第7話


「本当にごめん!」

「もういいよ、わかったから顔を上げて」

「良かったら、この小説を全部……」

「いや……それ私、全部持ってるから」

 今の状態を、ざっと説明しよう。

 ただ今の時刻は夕方の五時半過ぎ。私の前で深々と頭を下げているのは、昨夜色々としでかしてくれた彼。五十嵐想である。

 取り敢えず、時間を午前まで遡ってみる。


 あの後、目が覚めた私はベッドの上にいた。

 自室のベッドの上でだらしなく両手両足を広げ、布団も被らずに爆睡していたようだ。

 あんなに濃い夜を過ごしたと言うのに、不思議と眠気などはまったく感じられなかった。寧ろ、ぐっすり眠れた爽快感に頭がスッキリしていたくらいだ。

 あの出来事は全て、夢だったのだろうか? それならば色々と説明もつく話だ。……しかし、あれは決して夢などではない。

 その証拠に私の手のひらには、あの時に砕け散った夜宴の結晶の欠片が強く握られていたのだから。

 ふとベッドの上に無造作に置いていた携帯を手に取り、画面を確認する。

 やはり、昨日から放置したままの画面には【夜科蛍】の文字が映し出されていた。

 彼は私に、夜科蛍の【鏡花水月】の大ファンだと言っていた筈なのに……昨夜の彼はどう見たって、夜科蛍を嫌い憎んでいるように見えた。

 ――どうして?

 それに、彼が夜宴の島で口にした言葉。


『夜科蛍は、女だよ』


 彼はその女性? とされる夜科蛍に、何か恨みでもあると言うのだろうか?

 一体彼は【夜科蛍】について、どこまで知っているのだろう?

 そして、夜宴の島の存在を知っていた夜科蛍。……ミステリー小説のように、謎は深まる一方だ。

 私は電話帳を開き、ア行の中の【ア】から一番近い場所にあるその文字をじっと見つめた。


【五十嵐想】


 ……どうしよう。電話してみようか? けれど彼が昨夜のままだったら、なんて思うとやはり気が進まない。

 ちなみに具合は大丈夫なのかな? あんなに大量に吐いていたけれど……

 あー、いっそ全部夢だったなら。昨日の彼の変貌も、全て私が作り出した夢の中だけの話なら、私はこんなにも彼を恐れずに済んだだろうに。


 ♪~ ♪~ ♪~


 突然電話が鳴り出し、驚きのあまり思わず携帯電話を手から落としそうになる。相手を確認すると……相手は勿論、五十嵐想。

 けれど、やはり今は電話を取る気にはなれない。

 やがて着信音は止み、私の部屋は再び静けさを取り戻したが、すぐにまた彼からの着信が入る。

 それらの事を二、三度繰り返したのち、電話はようやく鳴らなくなった。

「……一応、サイレントにしておこう」

 私はサイレント機能に切り替えると、携帯を枕の下にそっと隠す。そして再びベッドの上に仰向けになると、白い天井を見上げた。

 ――私はずっと、夜宴の島の事ばかり考えていた。

 途中、一階から何度も声をかけられたりしたけれど……空返事のまま、専門学校にも行かず、必要最低限にしか下に降りようとはしない私に母親も呆れたのか、次第に何も言わなくなった。

 好都合でもある。今の私の頭の中には、夜宴の島の事を考えるスペースしか存在しないのだから。

 引き篭りとはこんな感じなのだろうか? そんな事を考えると何だか複雑な気分になるが、今はただぼんやりと、夜宴の島の事だけを考えていたかった。

 夜宴の島……色々あったけど、素敵な場所だったと思う。本当に小説のような世界だった。

 あんなに素晴らしい世界がこの世界に存在するだなんて、思ってもいなかった。

「早く夜にならないかなぁ……」

 無意識に、そんな事を口にする自分自身に驚きを隠せない。……けれど、間違いなく本心だ。

 私はあの世界に、完全に魅了されてしまっていた。夜宴の島の事を考える度に、現実の世界が物足りなく感じるのだ。

 何もなかった私の世界が変化を見せた。普段見慣れてる月までもが偽物で、夜宴の島のあのとんでもなく大きい月が、私のこれからの【本物】なのだ。

 あぁ……あの美しい魔女のドリンクが飲みたい。次に私が手にするとしたら、一体どのカラーのドリンクなのだろうか? ……レッドナイトムーンだけはお断りだが。

 目を閉じると、瞼の裏に夜宴の島が映り込む。賑やかな宴、奇妙なお面、美しい景色。そして幼い謎の双子、心を狂わす鮮やかなドリンク。

 ふわふわ、ゆらゆら……まるで、考える度に脳が溶けていくような感じだ。

 そしてそのまま炭酸水の気泡のようにグラスの中で上昇し、パンッと弾けた。心地良くて、刺激的。夜宴の島はそういう場所。私の中にそう組み込まれていった。

 たった一日でこのザマだ。あと十六夜も過ごしたら、私はどうなってしまうのだろう?

 ――あと、十六夜。あの世界にいられるのが、あとたったの十六日しかないという事実に、私は落胆せずにはいられなかった。


 汗をかいた身体が気持ち悪く、下に降りてシャワーを浴びる。二階に戻る際に母親の口から放たれた小言や苦言は一切無視し、黙って階段を上がった。

 玄関ドアの閉まる音が聞こえる。きっと、母親がどこかに出かけたのだろう。

 窓の外から見える空が、少しずつオレンジがかって見えてきた。時計を見るともうすぐ五時半になろうとしている。

『もうそんな時間か』よりも、『まだこんな時間なのか』などと考える抜け殻のような私は、異世界の魅力に完全に取り憑かれた……魂の入っていない操り人形のようなものなのかもしれない。


 ピーンポーン。


 インターフォンが鳴る。一度……そして、また一度。

 ……そうか、母は出かけているのだった。まぁいい、面倒臭いから居留守を使おう。

 ピーンポーン。

 ……しつこいなぁ。橘家は今留守ですよ~。

 ピンポン! ピンポン! ピンポン! ピンポーン!

「……あ~! もう! うるさいなぁ!」

 あまりのしつこさに、私は仕方なく一階へ降りる。

 これでセールスや業者とかだったら文句を言って、追い返してやる! なんて思いながら、リビングに設置されてるモニターの確認もせずに玄関に向かうと、思いっきりドアを開けた。

「はい、どちら様……」

「ミズホ! やっぱりいた!」

 威勢良く私の名を呼ぶその声に、思わず面食らう。

「そ、ソウくん⁉」

「電話。何度もかけたのに、どうして出てくれないの?」

「あ〜、それはその……って言うか、どうしてうちの場所を知ってるの⁉」

「サユリさんに聞いたんだよ」

「……あー、ね」

 サユリさんめ、余計な事を……

「ミズホ、中入れて」

「……は? やだよ! 今部屋散らかってるし!」

「話がしたいんだよ! 散らかってるとかどうでもいいよ。大体そんな恰好で表に出てきてるのに、今更恥ずかしいとかないでしょ?」

 確かに彼の言う通りだ。ノーメイクで前髪は単に暑いからという理由でくくっていて、パイナップルの冠芽のように逆立っているし、おでこは丸出し。Tシャツに短パンのジャージというあられもない姿で彼の前に現れている私に……今更恥などという概念は存在していないのかもしれない。

 しかし……

「毎回一言多いのよ! ソウくんがいきなり来るから悪いんでしょうが! それに服装に関しては、ソウくんにだけは絶対に言われたくないんだけど!」

「俺、今日は普通だし」

 普通というか、今日はまた一段とかっこいいんですけど。それがまた、更に私を惨めにする。

「あら、誰? お客さん?」

 彼の後ろから母親の声が聞こえてきた。

(しまった! タイミングが悪すぎる!)

