると、スッと立ち上がりおかめの面を被る。

「行こう、シロくん!」

 私と白兎は海岸へと続く洞穴の出口に向かって、ゆっくりと歩き始めた。


 今【この場所】にいる、全ての者の心情を代弁するかの如く、強風は吹き荒れ、波を無情に揺らす。

 月光の中に浮かぶ影は……不吉の予兆。

 私は震える身体で拳を強く握り、鬼達に恐怖を悟られぬよう出来るだけ低く、静かに話す。

「……ソウくんを返して」

「遅かったな、娘。白兎はちゃんと連れてきたのだろうな?」

「ここに、ちゃんといるわ」

 鬼は巨体の鬼に確認を取る。巨体は大きく縦に頷いた。

「……よし。ならば娘、兎をこちらへ寄こせ」

「駄目! ……ソウくんを先に解放して」

「いいや、兎が先だ。男を殺すぞ……?」

 彼の近くにいるナヨナヨした貧弱そうな鬼面と腰の曲がった老人の鬼面は、脇差しを素早く抜くと、彼の頭上高く振り上げる。

「やめて!」

「では、兎を! ……早く」

「……ミズホ、僕行くよ」

 白兎は私から離れ、ゆっくりと歩いていく。

そして声を荒げる鬼の前に立つと、ちょんっと袖に触れた。

「……うわぁああ! ひぃい!」

 鬼は突然目の前に現れた白兎を見て、情けない声を上げ、大きく仰け反る。白兎がパチリと指を鳴らすと、突然何もなかった空間にパッと白兎が現れたかのように、全ての者達が白兎を認識出来るようになった。

 そして巨体に捕まり、暴れまくっている黒兎の姿も……

「来たよ。取り敢えず今だけは触れていなくとも、全員が僕達の姿を見えるようにした。さぁ、早くあいつを解放しなよ」

 白兎の言葉に、鬼女以外の鬼が大きく高らかに笑う。そして先程までの失態を掻き消すように、鬼の男が強く白兎の腕を掴んだ。

「……それは出来ない相談だな。三日目の夜に邪魔をされては困る。ここは最後まで何が起こるかわからない夜宴の島。万が一、と言う事もあるのでな。残念ながら、この男にはここで死んでもらうとしよう。……そこの女もこいつが死ねば意気消沈し、何も出来ないだろう」

 鬼はさっと右手を上げる。

「や、やめて……! 嘘つき! 卑怯者!」

 私は声を振り絞り叫び続けるが、鬼は笑いを含んだ声で彼の近くにいる鬼達に命ずる。

「――殺れ」

 鬼がその手を下ろそうとした瞬間、白兎を掴んだ方の手が突然紫色の炎に包まれ、鬼はつん裂くような声で叫び、呻き、のたうち回った。

「汚い手で僕に触るな。この外道が……」

「……白兎! やめろ! ルールを守れ!」

 黒兎が叫ぶ。白兎はそれを一切無視し、鬼面達に告げた。

「……鬼め。それ以上ふざけた真似をしてみろ、たとえルール違反だろうが、この身が朽ち果て、消えてしまおうが……必ずお前ら全員皆殺しにしてやる」

 ピリピリとした空気の中、鬼達がたじろぐ。白兎の身体が紅く光り髪が逆立つ。ハァハァと荒く息を吐く姿は、もはや兎などではない。怒り狂った猛獣そのものだ。

「この僕がお前達の手に落ちてやるというのに、何が不服だ? ――さぁ、言ってみろ? それとも、屍体に直接聞いてみようか?」

「シロ……くん……」

「馬鹿野郎が! 本当に処分されちまうぞ⁉ 落ち着け! ――おい、女! てめぇ、泣くな!」

「え……?」

 黒兎が突然、私に向かって叫んだ。

「お前が泣くからコイツが惑わされんだよ! いいか⁉ わかったら、いつまでもメソメソしてんじゃねぇ! 馬鹿みてぇに泣いてもなぁ⁉ 何も変わりゃしねぇんだよ! あたしらばっか見てんじゃねぇ! そのイカれた目で……やらなきゃいけねぇ事をちゃんと見極めろ!」

「この目で……? ……あっ!」

 私は黒兎の言葉に気付かされ、急いで強く両目を瞑る。彼が、五十嵐想の姿が、瞼の裏に鮮明に映し出された。

 彼は、一体どこに隠していたのだろうか? あの、最初に出会った鬼から奪った脇差しを手に、縄に切り目を入れていく。両隣にいる鬼達は、白兎の気迫に目を奪われていて、何も気付いていない。

