第6話


 俺、森野一樹。二十四歳。

 人生適当に生きてきた。否、諦めてたんだよ……色々と。

 こんな世の中、期待するだけ馬鹿を見る。だから俺は、全てを見下して生きてきた。

 そもそもこんなふざけた世界に、生きる価値などあるのだろうか? 俺には全く理解出来んね。

 漆黒の上着を脱ぎ、ネクタイを緩める。箱から煙草を取り出し一服すると、空に向かって煙を吐き出した。

 昨日、一緒に事業を起こそうと言っていた奴が死んだ。……自殺だよ、自殺。

 昔からの友人で、とてもいい奴だった。本当に、いい奴だったんだ。

 あいつの死に、皆が泣いていた。あいつは本当に幸せ者だ。

 友人達で集まり、あいつの話を沢山した。皆があいつとの思い出に浸り、悲しんでる中、俺が……

「あいつが死んだ事、俺はよく頑張ったなって褒めてやりたいけどな」

 と言った瞬間……突然全員が黙り込み、冷たい視線を俺に向けた。

 気が付くと俺は、友人の一人に思いっきりぶん殴られていた。

「相変わらずお前は最低な人間だな」

 そう言って、全員が俺を非難した。

 ……何でだ? だってさ、やめようと思ったら途中でやめられた筈だろ? けどさ、あいつはやめなかった。そこには、死にたいという強い意思があったんだ。

 奴はそれを貫いた。……かっこいいじゃないか。

 死んだあいつの勇気を褒める奴は誰一人としていない。だからこそ、俺だけでもあいつを肯定してやる。

 苦しかった筈なのに……よく頑張ったな。

 ――ゆっくり眠れ。お疲れさん。


 俺は、やはりまわりの人間が言うように、血も涙もない人間なのだろうか?

 所詮、【他人】の言葉に耳を貸すつもりはないが……たまにふと頭をよぎるんだ。

 確かに俺は冷めてるし、性根が腐っている。それは認めるよ。

 物心ついた頃から俺はこうで、嫌いな奴に合わせたり、愛想良く振る舞うなんて事は出来やしない。……要領が悪いもんでね。

 そもそも人を愛するという気持ちも、誰かに愛されるという感情も、俺にはイマイチよくわからない。

 人は裏切るものだと思ってるし、俺だって平気で他人を裏切る。人間なんて、そんなもんだろ?

 ……ただ、あいつが自殺した事はそれなりに悲しくもあったんだ。

 表情には出ないタイプだし、涙も出なかったから伝わらないかもしれないが……あいつは、数少ない俺の理解者だった。

 けれど、俺はあいつが死にたがっている事なんて全然知らなかった。相談すらされた事がない。

 きっと、あいつにとっても俺は……信用の出来ない、血も涙もない人間だったのだろう。

 まぁ、相談なんてされたところで俺は、気の利いた言葉の一つも言えずに『じゃあ死ねば?』と言ってしまうのがオチだが。


 今、この国は自殺大陸だ。文明が進化し過ぎたのだから仕方がない。

 この環境の変化に上手く適応出来ない人間達は、ここぞとばかりに自ら命を絶っていく。

 戦時中。誰もが死にたくないと思いながら、お国の為と……そう言って死んでいった。未来を子供や若者に託しながら。

 それが……今ではどうだ? 今世界で、どれくらいの人間が自殺をしていると思う?

 ――年間十八万人らしい。

 遺書が見つからないと自殺扱いにならず、変死として処理されてしまうらしいが……その数を合わせておよそ十八万人。

 今、人類は死を望んでる。

 俺もその中の一人に違いないが、勘違いはしないで欲しい。

 俺は死にたいんじゃなく、消えたいんだ。

 親、兄弟、友達、同級生、知り合い……全ての脳内から【森野一樹】の存在を消し去って欲しい。

 それは自殺ではない。……消失だ。


 俺には十九の弟がいる。少し変わった、おかしな奴だが……誰にでも優しく、誰からも愛されるような、そんな男だった。

 弟の周りはいつも笑顔で満ち溢れている。俺はそんな弟に、劣等感を抱いていた。

 同じ兄弟なのに、どうしてこうも違う?