 ……と思った時には既に遅し。彼は後ろに振り返ると、ここぞとばかりに輝くような笑顔で挨拶をした。

「こんにちは! 玄関先で騒いでしまってすみません。僕、五十嵐想と申します。ミズホさんには大変お世話になっていまして」

「え⁉ やだ! かっこいいじゃない! もしかしてミズホの彼氏??」

「お、お母さん! 何言ってるのよ⁉」

「あんた何してんのよ! こんなとこで彼に失礼でしょうが! 気の利かない娘でごめんなさいね~? 狭いとこだけど、どうぞ上がっていって頂戴!」

「お母さん!」

「ありがとうございます! 失礼します!」

 母親は彼の天使のようなスマイルにやられて、既に目がハートになっていた。

 騙されないで! 昨日この人に貴方の娘、打(ぶ)たれそうになったんだから。……まぁ、私も打ったからお互い様だけど。

 彼は靴を揃え、『お邪魔します!』と丁寧に挨拶すると、母親に部屋の場所を尋ね、私の手を引いて二階に上がっていく。下から母親の『ごゆっくり~』という呑気な声が聞こえてきた。


 バタン。とドアが閉まると、彼は向き直り、私に向かって頭を深く下げた。

「昨夜は本当にごめん。俺、どうかしてたんだ」

 彼は思いつめた表情で、何度も何度も私に謝り続けた。勿論、彼だけが悪いわけではない。そんな事はわかっているのだ。

 けれど罪悪感を覚えながらも、素直になれないこの天邪鬼な性格が邪魔をして、ついツンケンした態度を取ってしまう。あぁ、本当に可愛くない。……けど、どうしたらいいのかわからないのだ。

「本当にごめん!」

「もういいよ、わかったから顔を上げて」

「良かったら、この小説を全部……」

 彼は鞄の中から沢山の著者が書いた小説を数冊取り出す。きっと彼のお勧めなのだろう。しかし、私は申し訳ない気持ちで自室の本棚を指差す。

「いや……それ私、全部持ってるから」

 彼はあからさまに落ち込んだ表情を浮かべながら再び鞄の中に手を入れると、目の前に何かを差し出した。

「じゃあ、これ……」

 彼からクリアファイルに挟まれた数十枚のルーズリーフを渡される。

「……何これ?」

「読んでみて」

 私はそれに目をやると、手書きで書かれたその文章に、思わず言葉を失った。


【少女と少年と月の住人】


 主人公の少女【ミズホ】が、夢の中で出会った【ソウ】という少年と一緒に、月を探検するという幼い二人組の物語。

「これ、ソウくんが……?」

「……うん。ずっと、どうしたらミズホは許してくれるかな? どうしたらミズホはまた笑ってくれるかな? なんて思ってさ。それで思いついたんだ、俺にしか出来ない事。急いで書いたから短編の上に、かなり子供向けになってしまったけど……」

 彼は照れ臭そうに笑うと鞄の中からA4サイズの茶封筒を取り出す。そちらはちゃんとパソコンにて打ち直され、印刷されたものであった。

「世界に一つしかない、ミズホだけの物語だ。……書いたのが俺なんかで申し訳ないけど」


 彼に少し時間を貰い、彼の作った物語を読んでみる事にした。

【ミズホ】は、とても強くて勇敢な心の優しい少女。それに比べて、夢の中で出会った少年【ソウ】は泣き虫で弱虫で、一人じゃ何も出来ないような少年。

 二人はある日、【月の住人】に招かれて、月へと探検に出かける。


『あの月をぶっ壊したら……中には何が入ってるのかな?』

『月の……住人?』

『月の住人って、かぐや姫や兎の事? ミズホは本当にメルヘンだよね!』


 ――私はふと、……夜宴の島で彼と話した会話を思い出していた。


【少女と少年と月の住人】


 見る者の好奇心を誘うように、面白可笑しく、コミカルな内容で作り上げているその作品。それはとても可愛らしくて、そして心温まる優しいストーリーだ。

 確かに子供向けではある。けれど、彼の作り出す文章はやはり美しく暖かく、激しく私の胸を打つ。彼の独特の世界観が、あっという間に【私】の心までも、【月の世界】へと連れて行くのだ。

 彼の見えている世界が私にも見える。幼い少年少女の心情が、清らかな風のように、私の中を優しく突き抜けていった。

 つい先が気になり、ページを進める手が止まらない。短編なのに、本当に最初から最後まで綺麗にまとまっていて、まるで長編のストーリーを読んでいるかのように思えたのは、それだけ夢溢れる素敵な内容がこの中に沢山詰まっていたから。

 喧嘩の仲直りの為に、許しを請う為に……普通ここまでするだろうか? 普通ここまで出来るだろうか?

 彼が一生懸命この作品を書き続けている姿が、私の頭の中に鮮明に思い浮かんでくる。

 それが何だか切なくて、胸が苦しくなってきて、気付けば目に大量の涙が浮かび上がっていた。

「ミズホ? どうして泣くの?」

 彼は不安そうな顔をして、私の顔を覗き込む。

「……ごめんね、ソウくん。避けたりして。ソウくんがああなったのはあの飲み物のせいなんだって、ちゃんとわかっていたんだけど……私、ソウくんの事が怖くて、怖くて……」

 私は素直に思っている気持ちを彼に伝えた。

「……いいんだ。全部俺が悪かったんだよ。君の心を深く傷付けてしまったね、ごめん」

 ……違うよ。違う。私なんかよりも傷付いたのは、きっと彼の方だ。

 誰にでも秘密にしておきたい事がある。誰にでも触れてはいけないものがある。それを彼は薬の力で、全てさらけ出してしまったのだ。

 自分の汚れた醜い心。横暴で凶悪な心。


『……心の弱い者ほど魔女の力に強く影響されてしまう。お兄ちゃんはきっと、弱い人なんだよ』


 恥ずかしくて誰にも知られたくない、弱い心。

 本当のソウくんは、【少女と少年と月の住人】の少年【ソウ】のように……泣き虫で弱虫で、一人では何も出来ない不器用な人なのかもしれない。

「ソウくん、素敵な物語を本当にありがとう! 私、ずっとずっと大切にするね。永久保存版だよ!」

 私が笑うと、彼はホッとしたような顔をしながら笑って見せた。

 彼は一体、どれだけ悩んでいたのだろうか? 彼は私が思っている以上に、ずっと小心者なのかも知れない。

 私は思わず、前方に座っている彼の頭をそっと撫でた。

「ミズホ……?」

「大丈夫、大丈夫。……ソウくんは大丈夫」

 私はおまじないを唱えるように、彼に向かってそっと呟く。

「怖くない。私がソウくんを守ってあげるから、ねっ?」

 そう言って幼い子供をあやすように、私は優しく髪を撫でた。

「……ミズホには敵わないな」

 彼は眉を下げながら優しく、照れたように笑う。

「けど……そんなに優しくされると俺、好きになっちゃうかもよ? ミズホの事」

 私と彼の視線が交わる。私はキョトンとしながらも、だんだん可笑しくなってきて、ケラケラと声を上げて笑った。

「またまた~。そう簡単に貴方の手口には乗りませんよーっだ! 恋愛はソウくんの物語にとって必要事項ですもんね」

「……必要事項? 何それ?」

「だから~、夜宴の島の物語はもう始まっているんでしょ? 私、ソウくんのいうファンタジーに必要なものは、謎と美しさと恋愛要素だと思うのね。実際そうでしょ? だからそう簡単にソウくんの手の中で転がされたりしません。残念でしたー」

「あ~……なるほど、そういう事か。だからハッピーエンドって話に過剰に反応したわけだ。ようやく理解出来たよ。……ミズホ、君って単純なのか難しいのか本当によくわからない性格をしてるよね。けど、もっと頭を柔らかくした方が良い。君はきっと深く考えすぎだ。……まぁ、確かに恋愛要素を含む事によって物語が盛り上がりを見せるかと聞かれると、無いとも言い切れないけどね」

 彼はクスクスと笑う。……私、変な事言ったかな?

