番外編 第5話

五 甘い誘惑の果実


 ガラガラと引き戸を開ける音が聞こえる。

「お? やっと戻ってきたか、にぃちゃん! 随分遅かったなぁ。どうだ? ねぇちゃんは無事に戻る事が出来ただろ?」

 俺は、部屋の中から男に声をかける。……しかし、仲間がいたとは助かったぜ。これで俺の仕事もちぃーっとは楽になるってもんだ。

 ここと元の世界は、若干だが時間軸がずれている。ねぇちゃんが気を失ってたとしても、もう既に目ぇ覚まして森を出ているだろうよ。騙くらかして、神樹の餌にしちまえば良かったのに……勿体ねぇ。

 しかし、なかなか上がってこねぇなぁ。

 俺はよっこらせっと腰を上げると、土間にいるであろう男の元へと向かった。

「おい、にぃちゃんどうしたよ? 早くこっちに上がってこいよ……って」

 ――俺は一瞬言葉を失った。

 男の手には、光り輝く杖のような棒。

 それは、俺が普段からよく目にしているものであった。

 男は棒を強く握りながら、俺の顔を睨みつけるようにジッと見つめた。

「……お、お前! それ……!」

「コレは返してもらうから」

 そう平然と言いやがるこいつに、俺ははらわたが煮えくり返ったみてぇな感覚に襲われる。そして、身体中の血管が浮き出るくらいの怒りが全身を駆け巡った。

「な、なんて事しやがんだ! てめぇ……! 人がせっかく良心で出口を教えてやったってのに……ふざけるな! それを外しちまったら、今後、元の世界に楽に行き来が出来なくなるじゃねぇかよ⁉」

「知るか。そんなの俺の知った事じゃない」

 ――ああ、そうだ。

 こいつはこんな話し方をする奴だった。よく思い出したよ。

 何年も前の話だったし、今まで何百人もの人間をここに連れてきたんだ。つい失念してしまっていた。

「……あの女の前では、いい子ちゃんの仮面でも被っていたってわけだ? 聖人君子ぶりやがってよぉ……そんなに嫌われるのが怖かったのか⁉」

「……黙れ。今からお前を、神童のところに連れて行く」

 ――こいつ、神童の回しもんか⁉

 ……クソ! とんだ厄病神だ!

「あんたはもう逃げられない。……早くしろ」

 あ~、……うぜぇ。

 うぜぇ。

 うぜぇ。

 コイツ、邪魔だなぁ。ぶっ殺してやろうか。

 ――いや、待てよ? ……そうだ。ひひっ。

「……そうはいくか。その前に俺がお前を、神樹の場所に連れて行ってやるよ!」

 俺は急いで土間の隅に置いてあったバットを手に取ると、男の頭を目がけて思いっきり振り落とした。

「くっ……!」

 男は危機一髪で避けたが、体制を崩して尻餅をついた。

「どうしたぁ? あの威勢の良さは一体どこにいったんだぁ? ……大丈夫。神樹に身体を喰われるだけだ。なーんも怖い事なんてねぇぞぉ? 寧ろ、全てから解放されるんだ。この俺に感謝してもらいてぇなぁ? まぁ、取り敢えず気ぃ失ってもらわにゃならねぇから、ちょっとばかしイテェと思うが……我慢してやってくれや?」