 何故、あいつの周りには人が集まる? 何故、ああも愛されるんだ?

 別に弟の事が嫌いだったわけじゃない。寧ろ好きだよ。あいつは、とてもいい奴だから。

 けれど、俺の中の嫉妬心みたいなやつが少しずつ胸を蝕んでいき、キツく当たってしまう事も度々あった。

「カズト、何書いてるんだ?」

「ん? 別に大した物じゃないよ」

「ちょっと見せてみろよ!

 俺は半ば強引にカズトから手帳を奪う。中を見てみると、異世界だの神隠しだの……そんな絵空事がびっしりと詰まっていた。

 こいつの脳内はどうなってやがる? お花畑か?

「……お前って、ほんと変な奴だよな。パラレルワールドとか、そんなもん本気で信じてるのかよ? ……阿保らし。

 俺はカズトに向かって手帳を投げる。カズトはそれを上手くキャッチすると、眉を下げ、苦笑いをしながら口を開いた。

「いいんだよ。俺は信じてるんだからさ。こんな夢も何もない世の中、想像する事くらい許されてもいいだろう? 何もかも否定して生きていくより、全てを肯定して生きる方がまだ……こんな腐った世界でも、生きる希望が湧いてくるもんだよ」

 そう言って、カズトは笑った。

 俺は、カズトがそんな言葉を口にするとは想像もしていなかったから、思わず面食らった。

 ――お前は毎日幸せで、悩みなんてない筈だろ? いつも楽しそうに笑っているじゃないか。

「……お前、何か悩みでもあんのかよ?」

「ん? どうだろう? まぁ、あっても兄さんには言わないけどね」

 そんなカズトの言葉に、俺は苛立ち始める。

(……何だよ、それ? 話す価値もないって事かよ、俺には)

 考えていた事が顔に出ていたのか、カズトは『違うよ』と、優しく笑いながらこう言った。

「自分よりも重いモノを抱えているかもしれない相手に、これ以上荷物を背負わすのが嫌なんだ。兄さんは、いつも何かに対して悩んでいるよね? だからだよ」

『兄さんは本当に顔に出やすいから、考えている事がすぐにわかる』、そう言って屈託ない笑顔で笑うカズトは、更に言葉を続けた。

「兄さんは俺に悩みを言わない。俺も兄さんに悩みは言わない。……それでいいじゃないか。それに俺の悩みなんて、取るに足らないような下らないものかもしれないしね」

 カズトは手帳を鞄にしまうと、『図書館に行ってくる』と言って、外に出た。

 ……やはり、カズトは変わった男だ。

 しかし、何だかあいつの【何もかもお見通しだ】と言わんばかりの態度が癪に触る。

 俺には、あいつの考えてる事なんか何もわからないし……そもそもあいつに、悩みなんてものがあるようには思えなかった。

 しかし『顔に出ている』などと言われると、何やら少しこっ恥ずかしく感じる。

「俺もアイツみたいに、少しくらいはポーカーフェイスってやつを極めないとな」

 俺の中で、弟に関する見方が少し変わった一日だった。


 それから数日後。俺は荒れていた。

 よくよく考えてみれば、しょうもない事だった。解決法なんて、考えてみればいくらでもあっただろうに。

 けれど、その時の俺はその考えに達する事もなく、酒に逃げ、女に逃げた糞野郎だ。

 俺は弱かった。何よりも、独りでいる事が辛かった。一緒にいてくれるなら、慰めてくれるなら……誰でも良かったんだ。

 俺はもう自分の事で頭がいっぱいで、カズトが今、どんな心境なのかなんて知る余地もなければ余裕さえもなかった。俺は、いつだって自分の事しか考えていなかったから。

 抱いた女からは呆れたように、『貴方よりカズトくんの方が魅力的』なんて事を言われた。

 苛ついた俺は、カズトに酷い言葉をぶつけたり、罵ったりもした。

 俺は、あいつが優しいのを知っていた。だから、たとえ俺が何を言っても、あいつなら笑って許してくれると思っていたんだ。だって俺は、あいつの兄貴だしさ。

 自由奔放で、いつでも好き勝手に生きている弟。お前は俺より恵まれているではないか?

