第7話


 ようやく、俺とカズトが住むマンションに辿り着いた俺は、とにかく早く横になりたい一心でポケットから鍵を取り出し、素早くドアを開ける。

 部屋の電気は消えていた。カズトの友人が来ているとは到底思えないくらいに、家の中は静まり返っている。

 ――おかしいな。静か過ぎる。

 カズト逹はどこかに出かけたのだろうか? 少し気になった俺は、カズトの部屋の前に立った。

「……? 何だこれ?」

 ドアノブには、輪っかにくくられたロープが引っかかっていた。ロープはノブからドアのてっぺんに伸びており、裏側にまで続いている。

 一瞬にして血の気が引いた。

 これってまさか……違うよな、そんな!

 俺はドアを開けようとしたが、思い留まった。俺の考えが正しければ、ドアを開けてはいけない。

 俺はすぐに、ノブにかけられていた輪っかを取り外した。

 輪っかはスッと上に引き上げられる。カズトの部屋から、大きな音と激しく咳込む声が聞こえてきた。

「カズト!」

 俺は急いでカズトの部屋に入った。

 苦しそうに咳込むカズト。首に残る痛々しい跡に、思わず目を背けたくなった。

「なぁ、お前……何やってるんだよ? なぁ!」

 俺はカズトの肩を思いっきり揺さぶった。

「何だよ、これ……今日来るって言ってた友達にやられたのかよ⁉」

「……違う、自分でやったんだよ。友達なんか来ないよ、本当は」

「はぁ⁉ お前、何考えて……」

「兄さん、ちょっと水貰えるかな……?」

「……あ~! もう! ちょっと待ってろ!」

 俺は急いで冷蔵庫を開け、グラスに水を注ぐと、カズトの手にそれを握らせた。

「ありがと……兄さん……」

 カズトはひんやりとした水をゆっくり口に含むと、ごくりと音を立てて飲み込んだ。

「……おい、少しは落ちついたかよ?」

「うん……そうだね」

 カズトは無気力な様子でそう答えた。

 ……誰だ、【これ】は。

 俺は、こんなカズトを知らない。

「お前……何で急にこんな事をしでかしたんだよ?」

「……別に急にじゃないよ。毎日考えていた事だ。もう疲れたんだよ、色々とね」

 カズトの瞳は薄暗くどんよりしていて、全くと言っていいほど、光を感じられない。

 青白く、生気のない顔。お前……一体、いつからそんな顔をするようになった?

「……兄さんは、いつも俺の事を羨ましいだの悩みがないだの言っていたよね? でもさ……この世の中に、悩みのない人間なんているのかな?」

「えっ……?」

「もしそう見えていたとしたら、それはきっと……誰にも見せないように、見えないように無理を重ねて、『死にたい』だなんて口にするよりも、先に死んでしまうタイプの人間なんだろうね。……俺は」

 ――そうだ。カズトの言う通りだ。

 俺は何かあると、すぐ死にたいだの消えたいだのと口にした。

 けど、俺は結局生きている。ただ、誰かに構って欲しかっただけだ。

 ……けど、カズトは俺が帰ってこなかったら間違いなく死んでいただろう。

(何はともあれ、偶然でもカズトを助けられたんだ。こんな事……やめさせないと)

