第17話 三度ある


          *


 ――その声が、ずっと耳から離れなかった。

 それは爪を立てるように、彼女の意識に小さな傷を刻み続けた。


 普段は近寄らない理系クラス。

 その中のひとつに足を踏み込んだ彼女は、目当ての顔を見つけるや否や、ずかずかと一直線にその目の前へと突進した。


「な、なに? なんか用?」


 戸惑ったように睨み返してきたその顔に、彼女は、唇を吊り上げた。


「知ってるわよ。あんた、アタシのことが妬ましいんでしょう」


 メガネ越しの細い目が、大きく見開かれた。


 先日行われたあのテスト。

 この男子生徒よりも、女である自分の方が、総合得点が上だった。

 それをこの男子が、怨み妬まないわけがない。所詮、そういうものなのだ。


「女のくせに生意気だとか言うんでしょう。知ってるわ。あんたたちってみんな、揃いも揃って同じことしか言えないんだものね」

「な、なにを急に……!」

「ごまかすつもり? 正論ぶった理想論語って、だからヒステリックな女は嫌なんだって言うつもり? ――アハハ! 馬鹿ね! 本当に同じことしか言えないんだから! アタシとは頭の出来が違うんなら、たまには違うこと言ってみたらぁ?」


 ――好きなことを見つけた。そのために勉強に打ち込み、充分な結果を出した。

 それなのに誰も認めてくれないのは、自分が〈女〉だからだ。

 なんて理不尽。なんてくだらない。

 けれどどうしたって変わらないのだ。

 父や祖父が彼女を見る目は、兄弟に向けられるそれの100分の1ほども、期待や慈しみを宿すことはない。


『ちょっと考えすぎだよ。勉強のことは……少し、忘れてみたらどう?』


 昨日、労わるようにそう言った恋人の本心を、しかし彼女は知っている。

 ――妬ましいのだ。

 文系トップに立った自分。実質、学年1位になった自分。

 そんな自分のことが、妬ましいのだ。そうでないわけがない。

 だって――彼は男で、彼女は女なのだから。


「『女は三歩下がって男を立てろ』? 馬鹿げた理想論を語ってくれるじゃない! 現実が見えてないのはどっちよ! 自分の力だけじゃ敵わないからって、相手を型にはめてけなして貶めて! そうやってしかプライドを守れないなんて――ただのクソガキと一緒じゃない!」


 彼女は吠えた。吠えるように笑った。

 周りの声など聞こえていないし、聞くつもりなど欠片もなかった。聞かなければならないことなど、なにひとつないのだから。


 ああそうか、これが〈女〉のヒステリーというやつか。そう思うとなおのこと、溢れ出す嗤いが止まらなかった。

 ――そう。ならばそうだ。

 お望み通り、感情的なヒステリー女になってやろう。


 そうと決めると、胸中の靄が一気に晴れたような気分になった。迷いの取り除かれたその空は、星さえも望めない、深い深い漆黒の闇だ。

 ポケットに手を伸ばす。そこから取り出した〈それ〉を握りしめる。


 かちかちかち、という音と感触が、なぜだかとても、救いに満ちている気がした。



          *



 ――その悲鳴が聞こえたのは、2時限目を終え、教室に戻っている最中だった。


 渡り廊下で教室棟に移り、西階段を下りていた時だった。

 視聴覚室の戸締りを任され、他のクラスメイトたちから遅れる形でその道を辿っていた敦司あつしの耳に、甲高い女子の悲鳴が飛び込んできた。少し遠い――しかし敦司が足を下ろした2階のどこかからだ。

 驚き立ち竦んでいる間にも、それは動揺を含んだ、どよめきともざわめきとも言える膨らみを持ちながら、敦司がいる方へ迫ってくる。

 そして――


 一瞬、それは、怪我をした生徒が保健室へと向かっているだけのように見えた。


 彼の左手にはぬらぬらと光るカッターナイフが握られ、懸命に振られる両手も大きなレンズのメガネもその下の引き攣った顔も、雫が滴り落ちるほど、鮮やかな赤によって染め上げられている。制服が黒のためわかりにくいが、その胸元や足元が、不自然に赤い光沢を帯びているようにも見えた。そして。


