第2話


 夏、私のバイト先に奇妙な男が面接に来た。

 私が働いているのは、街の目立たない場所にあるしがない本屋だ。客は大型の書店に流れ、姿を見るのはいつもの見慣れた常連客だけ。

 売り上げも少ないこの店が今まで潰れずに済んだのは、この店が店長の道楽にて作られた店だからだ。

 お金に困っていない老夫婦は、揃って書店を経営するのがかつてからの夢だったらしい。

「ミズホちゃん。今日一人、バイトの面接に来る予定だから! よろしくね~」

 店長の言葉に、思わず耳を疑う。

「え? 募集かけたんですか? 新しいバイトなんて雇わなくても、店長と奥さん、サユリさんと私……この四人で充分回していけますよね?」

「うーん、そうなんだけどねぇ……昨日、いきなり電話で『どうしてもここで働きたいので面接して欲しい』って頼み込まれてさぁ。その情熱を買って、一度面接してみる事にしたんだよ」

「へぇ、そこまでうちで……」

 こんな小さくて地味な書店でそうまでして働きたいと思うだなんて、随分物好きもいたもんだと心の中で思ったが、流石に口にするのは止めておいた。

 ちなみに私は、このバイト先がとても気に入っている。人と接する事があまり得意ではない私にとって、この静かな空間はとても心地が良い。

 店長も奥さんもとても穏やかで優しいし、もう一人、ここで働いているスタッフのサユリさんは私より三つ年上で、本当に明るくしっかりした美人なお姉さんだ。シフト上、入れ替わりになるので店ではゆっくり話す事は出来ないが、プライベートではとても仲良くさせてもらっている。

「とにかくまぁもう来る頃だと思うから、来たら呼んで。僕はバックヤードで在庫チェックしてるからさ」

「はーい」

 私がそう返事をすると、年老いた店長は腰に手を当て、バックヤードに移動した。

 ……面接かぁ、どんな人が来るんだろう?

 まぁ、店長……人が良いからきっと採用だろうし、気が合いそうな人だといいなぁ。

 男の人は、昔から少し苦手だから……出来れば女の人の方がいい。

 ちょうどそんな事を考えていた時に、自動ドアが開いた。

 ドアの外からモワッとした熱風が店内に流れ込む。既に聞き飽きた、有線から流れる音楽が、偶然に終わりを告げた。

「あの……どうも。面接にきました」

 低くて静かなその声の主に、私は思わず目を奪われる。決していい意味ではない。悪い意味で、だ。

 目の前には、黒くて長めのボサボサの髪に、今時どこに売っているのかと聞きたくなるくらいの分厚いレンズの眼鏡、冴えない風貌の奇妙な男が立っていた。

 第一印象……とにかくダサく、陰気。

 しかし、何故だろう?

 これといって、他の人より秀でてる面など見受けられないのだが、彼が持つ独特な雰囲気に目を離す事が出来ない。

「あの……?」

 不思議そうな彼の声で、私の意識は現実に戻される。

「え……あっ、はい! 少々お待ち下さい」

 私は適当に愛想笑いを浮かべながら、足早にバックヤードに向かい、店長を呼んだ。


「やぁ、どうもどうも! 店長の藤尾です」

「あの、五十嵐です。今日は無理を言ってしまい、申し訳ありませんでした。よろしくお願いします!」

 店長と男は互いに頭を下げて挨拶をすると、スタッフルームへ向かって行った。

 うん、あれはない。いくら店長でも、流石に採用しないだろう……多分。

 見た目で判断するほど、浅はかではないつもりだったけれど……鼻まで被さる前髪に、その間から覗くビン底眼鏡、頭のてっぺんにはハネたままの寝癖、髪はとかしていないのかぐしゃぐしゃだ。そしてシャツはジーンズにインしていて、蛍光ピンクのリュックを背負っている。

