姫は鏡に映らない(4)


 移動劇団〝語り部語りテイルズテイル〟の観覧はチケット完全前売り制、当日券もなし──などと仮面の団長が以前にのたまっていたが、実際にはそんなことはない。

 空き席があれば当日券も販売する。


 ただ、少なくともコウシロウが加わってからの公演は常に満員御礼で、事実上、当日券が販売されたことはなかった。


 そして、今回の公演地は大陸では帝都に次ぐ巨大都市シャロワである。

 果たして具体的にどれほどの広さで、どれほどの人口が暮らしているのかは知らないが、これまで訪れた街と比べるべくもないのは確かだろう。


 ただでさえ広大な土地は石造りの壁と建物に囲まれ、石畳に舗装され、堅牢にして洗練された街並みは、荒野に面していながら市壁内には砂塵もほとんど届かない。

 そんな大都市にあっては、空き席どころか、むしろ限りある観覧チケットを求める客がいつも以上に殺到し、あっという間に完売だった。


 初日の公演分だけではない。滞在期間中のチケット全てがである。

 改めてこの劇団の人気を──歌姫〝白雪姫スノーホワイト〟の人気を思い知らされた形だ。

 無論、他の演者たちの公演も人気だが、やはり、ファナティアの人気は群を抜いている。それは二枚看板である舞姫〝輝夜姫シンデレラ〟と比べてさえもだ。

 歌唱と舞踏。

 そのふたつは別種にして別個の表現であり、互いを彩り高め合うものではあっても、手法としての優劣を論じるものではないだろう。

 しかし、〝語り部語りテイルズテイル〟を訪れる観客たちは皆ハッキリと〝白雪姫スノーホワイト〟の歌声を一番に求めてやってくる。

 彼女の歌に、そこに響くものに、感動と感激を求めてやってきて、実際に満足して帰って行く。素晴らしい歌だったと、美しい声だったと、確かに響き合う心の触れ合いを実感して劇場を後にする。


〝──何言ってるの? わたし、今までお客さんのために歌ったことなんてないけど──〟


 以前にファナティアはそう言っていた。

 そういうものなのだろうか?

 詩歌、物語、芸術などというものは、表現者の見ている先がどこであっても、感動を生むことができるということか?


 別の誰かを想って紡いだ歌で、関係のない者の心を震わせる。

 関係のない者をも震わせるからスゴいのか? あるいは関係のない者であるからこそ、客観的に震えられるのか?


 一流の役者は、己の感情を自在に演じるというが、それは、悲しくないのに悲しんでいるように観せるということか? それとも、悲しくないのに、悲しむことができるということか?


 それを観て悲しみを共感して涙する観客は、心を騙されているのか?


 いずれにせよ、表現者の感情の矛先も真偽も問われないのなら、なるほど、ファナティアの歌に皆が感動するのは何もオカシクないのだろう。

 銀髪の歌姫の想いが誰を向いていなくても、抱いた心が歪でも、浮かべた笑顔は華やかで、紡ぐ声音は美しいのだから──。


 コウシロウは考える。


 抱いた感情も事情も関係なく、為された行為だけが形を成すというのなら、では、コウシロウは何者なのだろうか?


 人に仇為す悪神を討滅する守護者か?

 愛する者たちを殺された恨みを晴らさんとする復讐者か?

 それとも、自責と自戒に惑いもがいているだけの無様な逃亡者か?


〝──あの黒い神様を殺したら赦さない──〟


 ファナティアはそう言った。けれど、コウシロウは黒狼を野放しにするつもりはない。

 あの黒狼を放っておける道理はどこにもない。

 黒狼を封じる〝銀狼の血族〟の責務を果たし、黒狼を解き放った責任を取って、必ずあの黒い災厄を消し去らねばならない。


 その結果、ファナティアに黒い感情が芽生えるとしても。

 その結果、ファナティアにどのような変化が起きようとも。

 その結果、ファナティアにどう想われようとも。

 コウシロウは、死した同胞たちの無念を、愛しかったあの子の遺した想いを、切り捨てることは有り得ない。


(……だったら、あの時にそう答えれば良かったんですよ……)