「じゃあ本当に、俺と恋愛してみる?」

 彼のまっすぐ真剣な瞳に、私は……

「お断りします」

 そうにっこり笑って返した。

「本当に君は難しい」

 そう言って彼は、クスリと笑った。


 あれからすぐに、彼は帰って行った。『今夜また、夜宴の島で』と言い残して。

 私は火照る顔を枕に埋めながら、ずっと一人で考え込んでいた。

『けど……そんなに優しくされると俺、好きになっちゃうかもよ? ミズホの事』

「ばっかやろー……」

『じゃあ本当に、俺と恋愛してみる?』

「軽すぎだよ、ばーか。本当に何を考えているかわかんない」

 たとえ冗談でも、言っていい事と悪い事があるよね。さっきは咄嗟に平気な振りをしたけれど……

「……もう、わけわかんないよ」

 ずっと前から考えてた。私は彼に対して好意を抱いているのか? と。確かにドキドキする時もあるし、意識しているのは間違いないと思う。私は彼の笑顔がとても好きだ。彼の事を想うと胸が高鳴る。

 でも正直、たまに彼の事を『すっごく嫌い』だなんて思う事もあるんだ。彼に対してイライラする時だって、勿論ある。

 けれど彼を想うと切なくて悲しくて、ずっと彼と一緒にいたい、今すぐ彼に会いたい。なんて思う事だって、決して少なくはない。

 しかし彼の怖い部分を見てしまい、もう二度と会いたくない、関わりたくないと思っている気持ちも確かに存在している。

 でも……彼といると楽しい。彼といると、全ての世界が輝いて見えるんだ。

 私は彼の事が好きかもしれないし、嫌いなのかもしれない。

 会いたいのかもしれないし、会いたくないのかもしれない。

 けれど良い意味でも悪い意味でも、私を変えてくれたのは間違いなく彼自身だ。

 彼と出会わなかったら、私はずっとつまらない毎日を過ごしていただろう。

 しかし、逆に……私は異世界という存在に心を奪われ過ぎて、今こっちの世界では、間違いなく無気力な廃人と化している。

 ――もう戻れない。普通の生活には戻れない。

 普通の毎日じゃ、もう……物足りない。

 私が生きるのは【この世界】。決して【あっちの世界】じゃないんだと、頭の中ではわかっているのに……

 私は、再び彼の作った物語を手に取ってみた。

「……こんなに素敵な贈り物は初めて」

 無意識に顔が綻び、小さな笑いがこぼれる。

「月探検に行った二人は、本当に楽しそうだったなぁ」

 ……けれど、それはハッピーエンドではなかった。

 夢の中の少年【ソウ】は少女【ミズホ】が創り出した幻の友達で……最後には儚く消えていく。

 それでも少女は涙を拭き、地に足をつけ、ゆっくりと前に進んでいく。

 たとえ二度と会えなくなったとしても、二人で過ごした夜と二人の友情は永遠なのだから――

「……私、そんなに強くないよ。ソウくん、ほんと買い被り過ぎ」

 彼には私がこう見えているのかと思うと、何だか少しむず痒い。

「私も、彼に何かお返しがしたいな……」

 けれど、こんな自分に何が出来るだろう……? 『うーん』と、頭を捻らせて考えてみる。

 夜宴の島に行った事で、腑抜けになってしまったこの頭で、今の私が出来る事。私の……好きな事。

「そうだ!」

 私は急いでベッドから飛び起きると、そのまま机へと向かう。そして、備え付けの引き出しからルーズリーフとシャープペンを取り出すと、思いつくままにカリカリと文章を書き綴った。

 夢中になってる夜宴の島。読むのが好きな小説。

「ソウくん、私……夜宴の島の小説を書くよ」

 小説なんて今まで一度も書いた事がない。勿論文才なんてないし、表現乏しいこの頭だ。出来上がった作品は駄作である事に違いない。……けど、書きたい!

 彼が書くような美しくて素敵な物語は、私には書けないって事くらいわかっている。でも、どうしても彼に読んで欲しいから。だから、書くの。……理由はきっと、それだけで充分だ。

「待っててね。きっと最後まで書き上げてみせるから」

 奇妙で不思議で、美しくも恐ろしい【彼】と【夜宴の島】の物語を――



***


「ん……あれ……」

 顔に当たるザラザラとした感触。目を開けると一面に白い砂浜が広がっていた。

 ネイビーブルーの空と海が見える。貝殻が白い絨毯の上に沢山散りばめられていて暗闇の中をキラキラと光り輝いていた。

 ここは……昨日までとても賑わい、騒がしかったあの海辺に間違いない。

 けれど、今夜この辺りは静まり返っていて誰の姿も見えない。

「夜宴の島……何で? あ、そっか……私、あのまま寝ちゃったんだ」

 こんな格好のまま夜宴の島に来てしまった。……最悪だ。泣きたい。

 しかし今はそんな事よりも、同じようにこの世界に来ているだろう彼を捜し出して合流しなければ。

 彼は今、どの辺りにいるのだろうか?

「……ん?」

 ふと違和感を覚え、右手を見ると、その手にはしっかりとおかめの面が握られていた。

「あ~……おかめ」

 相変わらず間抜けな顔をしたこの面を見ると、生憎苦笑いしか出てこない。

「……今日も一日、よろしくお願いしますね。――おかめ様」

 私はその面を崇めるように空にかざすと、一瞬おかめが笑っているかのように思えた。……いや、元々笑ってるのか。

「おかめだもんね……」

 そんなどうでもいい事を考えていると、突然森の奥の方で色鮮やかな煙が高く立ち昇った。

 ――宴が始まる合図だ。

 宴の場所って毎回変わるんだなぁ、なんて呑気に思いながらも、私はおかめの面を頭につけて素早く立ち上がった。

 あの煙を見たならば、きっと彼もあそこに向かう筈……急がなくては。

 今夜は一体、どんな夜が待っているのだろう? 楽しみで仕方がない。

 煙の上がった方角に、急いで足を進めようとすると……突然ぐいっと、袖を後ろに引っ張られた。

「……ねぇ、お姉ちゃん」

 そこにはいつの間にか、白い兎面を被った少年が立っていた。

「あっ! 貴方!」

「……昨日は大丈夫だった? 僕、ずっと心配してたんだ」

 幼い白兎は弱々しい声でそう尋ねる。この少年は、本当に私の事を心配してくれていたのだ。彼の声から、それが一身に伝わってきた。

 私は膝に手を置き、腰を屈めると……少年と目線の位置を合わせ、優しく彼の頭を撫でた。

「大丈夫だよ。昨日はありがとうね! 今日は黒兎の子と一緒ではないの?」

「姉様はここにはいないよ」

「あ、あっちがお姉ちゃんなんだ。じゃあ君は弟くんなんだね。名前はなんて言うの?」

「僕は白兎神だよ」

「それって敬称みたいなものでしょ? そうじゃなくて、名前!」

 白兎は不思議そうに首を傾げた。

「僕、今まで白兎とか餓鬼とか双子とか……そんな風にしか呼ばれた事がないよ?」

「――そっか。うん、わかった!」

 その言葉に何だか胸が痛み……私は名も無き少年に、それ以上何かを追求する事をやめた。

「あのお兄ちゃん、悪いモノいっぱい出たね? あれだけの毒素が溜まっていたならきっと、凄く辛くて苦しかっただろうね」

「毒素……ねぇ、彼はそんなに沢山悩んでいるの?」

「うん、悩んでいるよ。そして見失っている。本当の自分自身を」

「ねぇ、それってどんな……!」

 私は彼が悩んでいる内容を白兎に尋ねようとした。けれど……以前私が彼に、【本当の彼】を問い質した時に返ってきた言葉。

 その言葉が、急に私の頭の中に思い浮かんできて……私はそれ以上、何も口にする事が出来なくなった。

『……それは教えられない。答えたくないんだ。自分の素性ほど、愚かで惨めなものはないからね。けど、協力してもらうんだし……一つだけ。ミズホから見て俺という人間が掴めないと思うのなら、それは全て本当の俺ではないからだよ。でも君が見てきた俺は全て、正真正銘本物の俺自身に違いない。……その矛盾、君にはわかるかな?』


