第4話


 もう、どれくらい時が経ったのでしょうか?

 身につけていた腕時計は役目を果たす事なく静止しているし、携帯の電源を入れようとしてもうんともすんとも言いません。

 お腹は空かないし、疲れる事もありませんが……私は精神的に、かなり参っていたのだと思います。

 何十分、何時間……そんなレベルなどではありません。ここから出られなくなって、きっと何日かが経過しています。

 その間、私は彼と必要最低限の事しか話さなかったので、余計に頭がどうにかなってしまいそうでした。

 どれだけ探しても出口なんて見つからない。

 このまま私は、ここで一生暮らしていかなければならないのでしょうか? ……得体の知れない影達と一緒に。

 そんな事を考え始めた時でした。

 草の中から、いきなり誰かが飛び出してきたのです。私はびっくりして、思わず声を上げました。

 彼は、そんな私を庇うように、咄嗟に自分の後ろに隠してくれました。

「カズトくん……」

 私はそんな彼の背中の頼もしさと温かさに、涙が出そうになりました。

 いつだって自分の事しか考えられない私は、本当に弱くて最低な人間だと思えたから。

「おー、いてて」

 ――驚きました。草陰から飛び出してきたのは、影ではありません。普通の人間です。

 そういえば彼が列車の中で、ここには自分と同じような人間も、たまに存在すると言っていました。きっと、この男性がそうなのでしょう。

 小太りで髪の毛が少し薄い、五十歳くらいの男性は、私達の存在に気が付くと、あっけらかんとした態度で話しかけてきました。

「お、人だ人だ!」

「貴方は……」

「カズトくん、人だよ! 私達と同じ! 他にも人がいたんだよ!」

「……ちょーっと待て」

 目の前の男性が、『あんたら呼ばれたんか? それとも偶然に迷い込んだんか?』と、意味のわからない事を私達に尋ねてきました。

 私が口を開こうとした瞬間、彼はすかさず『迷い込みました』と、男性に返事をしました。

 深刻そうに思えた空気は一変し、男性は納得したように、ニカっと歯を見せて笑いました。

「そうかー! あんたらマヨイかぁ。珍しいなぁ、最近じゃあんまり見る事もなかったからよぉ。あ、俺は大山鴈治郎っていうんだ! 気軽にガンさんとでも呼んでくれや」

「が、ガンさん。あの……」

「……俺達、帰り道を探してるんです」

『何だぁ? あんたら帰りたいんか?』などと、気の抜けた返事をするガンさん。その表情は、どこか驚いているようにも見えました。

「この世界は本当にいーところだぞ? なのになんで帰りたいんだよ? ……まぁいいや。うちこの近くだから、ちょっと寄っていきな。話を聞いてやる」

 そう言うとガンさんは、自分の自宅があるという場所まで私達を案内してくれました。

 私は、私達と同じ【普通の人間】と出会えた事に、湧き上がる喜びを隠せませんでした。


「まぁ、なんもないところだけどよー。ゆっくりしてってくれよ」

 ガンさんは豪快に笑いながら、私達の肩をバシバシと叩きました。彼は苦笑いをしながらも、ガンさんの話に耳を傾けていました。

 ……彼にお礼を言いそびれてしまった。さっき、助けてもらったのに。

 その事が気になって横目で彼を見てみると、彼は眉を寄せ、難しい顔をしながらキョロキョロと家中を観察していました。

 そういえば……ガンさんに会って、ここまで案内してもらっている途中、彼はガンさんの背中を睨みつけるように見ていたような気がします。

『あれ?』と思い、目をこすって再び彼を見た時には、もういつもの彼の表情だったから、私の気のせいかもしれませんが……

 ガンさんはこの場所について、色んな話を聞かせてくれました。そのほとんどが、彼から聞いて既に知っていた事だったのですが……何故か彼はわざとらしく驚いてみせたり、色々質問したりするので、ガンさんも気を良くしたのでしょう。

 ひたすら話す。とにかく話す。

 ガンさんは話し上手でありながら、とても聞き上手でもありました。

 私が『帰れないかもしれない』と悩めば、優しく励まし、元気づけてくれました。

 私はすっかりガンさんに心を許していました。色々相談したり話を聞いてもらったりしている内に、私の胸を蝕んでいる不安が、少しずつですが取り除かれていくような、そんな気持ちになれたのです。

