夏色白書

夢空詩

夏色白書


 ――ある夏の日。

 私は不思議な出会いをした。

 それは、とても不思議な物語。

 まるで風が巡り会わせた奇跡のようだった。


 雛菊 晴乃。


***


 ただ、自由になりたかった。

 自由とはなんなのか?

 そんな事は私にもわからないけど……それでも、自由になりたかった。

 今の私にとっての自由とは、単に行きたくない学校にも行かないで、誰も知らない……どこか遠くの場所まで行く事。

 そんな、極めてしょうもないものだったのかもしれない。

 親からガミガミ怒られる事もないし、やりたくない事なんてやらなくていい。

 とにかくがんじ絡めだったこの世界から、私は自由になりたかったのだ。

 空は半分青空で、半分が曇り空。

 ほんの少しだけポツリと天気雨が落ちてきた。

 夏休みに入ったばかりのこの日。私は親に部活に行くと嘘を言って、いつもとは正反対の道を駆け抜けていく。

 梅雨明けしたとニュースで見たけれど、今日は新たな旅立ちにはちょうど良い日和だった。

 少し強めの涼しい風が私の自転車を後押ししてくれる。それがとても心地良かった。

 私は今日、私の人生を大きく変えてしまうような【何か】が起こる事を心の中で期待しながら、自転車を漕ぐ速度を速めた。

 遠いようで近いようにも見える、あの田んぼを隔てた先にそびえ立つ雑木林から、一斉に蝉の鳴き声が聞こえてくる。

 いつもなら余計に暑さを感じさせる蝉の鳴き声に、少しの煩わしさを感じるかもしれない。……しかし、今日は別だ。

 私はこの位置からでは小さすぎて見えない蝉達に向かって、大きく手を振った。

「蝉達諸君! 私は今日、君達が抜け殻から這い出してきたように、新しい私に生まれ変わるのだ! 是非とも、検討を祈っていてくれたまえ!」

 私は『はっはっはー!』と、まるで貫禄のある軍曹や隊長のように大口で笑う。

 ちらほら歩いていた学生や、日傘を差して歩くご婦人達が私の方をチラリと見たが、私はお構いなく鼻歌を歌いながら自転車を走らせた。


 自転車を走らせる事、数時間。

 スポーツ部に所属していた私は、体力には自信があった。

 二、三時間程度自転車に乗っていただけで息切れしてしまう程、やわな身体はしていないつもりだ。

 それどころか見た事もない地に足を踏み入れ、少々興奮気味の私は、胸をワクワクさせながら、この【冒険】を楽しんでいた。

 疲れなど、微塵も感じる筈がない。

 わざと見慣れない道ばかりを選んで走り続けてきたので、既に帰り道などわからなくなっていた。

 それでもいい。何とかなるだろう。

 帰れないなら帰れなくても別に構わない。

 私は、自由になりたいからここまで来たのだから。

 変なところで楽観的な私は、深く考える事なく、軽快にペダルを踏んだ。

 地上より少し高い位置にいた私は、急な螺旋状の坂道を勢いよくどんどん下って行く。

 ガードレールの向こうに見える景色は、急スピードで視界から流れていった。

 美しい街並みが見える。その向こうには、広くて壮大な海が見えた。

 ――あぁ、好きだな。こういうの。

 私は少しブレーキをかけ、出来るだけ鈍速しながら、ゆっくりと流れる景色を眺めていた。

「……私、一体何がしたいんだろう? こんな事しても自由になんてなれる筈がないのに」

 半分だけだった曇り空は、いつの間にか三分の一になっていて、青空が目の前いっぱいに広がっていく。

 白い綿菓子のような雲が、ふわふわと青い空の中を散歩しているようだった。

 お気に入りの腕時計を見ると、時刻は既に昼前を差している。これからどんどん蒸し暑くなっていく事だろう。空は綺麗だが、少し気が重い。

 まぁ、雨が降ってくるよりは断然マシだが。

 私は自転車から降りると、それを端の方に寄せ、スタンドを立てた。

 そして、目の前のガードレールを両手でしっかりと掴み、高い場所から見えるパノラマ風景を思う存分堪能する。

 ガードレールを掴んだせいで、私の手のひらは真っ白になっていた。

「人って不思議。皆、それぞれ目的があって、そうやって一生懸命生きているんだよね。……私は、ちゃんと大人になれるのかなぁ」

 ふと、無意識に口から独り言がこぼれる。

 太陽の光が海に反射し、眩くキラキラと輝いていた。

 学校になんて行きたくない。皆に合わせてばかりで毎日疲れるだけだ。

 家になんていたくない。親なんて……いつも私の話をちゃんと聞いてくれないし、頭ごなしにガミガミ怒るだけだ。

 だが、不満を口にしてもキリがない。

 こんなのは私以外の人でも、誰もが一度くらいは思うであろう事だから。

 けれど……最近よく考える。

 これから私はどんな風に大人になって、どんな自分になっていくのだろう?