『……ミズホが見つけてみてよ。本当の俺自身を。その謎が君の中で、また新たな一つの物語を生み出すんだ』


 ――彼は、確かにそう言った。

 なのに私が考える事をやめて、その答えを誰かに教えてもらうなんて……それって何だか違う。

 私が、私自身が、その答えを見つけ出さないと駄目なんだ。

「お姉ちゃん……?」

「ごめん。何にもないよ! 気にしないで!」

 白兎は再び首を傾げながらも、『うん、わかった』と返事をした。

「取り敢えず、あのお兄ちゃん……暫くは大丈夫だと思うよ? 大方吐き出したからね」

「そっか、それは良かった。あんなソウくん、もう見たくないもん」

「お姉ちゃんは、怒ってる時のお兄ちゃんの事が嫌いなの?」

「え……? 別にそんなわけじゃ……」

 思わず返答に戸惑っていると、白兎が私の顔をじっと覗き込む。その姿が愛らしくて、つい笑みがこぼれた。

「……んとね? じゃあ、二人の秘密だよ?」

「うん!」

 私は『ふぅ』と息を深く吐くと、ゆっくり口を開いた。

「私のね、お父さんが……私やお母さんに手をあげたりする人だったの。それが原因でうちの両親、離婚しちゃってるんだ。でね、笑っちゃう話なんだけど、私が今までに付き合ってきた相手って皆、決まって暴力振るったり、暴言を吐いたりする人ばかりだったの。そういう人を選んでしまうところは母親に似ちゃったのかな? ……ははっ」

 私は白兎の方を見ながら情けなく笑ってみせたが、白兎は黙って私の話を聞いていた。

 私は、空に浮かぶ大きな月と目の前に広がる紺色の海を見つめながら話を続けた。

「最初はね、凄く嫌だった。凄く怖かった。……けどね、不思議な事に慣れちゃうんだよ。殴られるのは私が悪いから、怒鳴られるのも私が悪いから……ってね。防衛反応ってやつかな? そして、この人はきっと弱い人だから……私が傍にいないと駄目なんだ、ってね」

「お姉ちゃん……」

「で、最後は結局、音信不通か浮気されて終わり。笑っちゃうよね! そりゃ、男性不信にもなるでしょ? 幸せな恋愛なんてした事ないんだもん! だから、怒鳴ったりする人は苦手なんだ……昨日の彼みたいに、ね。――あっ」

 最後まで話した後に、ハッと気付く。

 私はこんな幼い子相手に【離婚】だの【暴力】だの【浮気】だの、一体何を言ってるんだ。

 それに、あまり教えて良い言葉でもない……

「ごめん! お姉ちゃん、変な事言っちゃったね。忘れてくれると嬉しいな」

「ううん! 僕、ちゃんと意味わかるよ。じゃあ僕も、お返しに秘密の事話すね」

「秘密の事?」

 そう言うと、白兎は唐突に面を外した。

「君、その目……!」

 彼は、私達でいうところの白目部分が深い闇のように真っ黒で、黒目部分がまるで血のように真っ赤だった。

 白兎は弱々しくニコリと笑う。

「……宴では必ず面を付けるというルールを作ったのは僕と僕の姉様なんだ。僕達はこの不気味な瞳を誰にも見られたくないから、ずっと兎面を被っているんだよ。僕達、実は元々は人間だったんだ。けれど、この不気味な瞳に『呪われた子だ!』と両親が怯え、僕達はまだ赤ん坊の時に捨てられた。樽に入れられ、海に流されたんだ。そして、そのまま死んでしまった……」

「そんな……!」

「僕達の亡骸は、やがてこの島に辿り着き、この島の神に拾われた。とうに朽ちていた身体から魂だけが取り出されて、神は僕達に新しい身体を与えた。呪われた目だけはそのままでね。そして不思議な力を授かった僕達は兎面と共に、【黒兎神】【白兎神】という名を与えられたんだ。永遠にこの島を守るように、と。

 ……お姉ちゃん? どうして泣いてるの?」

 白兎が心配そうな顔をして私を見つめた。

「だって、そんなの……貴方達があまりにも可哀想で!」

 私は、少年の話に涙が止まらなくなった。

 彼らはまだ、こんなに幼いのに……私なんかよりずっとずっと重い過去を背負っているんだ。

「――僕ね、お姉ちゃんがお兄ちゃんから僕と姉様を守ってくれた時、本当に嬉しかったんだよ」

 白兎がコツンとおでこをおでこをくっつけた。

「だから……これからは僕がお姉ちゃんを守ってあげるね」

 ――何だ? 何だか急に、目がトロンとしてきて頭がクラクラする。まるでお酒にでも酔ったみたいに。

「……大丈夫、お姉ちゃん? 何だか力が抜けちゃってるよ?」

 白兎の赤い瞳を見ると、何も考えられなくなる。……力が入らない。

 私は、白兎に身体を預けた。


「……白兎、お前何やってんだよ?」

 突然背後に黒い兎面の少女が現れ、少年に話しかける。その瞬間、先程までの不可解な状態から解き放たれ、身体を自由に動かせるようになった。

「おい、そこの女。白兎なんぞの嘘に騙されやがって。お前、馬鹿だろ?」

「……え? え? 嘘⁉」

 白兎は黙って、兎面を顔に被せた。

「こいつ昨日の一件で、お前の事を大層気に入ったみたいだからなぁ。お前の事が欲しいんだろうよ。白兎という名を持ち、寂しがり屋で弱々しい姿を見せるところなんて、正に兎そのものだが……あたしはこんなに腹黒くて、悪魔のような奴を見た事がねぇ。……迂闊に信用すると痛い目にあうぞ?」

 白兎は『チッ……』と舌打ちを鳴らすと、黒兎の方に向き直った。

「――まったく黒兎は、いっつもいいところで邪魔をするんだから。……もう少しだったのに。うん、僕欲しいよ? ミズホが欲しい。喉から手が出るくらいね」

「え⁉ どうして私の名前知っているの? しかも、ミズホって……呼び捨て⁉」

 黒兎は呆れたように溜息を吐いた。

「だから! あたし達はこんな{形}(なり)をしても神なんだよ。お前の名や生い立ちなど全て、顔を見るだけで浮かんできやがる……嫌でもな。じゃなきゃ、こいつがお前と一緒にいた男の事を色々と知ってるのはおかしいだろうが! ……まぁ、たとえ知っていても詳しい内容を他者に話すのはルール違反。タブーだけどよ」

