第3話
3
――柔らかい風。眩しい太陽。
紺碧の空に、白い雲がゆっくりと流れる。
一面に広がる草原は、まるで緑の海原。膝まで伸びた草は、私を優しくくすぐった。
草原の先には、色鮮やかに咲き誇る美しい花。
赤、青、黄、白、薄紫、桃。
風に遊ばれ、優しく身を揺らすその姿はとても愛くるしいものだ。
蝶が舞っている。まるで、妖精のワルツのようだ。踊り疲れた蝶は、桃色の花の上で羽を休めた。
水が流れる音が聞こえてくる。近くに水流があるのかもしれない。
そこに根を張り、この世界の全てを見据える大樹。それはきっと、神霊を宿す樹木に違いない。
私はその樹の下で、じっと空を見上げていた。
――葉は歌う。風と共に。
――鳥は歌う。空と共に。
――私は歌う。……命と共に。
真っ白のワンピースに裸足で草原に飛び込んだ私は、大声で叫ぶのだ。
全ての命は尊いのだ、と。
『おや? どこからか泣き声が聞こえるぞ』と、風が私の手を引いて、その声の元まで案内をする。
優しい風は、まるで私の身体まで風に変えてしまったかのように……軽く、素早く、その場所まで運んでいった。
目の前で、小さな子供が泣いている。
誰にも見つからないように……小さく、小さく、疼くまって泣いている。
……あなたは誰? 何故、一人で泣いているの?
その小さな子供は、こちらの声など聞こえていないかのように泣き続ける。
そして、そのまま消えていった。
ゆっくり……
ゆっくり……
ゆっくり――
***
「アイコ、起きて。アイコ」
……私を呼ぶ声が聞こえる。優しくて落ち着いた声。
あぁ、彼の……カズトくんの声だ。
私はゆっくりと重い瞼を開く。
「良かった。目が覚めて」
そう言うと彼は立ち上がり、私の身体をゆっくり引き起こしました。
「ここ……どこ? 天国……?」
「違うよ。寧ろ、地獄かもしれないね」
そう言われ、今までの記憶が鮮明に甦ってきました。
「じゃあ、ここが……」
「そう、黄昏の街」
目の前にある景色は、一瞬にして私の心を奪ってしまいました。
黄色に近いオレンジ色の夕焼けが、どこまでも続いています。それは、私達が普段から目にしている夕焼けとは、少し違ってみえました。
黄金の空。黄昏の街。
本当に実在したんだ……
そこは、とてものどかでした。そして、どこか懐かしさを覚える地でもありました。
周りには昔ながらの古い家や建物が立ち並んでおり、水車がくるくると回っていて、とても風情に富んだものでした。
手鞠歌を歌っている女の子。
もウ帰ッテきなサいよーと、子を呼ぶ母親。
カァカァと、電線の上で鳴いているカラス。
井戸水を引き上げている老人。
そこは、説明しただけで誰もが容易に想像出来てしまえるような世界であり……または、どこかで一度くらいは目にした事があるような場所でした。恐らく、教科書などにも載っていたような……そんな風景が私の目の前に広がっていたのです。
街というよりは、村に近いかもしれません。
ただ一つだけ違うのは、存在する全ての人や生き物達は皆、姿形がなく……まるで影のような存在だという事。とにかく、身体が全て黒に覆われていました。
「……カズトくんの言ってた通りだね」
「ね、本当にあったでしょ? 嘘なんかつかないよ、俺は」
彼は疑われた事を少し根に持っていたみたいで、得意気にそう答えました。