 先が不安で仕方ないのだ。知る事の出来ない未来ばかり考えていても、意味がないことくらいちゃんとわかっている。けれど、考えてしまうのだから仕方がない。今の私にはどうする事も出来ず、ただ思い悩み苦しむだけ。

「あの人はもう……道を示してはくれないしね」

 私の口から深い溜息が漏れた。

 ――私には、とても好きな人がいた。本当に大好きだったんだ。

 けれど……この想いはちゃんとした形で届かないまま、いつの間にか終わってしまった。

 仕方ないよね。あの人にとって、私の存在なんて大勢の中の一人に過ぎない。

 あの人の優しさは皆に向けられたもの。私だけが特別なわけじゃない。

 そんな事、ちゃんとわかってたよ。わかってた。

 けど……あなたは気付いていただろうか?

 あなたの一言で、私がどれだけ幸せになれるかという事に。

 あなたはきっと、知らないでしょうね。

 決して届かない恋の痛みに、私がどれだけ涙を流していたかなんて。

 淡い恋心は報われないまま泡となり、空高く昇っていって、やがてパチンと弾けた。

「……会いたいな、今すぐに」

 ふと、ガードレールのずっと真下の方に目を向けてみると、小さなトンネルが視界に入った。

 車は入る事が出来ない。

 舗装もされていない。

 地面には雑草が沢山生えている。

 小さな小さなトンネル。

 ガードレールにお腹をかけて、宙ぶらりんの体制になって見ていたので、バランスを崩し、思わず『おっと!』なんて間の抜けた声が出た。

 私はガードレールを掴む手に力を込め、ゆっくりと身体を起こす。

 心地良い風が、私の短めの髪と制服のスカートをふわりと揺らした。

 私は反対の方のガードレールに回り、周囲をじっと見渡してみたが、こちら側から見る限り、トンネルの穴らしきものは見当たらない。

「……うーん。特に行く当ても無いし、行ってみようかな? けど、あのトンネル……一体どこに繋がっているんだろう? 反対側に出口は無いみたいだし」

 私は止めてあった自転車に跨ると、思いっきりスタンドを蹴り上げた。

 そして、滑るようにその坂を下り終えると、私はさっき上から確認したばかりのその場所まで急いで自転車を走らせた。


「あった!」

 私はあっという間にトンネルの前に立っていた。自転車はトンネルの横に置き、じっくりと観察してみる。

 高さは二メートルくらいだろうか? 横幅は、人三人分くらいかなぁ?

 中には電灯など設置されておらず、真っ暗。

 入り口付近に豪快に生え揃った雑草には、小さなバッタやカマキリの子供がくっついていた。

「……よし、行ってみるか!」

 不思議と恐怖などは感じない。

 それどころか、この先には一体何があるのかと好奇心に包まれていた私は、軽い足取りでどんどん奥へと進んでいった。

 膝下まで伸びた草は、トンネル内まで続いていて少しくすぐったかった。


 トンネルの中は真っ暗だったが、入り口から射し込む光で何とか前に進む事が出来た。

(……おかしいなぁ?)

 私は心の中でそう思った。

 だって、トンネルの中がとんでもなく長かったから。

 上から見た時は反対側に出口などなかったし、一直線なのだから、穴があればもうとっくに貫通していてもおかしくはない筈なのだ。

 この道の先には一体、何があるんだろう?