「あ、そう言えば……確かに」

「……お前、本当に馬鹿だな。馬鹿正直というか、何というか…….」

 白兎は私の前に立つと、腕を組み、黒兎に対し威圧的な態度を見せた。

「煩いな、黒兎。邪魔しないでよ。折角ミズホと二人っきりになれたのに」

 私は白兎のあまりの豹変ぶりに度肝を抜かれる。

「……黒兎。彼女は優しく勇敢で、純情可憐、そして実に聡明だ。僕の子を宿すのに相応しいとは思わない?」

「……は? はぁー⁉ 子⁉ 子って何⁉」

「人と交わるだと? 馬鹿じゃねぇの、お前」

「僕はミズホが欲しいんだ。それとも黒兎、僕がミズホに取られると思って嫉妬でもしているの? いい加減、弟離れしなよ」

 白兎はクスクスと笑いながら飛び跳ねる。

「いや、お前なんぞいらないからさっさとこの島から出て行け。この女を嫁にでもなんでもするがいいさ。清々するぜ」

「ちょっと、あんた達! 子供のくせに何て話をしてるの!」

「お前……あたし達はこんな姿をしているけどな、もう百二十年も生きてんだよ。人間風情が子供扱いするんじゃねぇ! この無礼者めが」

「ひゃ、百二十歳⁉」

「……何だよ? 文句でもあんのか?」

「いやいや! 文句なんてないよ! けど、本当に凄いね。貴方達、そんなに長く生きてきたんだ」

 私は素直に感心した。まだほんの子供だと思っていたのに、私なんかより沢山のものを見て、沢山の時間を生きてきた。……それって、本当に凄い事だ。

「……ま、まぁ、あたしなんて、まだまだこの世界ではひよっこに違いねぇがな。別にそんなに凄い事でもねぇよ!」

 黒兎は少し照れたようにぶっきらぼうに話す。

(……え、可愛い。)

 黒兎って口は悪いけど、意外と素直で恥ずかしがり屋さんなのかもしれない。さっきだって、一応白兎から助けてくれたわけだし。

 ――それに比べて。

「……ねぇ、白兎」

「なになに⁉ ミズホ!」

 白兎は弾んだ声で返事をした。

「さっきの話なんだけど、貴方達は元々人間でその目に怯えたご両親に捨てられ、死んでしまった。そしてそれを不憫に思ったこの島の神の手により貴方達は蘇り、力を授けてもらい、今も二人でこの島を守っている――それで間違いないんだよね?」

 それを聞いた黒兎がゲラゲラ、ヒィヒィと下品に笑う。

「だから! そんなの全部嘘に決まってるだろ! あたし達が人間? 笑わせやがる。じゃあ何で赤ん坊だったあたし達の魂がこんな幼子の姿をしてんだ? わざわざこんな小さく不便な身体に魂をこめるなら、その神とやらも敢えて大人の身体にしただろうよ。それにあの目だって、妖力を使う時にあんな風になるだけだしな! もっぺんあの兎面外して見てみろよ? もう普通の目に戻ってる筈だぜ」

「妖力を使う時……?」

「くくっ……お前、あいつの目を見て身体の自由が利かなくなっただろうが?」

「あー……そういうことね。白兎って、ほんと最低」

「違うよぉ、ミズホ~! 僕はミズホが、だーい好きなだけなんだ! ね? お姉ちゃん? ……僕を信じて?」

 白兎は甘えた声で、尚も子供っぽく振る舞ってみせる。

 ……もう絶対に騙されないぞ。この腹黒白兎め。

「あっはっは! ざまぁみろ、白兎! 何でもお前の思い通りになると思ったら大間違いだぜ!」

「……まったく、自分が神童に相手にされないからって僕に当たらないで欲しいよ。……いい迷惑だ。さっさと神童について黄金郷に行けばいい。僕はミズホとここで暮らしていくんだから」

「……お、お前! 気安く神童などと呼ぶな! 神童様と呼べ!」

「や〜だよ! ば~か」

 本当に何なんだ、この双子達は。当初のイメージと違い過ぎる……

 一見可愛らしくて弱々しいが、実は腹黒で大嘘吐きな白兎に、口が悪くて男勝りではあるが、意外と親切? な黒兎。……これだとまるで、白と黒が逆のようだ。

 ところで……

「ねぇ、神童……って誰?」

 私がそう尋ねると、白兎がケラケラ笑いながら話し始めた。

「神童というのはね、こことはまったく違う世界に存在する、狐の面を被ったお方の事だよ。黒兎は昔から神童に憧れているんだけど、全然相手にされてないの! 可笑しいんだよ~! 本当に惨めで憐れな黒兎!」

「……白兎。てめぇ、絶対に許さねぇからな」

 狐面の少年……ねぇ。


『えぇ、ここには兎の面を着けた双子がいるんですがね? 私、あの双子が苦手……と言うより大嫌いなのですよ。ソリが合わないとはこう言うことですかね。とにかく、不愉快極まりない存在なのです』


 ……きっと、彼の事だろうな。

 成る程。その理由、何だかわかる気がする。

「……って、こんなところで時間を潰している場合じゃない! 宴も始まってるし、早く彼を捜さないと!」

 私が大声で叫ぶと、白兎と睨み合っていた黒兎が振り返り私に言った。

「……あいつなら、宴の場にいたぞ」

 黒兎がそう言うと、白兎はすかさず口を挟む。

「今日は鬼面の一行がいるから、ミズホはここにいた方がいいと思うよ」

「……おい、白兎! あたし達は全ての者に平等でなければならない。一部の者に肩入れする事は許さないぞ!」

「きめん……? それって、恐ろしい存在なの?」

「……ごめん、ミズホ。僕の口からは何も言えない」

 白兎はシュンと落ち込み、申し訳なさそうに私にそう告げた。

「……女、どうするんだ? 行くか行かないかはお前の自由だ。勝手にするといい」

 私は少し考えるが、すぐに『うん』と頷く。

「私、行くわ。彼の事が心配だし……それに、私はこの【夜宴の島】の全てを知りたいの。今日はどんな事が起こるんだろうってワクワクしてるんだ」

「……どうして、夜宴の島の事を知りたいの?」

 私は白兎と黒兎を見ながら、笑って答えた。

「私、物語を書くの! 夜宴の島の物語を! だから、この島の全てを知りたいんだ! 知らないと、何も書く事が出来ないからね!」

「! ……そうか。なら、好きにしろよ」

「貴方達って一癖あるけど、私……何だか嫌いじゃないわ! 色々とありがとうね! クロちゃんに、シロくん!」

「く、クロちゃん⁉」

「シロくん……」

「ふふ! それじゃあ、行ってくるね!」

 私はそう言うと、双子達に背を向けた。

「……待て、女!」

 黒兎の言葉に、私は再び振り返り『どうしたの?』と声をかける。すると黒兎は『フンッ』とそっぽ向きながら、こう言った。

「……その面、だせぇけど絶対に外すなよ? あたしからの忠告だ」

「……わかった! ありがとう!」

 きっと、この面には何かがあるのだろう。私は黒兎の不器用な優しさに頬を緩ませながら、その場を颯爽と走り去った。暗い森の中に灯る、明かりの先を目指して。

 闇を引き裂くような強風が強く吹き荒れ、草木を激しく揺らしていく。もしかしてこれは風などではなく、昨夜宴で目にした鎌鼬が森中を乱暴に駆け回っているのではないだろうか?