「……ソウくん」

 ――そうだ。泣いていても、誰も助ける事なんて出来ない。誰も守れない。……今、私が出来る最大限の事をしなくては。


「う、あぁああーーーーっ!」

 私は声の限り大声で叫ぶ。鬼達の意識が私に向いた。

 今の私に出来る事、それは……白兎の心を落ち着かせ、元に戻す事。そして、時間を稼ぐ事だ。

「こらぁあーー! 白兎! 何怒ってんのよ! 私は大丈夫だから怒りを鎮めなさい!」

 白兎は振り返り、じっと私を見つめる。

「ルール違反⁉ 消え去る⁉ 処分⁉ そんな事、私が絶対に許さないんだからね! 私が泣くのが嫌なら、まず貴方が自分自身を大切にして!」

「ミズホ……」

「いい? 貴方がいなくなったら、私絶対に泣くから! ずっとずっと、泣くんだから! そしたら責任取れんのかーーっ! この馬鹿白兎っ! さっさと元に戻れ!」


「ぷっ……ははは! あはははははは!」

 白兎は、突然大声で笑い出した。お腹を抱えてケラケラと笑い転げる少年の姿に、周りの者は言葉を失い、ごくりと唾を飲む。

「……わかったよ、ミズホ。わかったからそんなに怒らないで? 僕はね君の涙を見ると、とても心が苦しくて堪らないんだ。それなのに君が僕の為に泣くというのなら、確かに責任なんて取れないね。だから、もうやめにするよ。……君の為に」

 白兎の身体から、紅い光が瞬く間に消え去る。それを確認した私は、まるで緊張の糸が切れたかのように、その場にへたり込んだ。

「……ねぇ、鬼面の衆。あ、特に君! 君だよ! さっきはごめんね? ちょっとやり過ぎちゃったよね?」

「ひ、ひぃっ!」

「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ? もうしないし! 見ての通り、僕は可愛い兎さんだよ? 愛着が湧いたとしても、恐怖なんて無縁の話だと思わない? ね、手を見せて? 治してあげるよ!」

 大火傷を負った鬼の手に、白兎が手のひらをかざすと、みるみる内に再生を始めた。神秘的で美しい白い光が、鬼の傷を優しく包み込む。

「……ほ~ら、治った! 前の手よりもずっと綺麗にしてあげたよ⁉」

 焼け焦げた手が完全に元通りになった鬼は、怯えたように白兎の傍から離れると、急いで鬼女の後ろに隠れた。……鬼女は何も話そうとはせず、じっとこちらを見据えている。

「大体君達みたいな小物相手に、あーんなに怒りを露わにしちゃうなんて、年長者として有るまじき行為ってやつだよね? ごめんね? さぁ、皆! 仲直りをしよう?」

「白兎の奴……減らず口の絶えねぇ野郎だぜ。皮肉が過ぎんだろ、まったく。……おい、デカイの。いい加減離せよ。別に逃げやしねぇよ」

 巨体の鬼は、先程の白兎の言動から黒兎に対しても恐れを抱き始めたのか、すぐさま彼女を地面に降ろした。

 黒兎は、素早く白兎の隣に移動する。

「やぁ、黒兎。元気だった?」

「……随分と嬉しそうだなぁ、お前」

「だってさ! だってさ! ふふふ」

「いや、言わなくていい。……わかってっから。しっかしお前本当に気色悪りぃ奴だよな。つーか、馬っ鹿じゃねぇの?」

 双子のやりとりを呆気に取られたように見つめる鬼達。その隙に、私は鬼達の背後にいる彼に意識を集中させた。

 縄は……ーー切れてる!

 私はしっかりと目を開き、鬼面達の背後でゆっくりと立ち上がる彼をじっと見つめた。

 彼は顔を上げると、私を見て小さく頷く。――やるしかない。

 私は少し震える脚を懸命に立たせながら、【目標】に向かって、全速力で走った。

 彼は白兎の腕を、私は黒兎の腕をしっかりと掴むと、無我夢中で海岸を駆け抜ける。

「! ……おい! 逃がすな! 捕まえろ!」

 鬼達はようやく現状を理解したのか、声を張り上げ、戦闘態勢に入った。

「ミズホ! もう夜が明ける! それまで走れ!」

「わかった!」

 素早い動きをする鬼達から、勿論逃げられるとは思っていない。けれど夜が明け、この二日目が終わってしまえば……もしかして逃げ切れるかもしれない。

 三日目の夜。目覚めた場所には鬼面達はいないかもしれないから。

 しかし、そんな考えは……一瞬にして虚しく消え果てた。


 ――鬼女は舞う。天女のように。


 満月を背景に高く飛び上がり、二刀の脇差しをクロスしながら私と彼の間の空間を斬りつけ、そのまま薙ぎ払う。

 海岸の砂は、まるで細かい粉末のように勢いよく飛び散り、私と彼は柄に強く弾き飛ばされた。

「いった……」

「くそっ……」

 鬼女は白兎と黒兎を起こして、そっとその肩に手を置いた。

「……駄目よ。この子達は渡さない。私は必ずこの子達に願いを叶えてもらわないといけないの。だから……邪魔はしないで頂戴」

 白兎はそんな鬼女を見つめ、悲しそうに問う。

「……どうして? 君はあんなに優しく美しかったのに、何で鬼なんかに」

 その言葉に、鬼女ではなく黒兎が返した。

「お前の大好きなそいつもいずれはこうなる。……結局、人間なんかを信じる方が馬鹿だって話なんだよ」

「……? 貴方達は一体何の話をしているの? 私にはよくわからない。わかる事はたった一つだけ。私は神に近い存在になりたい。鬼なんてもう嫌。この夜宴の島に相応しい、選ばれた存在になるの。その為にはどんなに屈辱を浴びようが蔑まれようが、私は鬼として兎を狩る。貴方達は私のもの――」