「影なんて放っておいても何も危害をくわえたりしねーよ。大丈夫、大丈夫」

「ガンさんが言うと、何だか本当に大丈夫! って気持ちになってきます!」

「がはは! ねぇちゃん、そりゃいい事だ!」

 ガンさんは、もう二十年もこの街で過ごしていると言いました。お腹も空かないし眠くもならないから、現実世界よりここの方がずっと居心地がいい。そう言いながら大声で笑っていました。

「心配せんでも、あんたらは単なるマヨイだから出口さえ見つかりゃ簡単に帰れるよ」

「……? じゃあ、ガンさんはここに迷い込んで来たんじゃないんですか?」

「俺はちぃーとばかり違うんだな。まぁ……聞かねぇ方が身の為だよ、ねぇちゃん」

 頭にクエスチョンが浮かび上がりましたが、きっとガンさんは、彼が前に言っていた【この世界に来る為の条件】とやらを満たして、ここにやって来たのでしょう。

 ……それにしても、彼は何故ガンさんに『迷い込んだ』なんて言ったのでしょうか?

 ガンさんが話した内容を、あたかも初めて知った事のように振る舞った彼。

 隠さなければならない事情でもあったのでしょうか?

 そっと彼の方を見てみると、彼はガンさんに見つからないように、私に向かってこっそり人差し指を立てました。

 ……言うな、って事だよね? どうしてだろう?

 とにかく私は彼の指示通り、何も言わない事にしました。


「……実はよ、俺出口の場所知ってんだよ」

「え? けど、狐の面を被った子供が出口は定期的に位置を変えるって……」

「あんたら、神童に会ったのか? あちゃ~! じゃあ、この事は内緒にしてくれよ? ……まぁ、もう会う事はないか」

「じゃあ、ガンさん……本当に出口の場所を知ってるんですか?」

「おうよ! あんたら、ここに長くいても意味なんてないだろ? 特別に教えてやるよ!」

 影しかいないこの世界で、私と彼のような普通の人間に出会えた事。それは、ふさぎ込んでいた私に勇気を与えてくれました。

 それに、出口の場所を知っているだなんて!

 良かった! これでやっと元の世界に帰れるんだ!

 感極まって『やったぁ!』と叫ぶ私の隣で、ずっと黙り込んでいた彼が口を開き、ガンさんに問いかけました。

「……何故、出口の場所を?」

「? カズトくん?」

「あぁ?」

 私は純粋に、二十年もここに住んでいるのだから出口が出現する時間帯などを、ガンさんが把握しているだけじゃないの? と思いましたが、彼はどうやら違うようで……何か気になる事があるようでした。