 だから……少しぐらい、俺のストレスのはけ口になってもらってもバチは当たらないだろう?

 俺はあいつの事なんて……正直どうでもいいと思っていたんだ。

 俺より賢い弟。

 俺より優しい弟。

 俺よりモテる弟。

 あいつは、俺より沢山のものを持っている。

 俺がカズトだったら、俺は皆に信頼されただろうか?

 俺がカズトだったら、俺は皆に愛されただろうか?

 カズトが羨ましかったんだ。……本当に。


「兄さん。もうお酒はそれくらいにしといた方がいいよ」

「うるせぇ……」

「身体によくないって」

「うるせぇって言ってんだろうが!」

 俺は飲みかけのビール缶を、カズトに向かって投げつけた。

 缶はカズトの真横を通過し壁に当たると、その場に黄色い染みを作った。

「お前に俺の何がわかんだよ? 余計なお世話なんだよ! わかったならとっとと消えろ。そんで、お前の大好きな御伽噺の世界に身でも投じてやがれ。馬鹿が」

 そう言うと俺は新しい缶を開け、喉に流し込む。カズトは手をギュッと強く握りしめると、今まで聞いた事もないような低い声で俺に言った。

「……じゃあ兄さんは、俺の何がわかるっていうんだよ。いい加減にしろよ、この卑屈野郎」

「……何?」

 それが、俺とカズトの【初めての喧嘩】だった。

「兄さんの噂なんて、すぐに耳に入る。荒れてる内容だって、聞けば本当に下らない。考える事を放棄して逃げているだけだろう? 気持ちもないくせに、沢山の女の人を抱いて、傷付けて、酒を飲んでるつもりが酒に飲まれて……いい年して本当にみっともない」

 俺は、顔がカーッと熱くなるのを感じた。

 怒りのせいか? 酒のせいか? プライドを傷付けられたからか? それとも……カズトの言葉が正論過ぎて恥ずかしくなったからか?

 とにかく俺はカズトの胸ぐらを掴み、拳を落とす。――鈍い音が響いた。

 殴られたのはカズトじゃなく、俺の方だった。

「カズト、てめぇ……!」

「少し落ち着きなよ。……ねぇ、兄さんは何故変わろうとしないの? 幾千もの可能性が兄さんにはあるというのに」

「はぁ? 何わけわかんねぇ事言ってやがる⁉ 俺は俺だろうが! 何でてめぇに言われて変わらなきゃなんねぇんだよ⁉」

「兄さんは今のままじゃ駄目だ。このままじゃ、誰も受け入れてはくれない」

 キッパリとした否定、拒絶に……目頭が熱くなる。

「マジうるせぇ! 黙れよ屑が! お前なんかいなきゃ良かったんだよ! 今すぐ俺の前から消えろよ、畜生が! いつもいつも俺を見下しやがって!」

「見下してるのは兄さんの方だろう? 自分より強い相手に媚びる事は出来ないから、卑屈的になり荒れて……自分より弱い相手、見下せる相手がいて、初めて自分を保つ事が出来ているんだよね?」

 カズトの言葉が鋭利な刃物となって、俺の心を突き刺してくる。

 やめてくれ。やめてくれ。頼むからほっといてくれよ。他の奴らと同じように。

 じゃなきゃ俺は、自分をコントロール出来ない。

 苦しいんだよ、痛いんだよ。俺だって……俺だって本当はな、お前みたいになりたいよ。

 皆の中心でありたい。いつも笑顔でいたい。頼られたい。……愛されたいんだ。

「……カズト、お前マジうぜぇ。俺にお前の観念を押しつけるな。俺は、今のままでいい」

 俺はカズトの顔を見る事もせず、上着を羽織り表に出た。


 逃げ出すように家から出た俺は、ひたすら走り続けた。今はただ、その場から早く離れたかったんだ。

 ――何処でもいい。俺は、無我夢中で走った。

 走っている間もカズトに言われた言葉が、ずっと俺の脳内にこだましていた。

 ……あいつに俺の何がわかる? 俺だって好きでこうなったんじゃない。何も知らねぇくせに指図してんじゃねぇよ、クソが!