 俺は出来るだけ言葉を選び、優しくカズトに話しかけた。

「……カズト、しっかりしろよ。どうしちゃったんだよ、お前? 悩みがあるなら、俺で良けりゃあちゃんと聞くからさ! だからもう、こんな事は……」

「ねぇ、兄さん。どうして帰ってきたの? どうして邪魔をしたの? やっと解放されると思っていたのに。……そうだ、兄さん。責任取ってよ」

「せ、責任ってなんだよ」

「もう一度、俺を吊るしてくれないか?」

「おい……お前、何言って……」

 カズトは、『別に殺してくれと言っているわけじゃないよ』と言い、言葉を続けた。

「兄さんはこのまま部屋を出て、ロープをさっきのようにノブに引っかける。絶対外れないようにしっかりとね。そして、玄関から普通に外へ出るんだ」

 ――自分ですると、ノブから輪っかが外れて、結構失敗しちゃうんだよね。

 そう言って、カズトは静かに笑った。

「兄さんは今日、うちに帰ってこなかった。何も見てなんかいない。何も知らない。俺とも、朝以降会ってはいない」

 勝手な事ばかり口にするカズトに対し、俺の怒りが頂点に達した。

「お前いい加減にしろよ! 馬鹿な事言ってんじゃ……!」

 大声を出した瞬間、目の前がグラリと一回転する。

 ――倒れそうだ、吐き気がする。

 こんな大事な時なのに、俺の身体は正常に機能してくれない。

「兄さん……調子が悪いの?」

「……あぁ、そうだよ! 具合が悪りぃから帰ってきたんだよ! だからこんな話、さっさと終わらせてゆっくり眠らせてくれよ? なぁ、カズト……」

「……ごめん、兄さん。それは無理だ。今日じゃないと駄目なんだよ」

 何故か今日にこだわるカズト。……どうしてだ?

 何か理由でもあるのだろうか?

 必死にその理由を考えようとするが、熱によって上手く頭が働かない。視界が若干ぼやけ始める。何とか意識を保てるように、俺は下唇を強く噛んだ。

「わかって欲しい。俺は今日……この世界から消える」

「……わかりたくねぇな、そんな事は」

「何故? 兄さんは自死に関して肯定派だった筈だ」

 やはりカズトには、何でもお見通しだったようだ。

 けど、今は……

「俺は、お前に死んで欲しくないし、片棒を担ぐのもごめんだよ」

「俺の事、邪魔だと思っていたのに?」

「……あぁ」

 カズト相手に隠しても無駄だと思い、俺は素直に頷いた。

「……何を言われても俺の気持ちは変わらない。兄さんが手伝ってくれなくても俺は死ぬから。ただ……失敗すればするほど、苦しむ時間が増えるだけ。……兄さんは、俺が無駄に苦しんでもいいの?」

「何だよ、それ……脅しのつもりかよ?」

「……違うよ。俺は出来るだけ早く、確実に死にたいだけだ」

 ふぅと一呼吸置いてから、カズトはゆっくり口を開いた。

「そして、兄さんは……俺になればいい」

「え……?」

「なれるよ、兄さんなら。……俺に」


 ――オレガ、カズトニナル?


 その言葉は、俺の心を激しく揺さぶった。


 ――ホンモノノカズトガイナクナッタラ、オレガホンモノノカズトニナレル?


 死んだような目で、静かにジッと俺を見つめるカズトの後ろに……夢の中のアイツが、もう一人の俺が立っていた。

 奴は不気味なくらい口角を上げ、気持ちの悪い笑みを浮かべながら俺に語りかけてくる。


 ――これはチャンスだ。

 お前が本物の森野一人になる為のな。


 カズトには、もう一人の俺の声は聞こえていないようだった。


 ……見てみろ、カズキ。カズトは死にたがっている。お前にそれを止める権限なんてない。

 好きにさせてやれよ? どうせお前が何をしてもしなくても、こいつは死ぬ運命だ。

 こいつには死神が取り憑いているからな。今か今かと、こいつの魂を喰らおうと待ってやがる。

 お前……兄貴だろう? 弟の最後の頼みくらい、聞いてやれよ。

 どうせ苦しむなら、一回で終わらせてやるのが仏心ってもんさ。

 そしてお前は、正真正銘【森野一人】になるんだ。

 お前はもう……偽物なんかじゃない。


 もう一人の俺は俺に近付き、耳元で甘く誘惑する。まるで、何かの呪文でもかけられているようだ。


 ――俺はカズトになる。

 ――俺がカズトになる。

 俺は、カズトになりたい。


 俺の心は完全に支配されていた。カズトに死神がついているのなら、俺についているのは間違いなく悪魔だ。

 今の俺には悪魔を振り払う力もなければ、打ち勝つ強ささえも持ち合わせていなかった。

 ただ流されるまま、悪魔の言葉に耳を貸した。


「兄さん……どうしたの? さっきから、ボーっとして」

 カズトの声で我に返る。悪魔はもういなかった。

 あいつは、俺が生み出した幻だったのか?