「貴方は断言しましたよね? 出口の場所を知っていると。それはおかしい」

「あのなー、にぃちゃん。俺はここに二十年も住んでるんだから、それくらい……」

「出口は一定の場所には留まらない。決まったサイクルもない。何か小細工をしない限り出口を留めておく事は出来ない」

「……まぁ、確かにそれはにぃちゃんの言う通りだ。けど俺は、いつでも元の世界と行き来出来るように【あるもの】で穴を固定してんだわ。だから――」

「それは神童から持ち去ったもの、ですよね?」

「! にぃちゃん、何でその事を!」

 彼は立ち上がり、一歩ずつガンさんとの距離を詰めていきました。

「出口を知っているにも関わらず、帰る事もせず……【その姿】でこの世界に存在している」

 彼とガンさんとの距離は数センチ。必然的にガンさんより背の高い彼が、ガンさんを見下ろす形となりました。

「……俺は五年この街にいた。けれど、貴方を【ここ】で一度も見かけた事がない。ねぇ、ガンさん。貴方……一体、何人の人達をここに導いてきたんですか?」

 彼の言葉に、ガンさんの目つきが鋭く変わったような……そんな気がしました。

 二人の間に不穏な空気が流れ始めますが、私にはまったく事情が飲み込めず、ただ傍観するしかありません。

「……にぃちゃん。もしかしてあんた、【ミチビキ】か? じゃあ、そっちのねぇちゃんも」

「彼女は本当に迷い込んだだけだ。それに俺も……導きなんかじゃない」

 突然ガンさんが、目の前のちゃぶ台を投げ倒し、襖を蹴破り、豪快に笑い転げました。

 優しかったガンさんのいきなりの豹変と、ただならぬ事態に、私は恐怖を隠せませんでした。

「おいおい! ミチビキじゃないだって? んなわけないよなぁ? その姿見ればわかるんだから! なぁ、そうだろ? じゃあ、にぃちゃんも……俺のお仲間ってわけだ?」

 ニヤニヤと、気持ちの悪い笑顔を見せるガンさんに対し……

「俺は貴方とは違う。……ちゃんと受け入れるつもりだ」

 彼は凛とした強い眼差しで、はっきりそう答えました。

「……わっからねーな。何でだよ? ちょうどいいのが隣にいるじゃねーか? ここの暮らしはいいぞ~?」

「彼女に罪はない」

「馬鹿だなぁ、あんた。罪のない人間なんて、この世に一人だっていやしねぇよ。知らねぇ間に、人間に踏み潰された蟻だっているようにだ!」

「何故貴方はこれ以上罪を増やす? ここに来た時は、貴方だって己の罪を悔やんでいた筈だ」

「……何故、だって?」

 そう言うとガンさんは、腹を抱えながら、耳が痛くなるくらいの大声で笑い出しました。

「おもしれーからだよ! 楽しいからだよぉ。ここにいれば捕まらねぇし、代わり差し出せば罪に問われる事もねぇ! ここは楽園だ。黄金の楽園! 俺にとっては天国でしかねぇよ!」

「……屑が」

 下品に笑い転げるガンさんに対して、明らかに怒りを露わにする彼。

 一体、何が起こっているのか……

 彼らが、何を言っているのか……

 突然の出来事に、私は何が何だかわからなくなりました。

「そういやぁ……あんた、思い出したぞ? 随分と話し方や雰囲気が違うから、なかなか気付けなかったが……あんたあの時、フード被って何かブツブツ言ってた奴だよなぁ?」

「……え?」

 ――カズトくんとガンさんは顔見知り?

 二人は、以前もどこかで会った事があるという事なのでしょうか?

 一体、どこで……?

 私は軽く混乱しながらも、二人の言葉を聞き逃すまいと、彼らの会話に集中しました。

「俺がここに連れてきた人間は数知れないが、あんたの事は妙にインパクトがあったから覚えてたぜ」

「……神童が貴方を捜している。貴方は【それ】から逃れる為、頻繁に元の世界とこの世界を行き来していたようですね。神童やこの世界は、導きの存在を肯定したりしない。飢えた神樹が何を言おうが……貴方は貴方の罪を償うべきだ」

「おい、いいのかよ? 俺のおかげでねぇちゃんはここから帰れるんだぜ? それなのにあんた……俺にそんな口を聞いてもいいのかねぇ?」

 ガンさんは、私を見ながらそう答えました。

 ……確かにそうです。

 ガンさんが帰り道を教えてくれないと、私はもう二度と……元の世界には戻れないかもしれません。

 ガンさんが何者であれ、一度は出口の場所を教えると言ってくれたのに、何故彼は突然こんな事を言い出したのでしょうか?

 黙り込む彼を見ながらガンさんは腰を下ろすと、深く息を吐きながら『やれやれ』と呟きました。

「まぁいいや。そっちのねぇちゃん、帰してやりたいんだろ? 出口、教えてやるよ。俺は今最高に気分がいいからなぁ。【仲間】が見つかってよぉ? それににぃちゃんには、ここに連れてきた詫びもしなきゃなんねぇしなぁ」

 ガンさんはそう言うと、『よっこらせ』と立ち上がり、倒したちゃぶ台を起こして、片付けを始めました。

「ここの暮らしは最高だが、退屈なのは頂けねぇ。にぃちゃんの行く末、俺がじっくり見届けてやるよ。……ほら、そこだよ」

 ガンさんが窓の外を指指しました。窓に近付いて見てみると、ここから少し離れた場所に蔵のような建物があるのがわかります。

 それを見た彼は、一目散に走り出したので……私も急いでその後を追いました。

「ねぇちゃん送ったら、また戻ってきなー。話してぇ事もあるしよ!」

 背後から、そんなガンさんの声が聞こえてきました。


 蔵に辿り着いた私達は、急いで中を覗き込みました。

 不安定な円が光り輝く棒に固定され、あの【森】を映し出しています。棒を取り除いてしまえば、出口は一瞬にして消え去ってしまうでしょう。

 ガンさんは、この穴から自由に出入りをしていたという事なのでしょうか?