「俺はずっとここで暮らしていたんだ。ちょうど、河原に行かなくなった時期から……かな?」
「じゃあ、ここに五年近くも⁉」
「ははっ、住み心地は悪くないんだよ。元の世界と違って色んな欲求が免除されているしね」
「免除って……どういう事?」
彼は『そうだなー』なんて言いながら、突然指を三本立て、その一本ずつを折り曲げながら説明してくれました。
――この世界ではお腹が空かない。だから、食べる必要がない。
――この世界では眠くならない。だから、眠る必要がない。
――この世界では疲れを知らない。だから、休む必要がない。
「きっと他にもあるだろうけど、とりあえずわかるのはこれだけ」
そう言えば、彼に会えた事が嬉しくてすっかり忘れていたけれど、私ずっと何も口にしていなかったんだ……
それなのに、お腹が空いたような感覚が、確かに微塵も感じられません。
それに、列車の中ではあんなに眠そうに欠伸を繰り返していた彼も、今ではすっかり目が冴えているように感じられました。
ここは、なんて不思議な場所なのでしょう。このような世界が、私達の住む地球上に存在するだなんて。
――朝も、昼も、夜もやってこない世界。
お腹が空かない、眠くならない、疲れない。……そんな世界。
そして、実体を持たない影だけの世界。
背筋がぞくりとするも、口角が少しだけ上がってしまっている自分に気が付きました。
どうしよう……何だか胸がドキドキする。
私、もっともっとこの世界の事が知りたい。
――そう。私はこの世界に惹かれ始めていたのです。それも、恐ろしいスピードで。
「――ちょッと兄ちャン達、後ロ通るヨ~。退いトクれ」
後ろから歩いてきた影が、私達に声をかけてきました。
「あ、すみません。どうぞ」
「ご、ごめんなさい!」
私達は急いで道を開け、影の姿をしたおじさんに場所を譲りました。
「アリがトよー」
そう言うと荷台を引いた影は、ゆっくりゆっくりと歩いていきました。
「うわぁ……びっくりした!」
「大丈夫。悪い人ではないよ。怖くなかったでしょ?」
「うん! 全然怖くなかった。今の影のおじさん、とっても優しそうな人だったね!」
「あの人はいつも荷台を引いて、ああして歩いているんだよ。とても働き者のようだね」
「姿は影でも……普通の人間と変わらないんだね」
「そうだね。肉体がなくても、皆一生懸命この街で生きてる。住んでる世界が違えど、俺達と何ら変わりはないんだよ」
「生きている……私達も、影達も」
ひぐらしの鳴き声が聞こえた。そして、遠くから汽笛の音も。どこかで汽車が動いているのでしょうか?
一体この空は、どこまで続いているのでしょう?
あぁ……とても心地良い。
私はいつの間にか、この世界を楽しんでしまっている自分がいる事に気が付きました。
空気はとても綺麗だし、この素晴らしい情景に現実社会で疲れきった心が癒されます。
影の人達も、悪い人ではないみたい。表情はわからないけれど、少なくともここにいる影達はきっと……皆穏やかで優しい顔をしているのだろうなと思いました。何故か、そう感じたのです。
私はとても、黄昏の街に興味を持ちました。
けれど、彼はそんな私の気持ちを見抜いていたのでしょう。
「アイコ、駄目だよ」
「え?」
「この世界に魅了されてはいけない」
――約束だからね?