 それとも、熱のせいで頭がおかしくなっていただけなのか?

 アレが俺の中に巣食う本心なのかどうかは、俺にだってわからない。

「……兄さん。これ、受け取ってくれるかな?」

 カズトは自分の机の引き出しから一冊の古びた手帳を取り出すと、そっと俺に差し出した。俺はカズトから、その手帳を受け取る。

 ……あの時の、カズトの手帳だ。

「自分なりに色々調べてみたんだ。それを記録してる。……ただの絵空事に過ぎないけどね。兄さんに持っていて欲しいんだ」

 そう言うと、カズトは静かに話し始めた。


 ……ねぇ、兄さん。俺さ、何度も同じ夢を見るんだ。

 俺は一人、誰もいない世界にいて……そこで世界の全貌を眺めている。

 その中で、俺はよく姿を変えた。


 時には風になり、自由に舞い……

 時には火になり、情熱的に踊り……

 時には水になり、誰かを労わり……

 時には土になり、全てのものに優しく……


 樹のように強い根を張り、空のように広い心で、太陽のように輝くんだ。


「こんな事を思う俺って……やっぱり、どこかおかしいよね?」

 カズトは笑う。悲しそうに、苦しそうに……

「カズト……」

 突然、カズトの瞳からボロボロと涙が溢れ落ちた。

「……会いたい人がいるんだ、どうしようもなく。けれどその人は、もうこの世界にはいない……」

 カズトが涙を流すところなんて、初めて見た。絶えず流れ落ちる涙の粒は、カーペットに濃い水玉模様を作り出していく。

「彼女は俺の全てだった。唯一、独りぼっちの俺の気持ちをわかってくれる人だった。……けど、彼女は病気で、去年――」

「……カズト」

「か……のじょは、俺に『生きて』と言ってくれた。貴方はちゃんと、寿命を全うしてと……」


 ――長生きしてね。私、ずっと待っているから。


「来世ではきっと、健康に生まれてくるからって……だから絶対に、私を見つけてね……って!」


 ――あぁ、見つけるさ。必ず見つける。だからその時は、きっと二人で幸せに。


「けれど、彼女がいなくなってしまった世界は、俺には空っぽで……生きる意味と気力を失った。もう本当の俺を理解してくれる人は、誰一人としていやしない」


 俺は孤独だ。――君は、もういない。


 カズトの言葉を聞いて、俺は悟った。もう誰も、カズトを止める事は出来ない。

 こんなに苦しんで、こんなに泣いているカズトに、俺がかけられる言葉なんてたかが知れている。

 ……頭がボーッとしてきた。上手く思考が働かない。

 俺が兄貴として、森野一樹として出来る事。

 それは止める事ではなく……その背中を押して、送り出してやる事かもしれない。

 実の弟に対して、そんな事を考える俺は……最低な兄貴なのかもしれないけど。

「……兄さん、お願いだ。もう行ってくれ。変な事を頼んで悪かったよ」

 カズトはぐしゃぐしゃになった顔で、優しく笑った。

「もう、無理なんだな……?」

「うん……」

「……逝くのか?」

「お別れだ、兄さん」

 彼女はきっと天国にいるから……自ら死を選んだ俺はきっと、地獄にしかいけない。

 それでも、彼女がいないこの世界で、俺は生きていけそうにないんだ。

 悲しそうに微笑むカズトは、ゆっくり窓の側に向かうと、外の景色を眺めながら、小さな声でそっと呟いた。

「……あんたのいう通りだったね」

「? ……カズト? お前、誰に話してるんだ?」

「兄さん、覚えてる? 俺達がまだ小さい頃に、家族皆で、城に桜を見に行った事があっただろう? あの時、俺が言った白い着物のさ……」

「? 一体、何の話だ?」

「ふふ、何でもないよ」

「……変なやつ」

 俺がそう言うと、カズトは少し驚いた顔をしてから、ふっと笑みを浮かべた。