 一言でいえば、あまり関わりたくない人種である。オタク、本の虫、引きこもり……失礼かもしれないが、そんな印象だ。

 一体、彼は何歳ぐらいなのだろう。……ま、どうでもいいか。

 面接希望くんの事は、取り敢えず置いておいて、私は本の整理を始める事にした。

 今日は先週追加発注をかけた私の大好きな作家さんの新刊が入ってきていて、見慣れた表紙ではあるものの、気分はとても弾んでいた。

 勿論、私は発売日の日に購入して既に読了している。

 漫画も良いが、私は小説の方が好き。文章からその世界を想像するのがとても好き。

 気付けば、その世界観にどっぷり浸り込んでしまっているという癖があるのが難点だが。

 梱包を外すだけでもワクワクする。レジでお客さんがその本を持っているだけで、何だかとても幸せな気持ちになれる。


 {夜科 蛍}(よしな けい)【朧月夜に泳ぐ魚】


 そこまでメジャーな作家さんでもなく、男性なのか女性なのかすら私にはわからない。けれど、夜科さんの書く物語は全て……繊細で儚げで、とても美しい。特にデビュー作が素晴らしくて、何度読み返したかわからない程だ。


 デビュー作【鏡花水月】


 鏡花水月の意味を調べてみると、鏡に映った花や水に映った月のように、目には見えるけれど、手に取る事が出来ないもの。また言葉では表現できず、ただ心に感知するしかない物事、儚い幻の例え……などと書いてあった。

 正に小説の内容にぴったりだ。

 意味だけでも美しいのに、内容は私の胸を強く打った。



***


 俺は彼女の遺体を優しく抱き抱えた。どんなに嘆き哀しんでも、彼女はもう二度と帰って来ない。

 わかっているのだ。……わかっている。

 けれど止まる事のない涙が、必死に彼女の帰還を願っていた。

 このまま彼女を想い、溢れだす深い涙の海に沈み、溺死する事が出来たら……どんなに幸せな事だろう?

 彼女の遺体を、二人のお気に入りだった小さな湖の底にそっと沈める。

 彼女は眠る人魚のように、美しい表情を見せながらゆっくりと沈んでいくと、次第に見えなくなってしまった。

 ――その時だ。優しい月の光を受けて、水面が青白く、神秘的に光りだしたのは。

 俺は涙に濡れた顔で、それをじっと見つめていた。

 月光が、突然湖を液体から個体に変え……湖が、まるで分厚いガラスのように変化する。

 あり得ない光景に、普段なら心臓が飛び出しそうなくらいに驚いたと思うが……今の俺は彼女を失った哀しみで無気力になっており、ただ茫然と変わっていくそれを見据えるだけ。

 俺はゆっくりと湖の上に乗り、結晶化した湖の中をそっと覗き込んだ。

 そこには、死んだ筈の彼女がいた。

 彼女も驚いたように、こちらをじっと見つめると……次第にはにかむような笑顔を見せた。

 俺はとても驚いた。――彼女は、生き返ったのか?

 けれど、彼女は今……湖の向こう側の世界にいる。いくら生きていようとも、俺は彼女に触れる事すら出来ないのだ。

 俺は湖の透明ガラスをコンコンと叩いた。こちらにゆっくり近付いてきた彼女も、それを真似て向こう側からノックする。

 水で出来た壁は、まるで二人を隔てる牢のようだ。けれど、もう一度彼女の笑顔を見る事が出来た俺は、この上ない幸せを噛み締めていた。

 俺はずっと、湖の向こう側の世界にいる彼女を見つめてた。


 もうどれくらいそうしていただろう?