 不吉な風が髪を揺らす。

 不気味な満月の中から、得体も知れない何かが見つめているような……そんな気がした。


「この奥だ。やっと着いた……」

 私はおかめの面を顔に被せ、宴に参加する。

 森の中は大層賑わいを見せていた。相も変わらず酒盛りを交わしている者達に、美しい笛の音色に耳を澄ませる者達、円になり、松明を持って時計回りに踊り続ける者達。そして楽しそうに食事を取っている者達もいた。

 仮面舞踏会のような奇妙な仮面をつけて、談話を楽しむ貴婦人達の姿も見られる。

 そんな中、ボウボウと燃え盛る大きな薪組みの近くで、一人ぼんやりとオレンジ色の炎を見つめる、ひょっとこの面をつけた彼の姿を発見した。

「ソウくん!」

 私は手を振りながら、彼の元に駆けつけた。

「ミズホ! 一体、今までどこにいたんだよ!」

「ごめん、ソウくん。あの海辺でね、双子達と少しお話してたの」

「……双子って兎面の? 大丈夫だったの⁉」

「ん? 全然大丈夫だよ! 平気平気!」

 兎達とのやり取りを思い出すと、何だか可笑しくなってきて、思わず笑いがこぼれた。

 あんなにも不気味だったあの子達が、まさかあんなにも可愛らしい子達だったなんて。

 きっと、ソウくんもびっくりすることだろう。

「……何だかミズホ、楽しそうだね? あの双子達とどんな話をしたの??」

「えっとね! あっ……ごめん! やっぱり今は内緒」

「えー⁉ 何でだよ! 教えてくれてもいいだろう?」

「ごめん、ごめん! でもね、いつかソウくんにもわかる事だから……お願いっ! 今は聞かないでいて?」

「よくわからないけど……ま、いっか。わかったよ。じゃあ、また今度教えて? 約束」

「うん、約束!」

 彼が小指を出してきたので、私はその指に自分の小指を絡めると『ゆびきりげんまん~』と、笑いながら指切りをした。

 私達が宴を楽しんでいると、真っ白なテーブルに置かれた沢山の色鮮やかな飲み物を発見する。

 私は一瞬で【それ】に目を奪われたが、彼はあからさまに嫌そうな表情を浮かべた。

「俺、絶対に飲まないから」

「私……あれがすっごく飲みたい」

 私が指を差した方向にあったのは、雪のように真っ白で中にピンクや黄色、水色のラムネが浮かんでいるドリンク。……とても美味しそうだ。

 どうしよう、どうしても飲みたい。

「……ミズホ、やめておこう。昨夜君が飲んだ物のように、良いものが入っているとは限らない。もしかして昨夜の俺のようになってしまうかもしれないよ? ここでは、何も口にしない方がいい」

「でも……」

「わかって、ミズホ」

「……うん、そうだね。わかった」

 後ろ髪を引かれるような思いで、私はその場からそっと離れた。

 森の中心部には大きなステージが設置されている。ステージ周辺には、沢山の者達が集まっていた。……今から何か始まるのだろうか?

 そう思った直後に、キンコンカンコン~とベルが鳴り、放送が流れ出した。

『あーあー、皆様。お楽しみの時間に申し訳御座いません。ワタクシ、この島に住む梟、フクロウで御座います。白兎神、黒兎神はこの後のイベントの準備の為、席を外しておりますので僭越ながらワタクシめが仕切らせて頂きます。本日、鬼面の衆がこちらに赴いていらっしゃるので、皆様、どうか盛大な拍手でお出迎え下さいませ』

 その言葉を合図に、場内から拍手喝采が湧き上がる。

「鬼面……」

 森の奥から十数人、鬼の面を被った者達が顔を出し、ステージに上がる。皆それぞれ恐ろしい鬼の面を被り、白い袴を着ていた。だが鬼の面を被っているからといって、図体や風格まで鬼のよう……というわけではない。

 中には、見るからにひ弱そうな男性や華奢な身体つきの女性、老人などもいた。勿論、いかにも素行の悪そうな乱暴者もいるようだが。

「これから……何が始まるんだろう」

「……俺にもわからない」

『えー、おほん。それでは準備も整ったようですので、本日より三日間のビッグイベント! 【鬼達による兎狩り】を始めさせて頂きます。二匹の兎を捉えた鬼の皆様には、何でも一つだけ願いを叶えて差しあげるとのことで御座います。しかし、殺してはなりません。必ず生け捕りでお願いしますよ。ルールは厳守で御座います」

「兎狩り……って、あの双子の事だよな?」

「そんな……!」

 狩りという物騒な単語を耳にし、私は戸惑いを隠せなかった。

「尚、本日の宴に参加しておられる神々や、位の高い崇高なる皆様は、見物を楽しまれるものだと思われますが、鬼以外にも、もし【狩り】を希望される方がいらっしゃいましたら、今すぐ挙手をお願い致します。どなたかいらっしゃいませんか?」

「…………ごめん、ソウくん」

「ミズホ? 君、まさか……」

 私は手を高く上に挙げた。それを見た古の神々は『おぉ!』っと声を上げ、称賛の言葉や大きな拍手で迎える。

 沢山の面達の視線が一点に集まり、皆が私に注目しているのがわかった。私の足は緊張でガタガタと震え、心臓はおかしくなったかのように激しく音を立てた。

 ――何故、手を挙げてしまったのだろう?

 本当に馬鹿かもしれない。いやきっと、大馬鹿者だ。兎達とちゃんと話をしたのはさっきが初めてだし、結局あの姿だって、本物かどうか定かではない。私は、またしてもあの兎達に騙されているのかもしれない。

 けれど、あのフクロウ。

『殺してはいけません』とは言ったけれど、『怪我をさせてはいけません』とは言わなかった。

「勇敢な人間の女性が、手を挙げて下さいました。他はいらっしゃいませんか? そろそろ締め切らせて頂きますよ?」

 梟がそう声を上げると……すっと、もう一つの手が隣で挙がった。

「俺も参加する」

 周りは更に騒めきを見せる。『いいぞ、兄ちゃん!』などと、囃し立てる声が聞こえてきた。

「ソウくん、どうして⁉」

「……馬鹿。君にだけそんな危険な真似をさせられる筈がないだろ? それに、君を敵と見なした鬼達が、君を攻撃してこないとは言い切れないしね」

 その言葉に、私の背筋は凍りついた。……そうか、そうなのだ。鬼からしたら私は敵。無事でいられる保証などないのだ。

「では、おほん! 兎狩り一日目は、もう時間も少なくなっております。お急ぎを」

 鬼面達がステージから飛び降り、一斉に兎達を捜し始める。見るからに野蛮そうに見えるあの巨体な鬼の男は、白いテーブルに置いてあったあの真っ白なドリンクを手に取ると、面を少し上にずらして一気に飲み干した。

「あぁ! 私のドリンクが!」

「馬鹿な事を言ってないで行くよ⁉ ……助けたいんだろ、あいつらを」

「……そうだった。ごめん、ソウくん」

 こんな時に何を言っているんだ、私は。

「私、あの子達を助けたい。だから急ごう!」

「ミズホ、さっき兎達と話した場所は⁉」

「こっち!」

 私は彼を誘導し、森を抜ける。兎達を生け捕りだなんて……そんな事、絶対にさせない。

 私達が必死に森の中を走っていると、鬼達は樹から樹へ、ひょいと素早く移動した。

 ……鬼って、あんなに身軽なの⁉ 私のイメージでは、黄色と黒のしましまパンツを履いていて、金棒を持ちながら野太い声で、『おぉい! 兎ぃ~! どこに居るぅ⁉』なんて叫びながらドスンドスンと歩いてくのが鬼なのに……あれじゃ、まるで鬼ではなく忍者だ。