 少しの不安と、それを遥かに上回る期待に胸が騒めいた。

「このまま天国まで続いてたりして……! あ、でも地獄は勘弁だなぁ。毎日家でガミガミガミガミ叱られて、嫌って程地獄を見てきたんだから。な~んてね、ふふっ」

 そんな事を口にしながらクスクス笑っていると、前方から眩い光が射し込んでくる。やっと出口に辿りつけたようだ。

 私は高鳴る想いを胸に、最後の一歩を踏み出した。


「うっわぁ……!」

 そこは、広さで言えばそんなに広くはないが、一面緑に囲まれた不思議な場所だった。深い緑や明るい緑、黄色に近い緑などの植物に敷き詰められている。そして、周りは全て樹で囲まれていた。

『トンネルの中に樹?』そう思い、そっとその手で触れてみたが、見たところ本物の樹のように見える。

 全体的にその場所はほら穴のような形状をしており、目の前に可愛らしい洋風の小さな家が建っている他には、道などは一切見当たらなかった。

 どうやら帰るには、元来た道を戻るしかないようだ。

「何これ、すごい! まるで小さな森みたいだ」

 私は思わず建物の周辺をぐるりと走り回る。桃色と白が混ざり合った小さな花は、とても綺麗だった。

(一本だけなら摘んだって構わないよね?)

 そんな事を思っていた私を注意するかのように、小鳥がその花の上に着地した。

 可愛らしい声で鳴く小鳥は私が手を伸ばした瞬間、樹の上に飛んでいってしまった。

 ……花はやめておこうかな。どうやらあの小鳥のお気に入りのようだし、抜いてしまうよりもこの場所で咲いてる方がいいだろう。

 私は顔を上げて、目の前の建物をじっと見つめた。

 この家はどうやら何かのお店のようで、ドアノブに【OPEN】と書かれた横長の小さなプレートが掛けられていた。

 薄くて黄色の壁に、赤い屋根の小さな小さな一階建てのおうち。ドールハウスのように可愛らしいのだが、所々蔦(つた)で覆われているのが少し残念に思われた。

 私は興味半分で、その扉にゆっくりと手を伸ばす。

『ここは一体何のお店なのだろうか?』、胸がドキドキと激しく高鳴る。

 私はまるで秘密の隠れ家を見つけたような、そんな気持ちになり、心がウキウキと弾んでいた。

(あ、けどここがお店だったら……私、そんなにお金持ってきてないんだけど)

 そんな事を呑気に思いながらも『まぁ、なんとかなるだろう』とたかをくくった私は、金色のノブをくるりと回した。


 カランという音が聞こえ、中からクーラーの効いた涼しい風が、ふわりと私の身体を冷やす。

「いらっしゃい」

 中から優しそうな男性の声が聞こえてきた。私は慌てて、その声の主に挨拶をする。

「あ、あの……こんにちは!」

「はい、こんにちは」

 男性はクスクスと笑いながら『こちらへどうぞ』と、カウンター席に案内してくれた。

 そこにいた男性は、恐らく二十代後半くらいだろうか?

 黒髪でコバルトブルーのエプロンをつけた、落ち着いた雰囲気の男性だった。

 そして、笑うと目尻が下がりえくぼがでる。

 それがとても印象的だった。

 ……更にもう一つ。私の目を引いたもの。

 それは、お店の壁中に掛けられた沢山の絵画だった。

 思わず目を奪われてしまうような美しい風景画や、私にはよくわからないけど多分凄いんだろうなと思われる抽象画など、何点も額に入れて飾られている。

「……あの、ここは何のお店なんですか?」

 私は恐る恐る男性に尋ねてみた。

「じゃあ君は、一体何の店だと思う?」

 突然の返し技に多少驚きはしたが、私は店内をじっくり見渡して、正しい答えを導き出そうと奮闘する。

「喫茶店……?」

「じゃあ、喫茶店という事にしよう。オレンジジュースでいいかな?」

 男性はそう言うと、カウンターの中にある冷蔵庫を開け、手際良く私の目の前にオレンジジュースと手作りのサンドイッチを並べた。

 ちょうどお腹が空いていたところだ。有難い!