「クソ野郎が」

「これがチェックメイトってやつかぁ? がはははは! じゃあな!」

 俺は再びバットを高く上げ、男の頭を目がけて素早く振り落とした。

 ――その時、何処から現れたのか、狐面のガキがいきなり俺と男の間に現れ、バットを片手で止めた。

「やれやれ、この世界で争いはやめてもらえませんかね?」

「てめぇ、神童……!」

「神童」

「……大丈夫ですか? ここは私に任せて、貴方は下がっていて下さい」

「神童。これを!」

 男は神童に光る棒を投げる。神童は振り落とされたバットを支える手とは逆の手で、それを受け取った。

「……ありがとうございます」

 俺はバットに力を込めるが、一向に動きやしない。……畜生め、ガキのくせに何て馬鹿力だ。

「ようやく見つけましたよ。……成る程。道理で今まで見つからなかったわけです。……神樹め、要らぬ知恵を」

 神童はバットを奪い、放り投げると、俺に向かって手をかざした。

 すると俺の胸ポケットから、神樹に託された樹の幹で作られた丸い実が、神童の手に引き寄せられるように飛び出し、宙に浮く。

 神童が開いた手をグッと握ると、実は木っ端微塵に砕け散った。

「これでもう、貴方がこの世界のどこにいても私は貴方を見つけられる。外に逃げる事も出来ない。私がそれを許さない。……さぁ、覚悟はいいか、罪人よ」

 神童から、もの凄くドス黒いオーラを感じやがる……狐面の下に隠された表情なんかは、見なくてもわかる。

 ――こりゃ、やべぇな。分が悪りぃ。


「悪りぃが、俺はお前にどうこうされるのも影になるなんてのも、まっぴらごめんでね。それによぉ、俺には神樹がついてるんだ。てめぇなんかなぁ? 神樹の力に比べたらなぁ? 足元にもおよばねぇんだ! 調子に乗ってんじゃねぇぞ!」

「……ほう、成る程。ではどうなさいます? 神樹と共に、この世界と私を潰してみせますか? どうぞご自由に」

「……チッ、そうしてやるよ! 吠え面かくんじゃねぇぞ⁉」

 俺は引き戸を開け、表に飛び出した。


***


 ――クソッ! ガキの分際で年長者に偉そうな口聞いてんじゃねぇよ!

 あの男も……上手く仲間に引き入れようと思ったのに、助けてやるんじゃなかったぜ! クソッ、クソッ、クソッ!

「神樹の力を持ちさえすりゃ、お前らなんて一捻りだ! 覚えてやがれ!」

 俺は、神樹の場所まで必死に走った。……って言ってもよ? たるんだ腹に老い始めたこの身体じゃ、走ってるなんて言えねぇかもな。……競歩だ、競歩。

 この世界の力で全く疲れはしねぇが、早く走る事も出来ねぇ。この身体に嫌気がさす。

 あぁ、イライラするぜ。……神童め。ふざけやがって!

 俺を誰だと思ってやがる。俺は神樹の、神の代行だぞ⁉

 たかが神の使い如きが、しゃしゃり出てくるな! 目障りなんだよ!

 なのに……なのに……!

「何で俺は今、尻尾巻いて逃げ出してんだ? ……畜生!」

 どうしてこうなった?

 俺は確かに懺悔してここに来た筈なのに、いつの間にか後悔の念などは消え去り……この世界に、馬鹿な奴らを導くのが楽しくなってきたんだ。

 ――あの実だ。

 あの実を神樹に無理矢理喰わされてから、何だか全てがおかしくなった。

 まるで俺の中に、もう一人の俺が生まれたっつーか……いや、違うな。元々俺の中にあった本当の自分ってヤツを解放してくれたんだよ、あの実は。

 それを喰った俺は、何だか悩む事が馬鹿らしくなった。あいつらが死んじまったのは俺のせいじゃない。そういう運命だったからだ。

 ようするに、一人助かった俺は神に見初められた存在だという事だ。

 ――俺は支配者になった気がした。

 俺の言葉一つで、いくらでも人間をここに引き寄せる事が出来る。

 俺は選ばれた人間なんだ。特別なんだ。

 そう考えりゃ、笑いが止まらねぇ。


 三十代後半。俺の不注意から運転事故なんて起こしたせいで、カミさんと息子を失った。

 そりゃ悔やんださ。どうして俺だけ生き残ってしまったんだ、ってな。

 カミさんは俺より三つ上で、普段からガミガミ煩く、煩わしくも思った事もあるが……優しくしっかりした良い女だった。

 自慢の一人息子は来年から中学で、スポーツが得意なヤンチャ坊主だった。悪さばっかりのあいつに、よくゲンコツをかましてたよ。

 でも、本当に可愛い奴だった。

 俺は俺の家族を、心の底から大切に思い、本当に愛していたんだ。

 事故を起こした後、俺は捕まったのかといえばそうではない。

 たとえ死亡事故を起こしても、飲酒、無免許等が絡んでいなく自分の過失だけなら……状況にもよるが、必ずしも運転手が、自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律で、逮捕されるとは限らないらしい。