 俺は腰を屈めて、落ちているロープを拾う。

「? 兄さん……?」

「……自殺だと、天国に行けないんだろう?」

 俺がノブにロープをかけたとしても、実行するのはカズトなのだから自殺には違いない。

 けれど、ほんの少しでも可能性があるのなら……俺がお前に天国への切符を用意してやる。

 俺は間違いなく、地獄に堕ちるだろうがな。

 今まで何も兄貴らしい事が出来なかった分、せめて今日くらいは……お前の我儘を聞いてやる。

 俺はロープをドアの隙間から外に通すと……

「何かちょっと疲れた……俺、行くわ」

 そう言って、カズトの部屋から出た。


「さて……と」

 俺はロープの輪っか部分を一旦解き、再びノブにきつくくくりつけると、ドアを背にもたれかかった。

 一服したいが、体調が悪い時に吸うと更に気持ちが悪くなりそうなので、やめておく。

「……兄さん」

 ドアの向こうからカズトの声が聞こえた。

「……なんだよ」

「俺ね、兄さんが俺の事をどう思っていたとしても……俺は兄さんの事が、本当に大好きだったよ」

「……ばぁか。気色悪りぃ事言うな」

 俺の頬を暖かい雫が一筋、流れ落ちる。

「誰に非難されても、否定されても、嫌われても、自分を貫き通す兄さんの事を、かっこいいって思う事もあったよ。……俺、兄さんの弟で本当に良かった」

 カズトの言葉に何か返そうとしても、何だか声が震えて言葉が出ない。【俺】から、鼻をすするような音が聞こえてきた。

「父さんと母さんに伝えて。親不孝な息子で本当にごめんって……」

「……わかったよ。だから、もう泣くなよ」

「兄さんだって、泣いてるじゃないか」

 カズトの言葉で、自分が泣いている事にようやく気付く。

 今の俺の顔はきっと……涙と鼻水まみれで、汚くて見れたものじゃない。


 ――兄さんの弟で本当に良かった


 カズトは、こんな俺を受け入れてくれていた。認めてくれていたんだ。

 それなのに、俺は……俺は……!

 俺はグッと涙を堪えた。……これ以上兄貴として、弟に情けないところを見せられないからな。

「じゃあな、カズト。俺が逝く時には、その大切な彼女の事……ちゃんと紹介しろよな?」

「勿論。けど、あんまり早く会いに来ないでね?」

『お前が言うな!』と小さく笑うと、俺はそっと立ち上がり……家を出た。


 俺は必死に走った。決して後ろを振り返らないように、ふらつく身体を懸命に奮い立たせながら。

 一刻も早く、うちから離れたかった。

 今頃になって、凄まじい罪悪感が俺を襲う。手が、足が、尋常じゃないくらいに震え上がる。

 今頃、カズトはもう――

 そう考える度に、堪らなく吐き気がして、俺は何度も嘔吐を繰り返した。

 だって、どうしようもなかったんだ。カズトはもう自分の未来を決めていた。それも、覆す事は出来ないくらいの強い意思で。

 それにあの時、俺は調子が悪くて正常な考えが出来なかった! ……仕方なかったんだ! 仕方なかったんだよ!

 頭の中で必死に自分に言い聞かせる。歯がガタガタと音を立てる。心臓が破裂するくらいに振動し、脈が恐ろしく早くなる。

 ――わかってる。わかってるよ。

 そんな事、ただの言い訳に過ぎない。

 俺は、俺がしてしまった行為を正当化したいだけだ。

 全てカズトの為にやったんだ、と。


 俺は自暴自棄になりながら、地べたに座り込んだ。さっき大分吐いたからだろうか? 身体は少し、楽になっていた。

 服に吐瀉物がつき、酷い異臭を漂わせていたが……気にもならないし、気にしている余裕もなかった。

 俺は頭を抱え、大声で叫んだ。……そうしなきゃ、頭が狂いそうだったから。

 ――怖い、怖い、怖い、怖い。

 俺は一体、どうしたらいい……?