 ファナティアに〝赦さない〟と言われたあの時、〝それでも構わない〟と、そう答えれば良かったのに、コウシロウは押し黙ったまま、答えることができなかった。


「……どうして、なんでしょうねえ……」


 深い疑念の呟きは、本気で答えがわからなくて力ない。

 現在、コウシロウは〝波鎮号ウェイブスィーパー〟の甲板上で、客の入りを見守っている。

 見渡した劇場入口の光景は騒然としながらも整然と、モギリ役の団員たちが次々と客をさばいていき、甲板を埋めていた客たちが劇場内に吸い込まれていく。


 シャロワにおける初日特別公演。

 もうしばらくすればその開演時間だ。

 この分ならば特に問題もなく入場は終了するだろう。

 コウシロウはそう思いながら、ふと、列の後部に見覚えのある金髪の貴公子を認めて顔をしかめた。

 貴公子の方もコウシロウに気づいて、思いっきりイヤそうな顔をする。


「ぬ、キサマは……あの時の東方人か? なぜまたここにいるのだ?」

「今の僕は、この劇団の用心棒ですよ。あなたこそ何の用です?」

「何の用だと? キサマは愚かなのか? 〝白雪姫スノーホワイト〟さんの歌を聴きにきたに決まっているだろう。チケットもあるさ。客としてなら、問題ないのだろう?」


 手にした観覧チケットを示して尊大に吐き捨てた。


 クルーク・エル・バンデルト。


 コウシロウが劇団に雇われた初日、この甲板上にて手下共々ボコボコにして差し上げた帝国貴族のお坊ちゃまだ。

 見たところ今日はガラの悪い取り巻きたちはいないようだが、何にせよ正式に客として来場したなら、丁重に迎え入れるだけだ。


 クルークに腰の長剣を預けるよう促せば、意外にも素直に応じてくれた。以前にコウシロウがヘシ折ってしまった名剣とは別物だが、これもまた業物なのだろうか? 少なくとも見た目はやたらと高級そうな装飾と拵えだ。


「……騒ぎは起こさないでくださいよ」

「何だそれは? 相変わらずシャクに障るヤツだな。金色孔雀といい、本当に、キサマらは貴族への礼儀がなっておらん」

「そういうあなただって、貴人の礼節がなってないでしょう。ともかく、大人しく観覧してくださいよ。…………今は、よけいな波風立てて欲しくないんです」

「…………?」


 クルークはまだ何か言いたそうではあったが、自分の入場順が回ってきたこともあり、そのままモギリにチケットを差し出して劇場内に入っていった。

 コウシロウはやれやれと息を吐きながら。

 残りの客もまた順に入場していって、最後のひとりがモギリにチケットを示すその様を横目で見ていたコウシロウは、ふと、その客の姿に引っかかるものを感じて注視した。


 身長や細身の肩幅を見るに女性だろうか? 丈の長いコートを羽織り、フードを目深にかぶった姿は、ある意味この地では一般的な服装だ。

 だから、コウシロウが引っかかったのはその服装ではない。フードの下にわずかに見えた客の容姿にだ。


 褐色の肌と、色素の薄い唇。南方人に良くある色彩特徴。口許しか見えなかったものの、その妖しいまでの美しさは充分に見て取れた。しかし、そんなエキゾチックな魅力に見とれたわけではない。


(……あの女性、どこかで会ったような……)


 垣間見えたその口許を、コウシロウはつい最近にも見たことがあるような気がしたのだ。

 呆然と見送る彼をよそに、女性は劇場の中に入っていく。

 全ての客が入場し終え、モギリの団員たちが周囲を点検確認しつつ、入口ゲートを閉鎖にかかる。


 コウシロウはハッと我に返り、慌てて場内に駆け込んだ。用心棒として、引き続き公演中の場内監視に努めなければならない。


 背後でゲートの閉じる音を聞きながら、コウシロウは場内を見渡した。

 緞帳どんちょうに覆われた舞台を中心に、扇形に広がる観客席。いつもながら満席の光景は壮観で、見渡した範囲では、さっきの女性客は見当たらなかった。


(……昔なら、ニオイで感知できたんですがね)