「……はいはい、言いたい事は何となくわかったから。今は余計な事を考えずにあいつらの事だけ考える! いいね?」

「すみません……」

 私達の頭上を鬼が次々と超えていく。それにしても人数が多い。十数人のほとんどが、私達と同じ方向に向かっているようだ。

「……ミズホ、ちょっと待って!」

 彼はいきなりその場に立ち止まった。

「どうしたの、ソウくん⁉ 早く、急がないと!」

「ちょっと。こっちへ……」

 彼は私を引っ張り、近くに寄せると、囁くように小さな声で話し始めた。

「この島は広い。もっと鬼達が分散されてもおかしくはない。けれど鬼達はほぼ全員、俺達と同じ方角に向かっている。……おかしいとは思わないか?」

「……うん、私も何かおかしいとは思ってた」

「考えられる可能性は一応二つ。一つ目は鬼が兎独特の獣臭を嗅ぎ分けられる、もしくは発信機等が兎に付けられている。……けれど、その可能性は低いと思う。三日間も続く一大イベントとやらが、そんなに簡単なものだろうか? 俺には、とてもそうとは思えない」

「それじゃあ……もう一つの可能性は?」

「……俺達だよ」

 彼の言葉に、思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

「俺達はあの場で手を挙げた。鬼達は、俺達が兎達の居場所に心当たりがあると思ったんじゃないかな? その証拠に、見てごらん」

 私は彼が視線を向けた方向にそっと目を向けた。

「……うわっ!」

 私は思わず、悲鳴のような声を上げた。

 少し先の樹の上から、移動を止め、こちらの様子を伺う数十人の鬼達の姿が見える。暗闇の中で鬼の目がギラリと怪しく光っていた。

「どうやら、正解……みたいだな」

「でも、じゃあどうしたら……!」

「一度二手に分かれよう。兎達が見つからない限り、あいつらは俺達に攻撃はしてこないと思う。それに、兎は【二匹】いるんだ。俺達が今二手に分かれたって何らおかしい事はない。兎達が二人一緒にいる保証なんてどこにもないのだから……」

「なるほど……」

 私は少し考える。そして、ふと頭の中で閃いたアイディアを彼に話してみた。

「じゃあ……とりあえず私達が夜明けまでわざと海辺から遠ざかって、適当な道を走ったり止まったりして鬼達を引きつけておくっていうのはどう⁉ そしたら兎達を捜さなくても、あの子達を危険から守る事は出来るんじゃないかな⁉」

「それじゃ駄目だ。俺達が闇雲に走り続けたとしたら……きっと、奴等もそこまで馬鹿じゃない。俺達に見切りをつけて個別に兎達を捜し始めるだろう。そうなれば、あの身軽で素早い動きに俺達は追いつけやしない」

「……あ、そっか。じゃあ私、どうすればいい⁉」

「俺はこのまま海辺の方に突き進む。ミズホは一度、宴の場所まで戻るんだ。そして別の道から海辺を目指して。……いいね?」

「うん! わかった!」

「……君を危険な目に合わせるかもしれないのが心苦しいのだけれど」

「大丈夫! それに。元々私が手を挙げてソウくんを巻き込んでしまったんだから。私の事は気にしないで!」

 おかめ姿の私は、敬礼のポーズを彼に送る。ひょっとこはそれを見て、深く頷いた。

「……よし! じゃあ、せーので走るよ?」

「うん!」

 私は深呼吸をし、ぐっと息を止める。

「せーの!」

 彼は真っ直ぐ走り出し、私は元来た道を懸命に戻る。

 樹の上の鬼達も、二手に分かれる事にしたようだ。二分割された鬼達が、私の後を執拗に追いかけてきた。

「……これぞ正に、鬼ごっこってやつ?」

 私の頭上をさっと超えては、私を睨みつける恐ろしい目。いつ襲いかかってくるかもわからない恐怖。

 この鬼達は双子を捕らえて、一体どんな願いを叶えてもらうというのか?

 ――クロちゃん、シロくん。……無事でいて!

 運動不足のせいか、息は荒くなってきたが、私は足を止める事なく必死に走り続けた。

 森の奥から聞こえてくる、楽しげな声や太鼓の音が徐々に大きくなっていく……

 私は、宴の広場に勢いよく飛び込んだ。

 鬼や私達の事など、すっかり忘れたように宴を楽しんでる者達。私はその中に、ゆっくりと溶け込み、紛れ込んでいく。振り返って見てみると、鬼達は私を捜しているように辺りを見回していた。

 少しでも追っ手の数を減らすに越した事はない。私は出来るだけ沢山の者達の間を潜り抜け、足早に走った。

 その時、突然左腕にギリッと鈍い痛みが襲いかかる。

 痛む腕の方に目を向けてみると、そこには痣が出来そうなくらい強い力で私の腕を掴む、ローブを身に纏った小さな老婆の姿があった。

 老婆は面をつけてはおらず、私を見つめ、にんまりと奇妙に笑う。

「な、何……? 離してください。私、急いでいるんです……」

「あんた……さっきからこれを飲みたかったんじゃろ?」

 老婆は片手に、あの白い飲み物を持っていた。……しかし不思議な事に、それを見ても何も感じない。

 確かにさっきまでは、それが飲みたくて飲みたくて仕方なかった筈なのに。

「そんなの……い、いりません」

「――あぁ! そうかい、そうかい。さっきまでのあんたはこれを欲していたが……今はこっちかな?」

 老婆はそう言って指をパチンと鳴らすと、中身が即座に白から黄色い物へと変わる。

 その黄色いドリンクを見た瞬間、私の心臓はドクンッと鳴り響き、軽い眩暈を覚えた。

「さぁ! 飲みなされ、飲みなされ」

 老婆はヒッヒッヒッと、不気味に笑う。

「……駄目、彼が飲んではいけないって。悪いものかもしれないから」

「何故悪いものだと決めつける? ここにある物は全て【その時、それを飲む者】が中身を決める。……そやつが今、一番欲している【もの】をな。ならばこれは、今あんたが一番欲しているものだ。騙されたと思って飲んでみるがよい」

 私は、老婆から黄色いドリンクを受け取った。

「これはのう、特別な物じゃぞ。本来ならこの宴に決して並ぶことのない商品じゃ。そう簡単に口にする事は出来ない。……お前さんはとてもついておる」

 老婆の言葉がまるで甘い媚薬のように、私の心を誘惑し、揺さぶりをかける。こんな所で時間を過ごしている場合ではないのに、足が一歩も動かない。

 私はグラスに口をつける。甘美な香りが鼻から脳にまで行き渡り、スッと溶け込んだ。

 ――もう我慢が出来ない。

 私はそれを、一気に飲み干した。

 最後の一滴が喉に流れ落ちた直後、私の手からグラスがするりと地面に落ち……割れた。

「……い、痛い! 痛いよ! 痛いっ!」

 私は突然襲いかかってきた目の痛みに、意識を保っているのが精一杯だった。眼球が燃えるように熱く、突き刺すように痛い。とてもじゃないが、目など開けてはいられなかった。

 ……ああ、やはり飲むべきではなかった。と、今更後悔しても遅すぎる。

 私の目は一体……どうなってしまうのだろうか?