 俺は現場の警察官の状況判断にもより、処罰されずに済んだ。

 皮肉な事に、それがなお一層……俺を激しく苦しめたんだけどよ。

 とにかく俺は、生きる気力を失った。

 情けなく、みっともなく……三日三晩泣き続けた。

 もういないってのに、癖になっちまってるんだか……つい話しかけちまうんだよ。

 嫁に先立たれると、男は駄目になるとよく聞くが、それは当たっている。

 それに……親より先に死んじまった、まだまだ輝ける未来があった息子の事を思うと、俺は自分の不注意さを悔やみ、ひたすら責め続けるしか出来なかった。

 どうしようもなくなった俺は、当たり前のように死に場所を探し彷徨った。

 適当な駅を降り、まるで廃人のようにひたすら歩き続けた。

 その時……どこからか声が聞こえたんだ。


『コッチニオイデ』と、囁く声が。


 俺は声に誘われるがまま、森に入った。

 その時、神童はいなかった。神樹は神童がいない隙を狙って、俺を呼び寄せたんだろう。

 俺の目の前にもの凄くでかくて歴史を感じさせるような大樹が、静かに立っていた。

 そして、その樹は……俺の脳裏に直接語りかけてきたんだ。


 ――ソノ苦シミカラ解放サレタイカ?

 全テ忘レ、幸福ヲ手ニ入レタイト思ワナイカ?

 サスレバ我ノ命ヲ聞ケ。

 我ガ、貴様ヲ救ッテヤルゾ……


 背筋がゾッとするほどの、低くておぞましい邪悪な声が頭の中に響き渡る。俺は最初、カミさんと息子の死でついに頭がおかしくなっちまったんだなぁ……なんて思いながら、ボーっとその場に立ち尽くしていたんだ。

 ――けれど、樹は語り続ける。次第に俺は『これは幻聴じゃない』と気が付く。

 いつしかその声は、俺の脳を完全に支配していた。

 俺は両目から水が垂れ流しになっているのを、まるで他人事のように感じながら、ただただその声に耳を澄ませた。


 ――苦シイノカ? 苦シイノダロウ?

 苦シイナラバ、ソノ実ヲ喰エ。


 俺は樹の枝にたった一つだけ、実がぶら下がっているのに気付く。赤黒く変形したその実は、見るからに怪しげで奇妙で禍々しい。

 一見、毒でも入っていそうにも見える。

 苦しいならば、その実を……

 いくら俺でも、そんな得体の知れない物は食べられない。

 だから俺は、その実をただじっと見つめていた。

 痺れを切らした神樹が唸り声をあげる。闇をも引き裂くような激しい風が、荒々しく草木を吹き倒す。あまりの強風に足がよろけそうになった。

 ――突然、俺の身体が空高く舞い上がる。

 禍々しい実がいきなり枝から離れ、まるで意思を持ってるかのように口内に飛び込んできた。

 く、苦しい! 俺の喉が実を飲み込む事を拒絶する。しかし、見えない何かが、俺の喉に実をグリグリと強く押し込んだ。隙間から胃液が吐き出される。

 喉につっかえて息が……! 窒息してしまう!

 俺は口内に溜まった唾液で、その実を必死に飲み込み、流し込んだ。

 赤黒い実は食道を伝って、無事、胃の中に到達したようだった。

 俺が実を飲み込んだのを確認したのか、俺の身体は地面に強く叩きつけられた。

 俺は涙と汗と鼻水まみれで顔がぐちゃぐちゃになっていて、あまりの苦しみと恐怖に失禁してしまっていた。


 俺は何を飲まされたんだ?

 あの気味の悪い実は、一体……


 そう思った瞬間、俺の身体に変化が起きた。感情が高揚し、激しく恍惚する。

 まるで麻薬のような凄まじい快感が、俺自身に襲いかかってきた。俺の細胞の全てが進化をしたように、著しい成長を遂げる。

 俺は頭を抱えてその場に倒れ込んだ。

 痛いからじゃない。苦しいからじゃない。

 悲しいからじゃない。辛いからじゃない。

 ただただ、気持ちが良いからだ。

 全てから解き放たれるような感覚に、俺は一切逆らう事なく、ゆっくりと身を委ねた。


 ドウダ、美味デアロウ? 生命カラ作ラレタ実ノ味ハ……

 モット欲シイカ? モット喰イタイカ?