 獣の力を失って、人間になってしまったコウシロウにはもう無理な芸当だ。視覚に頼った捜索も、すぐに照明が落ちて薄暗くなり、断念せざるを得なかった。

 照らし出された壇上に、進行役の団員が現れて口上を告げる。ザワついていた場内の空気が小さくなり、進行役が去って、緞帳が上がり始めるにつれ静寂に包まれた。


 舞台の中央、照明を浴びながらなお煌びやかに輝く銀髪の歌姫の姿。

 場内のそこかしこに上がる感歎を、響き始めた歌声が鎮めて掻き消して行く。


 穏やかでゆるやかな、高原の朝焼けのごとく清涼な旋律。スローテンポだが、暗い響きはない。歌い上げるファナティアが浮かべた微笑のままに、安らかで軽やかなメヌエット。


 いつものように、舞台上から場内を包み込む美しい歌声。

 居並ぶ観客たちの全ての感性を揺さぶり、惹きつけ魅了しながらも、奏でるファナティアはそんな観客たちに対して一切の想いを向けてはいないという。


 彼女が想いを込めるのは、自分が大好きな親しい者たちに対してだけであり、そして、ここしばらくは、ただひとりのために歌い続けているらしい。


 舞台上の歌姫。その翡翠の双眸は、今日も真っ直ぐにコウシロウを見つめている。

 その事実をコウシロウは────さて、本当は不快なわけではないはずだ。けれど、受け入れるわけにもいかないのだった。

 胸もとに下がる銀の牙を、無数に連なるその中央に輝くひとつを握り締める。


 コウシロウは忌刃キバの黒狼を赦さないし、赦せない。

 ならば、ファナティアもまたコウシロウを赦さないだろう。


 それは例え、黒狼を殺した上でファナティアの感情に変化がなかったとしてもだ。ファナティアよりも、銀狼としての血の復讐と使命を優先した事実は変わらない。

 彼女の想いを切り捨てている事実は、変わらないのだ。

 そして、己を蔑ろにしたコウシロウへの憤慨や嫌悪も、きっとファナティアの中では喜悦や多幸感にねじ曲がるのであろうが、そうなれば、その時こそ彼女も気づくはずだ。


 コウシロウに対して抱いていた感情は、本当は魂喰たまはみの怪物に対する恐ろしさと忌まわしさがねじ曲がっていただけのものだと、今度こそ誤解なく確信できるだろう。


 瞬間、握り締めた銀の牙が少しだけ震えたような気がした。


 思わず視線を落として、しかし、それよりも明確に、耳に届く歌声が濁って響いた。


 濁り──。そう、濁っている。


 旋律や声音に変化が起きたわけではないのに、いつもの歌声ではないのだと、その感情の濁りを明確に感じて、コウシロウは舞台上のファナティアを見る。


 彼女は、コウシロウを見てはいなかった。


 まるで驚愕したように見開かれた翡翠の瞳が見すえているのは、客席を割って伸びる花道。劇場入口に立つコウシロウと、舞台中央に立つファナティアと、ちょうど向き合うふたりの中間にたたずむ黒い人影。


 観客のひとりが席を立ち、花道のただ中に出てしまったのか?


 考え事に気を取られ過ぎていたせいか、コウシロウはその人物の動きを全く察知できていなかった。

 事案発生か?

 けれど、その人物はたたずんでいるだけで、特に何をするでもなく、ただ、ジッと舞台上のファナティアを見つめている。

 歌声に聞き惚れて。思わず歩み出てしまった?

 いや、そういう雰囲気ではない。

 何より、舞台上のファナティアの様子が奇妙だった。まるであの花道にたたずむ人影をように、歌声が弱々しくなっていく。


 勢いを失っていく歌声を掻き消して、もうひとつの歌声が重なった。

 美しく、そして猛々しい、力強い女の歌声。


 穏やかなメヌエットの旋律に乗りながらも、高らかに響き渡る激情の歌声。重く、深い情念を紡ぎ上げた歌。心に淀む嘆きを、疼く痛みを奏で上げるような、黒く、暗い、哀切を込めた葬送曲レクイエム


