2-5 夜の温室

 夜の温室は昼間とは別物だ。太陽の日差しがないだけで同じ場所とは思えないほど寒々しく、癒やしを与える緑はガサガサと揺れる不気味な影になる。室内にも関わらずどこからか吹き込む風で俺の体は震え、それに合わせて背中の翅もぶるりと震えたが、目的を果たすまで部屋に帰る気にはなれなかった。

 とっくに消灯時間は過ぎているが、今日の見回り担当は四谷なので見つからなければ問題ない。


 見回りを適当にこなすスタッフが多い中、四谷は生真面目に巡回し、違反者を見つけると鬼みたいな顔で追いかけてくる。しかし、真面目すぎる性格が災いして巡回ルートが把握されている。毎回同じルートを同じ時間に通る生真面目さは正直引くが、おかげで分かりやすくていい。

 スタッフで言えば見回りに来るかどうかも、巡回ルートも完全に気まぐれな長谷川はせがわの方が面倒くさい。


 四谷の巡回ルートをメモした地図を取り出して、今の位置を確認する。温室から離れた場所にいるから大きな音でも立てない限り見つからないだろう。


 誰もいない温室の中央にまで歩き、夜空を見上げて深呼吸する。夜の澄み切った空気を肺いっぱいに吸い込むと、期待で翅が震えた。


 区切られた夜空を見つめる。無愛想な鉄骨がなければ本当に綺麗な星空なのにと残念に思う。始めてみたときは満天の星空に感動したものだが、今は区切られることのない一面の夜空が見たい。飛んでみたい。


 その願いが叶わないことを俺は知っている。区切られた場所でしかクピド患者は飛ぶことができない。ここから出れば満天の星空は見られるだろうが、その時、俺の背に蝶の翅はない。


 飛ぶことを選べは俺はここから出られないし、出ることを選べば俺は飛べなくなる。酷い二択だ。


 嫌な感情を振り払いたくて俺は地面を蹴った。地面がどんどん遠くなる。

 夜間飛行は昼よりも難易度があがる。うっかり障害物にぶつかり翅を傷つけたら終わりだ。だから夜間の飛行は禁じられている。


 それでも俺は人目を盗んで夜空を飛んだ。モヤモヤした時は特に。飛んでいればすべてのことが忘れられるから、夜の冷たい風を押しのけて温室の限界まで登っていく。

 あっという間にたどり着いた鉄骨。音質の限界に俺は舌打ちし冷たいそれに手を当てる。ガラス越しに瞬く星が見えた。振ってきそうなほどきれいなそれを見て、できるだけ近づきたいと思う。眼の前の邪魔なガラスをぶん殴って、外に飛び出してしまえば……。


 そんなバカらしい衝動にかられて俺は頭を左右に振った。

 そんなこと出来ないことぐらい俺だって知ってる。見た目に反して温室を囲うガラスは頑丈だ。


 仮に割ることができたとしても割れたガラス片で翅が傷つけば落下死する。入院当初に見せられたコンクリートにハッキリと残った血の跡が頭に浮かんで、落ちた所しか思い出せなくなるといった天野や、真剣な顔の新田を思い出す。


 俺はため息を付いて高度を下げた。

 翅を傷つけないよう障害物を避けながら空中を飛び回る。冷たい風が心地よい。だんだん冷えていく体に気づかないふりをしながら飛んでいると廊下に人影が見えた。


 四谷かと思い、慌てて木の影に隠れるがすぐにおかしいと気づく。四谷は懐中電灯を持ち歩いているので遠くから歩いてきてもすぐ分かるのだ。灯りを持たずに消灯時間に出歩くものは見つかりたくない者。つまり、患者であることが多い。


 深夜徘徊常習犯である何人かの患者を思い浮かべる。知っているやつならいいが、知らないやつ、たまたま夜に目が覚めただけの日頃は徘徊してない奴だと見つかるのはまずい。


 俺を含めて深夜徘徊を繰り返している奴らは仲間意識があるので見て見ぬふりをしてくれるが、たまたま起きてきただけの変に責任感の強いやつだとスタッフに報告されることがある。そうなるとしばらくの間、監視がきつくなるのだ。