そう言うと……彼は私に背を向け、歩き始めました。
「場所、移動しようか」
「あ、うん……」
私は、ゆっくり歩を進める彼の後を追いました。
彼の大きな背中は、何だかいつもよりも小さく見えました。
私達は色んな場所を散策しました。
野原に、バス停に、堤防に、公園に。
それはとても楽しくて、本当に有意義な時間でした。
彼と会える時間はいつも限られていたから、今日は時間を忘れて、思いっきり楽しんじゃおう! そんな事を思っていました。
ここでは、今まで彼と過ごせた時間の何倍も、二人で一緒に過ごす事が出来ます。
仕事だって行かなくていい。お金だって、この世界では必要ない。
彼と、ずっとずっと笑いあって……ずっとずっと一緒にいられるのです。
――黄昏の街。
彼と一緒にいられるのなら、私……ずっとこの世界に――
私は、突然脳裏によぎった言葉を無理矢理かき消すかのように、頭を思いっきり左右に振りました。
……駄目だ。すぐに流されてしまう。本当に私の悪いところだ。
ここは私の世界などではないし、彼も私に『帰りたいという意思を手離してはいけない』と、そう言いました。
約束は守らなくてはいけない。約束は破る為にあるんじゃない、守る為にあるのだから。
私は、何度もそう自分に言い聞かせました。
「うわぁ……汽車だ! 大っきいね」
私は目をキラキラ輝かせながら、齧り付くように黒い機体を見つめました。
「……乗りたいんでしょ?」
「うん! 乗りたい!」
「でもこの中……すっごい混んでるんだよね」
「いいの! 乗りたいの! 混んでてもいいから乗るの!」
私が汽車に乗りたいと駄々をこねると、彼は苦笑いを浮かべながらも私に付き合ってくれました。
汽車の中には、やはり沢山の影達がいました。
彼が言った通り、もの凄い数の影達がいる事に、私はとても驚かされましたが……ほとんどの影達が、一つ目の駅で汽車を降りていきました。
「色んな発見があって楽しい! ――あっ! 見て見て! 今降りた影の人……帽子落としていったのに気付いてないよ! 後ろの人が帽子拾って追いかけてる! 追いつけ~! 頑張れ~! あ、気づいた! ほら見てカズトくん! あの人やっと気付いたよ!」
にんまりしながら、ついつい観察を続けてしまう私。
子供のようにキャッキャッとはしゃいでは、この世界を思いっきり楽しんでいました。
「あのね、アイコ……」
「……はいはい、わかってますって! ちゃんと帰るし、ここに残りたいだなんて言わないから。ちょっと興味があるだけだよ」
「わかってるならいいんだけどね」
彼は呆れたように溜息を吐きましたが、私は軽く無視をし、じっと窓の外を眺めていました。
「……あ、そういえば」
「はいはい、今度は何?」
私は困ったように笑っている彼の方を向き、気になっていた事を聞いてみる事にしました。
「皆、さっきの駅で降りちゃったけど……さっきの場所には一体何があるんだろう? カズトくん、知ってる?」
「あぁ、この先にあるのは墓地だよ」
「墓地?」
「ここに住んでいる影達も俺達と同じように年を取るんだ。そして、いつか必ず死を迎える。肉体を持たない影達は火葬される事もなく、土葬される事もなく……ただいきなりこの世界から消えてなくなる。けれど、それだけだと悲しいと思ったこの世界の住人達が、形だけではあるけれど、この地に墓地を作ったらしいよ」
「ふぅん……お墓かぁ。じゃあ皆、お墓参りに行ったんだね」
……影のお墓参りか。
あんなに沢山の影達がさっきの駅で降りていったのだから……以前この街には、もっと沢山の影達がいたという事になります。一体この世界は、どれくらいの年月を影達と共に生きてきたのでしょうか?
きっと、私には想像も出来ないくらいの長い歴史や物語があるのでしょうね。
「まぁ、俺もそこには行った事がないんだけどね。そういう神聖な場所に、簡単に足を踏み入れるような真似はしたくないんだ。……それより、アイコ。窓の外を見てごらん」
彼に言われるがまま、窓の外に目を向けてみると……そこには、一面に広がる美しい海がきらびやかに映し出されていました。
「わぁ、海だ!」
「行ってみる?」
「うん!」
「じゃあ、次で降りよう。……ちょうど着いたみたいだ」
汽車は煙を撒きながら、ゆっくりと停止しました。連結部分が金属音を鳴らします。
私達は急いで汽車から降りると、目の前に広がる海に向かって一直線に駆け出しました。
「……綺麗だね」
「うん。とても……」
砂浜に打ち寄せる穏やかな波。波の音は、静かに哀愁を漂わせていました。
「だけど……」