 次第に夜が終わり、朝日が顔を出した瞬間、水の壁は本来の水へと変わる。突然足場を失った俺は、否応が無く湖の底に沈んだ。

 湖の中に落ちた俺は、水中で懸命に彼女を捜すが、彼女の姿はどこにも見つからない。

 仕方なく俺は湖から這い上がり、手と足を地面につけた。

「サヤカ。君は一体、どこに行ってしまったんだ……?」


 その夜、俺は再びあの湖に向かった。月の光を浴びた湖が、ピシッと氷を張るように道を作り始める。俺はゆっくりと、その水の上を歩いた。

 あの出来事は夢か、幻か――

 けれど、現に湖は美しい水晶のように、頑丈な足場を作り出しているではないか。……ならば、きっと夢ではない。

 一瞬、『これは全て、俺の哀しみが生んだ幻なのか?』とも思ったが、幻にしてはどうもリアル過ぎる。

 それに、ひんやりと冷たく硬い感触が、この状況は決して幻などではないと、はっきりと告げていた。

 きっと、今夜も君は……この湖の中に――

 俺は執拗に湖の中を調べた。透き通る程に綺麗なこの湖は、底までクリアに見渡せられる。

 月夜の光がキラキラと石を光らせ、小さな魚達は優雅に泳ぐ。

 その中心に、まるで人魚のように魚達と戯れる一人の女性の姿を見つけた。

 ――あれは、彼女だ。……彼女がいる。

 彼女は俺に気が付くと、笑顔で手を振った。俺はしゃがみ込み、顔を彼女の方へと近付ける。

 彼女は何かを話しているようだが、こちらからはその声は聞こえない。

 俺は途端に悲しくなり、涙を流した。

 流れた涙は水の牢が弾き飛ばし、俺のズボンの裾を濡らす。彼女は困ったように笑うと、そっと水の壁に触れた。

 俺はその手のひらに、自身の手のひらを添えてみる。微かに彼女の温もりを感じられた気がした。

 ソウジロウ、泣かないで。――大好きだよ。

 そんな、彼女の声が聞こえたような気がした。



***


「おーい、ミズホちゃん! ちょっと~!」

 突然、スタッフルームの方から私を呼ぶ店長の声が聞こえてきた。

 ――しまった。どうやら、また自分の世界に入り込んでいたみたいだ。……いけない、いけない。

「はーい。今行きます」

 今はちょうど客足も途絶えていて、店内には一人も客がいない。店長も、その事をわかっているからこそ私を呼んでいるのだろう。

 それに、自動ドアは開くと音が鳴る仕組みになっているので、誰かがくればすぐにわかる。

 私は、品出ししていた本を全てカートの中に戻すと、急いでスタッフルームに向かった。


「……失礼しまーす」

 スタッフルームに入ると、店長と面接に来た彼が向かい合って座っていた。

「あ、ミズホちゃん! お疲れ様!」

 二人は立ち上がり私の前に移動する。店長はニコニコと笑いながら、大きく口を開いた。

「ミズホちゃん。彼ね、採用したから! 明日から面倒見てあげてくれるかな?」

「え、採用……ですか?」

 店長の言葉に、分かりやすいほど怪訝な表情を浮かべてしまう。聞き間違えじゃ……ないよね?