 ナラバ我ニ仕エヨ……我ノ手足トナリ動ケ。

 貴様ニシカ出来ナイ事ダ。

 未熟デ弱ク、惨メデ憐レナ人間ヨ。

 貴様ハ我ニ選バレタノダ。

 存分ニ新タナ生ヲ楽シムガ良イ……


 死神の声が聞こえる。あの実はきっと、禁断の果実。人知を超えた、呪われた実だ。

 けれど、俺は既にあの実の味の虜になってしまっていた。

 悪魔のような樹の声が、今ではとても心地良い。

 もう、カミさんと息子なんてどうでもいいや。あいつらには運がなかったんだ。そう、死んでしまう運命だったんだよ。

 奴らは、それに打ち勝つ強さも抗う術もなく死んでいった敗者なのだ。

 しかし、俺は違う! きっと俺も、本当は一緒に死ぬ定めだったんだ。……けれど生き残った。神は、俺に味方したのだ。

 俺はゆっくり顔を上げた。

「へへへ、ありがとよぉ! 俺に気付かせてくれて……さぁて、俺は一体何をすればいい?」

 俺はあの日、神樹の一部となった。


「――そうして今、俺は此処にいるってわけだぁ……なぁ、神樹よ?」

 ようやく神樹の元に辿り着いた俺は、神樹にそう語りかけたが、奴は何も言わず静かに俺を見下ろすだけ。

 俺はそんな神樹に対し、苛立ちを隠せず、荒々しい言葉をぶつけた。

「もうわかってんだろ⁉ 神童だよ! あいつに見つかっちまった! なぁ、二人であいつをぶっ殺そうぜ。で、あんたがこの世界を牛耳るんだよ! この世界の全てを俺達のもんにすんだよ!」


 ――ちりん。


「ふふふ……」

 上の方から、クスクスと笑い声が聞こえる。俺は急いで、樹の上を見上げた。

 そこには、枝に座り、ブラブラと足を揺らしながら、楽しそうに笑っている神童の姿があった。

「随分と遅い到着でしたね。待ちくたびれてしまいましたよ。私、一足先にここにきて、神樹と少々お話をしておりました」

『ねぇ、神樹?』と言いながら、奴の葉を優しく撫でる狐面。

「てめぇ……神童!」

「いやぁ、しかし本当に愉快です。貴方、とても面白い方ですね。私、先程からずっと、笑いが止まらないのですよ」

 狐面は、わざとらしく鈴の音色をちりんちりんと鳴らすと、ケラケラと笑いながら足をばたつかせた。

「馬鹿にしやがって……」

「ぶっ殺す? 牛耳る、ですか? ふふ、可笑しい。――やってみて下さいよ。私は逃げも隠れもしませんよ。さぁ、早く」

 狐面は樹から飛び降りると、ゆっくり俺に近付いて来た。あまりの気迫に俺は……一歩、また一歩と後退る。

「どうされたのです? 震えてるみたいですが? 相手は貴方のいう糞ガキですよ? 何も恐れる事などないじゃないですか?」

「し、神樹! 早くこいつを殺っちまってくれよ! あんたなら簡単な事だろう⁉」

 俺の言葉に神童は少し動きを止め、後ろに振り返ると、神樹をじっと見つめた。

「神樹よ、貴方はどうしたいのです?」

 神童の問いかけに神樹は沈黙を貫く。けれど、神童は気にする事なく話を続けた。

「さぁ、愚かな神樹よ。ならば、選ばせてあげましょう。その男と組んで、この世界と私を……真の意味で敵にまわしますか? それとも……今すぐその男の罪を喰らい、今まで通り、この世界で私達と共に生きますか?」

 神童は再び宙に浮かび上がり、何も言わない神樹に近付くと、乱暴に奴の枝をへし折った。

 神樹はけたたましい唸り声を上げ、著しく葉を揺らした。

「……おや、どうしました? 早く答えて下さいよ? 私、待たされるのがあまり好きではないのです。それに……こんなに貴方にとって条件の良いお話、そうはないと思いますが?」