「ッ――」


 どこか不格好な走り方で敦司の前に現れたその男子生徒は、しかしこちらを見向きもしないまま、下り階段へと駆け込んでいった。

 数秒遅れて何人かの男子生徒が後を追うように現れ、「下だ!」「先生呼んでこい!」などと大声を交わしながら、血痕が続く階下と、職員室へと続く渡り廊下に分かれて駆けていく。

 未だ遠く伝わってくる騒然とした空気を感じながら、しかし敦司は、最後の段を下りたばかりの踊り場から動けないでいた。今、目にしたものの衝撃が、あまりにも強過ぎた。


 ――赤い、紐。


 血の色をした、はらわたのような紐が、最初の男子生徒の首に絡みついていた。

 それは真夏の太陽を直視してしまった時のように、敦司の眼球に焼き付いていた。無意識の瞬きでも消えはしない。意識的に強く閉じた瞼の裏でも、不吉な赤色は消えなかった。

 

 ――残った三人のうち、男子生徒は、一人だけ。


 鈴倉吉城すずくらよしき

 顔もなにも知らないが、きっとそうなのだろうという確信がある。嫌な確信だ。だがそれでも、逆にそれを否定できるだけのものがなにもないことを、敦司は自覚していた。


 ――でも、と思う。

 さっきの男子生徒が〈しるし〉をつけられた鈴倉吉城だとして、それならば今のは、いったいどういう状況だったのだろうかと。

 これまでを考えると、あの〈紐〉がついた人間が、遠からず死ぬ運命にあるはずだ。それがどうして、鈴倉は死なず、あのような狂態を晒すこととなったのか。

 その時、肩を揺すられて敦司は我に返った。


「おい、大丈夫か丹原たんばら! つか、なんかヤベーことになってるって!」


 見上げると、すぐ傍に強張った田所たどころの顔がある。先に教室へ帰ったはずなのに、いつの間に現れたのだろう。いつもの間延びした言動は影も形もなく、早口でまくし立てる相手に、敦司は戸惑い交じりに問い返す。


「な……、なに? 事故? 怪我人でも出たの?」

「怪我人どころじゃねーよ、――死人が出たって!」


 田所の声には恐れと興奮の色がある。

 その言葉の信憑性などを疑うより早く、伸び切った釣り糸が巻き取られるようにして、その先に引っ掛けられたひとつの答えが敦司の頭に引きずり込まれた。

 ――まさか。

 敦司が大きく目を瞠った、その理由を知らぬまま、田所は続ける。


「二年の女子らしいんだけど――ああほら、あのバカップルの片割れ! 吉崎のサッカー部の先輩、栃ノ木興史とちのきこうしってヒトの彼女だって!」



          *



 ――こんなはずじゃなかった、と彼は思う。


 カッターを取り出したのは、あの女子の方だった。

 彼はただ、その凶刃から己の身を守ろうとしただけだ。

 揉み合いになったせいで周りの人間を傷付けたのは仕方がないことだったし、2人の間で滑ったその刃が女子の首を切り裂いたのも、不可抗力というやつだった。


 鋭利な刃が柔い肉に潜り込む、その感触を思い出すと怖気が走る。震える手足が爆ぜ飛んでしまいそうな衝動のままに、悲鳴をくぐり抜けて逃げ続ける。


 逃げる――逃げている。


 彼は賢い。日本の警察がどれほど優秀で、自分の〈犯行〉が、あるいは正当防衛として処理されるかもしれない可能性もあることを、きちんと理解してはいる。それでも、たとえそうであったとしても、その足を止めることはできなかった。


 ――こんなはずじゃなかった、と何度も思う。


 彼は、市内の大病院の跡取り息子だった。いずれ院長としてそこを引き継ぐべき人間として、物心つく前から多くのことを教わってきた。テレビや恋愛の話に浮かれるしょうもないやつらはもちろん、確固とした将来像さえ結ぶことができないまま唯々諾々と勉強するしか能がないやつらとも違う、特別な人間だったのだ。

 こんなところで、犯罪者の烙印を押されていい人間などでは、決してない。

 あんなやつらに、狂人を見るような目を向けられる人間などでは、決して――!