「うん、彼の本に対する情熱は本物だよ! きっと、頑張ってくれるに違いない」

 店長は嬉しそうに笑った。笑う事によって皺の増えるその顔が、更に穏やかで優しい表情を作り出す。

 店長の人の良さは、私が思うよりずっと上だったらしい。……初老の器の大きさに、心底感服する。

「あの……五十嵐想です。これからよろしくお願いします」

 彼は礼儀正しく、私に深くお辞儀をした。

「あー、えっと……橘瑞歩です。こちらこそよろしくお願いします」

 私も負けじと、丁寧にお辞儀を返した。

「うんうん! 二人共年も近いし、すぐに仲良くなれそうだね。五十嵐くん。わからない事があれば何でも、僕やミズホちゃんに聞いてくれたらいいから」

「はい。わかりました!」

「うん、いい返事だ。じゃあ明日から頼むよ、五十嵐くん」

「あ、あの……良かったら、今日は少しだけお店を見ていって構わないでしょうか?」

「え? 大丈夫なの?」

「はい! 早く色々と慣れたいので!」

「仕事熱心だね、君は! いや~気に入った」

 店長は、笑顔で彼の背中をポンと叩く。……嫌な予感がする。

「ミズホちゃん。僕、店出るから先に休憩入っちゃって! 五十嵐くんも、彼女の休憩が終わり次第一緒に……ね?」

「……え? じゃあ店長、それまで彼は?」

「ミズホちゃんが五十嵐くんの指導係なんだから、もっとお互いの事をよく知って、仲良くなるのもいいなって思うんだよ、僕は!」

 店長は『うんうん』と頷くと、『じゃあ、後でね~』なんて言いながら、私と彼をスタッフルームに残し、店内へと歩いて行った。

 どうしよう、気まず過ぎる。こういうの本当に苦手だ。何を話せばいいのやら。

 仕事中だと、まだ話す内容も見つかると思うのだが、休憩時間に初対面の彼と……一体、何を話せばいいのかがわからない。自分のコミュニケーション力の乏しさに思わず嘆く。

 休憩時間に、また小説を読もうと思って持ってきたのに……読めそうもないね、これじゃ。

 チラッと後ろに振り返ると、前髪と眼鏡でまったく顔のわからない彼が立っている。彼も、何を話せば良いのか悩んでいるのだろうか?

 ……いや、そんな事もなさそうだ。

 彼は興味深そうにスタッフルームを見渡すと、何やら楽しそうに一人で喋り続けている。そして、一通りスタッフルームをチェックすると……突然、私に向かって話しかけてきた。