 私は素直に喜んで見せた。

 しかし……お金は足りるだろうか? ざっと見渡してみても、メニュー表などの金額が提示されているものは何一つ見当たらない。

「あ、あのぉ……私今日あんまり持ち合わせていないんですけど」

「お金なんていらないよ。僕の話し相手になってくれたらそれで充分」

 アティックローズの壁紙に、アンティークの置物。壁に掛けられた小洒落たランプには、小さな炎がユラユラと揺らめいていた。


 男性の名前は司郎さんといった。今年で二十七歳になるらしい。

 彼がレコードをターンテーブルの上に乗せると、針は盤の溝をトレースし、次第に音楽が流れ始めた。

 かなり古いものではありそうだが、とてもお洒落な感じの洋楽で……私は思わず目を閉じて、曲に聴き入った。

「……気に入った? これはね、恋の歌なんだよ」

「恋の……歌?」

「うん、そう。僕のお祖父さんがとてもそれを気に入っていてね。どうやら、お祖母さんとの想い出の曲だったらしいよ。お祖母さんは早くに亡くなってしまったんだけどね。お祖父さんは……それでも毎日毎日この曲を流し続けた。天国にいるお祖母さんの元まで届くようにと。……で、何度も聴いているうちに、いつの間にか僕まで好きになってしまっていたんだ。どう? 可笑しいでしょ?」

 彼は眉を下げながら、柔らかく微笑んだ。

「そのお祖父さんが亡くなってからは、僕が代わりにこの曲を天国にいる二人に送るんだ。雲の上で、二人が並んでこの歌を聴いてる姿が目に浮かぶようだよ」

 その笑顔から、彼の人柄や穏やかさが一心に伝わってきて、思わず私の頬も綻ぶ。

 素敵なお祖父さんとお祖母さんを持った彼も、こんなに素敵なお孫さんを持ったお祖父さんとお祖母さんも……みんなみんな、幸せだったのがよくわかる。

 その素敵なエピソードは私の心に深く沁み渡り、胸に優しい温もりを与えた。

「司郎さんのお祖母さんは……お祖父さんにとっても愛されていたんですね。きっと、すごく幸せだったんだろうな」

「……そうだね。僕は二人のような純粋な恋愛を今まで見た事がない。お祖母さんが亡くなる前に、ずっと手を握りながら『うんうん』と頷いていたお祖父さんの顔が今でも忘れられない。本当に優しい笑顔だったよ」