「畜生っ!」

 ……悔しい。惨めだ。


 暫くして足を止めると、昼間子供達がよく遊んでいる広い河原が目に入った。

 こんな時間だ、もう誰もいない。……ちょうどいい、暫くここで時間を潰すか。

 初夏だというのに、今夜は少し肌寒い。走って汗をかいたから尚更だ。上着を羽織ってきて良かった。

 夜風のお陰で頭が冷え、少しずつ冷静さを取り戻していく。

 俺は河原に腰を下ろすと、先程の事をゆっくりと思い出していた。……鮮明に覚えている、カズトの表情と言葉。

 そうだ。カズトの言う通りだ。全てお前が正しい。そんな事は、俺が一番わかってんだよ。

「あーもう、消えちまいてぇな……」

 弟にまで馬鹿にされる兄貴なんて、情けな過ぎて笑えるよ。

 俺は自嘲気味に笑うと、煙草に火をつけた。

 ふと、空を見上げる。輝くばかりの満天の星空だ。普段の俺は、空なんて見上げたりする事があっただろうか?

 ……いや、ないな。

 どちらかというと俺は、いつも下ばかり向いて生きてきたような気がする。

「星って、こんなに綺麗だったんだな」

 俺はいつの間にか、星の美しさに目を奪われていた。

「……カズトも、星とか好きそうだよな」

『あいつメルヘンだし』と独り言を言いながら、フッと笑みを浮かべる。

 こんなにムカつくのに、思い出すのは出来の良い弟の事ばかり。

「……カズト、ごめんな。こんな兄ちゃんで」

 面と向かって素直に謝れない俺は、誰にも聞き取れないような小さな声で、そう呟いた。

「それにしても……本当に綺麗だな」

 カズトを真似て言ってみるとしたら、きっとこうだ。

 ――幾千もの星が、夜の世界を支配する。ものを言わずとも、誰もがその美しさに酔いしれるであろう。夜の主役は月である筈なのに……今では月は完全に裏方にまわり、立場は逆転。これではまるで、星が主役の大舞台だ。

 ……少し表現は違っても、あながち間違いではないだろう。

 しかし、あいつのロマンチシズムは相当なものだ。一体、誰に似たんだか。

 親元から離れ、あいつと二人暮らしを始めてもうすぐ一年になるが、未だによくわからない。

 俺はふぅと溜息を吐くと、空に向かってそっと手を伸ばす。この手が星に届くようにと、出来るだけ思いっきりその手を伸ばしてみた。

 俺のこの手は……一体、何を捕まえたいんだろう。

 ――生か? ――死か? それとも、自由か?

 ……違う、そうじゃない。俺は誰かに、この手を取って欲しいんだ。

 けれど、俺の手のひらは空を切り、握られた拳の中には何も残らない。

 信用出来る何かを見つけたい。自分の居場所を見つけたいんだ。……たった一人でいい。俺の存在を認めて、受け入れてくれる存在。

 その存在こそが、俺のこの【孤独】を埋めてくれるような……そんな気がしてならないんだよ。

 果たしてそんな人物が、この世界に存在するのだろうか? ……俺にはわからない。

 これから、どうしたらいいのかさえも。


 ふと視線を感じて横を見ると、一人の女と視線が重なった。

(うわ……何だ、このギャルは。目の周りなんて真っ黒で、まるでパンダみたいじゃないか!)

 その女に対する、俺の第一印象はこれだ。

 けれど……目の周りが真っ黒なのはきっと、沢山泣いたから。彼女は今、苦しんでいるのかもしれない。俺と同じように。

 ――こういう時、カズトならなんて言うだろう?