 カズトは、俺が殺したも同然だ! 俺は……殺人者だ。

 カズトを殺しておいて、のうのうと生きている……そんな事が許されるのだろうか?

 ……許される筈がないじゃないか!

 俺は弟が死にたがっているのを知っても、止められなかった。

 それどころか、一瞬でも【カズトが死ねば、俺が本物のカズトになれる】だなんて、馬鹿な事を考えてしまった。

 何か他に方法があったんじゃないか?

 説得は無理だったとしても……あいつの意識がなくなるまでぶん殴って、親父やお袋のところに無理矢理連れていくとか、あいつが死にたいだなんて思わなくなるまで病院に入院させるとか……

 どうして今頃になって色々と思いつく⁉

 何であの時、俺は何も考える事が出来なかったんだよ!

 誰か俺を消してくれ……

 誰か俺を消してくれ……

 誰か俺を消してくれ。


 ――誰か、俺を消してくれ。


 そんな時に、俺はあの中年男の言葉を思い出していた。

『……なぁ、にぃちゃん。死ななくてもいいよ。けれどあんたは消えて、全てから解放される……そんな世界に興味はねぇかい?』

「……全てから解放される」

『そうかい。けどまぁ、俺はいつでもここにいるからよぉ? 考えが変わったらいつでも来な。いい話を聞かせてやるよ』

「いつでもここにいる……今でも、あそこにいるのか……?」

 この時の俺はどうかしてたんだ。

 あんな如何にも怪しげなおっさんの言葉を思い出すだなんて……

 けど今の俺には、俺と何の関わりもない赤の他人のあの男の言葉しか、縋るものがなくて……

 気付けば俺は、無我夢中であの男がいた商店街方面まで足を走らせていた。


「よぉ、にぃちゃん。やっぱり来たなぁ? 待ってたんだぜぇ?」

 ローブを着た中年男は、相変わらず薄気味悪い顔でニタニタと笑いながら俺に近寄る。

「……ほぉ。朝と違って随分いい面構えになってるじゃねぇか? 何だぁ? にぃちゃん。もしかして人でも殺ってきたんかぁ?」

 そう言って男は、下品な声でゲラゲラと笑った。

 思わずぶん殴ってやろうかと思ったが、グッと拳を握り、堪える。

「……しかし、くっせぇなぁ。にぃちゃんくせぇよ。随分派手にぶちまけちまったみてぇだなぁ?」

「…………だよ」

「……あ? 何だって? そんな蚊の鳴くような声でブツブツ言われたって聞き取れやしねぇよ?」

「今すぐ消えるにはどうしたらいいか、って聞いてんだよ……」

 俺は目の前の男を睨みつけた。

「こえぇな~、にぃちゃん! これぞ正に、蛇に睨まれた蛙ってやつか? なんちゃってな! がはははは!」

 俺は男の胸ぐらを掴み、持ち上げた。

 俺より遥かに体重が重いであろう男を、軽々と持ち上げられるくらい……俺のリミッターは既に外れていた。

「ひぃ……! 悪い! 俺が悪かった! 降ろしてくれ! 頼むよ! なっ? ちゃんと教えるからよぉ~!」

 俺は無言で、男を地面に向かって放り投げた。

『チッ、年上は敬うもんだぞ!』などとブツブツ言いながら、男はポケットから一枚の紙を取り出した。

 紙を開くと、簡単な地図と殴り書きしたような文字が書かれてあった。地図には大きな木が描かれていて、そこにバッテンがつけられている。読み辛く汚い字には、どうやら降りる駅名が書かれているようだ。

「……なんだ、これ?」

「ここに行きな。行きゃあわかるよ」

 簡単な地図だが、非常にわかりやすく書かれている。……地図の場所は、ここから結構近いようだ。

「ここに行ってどうするんだよ。ここに殺し屋でもいるって言うのか?」

「そんな物騒なもん、いやしねぇよ!」

「じゃあ、一体ここに……何があるって言うんだよ」

 俺がそう言うと、男は一層不気味な顔でニタァと笑いながら口を開いた。

「異世界だよ、にぃちゃん」

 ――異世界?