 天野であればいい。アイツは眠れない日があって、そういう日は眠気が来るまで施設内を散歩している。入院当初は四谷に睡眠薬の飲みすぎについて注意されていたので、天野が深夜出歩いていても四谷は心配することがあっても無理やり寝ろとは言わない。俺が隣にいても眠気が来るまで話し相手になっていたという言い訳が通る。

 実際、そうして何度か天野には助けてもらった。入院当初、今よりも警戒心の強かった天野と親しくなれたのはそうしたやり取りを繰り返したからだ。


 それに比べて新田はまずい。

 新田は天野と違って健康優良児なので夜に眠れなくなるということはないようだが、時折気まぐれでふらりと俺の様子を見に来るのだ。新田の言うことを聞いて大人しく帰ればいいが、一度突っぱねたときは容赦なく四谷に報告された。

 昼間注意されたこともあるし今見つかったら即、四谷に報告されるだろう。巡回中の四谷を引っ張ってくるまである。


 木の影に身を隠しながら目を凝らして人影を確認する。新田以外で頼む! と強く願ったおかげか、人影の正体は新田ではなかった。

 だが、予想外の人物に俺は目を丸くする。


「村瀬……?」


 最近入ってきた患者だ。年上とは思えない、おどおどビクビクしたやつで、一目みて仲良くはなれないだろうと思った。

 面倒見の良い天野や新田は声をかけていたようだが、俺はそんな二人を遠巻きに眺めていただけでまともに挨拶したことすらない。


 それでも、村瀬の変化については知っている。天野が俺のせいか? と気に病んでいたのもあるが俺から見ても衝撃だったのだ。


 入院当初のなにかに怯えているような落ち着かない態度は消え、言動に余裕が生まれた。誰に話しかけられてもビクビクしていたのに、今は人の輪に積極的に入っていくほどアクティブだ。

 人が変わった。そう新田は言っていた。俺もそう思う。村瀬の体の中に別の人間が入っているのではと思うほどの劇的な変化だが、当の本人はそれを指摘されても曖昧な笑みを浮かべて答えない。それがミステリアスで素敵だと一部の女子に人気が出ているようだが、俺からするとただ不気味だ。


 そんな村瀬が廊下を歩いている。俺に気づいた様子はなく、迷いなく足を進めていることから目的地は決まっているらしい。雰囲気からして深夜の徘徊も慣れている。

 この先に何があっただろうと考えて、立入禁止区域だと思いあたった。天野が眠れない夜、暇つぶしに探検しに行くと言っていた。たしか、村瀬が変わった日も行ったんだとか。


 天野が入院する前、新田に聞かされた話を思い出す。立ち入り禁止区域に入って、時折人が変わってしまう奴がいる。そういう奴は夜な夜な禁止区域に出入りするようになるが、目的については答えてくれない。人を魅了する何かがあそこにあるのだが、それが何かは見つけたやつしか分からない。


 この話を教えてくれた新田は「翔ちゃんも興味ないと思うよ」といって話を締めくくった。新田は噂の正体を知っているみたいだったが、他の者と同じく詳しくは教えてくれなかった。


 俺は飛ぶ方が楽しかったから立ち入り禁止区域に入ったことはない。村瀬や、他の奴らの様子を見ると興味本位で入らなくてよかったとすら思っている。新田にお前は大丈夫と言われているが、新田の適当な言葉なんて信用できるはずがない。


 俺は村瀬から目をそらす。意味の分からないものをこれ以上見ていたくはなかった。もやもやを発散するために飛びに来たのに、違うもやもやが目の前に現れるなんて嫌な日だ。


 当初目的通り、飛んで全てを忘れてしまおう。そう思い、翅を広げると、


「大空くん、そろそろ温まらないと危ないよ」


 下から声がした。

 驚きのあまり木から転げ落ちそうになった俺はなんとか踏ん張って体勢を整える。声のした方を見下ろせば、俺が転げ落ちそうになったから焦ったらしく、あわあわしている小口さんが目に飛び込んできた。


「小口さん……」


 なので、ここに?

 混乱した頭では単純な疑問すら口に出すことができなかった。

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