 カズトなら……

 俺は、気付けばその女に声をかけていた。


 彼女の名は、斎藤愛子といった。年は十九歳。カズトと同い年だ。

 俺は咄嗟に自分の名前を、森野一樹ではなく【森野一人】だと、彼女に伝えた。

 何故かって? そんなのは俺にだってわからない。

 きっと俺は、この短い間だけでも自分を捨てて、カズトという人物を演じてみたいと思ったのだろう。

 今日だけ、俺は森野一樹じゃない。森野一人だ。

 彼女は孤独が怖いと言った。……俺と同じだ。誰だって一人は寂しい。

 俺は【こういう時カズトなら何と言うか】、それを考えながら、弟になったつもりで彼女に接し続けた。


「……たとえ私が死んだところで、誰も悲しんだりしないよ」


 ……あぁ、わかる。よくわかるよ。

 だって俺も、俺が死んだって誰も悲しんだりしないと思っているから。

 カズトなら……こういう時どうする? 彼女に、なんて言って励ますだろう?

 カズトなら、カズトなら、カズトなら……

 カズトなら、きっと……


「俺が悲しむよ」


 ――そうだ。あいつならきっとこう言うはず。


「君が死んだら俺が悲しむ」


 ……偽善的な言葉だ。けれど、カズトなら本当に悲しむだろう。あいつはそういう男だから。

 俺がそう言うと、パンダ顔の彼女は……まるで小さな子供のように泣き声を上げた。

 俺は思わず面食らった。

 けれど、目からボロボロと涙を流す彼女を見て、何だか俺も少し泣きそうになった。

 俺には、ここまで素直に感情を表現出来ない。

 年を取る度に泣けなくなっていく俺は、そんな彼女の純粋さが……何だか羨ましかった。


 それから俺は、毎週日曜の夜に彼女と会う約束をした。

 俺を慕ってくれる彼女が、とても愛らしい。俺は彼女の事を可愛い妹のように思っていたんだ。

 本当の弟とは上手くいかないのに、おかしな話だろう?

 あれから俺とカズトは、すれ違いの生活を送っていた。

 俺はあいつが寝静まる頃に帰り、あいつは俺が寝ている間に外に出る。

 こんなに長い兄弟喧嘩は初めてだ。

 というか、普段温厚な弟と喧嘩する事自体が珍しいもんだから、どうしたらいいのかがわからない。

「カズトくん見て! 流れ星だ!」

 俺は、無邪気にはしゃぐ五つも年下の彼女に視線を向ける。彼女は目を輝かせながら夜空を見上げていた。

「何を願ったの?」

「願う暇なんてなかったよ! だって一瞬だよ? ビュンって!」

 彼女は両手を使い、【ビュン】のジェスチャーをする。必死に伝えようとするその間抜けな姿に好感を覚え、思わず笑いがこぼれた。

 俺は次第に、彼女に心を開いていった。

 日曜日が待ち侘しいと感じる事もあった。

 けれど彼女が慕っているのは、あくまでカズトなのだ。俺ではない。

 本当の俺を見せてしまえば、この眩しいほどに輝いている笑顔も、一瞬で消え去るだろう。

 ――そう。俺は彼女を騙しているのだから。


 少しずつ立ち直ろうと頑張る彼女は、あの日から少しずつ変わっていった。

 あのケバケバしいメイクもナチュラルなものに変わり、馬鹿みたいに露出の多い服は清楚で可愛らしいものになっている。

 きっとこれが、彼女の本当の姿なんだろう。

 彼女は変わった。……【カズトの言葉】でだ。

 自分が始めた事なのに、カズトを演じる事に苦痛を感じ始める。

 疲れを感じる。誰かを意識して話すというのは非常に窮屈だ。

 けれど不思議な事に、言葉を重ねれば重ねるほど……『俺は元々こんな人間だったのではないか?』と、錯覚させられる。


『兄さんは何故変わろうとしないの?』


 ――変わるよ。じゃあ俺、お前になる。

 偽りの森野一人なんて、本物には到底及びもしないだろうが……そんなイミテーションな俺でも、彼女は必要としてくれている。

 誰かに必要としてもらえる事は、大きな原動力となる。

 彼女はカズトの言葉に救われた。けれど俺は、アイコの存在に救われたんだ。

 ここには【森野一樹】という人間は存在しないけど、それでいい。今の俺には、アイコの存在が必要だから。こうして傍にいてくれる限り、いくらでもアイコが必要としているカズトを演じきってやる。

 足りないものは、互いに補えば良いのだから。

「人って難しいな。……本当に」

「ん? 今、何か言った?」

「……ううん。何でもないよ」

「変なカズトくん!」

 彼女はそう言ってクスクスと笑った。

 ――カズトは今、どうしているだろう。あいつもこの星を、同じようにどこかで見ているのだろうか?