 ……何故なの? 一体、何の為に。

 ガンさんはこの世界がとても好きで、ここに住んでいると言っていました。身内ももういないし、元の世界に帰る必要がないとも。それなのに、何故……

 ガンさんとカズトくんの【繋がり】。

 ガンさんが言っていた【ミチビキ】。

 カズトくんが言っていた【罪】。

 そして、あの神童と呼ばれる少年が言っていた【身代わり】。

 色々と謎は残ったままだ。

 カズトくんにも、ガンさんにも罪がある?

 だから、この黄昏の街に来れたという事なのでしょうか?


「……アイコ」

 考え込む私の脳内に響き渡る、優しくて愛おしい彼の声。思考を重ねていた脳は、一瞬にして彼の声に引き寄せられ……何も考えられなくなりました。

 だって彼が、どうしようもなく泣きそうな顔をして笑っていたから。

「アイコ、怖い思いをさせて本当にごめん。その穴から元の世界に戻れる。早く行くんだ」

 彼は穴を指指すと、優しく私を誘導しました。

「か、カズトくん……カズトくんも一緒に帰ろう。帰ろうよ!」

 彼はそっと首を横に振ります。

 ……わかっていました。こうなる事はわかっていました。

 けれど、言わずにはいられない私は……彼の両腕を掴み、必死に泣きつきました。

「嫌だ、そんなの嫌だよ! ごめんなさい! 私がカズトくんを信じなかったから、疑ったりしたから……だから!」

「それは違う」

 彼は強い口調で、私の言葉を遮りました。

「俺はもう帰れないんだよ」

「そんなの……嘘だよ」

「嘘じゃないんだ」

 彼は優しく微笑みながら、私の頭を撫でました。

「俺はね、君が思っているような人間じゃないんだ。本来なら、君に好いてもらえるような……そんな人間じゃないんだよ」

「どうして、そんな事を言うの……?」

「君は俺を知らない。君は俺の事なんて、何も知らないんだよ。何もね……」

 彼の声が少し震えていました。手も、震えていたような気がします。

 私は彼の事を何も知らない。……そうかもしれません。

 この世界に来てから私の知らなかった彼の顔が、少しずつですが見え始めました。私はそれを知っていく内に、違和感を感じずにはいられませんでした。

 そして気付いたのです。私は勝手に【彼】という人物を理想のままに作り上げ、ただ盲目的に好意を抱いていたに過ぎないんだという事に。

 だから、ほんの少し何かあっただけで彼の事を簡単に疑ってしまい、信じきる事が出来ませんでした。

 けれど……この気持ちは嘘じゃない。

 どうか、それだけは信じて欲しい。


「君と初めて出会った時、本当は俺さ、色んな事に疲れていて……このまま死ねたらどんなに幸せなんだろうって思ったりしていたんだ」

 彼はぽつりとそう呟きました。

 その言葉は私の中にジワジワと染み渡り、次第に心を真っ暗な闇で覆い尽くしていきました。

 彼は底のない闇の海で、ずっと一人でもがき続けていたのでしょうか?

「孤独が一番怖かったのは、本当は俺の方なんだよ。けれど、どうしようもなく馬鹿な俺は……格好つけて君を勇気付けようとした。そしたらさ、君はまるで子供のように泣きじゃくり……泣けない俺の分まで、一緒に泣いてくれたんだ」

 彼は今まで見た事がないくらいの最高の笑顔で、私に微笑みかけてくれました。

「最後にちゃんとお別れが出来て、本当に良かった。ありがとう。森野一人は君と出逢えて……きっと、幸せだったと思う」

 そう言うと、彼は私の身体を【穴】に向かって、ゆっくりと突き飛ばしました。

 スローモーションで、彼と私の空間が広がっていく……それと同時に眩い光が私の身体を包み込んでいきました。

 私は懸命に手を伸ばしましたが、それは虚しく空を切るだけ。


 ――いやだ! 嫌だ! 嫌だ!

 待ってよ、カズトくん!

 置いていかないで――


 私の想いや声は彼に届く筈もないまま、儚く消える……

 やがて初めてこの世界に来た時のように、私の意識は薄れ始めていきました。

 泣きそうに笑う彼の顔。消え始めていく出入り口。

 ――あぁ。カズトくんは、あの光る棒をきっと……

 きっ……と……


 チリンチリン……


 私が完全に意識をなくすその前に、あの優しい鈴の音色が聞こえたような……そんな気がしました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る