「あの、橘さん! 休憩ってどれくらいあるんですか?」

「あ~、……三十分くらい、です」

 会話終了。……空気が重い。

 とりあえず私は、スタッフルームの横に設置されている小さな手洗い場で手を洗う。彼はまるで、背後霊のように黙って私の後について来た。

 私はため息を漏らしながら、ロッカーの前に移動すると、中から鞄を取り出した。

 相変わらず、ぴたっと後ろに引っついて来る彼は、『ロッカーってこんな感じなんだ~』と、一人でブツブツ呟いていた。

「……あの、五十嵐くん」

「あ、はい! 何でしょう?」

「いくらお客さんが少ないとはいえ、仮にも接客業なの。とりあえず、その格好はちょっと……」

 言葉を選んで話したつもりだが、少々棘のある言い方になってしまった。

 それなのに彼は、少しも気にした素振りを見せず、明るく言った。

「そうか、そうですよね。わかりました!」

 彼は眼鏡を外し、机に置くと……手洗い場に頭を突っ込み、蛇口を捻る。勢いよく噴射される水に、髪はみるみる内に濡らされ、重みを増していった。

 私は突然の出来事に目を丸くする。とにかく呆気に取られ、唖然とした。

「あ~……橘さん、そのリュックからタオル取ってもらえますか?」

「……え? あ、うん! わかった」

 私はすぐさま、蛍光ピンクのリュックの中から青いタオルを取り出すと、水滴が落ちないように排水口の方を向いている彼に手渡す。

「ありがとーです」

 彼はタオルでしっかりと髪を拭くと、能天気に『これで寝癖はオッケー!』なんて言いながら、腕につけていた輪ゴムで前髪をくくった。

「前髪は明日までに切ってきます。今日はこれで大丈夫ですかね?」

 分厚い眼鏡と長い前髪から解放され、露わとなったその素顔は、とても端整な顔立ちをしていた。さっきとはまるで別人だ。

 しかし、何だろう? この人……

「……眼鏡、かけないで大丈夫なの?」

「俺、両目とも視力2.0なんで。あの眼鏡はファッションです」

 相当な変わり者だとお見受けしました。


「――あれ? それって……夜科蛍の」

「え?」

 彼は机に置いていた私の鞄から、ひょっこりと顔を覗かせていた小説を見て、そう口にした。

「……鏡花水月か。橘さん、夜科蛍が好きなんですね」

「夜科さんを知ってるの⁉ 五十嵐くん!」

「えぇ。鏡花水月に、星降る夜に走る列車、常夜の言の葉、夜光曲。そして新作の、朧月夜に泳ぐ魚。夜をモチーフにした作風が目立つ作家ですよね?」

「そう…! 五十嵐くんも全作読んだんだ! あまり知られた作家さんじゃないから、私の周りに知ってる人ってなかなかいなくて! うわ、何か感動……!」

 共通の話題を見つけた事で、急に親近感が生まれる。そんな私を見て、彼はふっと優しく笑うと……目を閉じ、見慣れた文章の朗読を始めた。

「――このまま消えゆく俺に、彼女は一体、何を想うだろうか? いつものように、『サトルの大嘘吐き』と、頬を膨らませる姿が目に浮かぶ。それでも、俺は帰らない。たとえ、彼女をまた、泣かせてしまう事になったとしても……」

「窓に浮かぶ蛍達に願う。どうか彼女の中の俺が、どうしようもない嘘吐きで、最低な男でありますように。『……カスミ、ごめんな。幸せになれよ』。蛍達は散らばり、まるで星屑のような輝きを放つと、光の路線を作り出した。俺を乗せた列車は、静かにその上を走行する。煌めく夜空に降る星屑の雨は、まるで彼女の涙のように……俺の心を深く苦しめた。――【星降る夜に走る列車】だね」

「橘さん……かなり通ですね」

「夜科さんの書く話が、凄く好きなの。何度も読み返してきたから……しっかりと頭の中に入ってる。五十嵐くんだって、相当な通じゃない! 普通はそこまで覚えられないよ!」

「俺は……夜科蛍の作品は全部読んだけれど、実は一つの作品以外はあまり好きじゃないんです。ファンの橘さんの前で、こんな事を言うのは本当に申し訳ないんですけど……」

「あっ! その作品って、もしかして【鏡花水月】でしょ? あの作品以降ものは、何だか少し感じが変わった気がするから」

「……橘さんも、そう感じるんですね」

「うん。けど、私が夜科さんの小説を好きな事には変わりないけどね! 五十嵐くんは、どうして鏡花水月以外の作品は好きじゃないの?」

「それは……鏡花水月のような美しさや儚さが、今の夜科蛍にはないから。今の夜科は、ただ……美しく書こう、儚げに書こうとしているだけのような気がしてならない。まるで……別人が書いているとしか思えないんですよね」

「……? 別人? そんな風に思った事なんて、一度もなかった……」

「そうですよね。文章に、表現の仕方……癖などを見たって、鏡花水月も夜光曲も朧月夜に泳ぐ魚も、まったく瓜二つだ。……けれど、どうしても認められない。鏡花水月の夜科蛍は……もう存在しない」

「そうかな……? 私には、よくわからないよ」

 彼がどうしてそんな風に思うのか、私にはまったくわからない。 私から見たら何も変わらない、どれも夢溢れる美しい作品だと思うのだけれど……

「おかしな事言ってますよね、俺。けど、俺にはそう感じてしまって。だから……鏡花水月以外の作品に魅力を感じないんです。それに、実はこれ! 俺の一番好きな小説なんですよ。だから橘さんが知っていてくれて、こうやって話せた事が本当に嬉しいんです。……あ、すいません。休憩中なのに、何だか邪魔しちゃって」