 いつかカズトにあの日の事を、『ごめん』って伝えられる日がくるのかな?

 今はまだ言えそうもないが、いつかちゃんとあいつに謝ろう。俺はそう心の中で決意した。


 ――それから数ヶ月が過ぎた。

 もうすぐ冬がやってくる。クリスマスなんてまだ先の話なのに、以前までよく目にしたハロウィンのカボチャやグッズはとっくに片付けられ、クリスマスツリーの飾り付けに変わっていた。

 午前七時過ぎ。俺は、ドアをノックする音で目を覚ます。

 この日は間違いなく、俺の運命を大きく狂わせた。

「――兄さん、ちょっといい?」

「ん、あぁ……」

 必要最低限にしか話していなかったカズトが俺の部屋の中に入り、ベッドに腰を下ろす。

「兄さん、最近何か変わったね」

 カズトはそう言うと、優しく笑った。

「……そうかな?」

「うん、変わったよ。雰囲気とか……少し丸くなったような気がする」

「はは、そうだといいけど」

 カズトと普通に会話が出来ている。それがとても嬉しく、照れ臭くもあった。しかし、久しぶりに直視した弟の顔は、何だか少し痩せたようにも見える。

「……兄さん。今日ね、昼から友達がうちに来るって言うんだ。だから悪いんだけど、夜まで外に出ててもらっていいかな?」

「おいおい、女か?」

「違うよ、ただの友達!」

 そう言って、屈託なく笑うカズト。

「……まぁ、いいや。俺も今日は用があるし」

「兄さんこそ、最近日曜の夜になるといつもどこかに行くよね? ……彼女でも出来た?」

「バーカ。違うよ、そんなんじゃない」

 本当にそんなんじゃない。

 彼女はきっと【カズト】に恋をしている。けれど俺はカズトではないし、俺は彼女の事を妹のようにしか思っていなかった。

 大体、俺には人を好きになるという感情自体がよくわからないんだ。今まで沢山の女と付き合ってきたし、沢山の女を抱いてきた。けれど、そこに気持ちがあった事など一度もない。

 それに相手もきっと、そこまで俺の事を好きではなかったと思う。

 ただ互いに寂しい時、肌の温もりを感じ合えればそれで良かったんだ。抱きたい時に抱ければいい。

 しかし今の俺は、そんな行為など必要がないくらいに満たされているのも事実。

 やはり彼女の存在は、俺の中で大きいのかもしれない。


 カズトと他愛もない話で盛り上がる。カズトも俺も、自然に笑顔になっていた。

 ……あれ? 俺ってこんな風に笑えるんだ。

 そんな事を考えていると、隣に座っているカズトと目が合う。カズトは静かに優しく微笑んだ。

「きっと兄さんは、良い出会いをしたんだね。前までの兄さんは、いつも不平不満しか言わず誰の事も信じていないような人だった。目なんてまるで死んだ魚のようだったのに……今じゃまるで別人だ」

「……おいおい、それは言い過ぎだろ? こいつ!」

 俺は後ろからカズトの首に手をかけて、思いっきり締め上げた。

「あはは、ギブギブ!」

「参ったか、この野郎」

 腕の力を緩めると、カズトが軽く咳込んだ。……少し、強く締めすぎたかな?