 彼の持っている優しく心地良い雰囲気は、きっとお祖父さんやお祖母さんから受け継がれたものだろう。

 私は、『彼の想いが沢山詰まったこの音色が、本当に老夫婦のいる場所まで届けばいいなぁ』と思いながら、天井を見上げた。

「あはは、ごめんね。変な話をしちゃって。……で、晴乃ちゃんはどうしてこんな場所まで来たんだい?」

「え、私……?」

 彼は頷くと、にっこり優しく笑った。

「今度は君の話を聞かせてよ」

「……私の話なんて、面白くもなんともありませんよ? ほんっとーにつまらない人間だから」

「つまらない? ……そうかなぁ? 僕は君がこの場所に現れた時から、凄く興味津々なんだけどね」

「私もこんな所にお店があるだなんて、本当にびっくりしました!」

「ふふ、そうだろう? ここには滅多に人は来ないんだよ。だから君は、とても珍しいお客さんなんだ。話を聞いてみたい理由にしては充分な筈だろう?」

「まぁ、確かに……」

「ちょうど一人で退屈していた頃だったんだ。良ければ君の話を聞きたいなぁ」

 そう言ってくしゃりと笑う司郎さんは、何となくだが……ほんの少しだけ【あの人】に似ていて、一瞬胸がドキッとした。しかしその反面、鈍い痛みが再び私の胸に襲いかかる。

 私はそんな感情を打ち消すように顔を左右にブンブン振ると、ゆっくり口を開いた。

「も〜! わかりましたよ。けど本当になんて事もない、くだらない話ですからね!」

 私が話している間、彼は静かに私の言葉に耳を澄ませ、時折小さく頷く。

 その度に揺れる前髪を掻き上げる彼の仕草から、妙に大人の色気のようなものを感じられた。

「へぇ、じゃあ君……今家出中なんだね?」

「家出なんかじゃありません。私は自由を探す旅に出てるんです!」

「ははっ、なるほどね。じゃあその、君の言う自由とやらはちゃんと見つけられたのかな?」

「それは……」

 私は思わず口をつぐむ。

「ん? どうしたの?」

「……わからないんです。考えれば考えるほど頭がこんがらがってきちゃって。私一体、何がしたいのかなって」

「まぁ、そうだろうね。自由とは奥が深すぎて、今の君には少し難しいかもしれない」

 私は何だか子供扱いされたような気がして、思わずぷくっと頬を膨らませた。

「じゃあ、司郎さんにはわかるんですか? 自由って一体、どんなものなのか」

「う~ん……そうだなぁ。とても難しい質問だ。けれど僕はね、まだ中学生の君を見ていると……『あぁ、自由でいいなぁ』って思うよ」

「私が、自由……?」

 私は開いた口が塞がらなかった。

 自由を求めてきた筈の私に、彼は【自由】だと言う。

 私は彼のその先の言葉がとても気になり、静かに耳を傾けた。

「うん。自由を求める為に、自由を探す旅に出る事が出来る君は……やっぱり、誰よりも自由な気がするよ。君の考えも行動も、全てがね。あ、でも……決して馬鹿にしてるわけじゃないんだよ? とてもね、羨ましいんだ」

「私が、羨ましい……?」

 彼は空になったグラスにオレンジジュースを注ぐと、私に優しく微笑みかけた。

「僕くらいの年齢になるとね。保身的になってしまうものなんだ。具体的な例を挙げてみると、例えば……仕事かな? どんなに心が自由を求めていたとしても、働かなきゃ人は生きてはいけない。仕事を辞めて違う場所に旅立っても、やはり新しい地で新しい仕事を見つけるだろう。僕達大人は、やらなくてはならない事、現実をちゃんと知っているからさ。僕達は社会によって生かされている。きっと、この世界はそういう風に出来ているんだよ」

「私……そんな生き方は嫌だ」

 私は俯き、小さな声で反論の言葉を述べる。

「勿論そんなの僕だって嫌さ? 出来る事なら全てを捨てて自由に生きたい。誰にも干渉される事なく、自分らしく、後悔のないように生きていきたい。……けれど、僕にはそれが出来ないんだ」

 彼は笑った。とても悲しそうに。

「だから僕は君に、今しか出来ない大冒険を精一杯楽しんで欲しいと思ってる。その結果、たとえ何も変わらなかったとしても、きっと得る物は沢山ある筈だから。――ねぇ、晴乃ちゃん? いつか【成長】が君自身を苦しめ、君の生き方を制限される日が来たとしても……その心の中だけはずっと自由でいてね。その気持ちを、ずっと忘れないで。今の君の想いはとても綺麗で、僕には輝いて見えるよ」

「自由……か」


 私は自由になりたい。

 私は、『生きる世界を間違えたのだ』とさえ思ってしまうくらいに、この人生にうんざりしていた。

 ドラマのような、小説のような……もしかしたら、そんな素敵な物語が私を待っているのかもしれない。

 流れる雲を眺めながら、そんな事を思い描き、密かに夢を見たりしていた。

 もしも生まれた世界が違ったなら……大好きなあの人と私が結ばれる可能性は、ほんの僅かでもあったのだろうか?

 あの人と二人。何かに縛られる事もなく、色んな世界を一緒に冒険する事が出来たのかな?

 美しい空を見上げ、優しい風に吹かれて、穏やかな波の音に耳を澄ます。

 高い山に登り、緑の呼吸を共に感じ、綺麗な花に心奪われる。

 満天の星空は、月の周りを華やかに飾る。

 その広い紺碧の夜空の下、私は貴方と二人で一つずつ星の数を数えてみるのだ。

 時間は無限。想いも無限。

 そうやって、ずっとずっと貴方といられたら……どんなに幸せな事だろうか。

 ねぇ、先生……大好きだよ。

 この世界に住んでいるどの人よりも、私は先生の事が大好きです。

 私は私の人生を、好きに生きたい。

 後悔するような生き方なんてしたくないの。

 残念ながら先生と私が結ばれる事はないのだけれど……それでも、この気持ちを大切にしたい。

 忘れたくないんだ。

 私は、自由になりたい。けど――

 ……私は、自由にはなれない。

 本当はわかっている。理解だってしている。

 私は一人では生きていけない。

 私が思っている以上にこの世界は残酷で、とても不条理だから。

 だから……たとえあの人と二人、こことは違う別の世界に生まれ落ちたとしても、結ばれる事など決してない。

 ――ずっと一緒にいられたら。

 そんなのは、ただの私の理想や願望に過ぎないのだ。

 いくらあの人の事を想っていても、届かない事くらい……ちゃんとわかってる。

 あの人はとても素敵で、私なんてとてもじゃないけど釣り合う筈がないのだから。

 でも……それなら、先生。

 優しくしたりしないでよ。期待を持たせるような事はしないで。

 私が好きだと伝えたら……先生はきっと、困った顔をするでしょう?