 彼はフラつきながらもゆっくりと立ち上がると、鬼女に向かって話しかけた。

「もうやめろ。……サヤ」

 彼の言葉に私は、心臓が止まりそうなくらいの動揺を見せる。

「……誰? 何故、私の名を知っているの?」

「サヤ、俺だよ。……【ソウ】だ」

 彼はひょっとこの面を外し、彼女を見つめた。鬼女は彼に近付き、その端正な顔にそっと触れた。

「誰だか思い出せないけれど、何故かとても懐かしい名前……私は多分、貴方を知っている。頭も心も身体も、貴方を見て、必死に信号を送り続けているもの。貴方はきっと、私にとってなくてはならない人。……私の生命の半分。ねぇ、ソウ……貴方は誰? 貴方は一体、私の何なの……?」

 彼は今にも泣き出しそうな顔をしながら、鬼女に向かって優しく微笑んだ。

「俺は君の……愛する人、だよ。そして、サヤ……君は五年前に死んでいる。それなのに、どうして今もここにいるんだ?」

「貴方は……私の愛する人? 私が、既に死んでいる? ……ああ、わからない! 何も思い出せない!」

 鬼女は頭を抱え、酷く困惑した。

「サヤ!」

 彼は、そんな鬼女を強く抱きしめた。

「……けれど、これだけはわかる。私はきっと貴方を愛してる。ソウ、私……貴方が好きよ」

 鬼女は自ら鬼面を外し、砂の上に投げると、彼の首に腕を回し、彼の唇にキスをした。

 心臓が壊れてしまいそうなくらいズキズキと痛むのに、私は二人から目を離す事が出来なかった。

 白兎の声が脳に直接響いてくるけれど、今は何も話す事が出来ない。心がついていかない。

「ソウ……くん」

 ――ああ、どうしてだ。どうして今になって、はっきりと思い知らされてしまうのだろう。

 私、彼が……五十嵐想が、好きだ。

 大好きだ。

 ――胸が苦しい。


 サヤ……さん。

 やはり、私はどこかでこの名前を聞いた事がある。サヤなんて名前、きっとどこにでもあるのだろうけど……何故か確信めいたものを感じるのだ。

 きっと、それは組み合わせ……

【サヤと……ソウ】

 この二つが組み合ったもの……私はどこでこの名前を聞いた……? ――いいや、違う。

 どこかでこの名前を……【見た】?

 脳がフル回転をし始める。


 サヤとソウ……

 サヤと……ソウ……


 ――サヤカとソウジロウ。


「……鏡花……水月……?」

 私の中でバラバラだったパズルのピースが、凄まじい勢いではめ込まれていく。

 彼は、夜科蛍の事を女性だと断言していた。

 そして小説の、鏡花水月のキャラクターの名前が【サヤカ】と【ソウジロウ】。

 それじゃあ、夜科蛍の正体は……もしかしてサヤさん?

 ――違う。それだとおかしい。さっき彼は、サヤさんは五年前に【死んだ】と言っていた。五年前といえば、鏡花水月ならともかく……その後の作品を書ける筈がない。

 ……生前に書き溜めておいた物を、誰かが形にしたという事?

 確かに短期間で小説が発売され過ぎている気がする。二冊同時発売とかもあったし。

 けど、それだと……彼が前に言った言葉に、僅かにだが引っ掛かりを感じてしまう。

 本当にサヤさんが、全ての作品を書いたのだろうか? 鏡花水月ならともかく……

 …………まさか。


『……夜科蛍の作品は全部読んだけど、実は一つの作品以外はあまり好きじゃないんです』


『それは……鏡花水月のような美しさや儚さが、今の夜科蛍にはないから。……今の夜科はただ、美しく書こう、儚げに書こうとしているだけのような気がしてならない。……まるで別人が書いているとしか思えないんですよね』


『……そうですよね。文章に表現の仕方、癖などを見ても、鏡花水月も夜光曲も、朧月夜に泳ぐ魚も……まったく瓜二つだ。……けど、どうしても認められない。鏡花水月の夜科蛍は、……もう存在しない』


『大ファンが聞いて呆れるよ。何も知らないくせに』


『鏡花水月の夜科蛍は、女性だよ』


 鏡花水月【の】夜科蛍は女……

 まさか……

 夜科蛍は……二人、いた……?


 最後のパズルのピースが、カチッとはまる音が聞こえた。

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