「だけど、何?」
オレンジ色が反射した海は、まるでこの世の終焉を見届ける役割も果たしているように見えて……美しいのだけれど、何だか少し切ない。
「……何でもない!」
「変なアイコ」
目を細めて笑う彼も、何か思う事でもあるのでしょうか? 私からゆっくりと目を離すと、静かに海を眺めていました。
ふと浜辺の方に目をやると、寄り添い合う二人の影が見えました。
二人はきっと、恋人同士なのでしょう。
女性は男性の肩にもたれ、静かに海を見つめています。二人の手はしっかりと繋がれていました。
「……お幸せに」
私は小さい声で二人にエールを送りました。
彼と一緒に海沿いを歩いていると、沢山の影達とすれ違いました。
「コんにチは」
「こんにちは」
影と挨拶を交わしたり、少し立ち止まって会話を楽しんでみたり、笑い合ったりする事もありました。
皆優しく親切な人達ばかりで、話していて凄く楽しかったのを覚えています。
非日常的な現状に私の感情は高ぶっていて、とても興奮していました。
そんな時、彼は時折立ち止まっては、通り過ぎていった影達の背中を……とても悲しい表情をしながら見ていました。
黄金の空が彼の背後に、長い長い影を作り出します。
彼の影が、彼の身体からそっと離れて……あの影達と共に、遠く離れた【どこか】へ行ってしまいそうな気がして……私は思わず、彼の袖をギュッと握りました。
美しい黄金の空は……彼を、そしてこの世界の全てを一気に飲み込んで消し去ってしまうような、不吉な感じがして……
私は、何だかとても怖くなりました。
「……カズトくん、大丈夫?」
「ん? ……何が?」
彼はいつものように優しく微笑んで、そう答えました。私は、何か気の利いた言葉を必死で探しましたが……上手く言葉にする事が出来ません。
「……そうだ! オニギリ食べる? 買ってあったの忘れてて! あ、でも……お腹空いてないか」
元気づけようとして、失敗して。しょんぼりする私の姿が可笑しかったのか、彼は声を出して笑いました。
「あはは! 本当に君って人は。……確かにお腹は空いてないね。でも、せっかくだから一緒に食べようか。こっちにおいで」
「うん!」
海が真正面に見えるコンクリートの上に座り込み、私達は二人で、仲良くオニギリを食べました。
お腹はまったく空いてはいなかったけれど、何故か満たされたような……そんな気持ちになりました。
「ねぇ、一つ聞いてもいいかな?」
「どうしたの?」
「あのね、カズトくんは……どうしてもう一度ここに来たいと思ったの?」
そう彼に尋ねると、彼は黙って視線を地面に落としました。
……私は、ずっと気になっていたのです。
確かに、この不思議な世界は私達が住む世界にはないものだし、心が揺さぶられるのもわかります。
けれど……五年近くも一人でこの世界いて、再び戻って来たいと思うものなのでしょうか?
寧ろその前に、そんなに長い期間……ここで暮らせるものなのでしょうか?
知っている人が、誰一人といないこの世界で。
最初の内は、探究心や好奇心でこの世界の事を色々調べたりするでしょう。
そして新たな発見をしては、喜び……感動を覚えるに違いありません。
けれど、五年も一人で……飽きもせず暮らしていけるものなのでしょうか?
……私には、とても無理です。
彼と一緒にいられるならまだしも、一人でなんて……私には、とてもじゃないけど考えられませんでした。
「あ、ごめん! 答えたくなかったら答えなくてもいいからね? ほんの少し気になっただけだから」
「そんなに気を使わなくていいのに。君はいつも、俺に気を使いすぎなんだよ」
彼は屈託ない笑顔を見せながら、私にそう言いました。
静かな波の音がまるでBGMのように、二人だけの空間を創り出す。優しい風が髪を揺らし、彼の長くて黒い前髪がふわりと浮き上がりました。
彼は浮いた前髪を掻き上げながら、じっと私を見つめました。私は目を逸らす事も出来ず、ただただ彼に魅入られていました。
もう片方の手で、そっと私の毛先に触れ……名残おしそうに離れる彼の指。
トクンと胸を打つ鼓動。
緩やかに波打つこの心音は、まるで目の前に広がる壮大な海のようです。
……私はきっと溺れてしまうでしょう。この海の底で。
そんな私の気持ちに気付きもせず、彼は何もなかったかのように話し始めました。
けれど、その表情はとても寂しそうでした。
「最初に来た時は、勿論俺も……今の君みたいに凄く興奮したよ。こんな世界があっただなんて、ってね。知れば知るほど高揚し、夢中になっていった」