 異世界だって……?

 そんなもん、あるわけ……

 俺の頭の中でカズトの言葉が思い出される。


『いいんだよ。俺は信じてるんだからさ。こんな夢も何もない世の中、想像する事くらい許されてもいいだろう?』


 ……カズト。


『何もかも否定して生きていくより全てを肯定して生きる方がまだ……こんな腐った世界でも生きる希望が湧いてくるもんだよ』


 ……この世界に、異世界なんてもんがある筈ないんだよ。

 カズト。お前はただ、夢を見たかっただけなんだ。

 こんな世界を認めたくなかったから。

 ――なぁ、そうだろ?


「……異世界だ? ふざけてんのか、てめぇ……」

 男はふぅと息を吐くと、うんざりしたような顔で話を続ける。

「異世界は本当にあるんだよ。嘘じゃねぇ。ここに行けばあんたの存在は間違いなく消えるだろうなぁ? けれど死ぬわけじゃねぇ。全ての罪が許されるんだ」

「全ての罪が、許される……?」

「そうだよ。そこは罪を持つ人間。そして、その罪を悔やみ、嘆き、苦しみ、自ら命を絶とうとする人間。たとえ死ぬまでの勇気がなくとも死にたい、消えたいなんて思っている人間。……そうしたヤツらが招かれる、そんな不思議な世界だ」