「ずっと心配してたんだ。でも、兄さんはもう大丈夫だね!」

 カズトは俺に向かって、満面の笑みでピースサインを作った。

「……おう」

 俺は何だか気恥ずかしくて、後頭部を雑にガリガリと掻いた。

「……そうだ! 俺ちょっと出かけてくるね。いる物があるんだ。兄さんはもう少し寝る?」

「いや、もう起きる。俺もシャワー浴びてから外に出るわ。お前が帰る頃にはもういないと思う」

「了解。じゃあ行ってくるね! 鍵、閉め忘れないようにね?」

「そこまで子供じゃないっつーの」

「あはは、確かに!」

 そう言って笑うと、カズトは颯爽と俺の部屋から出ていった。

 俺はそのままバタンと後ろに倒れこみ、天井を見上げる。

 ……何だか清々しい気分だ。そして、少しむず痒い気分でもある。

 俺がもっと早くに間違いに気付いていたら、もっと早くに自分を変える努力をしていたら……カズトと俺は今のように仲良く、上手くやれていたのかもしれない。

 けど、きっとこれからは大丈夫だ。カズトと俺の関係は、確実にいい方向に進んでいくと思う。

「……あ!」

 俺はベッドから身体を上げ、急いでドアを開ける。もう既にカズトの姿はなかった。

「またあいつに、『ごめん』って言うの忘れてた」

 今の俺がカズトに伝えたい言葉はそれだけじゃない。ちゃんとアイツに、伝えたい事があるんだ。

「……ま、夜にでも言えばいいか」

 ――その頃の俺は、カズトと俺の時間がこれからもずっと続くものだと信じてやまなかった。

 それなのに、運命の歯車は俺の意思などお構いなしで、簡単に狂い始める。

 一度狂い出してしまえば、もう……止まらない。


 俺はシャワーを浴びてから、少し早いが家を出る事にした。

 外はやはり冷える。俺はパーカーのフードを深く被ると、空を見上げた。

 今日は曇りだ。天気予報で見た限りでは、明日から降り出すらしい。

 灰色の空は、今にも泣き出したいのに……必死で涙を堪えているように思えた。


 ……さて、どこで時間を潰そうか?

 まだ少し早いクリスマスソングが流れる商店街を、歩きながら考える。

 そのまま商店街を抜け、更に歩き続けると……そこには、占い師だろうか? いや、靴磨きか?

 小さな机に小さな椅子。その椅子に座ってるのは、古びたローブとおかしなオーラをその身を纏っている中年の男性。机の上には何も置かれていない。

 ……何だか気味が悪りぃ。関わらない方がいいだろう。

 そう思いながら、俺はその中年男の前を横切った。

「おい、そこのにぃちゃん。ちょっと俺の話でも聞いていかねぇか?」

「……はぁ? んな暇なんてねぇよ」

 中年男はそんな俺の言葉を無視し、更に話を続けた。

「俺ぁよ、わかるんだよ。色んな人間を見てきたからなぁ? あんた、きっとこっち側の人間だわ」

「……おっさん、頭おかしいんじゃねぇの? 何だよ、こっち側の人間って?」

「死に取り憑かれた人間だよ。にぃちゃん、あんた……今すぐ死にたくなるような罪を犯した事はあるかい?」

「……マジ、きめぇ。ドン引きだわ」

 相手にするだけ時間の無駄だと思った俺は、男の言葉など無視し、歩き始めようと一歩前に出た。

「あぁ! そうか! 死にたいんじゃなくて、消えたいんだよなぁ?」

 俺はその言葉に、ピタリと足を止めた。

「ご名答かぁ~。何故わかるって? 簡単な事だ。殆どの奴がそう思ってるからだよ。別にあんただけじゃない。……なぁ、にぃちゃん。死ななくてもいいよ。けど、あんたは消えて全てから解放される。そんな世界に興味はねぇかい?」

「ない」

「そうかい。けどまぁ、俺はいつでもここにいるからよぉ? 考えが変わったらいつでも来な。いい話を聞かせてやるよ」

 俺は無言でその場から離れた。


 ……胸糞悪りぃ。何なんだよ、あのおっさんは。

 生憎だが、俺は変わったんだ。最近は死にたいとか消えたいだなんて思ってやしない。寧ろ考えてもいない。……その筈だ。

 ――その筈なんだ。

 なのに、どうしてこんなに胸がモヤモヤするのだろう。何故あんな奴の言葉に、こんなにも心が乱される?

『くそッ!』と舌打ちをしながら、俺は公園のベンチの上で横になった。

 あの男の言葉が、どうも俺を苦しめる。あいつは一体、何者だ?