「ううん! 私の方こそ、小説の話が出来て本当に嬉しかった。それと……ごめんなさい! 私、最初……かなり感じ悪かったよね?」

「あ~……大丈夫! 慣れてますから! 人見知りとかですか?」

「うーん、それもあるんだけど……私、昔から男の人が少し苦手で。あと、あの格好は正直引くよ。何か気持ち悪いと言うか、その……」

 私の言葉を聞くと同時に、彼はケラケラと笑い出した。

「わざとです」

「え?」

「わざとああいう格好して面接に来たんです。あの店長に、俺自身をちゃんと評価してもらいたくて! だから、明日から普通に戻します」

 彼は『内緒ですよ?』と、茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。

「……五十嵐くん。貴方、よく周りの人から変わってるって言われるでしょ?」

「はい、日常茶飯事です。でも、普通じゃつまらなくないですか? だから褒め言葉として受け取ってます。それに、俺の見たところ……橘さんも相当変わってますよ?」

「え? そうかな? 私、変わってる? まぁ……私も結構、変とか言われたりする事はあるんだけど」

「はい! それに何だか、【大人になりきれてない、大人】って感じがします」

「……何だか、少し馬鹿にされてる気分」

「あっ! 気分を害したのなら謝ります! ただ俺には、小説の世界に心酔している橘さんが……身体は大人でも、心はまるで純粋な少女のように思えて。……すみません」

 彼は眉を下げながら、困ったように私に謝罪をした。

「……でもね、橘さん。この世界には、美しいものなんて一つもありませんよ。だから人は、美しいもので溢れている絵画や彫刻、映画に小説など……人の手により作られた偽物の美しさに魅了されてしまうのです」

「……うん。それは私もそう思う。いつも小説ばっかり読んでるからかな? 小説の世界に憧れているし、もし自分が小説の中に入れたら……なんて、馬鹿げた事を思う事もある。この世界は、小説とは違って美しくないよね。汚いもので溢れ返っている。それに自由でもない。まるで決められたレールを、見えない何かに無理やり歩かされているような気がして……たまに疲れるんだ」

「……ほら、やっぱり。橘さんならそう言うと思いました」

 彼は私に、『だから変わり者なんですよ』と言うと、小さく笑った。

「大抵の人間は、『この世界はこんなものだ』と、割り切って生きている……現実的にね。実際問題、【有る筈がない】とわかっているものを求めるなんてしないんですよ。そんな時間があれば、男性は仕事に打ち込むだろうし、女性は結婚をしていれば、家庭を守る」

 彼は、先程とは打って変わった表情で話を続ける。そんな彼の瞳は、光を宿しておらず、まるで常闇のように真っ黒に見えた。

「そして皆……年を取って、同じように死んでいくんです。事故や病気でもしない限りね。生きてきた形が違っても……最終的には皆、同じように生かされてる事に気付くんだ」

「五十嵐くん……?」

 何だかとても苦しそうに話す彼に、私は思わず声をかけた。

 彼は突然『ハッ』とした表情を浮かべると、私の方を見て、にこりと笑った。

「……すみません、ちょっとお喋りが過ぎました。何だか暗くなっちゃいましたね! 忘れて下さい」

「……うん」

「あっ。そろそろ休憩も終わりですね! 行きましょう。教えてもらいたい事が沢山あるんです!」

 彼はそう言うと、立ち上がり、私より先にスタスタと歩いて行ってしまった。

 私は、掴みどころのない彼の背中を見ながら……彼は一体、いくつの顔を持っているのだろうと思っていた。


 ――五十嵐想。最初に見た時、彼は冴えない奇妙な男だった。

 眼鏡を外した後の彼は、明るくよく笑う青年だった。

 そして、さっきまでの彼は……どこか、深い影を背負っているような気がして、何だか少しだけ怖かった。

 ……不思議な人だ。一体どの彼が、【本物の五十嵐想】なのだろうか? 彼はまだ、他にも色んな顔を隠しているのかもしれない。

 一度考え出してしまったら、気になる事が次々と溢れ出してくる。

 どうして彼は……人通りも少なく、募集さえしていなかったこの店で働きたかったのだろう? ただ本が好きなだけなら、ここよりも本の種類が豊富な書店はいくらでもあった筈だ。

 それなのに、どうしてなんだろう? 何か理由でもあるのだろうか?

 ……深く詮索するのはやめよう。

 明日から、彼と私はバイト仲間だ。出来れば仲良くしていきたい。

 私は両手で頰をパチンと叩くと、先に店内に出た彼を追いかけ、スタッフルームを後にした。

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