「……うん。まぁ、そうだよね。わかるよ。こんな世界が本当に存在するだなんて、思いもよらなかったからね。夢中になってもおかしくないと思う」
「……けど、俺は最低だね」
「え……?」
「君は俺に会えなくなって寂しい想いをしてくれていたのに……それなのに俺は、この世界の事をもっと知りたくて、それしか頭になくて……君の事を忘れていた。本当にごめん」
「……いいよ。大丈夫だよ! そんな事、本当に気にしなくて大丈夫だから! ……あははっ、カズトくんは律儀な人だね、もう!」
私は彼に精一杯の笑顔で笑いかけたけれど、彼は俯いたまま、再び私に『ごめん』と告げました。
――謝らないでよ。お願いだから。
これ以上……惨めにさせないで。
本当は胸が苦しくて切なかったけど……それはどうしようもない事、仕方のない事です。
彼と私の想いの差。温度差が違っただけ。
零れ落ちそうになる涙を必死に堪えながら、私は彼の言葉をじっと待ちました。
「……けれど調べていく内に、俺は真実を知る事になる。俺はここに、【偶然】迷いこんだんじゃない。導かれたんだよ、この世界に。それはきっと、必然だったんだ」
――必然。
偶然ではなく、必然……?
彼はここに来る【運命】だった。……そういう事なのでしょうか?
そんなまさか……けれど、もしそれが本当なら、一体何故?
カズトくんには、何か心当たりでもあるのでしょうか?
「――アイコ。俺列車の中で、出来ればずっとこの世界に留まりたい。……そう君に言ったよね?」
「……うん。確かそう言ってたけど」
「本当はさ、少し違うんだ。俺には……元の世界には戻りたくない理由があった。だから、ここに逃げてきたんだ」
「逃げて……きた?」
「そう。逃げてきた。この世界は、そんな俺を受け入れてくれた。だから俺は……この世界が好きだ。出来る事なら、このままずっとここにいたいと思っていた。けれど俺には、元の世界に帰らなくてはいけない事情があった。どうしても、自分の目で確認しなくてはいけない事があったんだ……」
『結局、確かめる事は出来なかったんだけどね』と、彼は苦笑いを浮かべました。
「ここから出る時にさ、俺……この世界と契約を交わしたんだ。『必ず、もう一度この世界に戻ってくる』と。だから戻ってきたっていうのが……正しかったりする」
彼は、とても悲しそうに笑いました。
その泣いているような笑顔に、私はとても胸が締めつけられました。
「……そう。俺は必ずもう一度、【ここ】に戻ってこなければならなかったんだ。……何があってもね」
「カズトくん……」
「……そうだ、アイコ! 実はね、ずっと君に聞いてみたかった事があるんだ」
「私に、聞いてみたかった事……?」
「君にとってこの世界は、どんな世界だと思う? この世界は、君の瞳にはどう映って見える? そして……君には、今の俺がどう見える?」
彼は真剣な眼差しで私を見つめながら、静観しました。
波達がザァザァと、波打ち際まで競争を続けています。真の勝利者は、新たな波の存在に簡単にかき消されてしまい……儚く消えていくだけ。
先程見かけた恋人同士が、脚だけ海に浸かり……互いに水をかけ合っては、はしゃいでいる姿が視界に入り込んできました。
彼をあまり待たせてはいけないと思いましたが、一度に色んな事が起こり過ぎていて……上手く頭の中でまとまりません。
少し考えてから、私は思ったままを口にしました。
「どうって……不思議な世界だと思うよ。樹の中にこんな世界があるだなんて、誰も想像出来ないだろうし。さっきの影の人達も本当は怖がらなくちゃいけないんだろうけど、まったく恐怖を感じなかったし。だけど、この世界が一体何の為に存在して……何故カズトくんがここに戻ってこなくちゃならなかったのかとか……そんな事、私には全然わからないよ」
彼は黙ったまま、じっと私の声に耳を傾けていました。
私は緊張しながらも、更に言葉を繋げます。
「カズトくんは……昔からずっと変わらない。優しくて強くて、誰よりも尊敬できる人だよ。ここに来てからは少し口数は減ったし、何だか少し元気がないように見えるけど……それでも、カズトくんはカズトくん。何も変わらな――……え?」
その時、突然私の口の前に彼の手の甲が現れました。……それは、私の言葉を静止させるには充分な威力がありました。
「……そうか。ありがとう、アイコ。もういい……もういいよ」
そう言った彼の表情は笑ってはいるものの、今まで見た事がないくらい悲しそうでした。
きっと私は、彼が求めていた言葉をちゃんと答える事が出来なかったのでしょう。
彼には一体、何が見えているというのでしょうか?
