第1話 貼り出しの日


「――あっくん!」


 幼さを残した明るい声に呼ばれて、丹原敦司たんばらあつしは顔を上げた。


 それは4月の昼休み。中庭に面した、吹きさらしの1階通路でのことだった。

 ただでさえ購買や食堂、あるいは職員室や部室などへ向かう生徒たちでごった返す校内で、その一角は、更なる人混みに溢れていた。まるで学校中の人が集まってきたかのように思えるそれは、けれど、少し観察してみれば3つの塊に分かれていることがわかる。

 そのうちのひとつから抜け出してきたばかりの敦司は、上げた目の先に見知った女子生徒の姿を見つけて足を止めた。幼なじみの小野辺皐月おのべさつきだ。

 肩口で揃えられたさらさらのストレート。少し丸味のある顔に輝く大きな目は、いつも笑ったようでいて、まるで人懐こい子犬のようだ。その印象は、並ぶと見下ろすようになった背丈によるところも大きい。高等学校のセーラー服を着た今でも、小学生のような雰囲気の拭えない無邪気な幼なじみだ。

 女子の集団から軽快に駆け出してきた彼女は、声を弾ませて敦司に尋ねる。


「どう? 名前、あった?」


 そう言って皐月が目を向けるのは、今しがた敦司が抜け出してきた人混みの向こう側。2階通路を支える頑丈な柱の間に作られた、コンクリート壁の掲示板――そこに掲示された、先日の学力テストの結果だった。

 各学年、上位100名だけが記載されるその模造紙をなんとか見ようとつま先立ちになる幼なじみに、敦司は「まさか」と弱く笑って応えた。


「古典と英語はぼろぼろだったし……中学ならともかく、舟西ふなにしじゃあね」


 この舟崎ふなさき西高等学校は、公立高校では県内随一とも言われている進学校だ。舟崎市内は元より、近隣の市町村からも、校内テスト上位層の生徒が集まってくる。1教科、1点の差が命取りな環境だ。

 中3の夏から必死になって勉強して、ようやく滑り込んだような敦司では、どうしようもないのが現状だった。

 それがわかっているから、続けて教えるのにも、出るのは苦笑だけだった。


「……小野辺さんの名前なら、一発で見つけられたけど」

「えっ! ほんと? あれだけあるのに?」

「そりゃあね」


 小野辺皐月のその名前は、掲示板の前に立ったほとんどすべての生徒が真っ先に目線を向ける場所――100人分の氏名の最上位に記載されていた。

 その名に併記された5教科の総合得点は、500点。すなわち、全教科満点だ。


 目にした時にはさすがに驚いたものの、次の瞬間には、それは至極当然のことのように受け止められた。

 彼女が自他ともに認める秀才であるのは、今に始まったことではない。

 敦司はそれを、小学校に上がった時からずっと、隣で見続けてきたのだから。


「というか……あの点数なら、わかってただろ? 自分が1位になるのなんて。わざわざこんな人混みの中に来ること、ないだろうに」


 呆れたような敦司の問いに、皐月ははにかむようにえくぼを深める。


「まあね。でも、友達に行こうって誘われたから。断るのも、感じ悪いでしょ?」

「ああ……まあ、そうか」


 自分と話す皐月を置いて、他愛ない悪態とともに掲示板前の集団に挑んでいく女子生徒たちを見遣り、敦司は素直に同意を示した――かく言う己も、クラスの男友達に誘われて見に来たクチなのだ。間違っても、自分があの一覧に名を連ねているかもなどという、淡くも愚かな期待を抱いてのことではない。

 〈月とスッポン〉がぴたりとくる差はあるだろうが、その実、状況だけを見てみれば、敦司と皐月の間にたいした違いはないのかもしれなかった。


 その時、カシャッと短い機械音が耳に届き、敦司は振り向いた。

 渡り通路を完全に塞いでしまっている群れの外。中庭側にいる2人の女子生徒が構えたものを見て、それがいわゆるシャッター音だったことにようやく気付く。一眼レフのカメラだ。普段から耳慣れたスマートフォンのそれとは微妙に音の厚みが違っていて、だから一瞬、わからなかったのだった。