 皆に優しい先生が嫌い。優柔不断な先生が嫌い。

 そんな自分勝手なドロドロとした感情が私の中を支配して、どんどん自分が醜くなっていくのがわかる。

 まるでヘドロのようだ。その内に異臭を放ち始めるのだろうか?

 ……いつか必ず、私も大人になる。

 高校生になり、大学に行って、仕事を始めて……そして、先生じゃない他の誰かと結婚して、その人との間に子供が生まれ……幸せな家庭を築いていく。

 子供の成長と共に、私はどんどんおばちゃんになって、いずれはしわくちゃのおばあちゃんになって……そして最後には深い眠りにつく。

 それも、幸せの一種なのかもしれない。

 けれど、まだ中学生で身も心も幼く未熟な私には、そんな現状を受け入れられる筈もなく……理解なんてしたくもなくて、わざと目を背けているのに過ぎないのだ。

 そんな人生なんて、真っ平御免だから。

 私は、自由にはなれない。

 ……まるで、この世界は【牢獄】のようだ。


「……晴乃ちゃん? どうしたの?」

 突然聞こえてきた声に、私は現実世界へと引き戻される。目の前には、私を心配そうに覗き込む彼の姿があった。

「あ、……ごめんなさい。少し考え事をしていました」

「何か思いつめたような顔をしてたよ。凄く悲しそうな顔をしてた。……ごめんね。きっと僕が変な事を言ってしまったからだ」

「ううん! いいんです! 司郎さんは何も悪くないんだから謝らないで下さい」

「……うん、わかった」

 彼はそれ以上何も言う事はなく、カウンターテーブルを布巾で丁寧に拭き始める。

 私はそっと立ち上がると、壁にある絵を一枚ずつ眺めながらポツリと呟いた。

「……ねぇ、司郎さん」

「ん? どうしたの?」

「私はきっと、この店を出た後……トンネルを抜けて自転車に跨り、元来た道を辿って家まで帰っていくんでしょうね。他に行く所なんて、どこにもないのだから」

「うん……きっと、そうだろうね」

「私は一体……何の為に生きてるんでしょうか? どうして、生まれてきたのかな……?」

 ポロッと涙が一筋、私の頬を流れ落ちる。

「自由になれないのなら、このまま帰らず……ここで消えてしまいたい。いつか死ぬ日の為だけに生かされている、ロボットのようにはなりたくないの! 大人になんかなりたくないんだよ! それにね、考えたくなんてないのに……先の事ばかり考えてしまうの。『いつか私の家族が死んでしまったら、私はその悲しみに耐えられるのか?』、『今私が大切にしてる宝物や想い出の品は、私が死んだら一体どこにいってしまうのか?』……ほんと馬鹿みたいでしょ、私って。……ねぇ、司郎さん。私は幸せになれるのかな? そもそも幸せってどんなものなのかな? 今の私にはわからないよ。私、大人になるのが……凄く怖いんだ」

「……じゃあ、大人になるのをやめてしまえばいい。たとえ君が望まなくても、身体はどんどん大人になっていくだろう。けれど心の中までは、君以外の誰も支配する事なんて出来ない。……歯向かってごらんよ? 抗ってしまえばいい。君には君だけの人生があるのだから。どうするかは全て、君の【自由】だ」