彼は私に……どんな答えを求めていたのでしょうか?
あの頃の私は、彼の言葉の意味を一つたりとも理解する事が出来ていませんでした。
チリンチリン……
突然、どこからか鈴の音色が聴こえてきました。
そちらの方向に目を向けると、狐面をつけ、淡い藍色の甚平を着た小学生くらいの少年が……ゆっくりとこちらに向かって歩いてきました。
まだ小さいその身体から異様な貫禄を感じ、つい萎縮してしまいます。
少年の素顔を隠している狐面には奇妙な装飾が施されており、作り物でしかない筈なのに……まるで面そのものに生命が宿っているかのように見えました。
それはまるで、サーカス会場に必ず一人はいる道化師そのもの。笑顔の仮面を張り付けたピエロのよう。
その笑顔の裏では、一体何を企んでいるのか? ……何を思っているのか?
表情のない空洞のその目は、静かにじっとこちらを見つめていました。
面の横から見える白いうなじから、彼は影ではないという事がわかりましたが……では、私達と同じか? と聞かれてしまえば、答える事が出来ません。それくらい少年の存在は異色に思えました。
「おかえりなさい」
私には一切目もくれず、少年は優しい声色で彼にそう話しかけました。
「……君か」
「随分とお早いお帰りでしたね。もう良いのですか?」
「……ああ。もういいよ。ありがとう」
「いえいえ。――で、どうするか決められましたか?」
「それは……」
そう言って黙り込む彼を横目に、少年はやれやれといった素振りを見せると、今度は私の方に振り返りました。
私は驚き、一歩後ろに下がります。ただの少年ではない事は一目瞭然だったし、用心するにこした事はありませんから。
「こんにちは」
「えっ……あっ! こんにちは……」
「貴女は誰ですか?」
少年は、不思議そうに首を傾げました。
「えっと、私は……」
私が返答に困っていると、少年は私から視線を逸らし、再び彼に問いかけました。
「こちらの女性はご友人ですか」
「……そうだよ」
「では、彼女を身代わりに?」
「彼女は違うよ。……そうじゃない」
――身代わり?
「……そうですか、それはよかった。私もこの世界も、それを望んでいませんから。しかし、関係の無い者がここに長くいると非常に危険ですよ? ……貴方わかっていますよね? では、何故お連れに?」
私は二人の会話から、もしかして何かとんでもない事が起きているのではないかと不安になり、彼を見ましたが……彼は沈黙したまま、ずっと俯いていました。
「……まぁ、いいでしょう」
狐面の少年は、再びこちらを向いて言いました。
「お嬢さん、早くお帰りになられた方が身の為ですよ。いつ隣の男が、貴女を身代わりに差し出すやもしれませんからね。……ふふ」
「……俺はそんな事しないよ。絶対に」
少年はクスクス笑うと、『ハイハイ』と軽く返事しました。
「とにかくお嬢さん。貴女は、此処にいてはいけない存在です。面白半分で来て良い場所と、そうでない場所があります。……早々にお引き取りを。まぁ……無事に帰る事が出来れば、の話ですがね」
「え? それって、どういう……?」
「この世界の入り口は一つですが、出口はそこら中にいくつも存在します。けれど、その出口は非常に儚いもので、輝きを放つのはせいぜい五分が限度でしょう。出口はすぐに消え去り、また他の場所に移動する。まぁ、運が良ければすぐに見つかりますが……そうでなければ二度と出られない事もあるかもしれないという事です」
「……待ってくれよ。君は出口を創り出せる。それなのに、どうして出してくれないんだ?」
「……嫌ですよ、面倒臭い。招かれて来た者には出す事もありますが、彼女はそうではない。勝手に来たのだから、勝手に去れば良い話です」
そう言うと少年は、チリンチリンと鈴を鳴らしながら……静かにその場から立ち去りました。
「ねぇ、カズトくん……今のって、どういう事なの……?」
「……ごめん。迂闊だった。今の子供が、帰り道を出してくれると思っていたんだ。……俺の時みたいに。けど、大丈夫だよ。きっと君を元の世界に戻してみせるから。……必ず」
そう言うと、彼は歩き始めました。『戻してみせる』って……じゃあ、カズトくんは?