「……なんだ、あれ?」


 敦司の目線を追った皐月は、少しの間そちらを見つめる。そしてそれから、「ああ」と得心したような声を洩らした。


「写真部の人たちじゃないかな? 知ってる先輩がいる――ほらあの、短い三つ編み、ふたつしてる人」


 皐月が控え目に指を向ける先には、確かに、短いお下げの三つ編みをした女子生徒がカメラを持って立っていた。ただ、彼女のそのレンズは今、なにかを写すために構えられることなく下ろされ、交わされているのは隣に立つ女子生徒との楽しげな言葉だけのようだ。

 それはそれとして、敦司は尋ねる。


「小野辺さん、部活、写真部にしたの?」

「あ、ううん。それはまだ決めてないんだけど。そうじゃなくて、家庭クラブの先輩なの。朋香ともか先輩って言って、面白くって、とってもいい人よ」

「ふうん……」


 その先輩がどのような人だろうと、別段、敦司には興味も関心もなかった。

 1学年1クラスの小規模中学から上がってきた敦司は、今、クラスメイトの顔と名前さえろくろく一致しない状態なのだ。余計な情報を入れる隙間などありはしない。だからただ、思う。


「わざわざこんなのを撮って、どうするんだろう……。いちいち記録するほどのことでもないよね、テスト結果の掲示なんて」

「――知らないの?」


 驚いたように返されて、敦司の方も大いに驚く。


「なにが?」

「舟西はね、去年までずっと、ああいう掲示は一切してなかったんだよ。ずっと前の校長先生がそういう方針の人だったとかで……それからずっとね」

「〈そういう方針〉って?」

「えっ。うーん……詳しくはわかんないけど……多分ほら、『他人と勝負するんじゃなくて、自分自身と勝負をしなさい!』みたいな?」


 自信がなさそうな皐月に、けれど敦司は、なるほど、と頷く。

 中学生の時の担任が合唱曲に選んだ曲でも、ナンバーワンでなくオンリーワンになれとかいう歌詞があった。

 それで志望校に受かるというなら、敦司もとっくに、喜んで競争心など棄ててしまったのだが。あいにく現実は、そうとも言えないものらしかった。


「今年、校長先生が変わって、何十年かぶりの掲示なんだって。――本当に知らなかったの? 有名な話だよ、それがいいよねってここ目指す子もいたぐらいなのに。てっきり、あっくんもそうなんだと思ってた」

「…………。いや、おれは……」


 そんな小難しいことを考えて志望校を決めたわけではなかった。

 ただ、至極単純で、そしてきっと〈不純〉と言われるような理由のために、敦司はこの高校を選んだのだ。

 けれど間違っても、それを目の前の幼なじみに話すことなど、できはしない。


「そういえば、あっくんってなんで舟西を受けたの? 南高に入ってバイト始めて、さっさと自立したいんだって、言ってなかったっけ?」


 柔らかな髪を揺らして、答えを見透かそうとするかのように、皐月が敦司を覗き込む。その動作に伴ってふわりと鼻をくすぐった甘い香りに、思わず熱くなる頬を晒したくなくて、後退りして顔を逸らした。

 それなのに、無邪気な幼なじみはその距離を詰めてくる。


「ねえねえ、なんで?」

「…………っ」


 その問いに、敦司は答えることができない。

 言えるわけがない――絶対に。


「おのべえ~、すっごいじゃん! 1位だって、1位!」

「満点ってなんなのさ! どういう頭の作りしてんの、おのべえ!」


 かしましい声が皐月に投げられたのを契機にして、敦司は片手を挙げ、彼女と別れることにした。自身の名前を探しに行ったはずのクラスメイトはまだ戻らないけれど、あの女子集団に対面するくらいなら、すみやかにこの場を退散する。


「それじゃ」

「あ、あっくん――」


 まだなにか言いたげにする幼なじみを置いて、敦司は校舎内に逃げ込んだ。



 本当に。

 〈逃げ込む〉というのがぴったりくるような、自分でも嫌になる立ち去り方だった。




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