 神童は、口元に手を添えてクスクスと笑う。

 神樹は、さっきまでの叫びがまるで嘘かのように、シンと静まり返っていた。

「……おい、おいおい! 神樹、お前まさか迷ってなんかいねぇよな⁉ 俺ら今まで長い間、上手くやってきたじゃねぇかよ⁉ おい、てめぇ……聞いてんのかよ!」

 俺は声の限り叫んだ。しかし、その返事を返してきたのは神樹ではなく、目の前にいるチビでいけ好かねぇガキだった。

「えぇ、神樹は全く迷ってはいませんよ」

「……じゃあ!」

 その時、四方八方から伸びる木の枝に捕らえられ、俺はあっという間に逆さ吊りにされた。硬く頑丈な木の枝が俺の足や、首などにきつく巻きつく。

「……お、おい。嘘だろ⁉」

「嘘ではございません」

 神童は俺に背を向けた。

「神樹は貴方を喰らう事に決めたようです」

「う、うわああああああああぁ! やめろ! やめてくれぇ!」

 神樹は、樹の中心部に真っ暗なブラックホールのような【口】を生み出し、俺をそこに放り込む。それは、俺がいつも見てきた風景だ。

「やめ……」

 神樹の口内の中、俺は凄まじい力によって、肉体から影を引き剥がされた。

 残った肉体は、鋭い歯により、バラバラに噛み砕かれる。きっと、飲み込みやすいようにだろう。

 それとも……消化しやすくする為、だろうか?


 ――痛くはない。

 苦痛ではない。まるで無に還ったようだ。

 分離された影の方に神経が通っているのか?

 いや……そうではない。

 神経など、もはや俺には存在しないのだ。

 どうしてだ……? 涙が止まらねぇや。

 俺はずっと孤独だった。だから、神樹に縋りつく事でしか生きていけなかったんだよ。

 悲しくて、辛くて……忘れてたなぁ、こんな感情。


 ――あぁ、意識が遠ざかる。


 けど……悪くねぇかもな。

 目が覚めた時、きっと……

 俺は全ての苦しみから

 解放されてるんだから。


「……悲しくも愚かで軟弱な人間よ。己の罪を全て神樹に預け、貴方が再び、嘘偽りもない笑顔で笑えるように……私は切に願おう」

 最後に、神童の声が聞こえた気がした。


***


「ふぅ。終わりましたか」

 神童の視線の先には、影となった大山鴈治郎の姿。

 その影はどこに誘われるのか、目的地も定まらぬまま、この場を後にする。

 神童は狐面を外し、鋭く樹を見据えた。

「……神樹。懲りない貴方の事だ。きっと隙あらば、同じ事を何度も繰り返すだろう。しかし」

 神童は先ほど折った神樹の枝を、まるで墓標のように地面に突き立てた。

「次はないぞ……覚えておけ」

 神樹はまるで意思を持たぬように静観し、神童の言葉を静かに聞き入れる。

 神童は墓標の先端に狐面をかけると、先程とは打って変わったように、優しく神樹に語りかけた。

「この世界に訪れた者を利用し、解放するでもなく、更なる苦しみを与えようとする事を、私は絶対に許さない。……わかりましたね?」

 神樹は神童の頭に沢山の葉を散らす。風はそれを優しく揺らし、木の葉は神童を柔らかく包み込んだ。

「……良い子です」

 神童は笑う。とても優しく愛くるしい表情で。

 大人のような子供のような、不思議な魅力を持つ彼は……この世界と同様に、神樹を愛していた。

 ――彼らは一つの家族なのだから。


 ゆらゆらと木の葉が舞う中、神童は神樹に近付き、果実を一つもぎ取った。神童は光を持たぬその瞳で果実を見つめ、それを齧る。

 神童の顔は一瞬のうちに歪み、苦渋の表情を作る。少年は口に含まれた実の欠片を地面にペッと吐き出した。

「やはり不味いです。……一体、これの何が良いのかが私にはわかりません」

 神童は自身の頭をポリポリ掻くと、残りの実を神樹に喰わせた。

 神樹は嬉しそうに懸命に葉を揺らす。すると、先程神童に折られた枝の根元が素早く再生を始めた。

 神童は呆れたように溜息を吐く。

「まったく貴方は……このような味にここまで魅了されているようでは、きっとまた同じ事の繰り返しですよ? 本当に救いようが無い」

 神童はふと墓標にかけられた狐面に目を移した。

「この狐面も随分と古くなりましたねぇ。そろそろ新しいモノに変えましょうか?」

 神童は目を閉じ、幾千もある獣の面を想像する。

「……うーむ。何だかしっくりきませんねぇ。やはり私には、この狐面が一番合っているという事なのでしょう」

 神童が狐面を手に取り、それを被ると、墓標の目印にと突き立てられた太い枝は、淡い光を放ちながらゆっくりと消え去った。

「……次は五年後、ですね? 斎藤愛子さん。その日を楽しみにしておりますよ」

 神童は小指をじっと見つめ、そっと口ずさむ。

「指きりげんまん嘘ついたら針千本――」

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