 死神か? それとも悪魔か? ……馬鹿馬鹿しい。ただの頭がおかしいイカれたおっさんだ。

 気にする事はない。考える必要なんてない。

 俺は曲げた腕を額付近に掲げながら、ゆっくり目を閉じた。

 閉じた目が映すのは真っ暗な世界。一面、闇の世界だ。闇は、どんな人間にもついて回る身近な存在でもある。

 俺は次第に、珈琲に入れるミルクのように……ゆっくりと闇の中に溶けていった。


***


 気が付くと俺は、真っ暗な場所で一人立ち尽くしていた。辺り一面、闇に包まれている。俺以外、そこには誰もいない。

 突然、静寂を破るように……コツコツと靴音が響き渡った。

 闇の中だが、前方に見える人物だけははっきりと認識出来る。ローブを羽織った男が、ゆっくりと俺の方に近付いて来ていた。……あの野郎、さっきの奴か?

 一度はそう思ったものの、体型や背丈から見てどうやら違うようだ。

 じゃあ……あれは一体、誰だ?

 ローブの男は俺の目の前に立つと、低い声で話しかけてきた。

 その声には聞き覚えがあった。


 ――お前、本当に変わったのか? お前がいくら変わったつもりでも、人間の深い部分、根本的な部分は決して変わりやしない。

 人間の本質なんてもんはな、どれだけ努力しようが頑張ろうが、簡単には変わらないんだよ。

 大体、お前は変わったんじゃない。カズトの真似をしているだけじゃないか。

 お前は、紛いモノの【森野一人】だろう?

 ……いいか? お前は【森野一樹】だ。憐れで弱くて脆くて卑屈で、自分一人じゃ何も出来やしない惨めな男だ。

 お前、その事を忘れてはいないか?

 森野一人も、斎藤愛子も……お前のその情けない面を見たらどう思うだろうな?

 忘れるな。お前は独りだ。

 ――永遠にな。


 フードを外したそいつは、紛れも無く俺自身だった。背の高さも、癖っ毛も、その声も……何もかもが俺と瓜二つだ。

 急に目の前の映像が歪み始め、ノイズが走る。

 ――そうか。もうそろそろこの世界の終焉だ。

 もう一人の俺が、嬉しそうに笑う。

 残された俺はただ茫然と、この世界が消えていく様を眺めているだけだった。


***


 目を開くと、真上には眩しい太陽が輝いていた。

 先程までは誰もいなく静かだった公園が、子供達の声で賑わう。……俺は、あのまま少し眠ってしまったのだろうか?

 それにしても、酷い汗だ。珍しく鮮明に覚えている夢の内容に、激しく呼吸が乱れる。冷たい風が俺から流れ出た汗を、更にひんやりとさせた。

「畜生……いやに目覚めの悪い夢だったな」

 俺はベンチに座り、額に手をやった。何だか少し調子が悪い。眩暈がする。

 俺は腕時計を見て、時間を確認した。

 二時過ぎか……

 今日はカズトの友人が家にくるから、夜まで外に出てくれと言われていたな。

 しかし、熱が上がってきたのか寒気がする。頭痛も酷い……頭が割れそうだ。

 少し考え、俺はうちに帰る事にした。部屋に篭って、鍵でもかけてりゃ大丈夫だろ。

 この選択が幸か不幸かは、俺にはわからなかったが……俺はただ、早くベッドで休みたかった。彼女との約束の時間までに、少しでも体調を整えておきたかったのだ。

 俺はベンチからゆっくり立ち上がると、ふらつく足取りで帰路を目指す。……あのおっさんがいた場所は、なるべく通りたくないな。遠回りになるが、違う道から帰ろう。

 少し歩いただけで息が上がる。熱が上がってきたせいで、俺の思考は正常に機能出来ていなかったのかもしれない。

 ――なぁ、カズト。

 この日、俺が熱なんて出さなければ……

 家に帰る事を選ばなかったら……

 カズトの気持ちを理解出来ていたら……

 未来は変わっていたのかな……?

 ……いや、きっと変わりはしなかっただろう。

 その場合、少しばかり先延ばしになっただけで……カズトが紡ぐ未来は、きっと何も変わらない。

 カズトの強い意思は、誰にも止める事は出来ないのだから。

 ……そう、俺は無力だったんだ。

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