そう聞きたかったけど、何故か聞く事が出来ませんでした。
とにかく私は、そんな不安な気持ちを押し込んで、彼の後を追いました。
私達は帰り道をひたすら探し回りましたが、一向に見つかる気配などありません。
途中、彼に色々と気になっている事を尋ねてみましたが……彼は口を開く事はなく、ただ前だけを見て歩き続けるだけ。
私は次第に、彼に不信感を抱き始めていました。
『俺の事は何があっても信じる事』
そう約束した事ですら忘れてしまえる程、私はきっと彼の事を疑っていたのでしょう。
彼を信じたい。けれど……今の彼はまるで知らない人のよう。
彼はこの世界で今、私が唯一心を許せる人。その筈なのに……彼には不可解な点が多過ぎました。
ねぇカズトくん……
貴方は一体、何を考えているの?
「うわァアあァ……ウワぁアあぁ……!」
突然、酷く苦しそうな呻き声が、石垣の向こうの奥の方から聞こえてきました。
「な、何? 今の声!」
「……駄目だ! アイコ!」
彼が止めるのも聞かず、恐る恐る声がした方を覗き込んでみると……そこには一人の影がいました。
ネクタイのシルエットが見えるので、恐らく中年くらいのサラリーマンでしょうか……?
その影は、泣いていました。
何人かの名前をとても哀しそうに呼んでは、その場に崩れ落ち、泣いていたのです。……奥様とお子さんの名前でしょうか?
見ていて、とても胸が苦しくなりました。
「アイコ……」
彼は私の肩に、優しく手を置きます。
「……行こう」
そして私の手を取ると、ゆっくりと進み始めました。
彼に手を引かれている間、私はたくさんの影達とすれ違いました。
自分の頭を壁に叩きつけている影。
座り込んで泣き叫んでる影。
ずっと何かに向かって怒鳴りつけている影。
空を眺めて哀しそうに笑っている影。
手を合わせ、誰かに謝り続けている影。
最初に私が見てきた影達とは、何もかもが違いました。
影達は皆、穏やかで幸せに暮らしているのではなかったのでしょうか?
ここにいる影達は、明らかに嘆き苦しんでいます。
――彼が言っていた地獄。
それは正に……この世界と、影達の事なのかもしれない。
私は背筋に電流が走ったような感覚、底知れぬ程の恐怖を感じ始めていました。
(今すぐここから出たい)
その感情だけが、私の頭の中を占めていきます。……何故、一緒に連れていって欲しいだなんて言ってしまったのでしょうか?
身代わりって何?
彼は今、一体何を考えてるの?
彼を信じきる気持ちが欠乏し、何も話してくれない彼に対して、私は疑心暗鬼に陥りました。
彼が何を考えているのかわかりません。
そもそも、私は彼の事を知らな過ぎました。
あんなに好きだったのに……今だって、変わらず大好きなのに……
彼が怖い。もう信用出来ない。
お願い……誰か助けて。
「アイコ? ……どうしたの?」
「――して」
「えっ?」
「……離してって言ってるの」
そして私は、繋がれていたその手を強く振り払いました。
あの時、手を振り払われた彼は……一体どんな気持ちだったのでしょうか?
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