 ――条件はたった二つ。

 何かの罪を持つ人間。そしてそれを悔やみ、死に囚われてしまった人間。この二つが揃ってりゃあ、誰でも行ける。

「……罪の程度は?」

「罪なら何でもいいぜぇ? 大きいものでも、小さいものでも。要はその罪に対し、どれ程の罪悪感を感じて死を意識しているかどうかだ」

 男は【軽犯罪】【重犯罪】、そして……果たしてそれは罪になるのか? と思えるような内容までも、次々と口にする。

 男の言う事が全て【罪】だと言うのなら、この世界に罪のない人間など一人も存在しない事になる。

 一つ目の条件は誰もが達成してるという訳だ。

 ただ、そんな内容で死にたいとまで思う人間がいるのだろうか? ……いないだろうな、恐らく。

 じゃあ、自殺志願者は全員そこにいけるという事か? ……そんな馬鹿な。

 考えれば考えるほど馬鹿馬鹿しい。

 けれど、俺はそこに向かう事にした。

 今の俺には、他に行く場所なんてどこにもなかったからだ。

 何もなかったら、なかったで……そこで死ねばいい。

 既に無気力な俺は、まだ生きているのにも関わらず、恐らく死人のような面持ちだっただろう。俺は男に背を向け、ふらふらと歩き出した。

「おい、にぃちゃん! 待て待て!」

「……なんだよ、まだ何かあるのか?」

『それだよ、それ!』と、男が俺の汚れたパーカーを指さした。

「んなゲロまみれの姿で行くと、神童に嫌がられるぞ? ちゃんと脱いでいけよ?」

「……シンドウ? なんだよ、それ」

「その異世界に住んでる神の使いだよ。まだ小せぇガキなんだけどよ」

 そこから男は、またダラダラと長話を始める。最早、耳を貸すのも馬鹿馬鹿しい。

「……わかった、処分しとくよ」

 そう言うと、俺はゆっくり駅に向かった。


 近くにあったホームセンターで、頑丈そうなロープを買う。そして外のゴミ箱の中に、汚れたパーカーを無理矢理強く押し込んだ。

 少し肌寒いが、まぁ仕方がない。……どうせ、俺は死ぬんだ。もう、どうだっていい。

 俺はただ、静かに列車に揺られていた。

 袋に入ったロープを鞄に詰め込むと、中に入っていたカズトの手帳が目に入った。

 まだ一度も中を見れていない手帳。

 カズトを思い出して胸が張り裂けそうに痛むから、俺はこの手帳をどうしても開く事が出来ないんだ。

 ……ごめんな、カズト。

 せっかく大事な手帳を、俺なんかに託してくれたのに……俺はきっと、中を読めずに人生を終える。

「結局、喧嘩の事……ちゃんとあいつに謝れなかったな」

 素直になれなくて、弟に頭を下げるだなんてプライドが許せなくて……ずっと先延ばしにしていた。

 けれど、今日の朝。あいつと笑顔で笑いあえて、それがすごく嬉しくて……

 今日の夜こそはちゃんと謝ろうって、そう決めていたのに……

 ――遅すぎた。遅すぎたんだ。

 もう一生、カズトに謝る事は出来ない。

 列車の中だというのに涙が溢れて止まらない。大の大人がみっともないと思いながらも、流れる涙を拭おうとはしなかった。

「カズト……ごめんよ、ごめん……! 馬鹿なにぃちゃんで本当にごめんなぁ……! 俺もすぐに逝くから、待っててくれよな……?」

 誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。

 もしあの世でカズトに会う事が出来たら、必ず一番最初にあいつに謝ろう。俺はそう心に誓った。

 ――列車が、目的の駅でゆっくり停車する。

 俺は下を向きながら、そっと列車を後にした。


「ここか……」

 俺は地図を片手に、大きな大樹を見上げた。

「ここが一体、何だって言うんだ……?」

 森は静まり返っている。薄暗くなり始めた空は、なお一層この森を静寂かつ闇に染めた。

「……何も起きないじゃないか」

 俺は目の前の大樹を思いっきり蹴り飛ばす。大樹は微動だにしないが、葉は何枚かヒラヒラと舞い落ちた。

「……まぁ、いい。この木の枝はしっかりしていて、俺が死ぬにはうってつけの場所だ。ここなら、人が来る事もないだろう」

 俺はブツブツと呟きながら鞄からロープを取り出すと、台になりそうな物を探した。

 ちょうど少し離れた場所に古びた木箱を見つける。俺はそれを使い、木にロープをしっかりとくくりつけた。

 きっとこの木箱を使い、自ら死を選んだ人間もいるのだろう。

 この場所で死を迎えた、沢山の亡霊達よ。今すぐ俺を、死の世界にいざなってくれ……

 ――無表情で、無気力に、無感情で、無機質に。

 俺はゆっくりと輪っかに首をかけた。


「――人間というものは、幾ら年月を重ねても、行う行動に何ら変化が見られない。非常に浅はかだ。見るに耐えないですよ……本当に」

「だ、誰だ……⁉」

 突然樹の上の方から聞こえてきた声に驚いた俺は、咄嗟に木箱から降りて、大樹から距離を取った。

「おや? ……これはこれは。随分と酷い形相をなされていますね」

 声の主は、かなり高い位置にある太い木の枝の上に腰を下ろし、足をブラブラと揺らす。

 俺はそれを見上げている形になるので、顔などを確認する事は出来ないが……透き通る幼い声や小さく華奢なその足から、声を発しているのはまだ小さな子供なのだと容易に推測できた。

「……おい! お前! 何やってんだよ⁉ 危ないだろうが! ……もしかして降りれないのか? ちょっと待ってろ!」

 俺は【何とか降ろしてやらないと!】と、樹に足をかけて懸命に登ろうとするが、なかなか上手くいかない。どう足掻いても、あんなに高い位置から少年を助け出すなんて不可能だ。

 少年は俺の行動を一部始終黙って見ながら、小さく声を出して笑った。

「お構いなく。高い場所が好きなだけなので」

 少年は枝からヒョイっと飛び降り、くるくると回転しながら陸に着地する。

 俺は、あんな高い場所から落ちて擦り傷一つ見当たらない異常さと、奇妙な風貌に言葉を失った。

「お前、何者だよ……?」

「私、ですか? さぁ? 自分でもよくわからないもので、一体何と答えればよいのやら?」

 少年はクスクスと笑う。被っている狐面の表情は微笑んではいるものの、どこか深い怒りに満ちているようにも見えた。

 ――もしかしてコイツが、あの男の言っていた【シンドウ】って奴なのだろうか?