 ――彼の言葉が心に響く。どうするかは、私の自由。

 私……決めてもいいんだ。自分の道。自分のしたい事を。

「……ふふ、あはは! 司郎さん、さっきまでと言ってる事が全然違うよ~。さっきはまるで、大人になる事からは決して逃げられない、みたいな感じだったのに!」

「確かにその考えは変わっていない。けれど、きっと……君の言葉に少なからず感化されたんだろうね」

 司郎さんは扉を指さし、私にこう告げる。


 ――生きろ、少女よ。赴くままに。


「その先に何が待ち構えているかはわからないけれど、きっと君がこれから生きていく道の分岐点となるだろう。……見守っているよ。ずっとここで」

 優しく笑う司郎さんの顔はとても穏やかで、見ているこちらまで笑顔になれた。

 先程注がれたオレンジジュースに手をつけると、グラスの中でカランと氷が動いた。

 甘いような、少し酸っぱいような……そのオレンジジュースの味は今の私に相応しい、とても優しい味だった。

 誰も私を止める事なんて出来ないんだ。なら私は、今の私自身と生きていきたい。精一杯、自分の心と向き合っていきたい。

 今の私がどうであれ、過去の私がどうであれ……未来の自分を創り出せるのは私だけ。

 私は……

 未来の私は……

 きっと、誰よりも自由なんだ。



***


「ん……っ」

 緑の草花が優しく私の頬をくすぐる。ちょっぴり痛いような、くすぐったいような……そんな感触。

 草の、緑の匂いが何だか妙に心地良くて、私はゆっくり瞼を開く。

「え……あれ? あれれ? 私、もしかして寝ちゃってた?」

 私は起き上がり周りを見渡した。目の前にはトンネルの入り口があり、端の方には私の相棒の赤い自転車が止められている。

 少し遠くの方からは、車の走行音や踏切の鐘の音がひっきりなしに聞こえてきた。

「……どうして私、こんな所で?」

 えっと……思い出せ、私。確かトンネルを歩いて奥まで行ったら行き止まりで、ここまで引き返してきたんだよね。で、気がついたらそのままここで寝ちゃってたと。

「うわっ……正真正銘の大馬鹿野郎だよ、私」

 砂を払いゆっくりと立ち上がると、スカートの上から数匹、バッタの子供が跳ねていった。

「わっ! ……もう! 驚かさないでくれますか? 小さな小さなバッタくん?」

 バッタの子に話しかける自分自身が痛くもあり、少し可笑しくて、私は小さく笑った。

 行きとは違い、頭も心もさっぱりしている。何だかとても清々しい気持ちだ。

「あ、大変! もうこんな時間! 早く家に帰らないと、お父さんとお母さんに怒られちゃう!」

 急いで自転車に前に立ち、手を触れた瞬間……風がふんわりと柔らかく舞い、私の髪をくすぐるようにそっと揺らした。


 ――見守ってるよ。ずっとここで。


 風に乗って、そんな優しい声が聞こえてきた気がしたけれど……周りには誰もいない。多分、気のせいだろう。


 私は自転車に乗って走る。全速力で。

 適当に走ってきてはみたけれど、案外何とかなるものだ。帰り道は、風が教えてくれる。

 行きとは違う、逆からの風景を眺めながら……私は色んな事を思い浮かべていた。

 ――うん。やっぱり、ちゃんと気持ちを伝えよう。言えずにウジウジ悩んでいるなんて、私らしくない。

 自信を持て、私! 好きになった事に、何の後悔もないのだから。気持ちを伝えて……ちゃんと先生から卒業するんだ。

 それからまた、始めればいい。

 私の、たった一度しかない人生を。

「よしっ! ウジウジせず、私なりに頑張って生きてみよう。行きはあんなに悩んでいたのに、帰りはこんなに前向きになれるなんて……何だか素敵な魔法にでもかかったみたいだ」

 けれど……この晴れやかな気持ちと共に、ほんの少しモヤモヤとしたものを感じるのは何故だろう?

 何か大切な事を忘れてしまっている気がする。

 私は違和感を感じつつも、取り敢えずペダルを漕ぐ速度を速めた。


「やっと家が見えてきた~!」

 この坂を登り切れば我が家だ。朝早くからこの大冒険は始まっていたから、実際にはちょうど部活が終わり帰宅したくらいの時間だろう。両親はきっと、この小さな反抗を一生知る事もない。

 見方を変えてみれば、両親がどれだけ私の事を心配して、叱っていてくれたのかが今更ながらによくわかる。私は今も、少しずつだが成長しているのだ。

 これからは、少しだけ親孝行でもしようかな? そうだ! 今日の夕飯は私が作ろう。きっと、お父さんもお母さんも驚く筈。

 その顔を見られる事が今はとても楽しみだ。

 その他にも友人関係の事や将来の事、色々と考えてみたけれど……悩む前に、まず自分が出来る精一杯の事をしようと思った。きっと、私が持っている可能性は未知数なのだから。

 今はまだ空は青いが、すぐにオレンジ色の夕焼けが辺りを包み込み、あっという間にいつもと変わらない夜を連れてくる。

 そう、オレンジ色の――


「あっ……!」

 私は思わず自転車を止める。

「司郎……さん……?」


 見上げたお日様が、いつもより数段輝いて見えた。

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