 それなのに。


 悲鳴の波から逃げるうちに、いつの間にか、薄暗く湿っぽい場所に行きついていた。どうやらどこかの校舎裏らしいそこで、しゃがみ込んで、上がった息を整えようとする。――整うはずがない。指先と言わず全身が震える。心臓が、破裂しそうだった。


「……こんな……っ、こんな、はずじゃ……っ」


 彼は賢い。たとえ正当防衛とされたとしても、地元に基盤を持つ病院の子息として、これは決してあってはならない汚点だとわかっていた。どれだけ優秀でも、どれだけ有能でも、傷害事件を、殺人事件を犯した人間が務める病院に、患者などはやってこない。

 医者になどなれない。病院を継ぐことなど、できない。そんな自分に――


 ……――自分に、いったいなんの価値がある?


 問いが、浮かんだ。

 彼の心をざっくりと切りつける、鋭い刃を持つ問いだった。


 ……――役立たずの能無しが、生きる意味など、どこにある?


 ……――いっそ、ここで――……


「…………」


 右手を開く。

 そこに握ったままだった薄い刃が、赤く、鈍く、光った。



          *



 鈴倉吉城すずくらよしきの遺体は、校庭の片隅で見つかった。


 学校敷地の南西、保健室の裏になるその場所で、所持していたカッターナイフで自ら命を絶ったらしい。錆ついたフェンスの傍らで、自身の血の海に倒れ伏していたというその様子は、事態の収拾に奔走する教員たちの努力もむなしく、風よりも速く生徒たちの間に知れ渡った。

 午後からの授業はすべて中止となり、無関係な生徒には全員、即時帰宅が言い渡された。部活動さえ許されなかった。事件現場となった教室と校庭隅には警察官が立ち、誰も近寄れないよう厳重な警備が敷かれた。そうでなくとも、野次馬になろうとする生徒など、この学校にはいなかっただろうが。

 

「――みお先輩!」


 その背を呼び止めたのは、2年の自転車置き場だった。敦司自身は最寄り駅からの徒歩通学なうえ、学年も違うので普段は近寄ることさえない場所だったが、ちょうど西階段の昇降口を出たところで彼女を見つけ、追いかけてきたのだ。

 すぐに声をかけられなかったのは、澪の隣にいるのが見覚えのない女子だったからだ。その女子が離れたところで、ようやく声をかけられたのだった。


 振り向いた澪は、しかし敦司が口を開くより早く、心得たというように頷いてみせる。


「ああ――丹原たんばらくん。そうだね。そういえば連絡先を聞いてなかったか」

「えっ? あ、そう……」

「ちょうど週末だから、明日明後日は、きっと自宅待機のままだろうけどね。もしかしたら部活の許可は出るかもしれないし。なにかあった時は、また連絡するよ」


 口を挟む隙すらないままに、いつの間にか取り出されたスマホで連絡先交換の流れになっていた。「あの」と言いかけるのを目線で制され、そこでようやく、敦司は自転車置き場の隅に立つ教員の姿に気が付いた。本気で気付いていなかったので、思わず身が竦む。


「――丹原くんは、今日と土日、出かける予定は?」


 唐突な質問に、一瞬相手を見返してから、首を振る。


「特にないですけど……」

「そう。じゃあそうだね……中間考査もすぐだから、家でおとなしく勉強してるといいんじゃないかな。こういう状況だし、なるべく外には出ないこと」


 言い返そうとする敦司をにっこりとした笑みで止めて、澪は、あと一言だけ付け足した。


「次期部長命令、だよ」




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