 少年が放つただならぬ雰囲気に、俺はただ飲まれていくばかりだった。

「しかし、最近ここに招かれてやってくる人間の数が非常に多い……」

『貴方、何かご存知ですか?』と、少年は俺に向かって尋ねてきた。

「……あのおっさんが、ここに人を集めたんじゃねぇの?」

 俺は胸糞悪いあの男のにやけ顔を思い出しながら、吐き捨てるようにそう口にした。

「……ほう、あのおっさんとは?」

「俺だって、あいつが誰なのかなんて知らねぇよ」

「……ふむ。実に興味深い」

 少年は腕を組み、考える素振りを見せる。色々と思考を巡らせているのだろうか? ブツブツと呟いては、うろちょろ歩き回っていた。

 ……何だか、イライラしてきた。

 どうでもいいが、俺は今すぐ死にたいんだ。訳のわからない子供なんかに構っている暇など、俺にはない。

「おい! お前が、あのおっさんの言ってた【シンドウ】とかいう奴なのかよ?」

 少年は考えるのを止めて後ろに振り返ると、けろっとした態度で答えた。

「はい。そうですよ」

「……やっぱり! じゃあ、異世界ってやつは本当にあるのか?」

「ええ。人間達が住む世界には、貴方達が考えられないような世界が幾つも存在していますよ? 人はそれらを、異世界と呼びます」

「じゃあ、そこに行けば俺は死ねるのかよ?」

 少年は顎に手を当て『うーん』と唸ると、少し考える素振りを見せながら……

「貴方達人間の言葉を借りると、身体は確かに死ぬでしょうね。神樹に喰われてしまいますから」

 ――そう口にした。

「【シンジュ】に喰われる……だと?」

「そうです。ほら、今貴方の目の前にある、その大きな大樹の事ですよ」

 少年が指をさした先にあるのは、この森で一番大きな大樹。先程使おうとした木箱は倒れ、くくりつけたロープは、だらんと虚しく垂れ下がっていた。

「その神樹は、人間の欲や罪を非常に好む。そして死をもね。……貴方には視えませんか? 神樹が涎を垂らし大口を開けながら、貴方を喰らいたいと……今か今かと待っている様を」

 少年の言う不気味な表現が妙にリアルで、俺は額から汗が流れ落ちた。

 ――ちょっと待て。俺は怖がっているのか? 怖がる必要などないじゃないか? 寧ろ、好都合だろう?

「……おい、チビ。俺を、その異世界とやらに案内しろ」

「貴方の存在は失われる事になりますが?」

「そのつもりでここに来たんだ。後悔なんてしない」

「……わかっておりますよ。ここに招かれた人間は、抗えない運命によって支配されている者達だけですからね。貴方達の未来は、生まれた時から既に決まっているのですよ。……ただ」

 と、少年は言葉を続ける。

「……貴方に対して、少し気になる点があるのです」

『何故でしょうね?』と、少年は不思議そうに俺に向かって言った。

「貴方……今まで余所の世界に行かれた事がありますか?」

「あるわけないだろ、んなもん」

「……ですよねぇ? あるならあるで、私達にはすぐにわかる筈なんですよ。でも、それは感じられない。それとは違う何か……貴方を守護する【何か】を感じるのですよ。それによって神樹は、現時点で貴方を喰らう事が出来ず、怒り狂っているようですね」

「どういう意味だ。それ?」

「……まぁ、いいでしょう。とりあえず行きましょうか? 少し、貴方に尋ねたい事もありますので」

 少年は神樹の前に立つと、懐から鈴を取り出しそれを鳴らす。鈴はチリン、と儚い音を立てて消えた。

 それと同時に、突然現れた眩い光が俺達を包み込み……意識を奪っていった。

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