 ――怖い。

「……心配せんでもええ。悪いもんじゃあない。今は少しばかり痛むかもしれんが、どうせすぐに慣れる。痛みは一瞬じゃよ」

 ……本当だ。確かに老婆の言う通り、痛みは徐々に治まってきたような気がする。

私は痛みによって固く閉じられた両目を、右目から順に、恐る恐るゆっくりと開いてみる。

 すると、まだ閉じたままの左目の視界に何かが映り込んだ。

 ――あれは、シロくん⁉

 白兎が海辺の近くで、呑気に砂の城を作って遊んでいる姿が見える。

 私は『まさか……』と思い、今度は右目を閉じてみる。すると、やはりそこには黒兎の姿があった。

 黒兎は昨夜、彼とひと騒動があったあの深い森の奥で何かをしている。……彼が壊してしまった椅子の修復だろうか? 何やら楽しそうに、金槌で椅子を叩いていた。

「【サガシモノ】は見つかったかの? それは鷹の目じゃよ。どんな獲物も見逃さない。その目からは何人たりとも姿を隠す事は不可能じゃ」

「鷹の目……?」

「この薬は宴に置いてあるものとは、ちょっとばかり毛色が違う物でのう。宴に置いとる物は大体が内面を変えたり、何かを引き出す力を持つ薬じゃ。しかしこれは、外見を変え、飲んだ者に新たな力を与える物となっておる。非常に便利じゃぞ?」

「外見を……変える……?」

「ほれ、見てみるがいい」

 老婆は私の目の前に古びた手鏡を差し出した。

 私はその場にしゃがみ込むと、周りの者達に気付かれないようにそっとおかめ面をずらし、老婆に渡された手鏡を使って自分の顔を確認した。

「な、何これ……」

 私の目は、既に普通の目ではなかった。

 白目が鷹のように黄色く染まっていて、黒目が小さくなっている。

 あまりの不気味さに、身体の震えが止まらず、つい手鏡を地面に落としてしまった。

「心配せんでもええ。効果はこの島にいる間のみで、ちょうど三日間じゃ。三日経てば、ちゃんと元の目に戻るわい」

 私はその言葉に、とりあえず安堵した。真偽は定かではないが、一生このままだと言われるよりかは断然気が楽だったから……

 今の私が望んでいたもの。それは……双子達の行方がわかる【目】。

 片目を閉じると閉じた方の目に見える。

 左が白兎。右が黒兎。

「さぁさぁ、急いで兎狩りのイベントを続けるがよい。儂はまだまだ森の奥でやらねばならない事が沢山あるからのう」

「……そうだ、こうしてる場合じゃない! 早くソウくんと合流しないと!」

「鬼が兎を捕らえるより、人間が兎を捕らえた方が面白い。大半がそう思っておるわ。何せ鬼のような低俗な輩達は、ここにおる者達全てに見下され、毛嫌いされておるからのう。本当にお主らは良い見世物じゃよ」

 老婆は下品に笑いながら、私が落とした手鏡を拾い、袖の奥にしっかりと直す。

 最後の一言に少しばかり腹立たしさを感じながらも、私は老婆に軽く頭を下げ、海辺の方に向かって走り出した。

 背後から聞こえる老婆の不気味な笑い声が、今でも耳の奥に残る。どうか、白兎も黒兎もソウくんも……皆、無事でありますように。

 動き出した私に気付いたのか、はたまた最初から老婆とのやりとりを隠れて伺っていたのか、再び鬼面達が私を追跡し始める。

 痛む横っ腹を押さえながら、懸命に走り続けている最中……大した事ではないかもしれないが、一つだけわかった事があった。

 わざわざ片目を瞑らなくても、手で片目を覆い隠しただけで兎達の姿をちゃんと確認する事が出来る。

 私は乱れた呼吸を整える為、一旦その場に立ち止まった。左右上空より、鬼達が突き刺すような目で私をじっと見張っている。

 私は、おかめの面の上から左目を隠すようにそっと手を添えてみた。

「……――ソウくん!」

 白兎の近くに彼の姿が見える。そして勿論、鬼達の姿も。

 けれど白兎は慌てる素振りなど一切見せずに、完成間近に見える砂の城の開通工事に取り掛かっていた。

 彼や鬼達は白兎の近くにいるというのに、何のアクションも見せず、ただひたすら走り回っている。

 もしかして彼や鬼面には、白兎の姿は見えていないのでは?

 もしそうならば、このまま白兎を助ける事が出来るかもしれない。しかし……本当にそうなのだろうか?

 そんな事で済むのなら、この兎狩りはたった一日で終わってしまうのではないだろうか?

 それに、彼も言っていた。


『三日間も続く一大イベントとやらが、そんなに簡単なものだろうか? 俺には、とてもそうとは思えない』


 兎狩りは、まだ始まったばかりだ。……決して油断をしてはならない。

 それに、あの巨体の鬼が飲み干した白のドリンク。あれが一体どんな効果をもたらすのかも……今のところ、まったく見当がつかない。

 もっと言えば、私の他にもあの黄色いドリンクを口にした者がいるかもしれないしね。

 私は黒兎の事も気になり、今度は右目をそっと手で覆い隠す。……黒兎は無事だ。直った椅子の上に立ち、大きな月を眺めていた。近くに鬼の姿も見えないようなので、私は取り敢えず安堵する。

 突然、風が乱暴に吹き荒れた。

 海の方から吹いてきているのか、微かに潮の香りがした。砂埃が宙を舞い、すかさず私の目の中に侵入する。

 入り込んだ砂を取り除く為、私は思わず目を擦った。

 ――その時、私は不思議な光景を見た。

 一人の鬼が彼と向き合い、その場に立ち尽くしている。

 潮風がその鬼の、長くて美しい黒髪をふわりとなびかせた。

 彼は口を開き、鬼に何かを話しているようにも見えるが、あいにく【目】で見る事は出来ても、【声】までは拾う事が出来ないようだ。

 私はとても嫌な予感がした。……何故か、胸騒ぎが止まらない。

 ここからソウくんのいる場所まで、さほど遠くはない。私は左目を押さえながら、必死に海辺に向かって走った。

 ……お願い、ソウくん! 無事でいて!

 鬼の面を被った女が、一歩……また一歩と、彼に近付いていく。

 彼は後退り、鬼女と距離を取ろうとするが……鬼女は腰に差してあった脇差しを瞬時に取り出すと、彼に向かって斬りかかった。彼は、間一髪のところでそれを避ける。

 他の鬼達は彼に見向きもしないで兎探しに力を注いでいるというのに、何故あの鬼だけは彼を攻撃するのだろうか? 鬼女は、にじり寄るようにして彼に近付いていく。

 やっとの事で森から海辺に出た私は、鬼女に向かって大きく叫んだ。

「やめて! ソウくんに手を出さないで!」

「っ……ミズホ! 危ないからこっちに来るな!」

「ソウ……?」

 鬼女の動きが急に止まる。私はその隙に彼の傍まで走った。

 鬼女はじっと私達を見つめるが、その場で静止し、何もしようとはしない。

 それでも私は、いつ振り上げられるかわからない脇差しの先端から目を離す事なく、その一点にのみ集中していた。

 ――その時、放送が流れる。

 その声の主は間違いなく、白兎と黒兎のものだった。


『夜明ける。二日目、終わり』

『夜明けた。三日目、始まる』

『宴は残り十五夜。盛大に楽しめ』


 ……あぁ、夜が終わる。大きな月はいつの間にか姿を消していて、美しい朝焼けが澄み渡るように広がっていく。

 私は目の前の鬼女を見る。……タイムアップだ。

 もう私達に攻撃などはしてこないだろう。

 鬼女は脇差しをゆっくりと腰にしまうと、そっと口を開いた。

「……いいの、私はいいの。とてもここが気に入ったから。今更、あんな世界に戻りたいとは思わない」

 鬼面の女が生気を持たないような、か細い声でそう呟く。

「ずっと自由になりたかった。けれど、自由がなんなのかなんて……私にはわからなかった」

 彼も私も絶句し、動揺を隠す事が出来ない。

 だって私達は……

 この言葉の続きをよく知っているのだから。

「これを自由と呼ばないのならば、この世界のどこにも自由なんてものは存在しない。ねぇ、そう思わない――――」

 こんな時に意識が朦朧とし始める。視界は霞み、聞力も本来の役目を果たさない。

 どうして、鬼が……? ――どうして?

 伸ばした手は力無く地面に落ちる。鬼女がどうなったのかはわからない。

 彼と私は、毒リンゴを齧った白雪姫のようにそっと目を閉じ、深い眠りについた。

 ……次の夜には、きっと想像もつかないような新展開が私達を待っている。

 そして私は、少しの期待と多くの不安を胸に……

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