 それは〝白雪姫スノーホワイト〟の歌声を力尽くでねじ伏せて場内に響き渡る。


 歌声の発生源は花道に立つ人物。

 華奢な肩幅に丈の長いコートを羽織り、フードを目深にかぶった、それはあの最後に入場した女性客。

 場内の全てを、観客を、舞台上の奏者たちの意識さえも、一身に惹きつけて歌い上げていたその女は、けれど、その旋律を唐突に打ち切った。

 楽曲も歌声も途絶えて、シンと静まり返った劇場内に、鳴り響いたのは鋭い舌打ちの音。


「……ああ、つまらない。イラつくほどにつまらない……」


 込み上げる憤りのままに、フードの女が吐き捨てる。


「オマエの歌は、本当にイライラするよ……〝白雪姫スノーホワイト〟……」


 イラ立ちのままに、女はフードを脱ぎ去った。

 薄闇に煌めき流れた長い黒髪、あらわになったその顔は、照明に淡く照らし出されたその褐色の美貌は、舞台上に立つ歌姫とそっくりだった。

 まるで、視界に入り込む全ての光を拒絶するかのように、ギュッと閉じられた両のまぶたから、ひとすじの涙をこぼして、その黒き歌姫は憎悪を紡ぐ。


「歌声は、そうやってヘラヘラと、愛想で奏でるものじゃあないんだ!」


 憤怒に濁った叫び。

 黒い感情に濁っているにもかかわらず、その声はどこまでも美しく高らかに、ファナティアの声と全く同質の響きを奏でて、場内の薄闇を激しく胎動させた。

 その叫びに呼応して響いたのは獣の咆吼。

 客席の両端にて、黒い猛獣の臭気と、確かな獣の巨影が盛り上がる。


(黒狼の眷属けんぞく……!?)


 人の姿で観客にまぎれ込んでいたのか?

 場内の両端に現れた二体の黒い魔獣。その異常事態に、一瞬でパニックが巻き起こり、喧騒が渦巻いた。

 コウシロウは背後のゲートを力任せに開け放つ。

 重く激しい開扉音と、まばゆく差し込んだ外の陽光に、場内の観客たちが我先にと殺到した。

 恐怖に駆られ、周囲を押し退けて出口を目指す群衆の、その悲鳴と叫声に、黒い魔獣がさも空腹を堪えかねた様子で唸りを上げる。


 左右両端、双方同時に牙をむいた魔獣たち。

 この位置取りでは片方は阻めても、もう片方は阻めない。


 コウシロウは素早く双方に視線を巡らせる。逡巡は一瞬、手にした華美な長剣を、向かって左方にいる金髪の貴公子に放り投げた。


「バンデルト卿!」


 鋭い呼びかけの半ばにて、すでにコウシロウは右方の魔獣へと飛びかかっている。

 逃げ惑う人々に喰らいつこうとする獣。その頭部に全体重を乗せた跳び蹴りをくらわせた。甲高い悲鳴を上げて吹き飛び転げる魔獣。


(向こうは!?)


 振り向けば、反対側には黒い魔獣に白刃を叩き込んでいるクルークの勇姿があった。

 逃げる人々をかばい立つ位置取りで、暴れる魔獣相手に怖じ気づくことなく立ち回っている。

 どうやら彼はワガママで横暴ではあっても、ちゃんと〝貴族〟であったようだ。


 コウシロウは起き上がる魔獣を再度叩き伏せようと拳を振るう。が、魔獣は膨張した豪腕でそれを受け止めると、返す腕のひと薙ぎでコウシロウを吹き飛ばした。

 客席上を横切って宙を舞う彼を、花道に立つ黒髪の歌姫は鋭く睨み上げる。

 目は閉じたままで、けれど、睨んでいるのだとハッキリ実感できるほどに、その表情は深い侮蔑と嫌悪に染まっていた。


 ファナティアと同じ顔が象る、負の感情。


 形ばかりの受け身を取りながら墜落したコウシロウに、クルークは怒声も激しく問い質した。


「おい、東方人! この下品なケダモノはいったい何だ!?」


 無事を確認するよりも、まず説明を求める尊大さは実に彼らしい。

 コウシロウはやれやれと起き上がりながら。


「人喰いの魔獣ですよ。この大陸にも、そういうのはいるでしょう?」


 軽口で応じつつ、二体の魔獣を交互に見やって身構える。


「ふん、本物の人狼ルー・ガルーだと? いくらここが劇場だからとて、笑えん趣向だな」

「実際、笑ってる場合じゃないですからね」


 出口に殺到する観客たちの波は未だ混迷の嵐。

 仮面の団員たちが誘導しているが、あの様子ではまだしばらくはかかるだろう。幸いにも、舞台上の演者たちはみんな、すでに袖に引っ込んだようだ。


 ただひとり、銀髪の歌姫を除いて──。

 ファナティアは未だ呆然と立ち尽くしたまま、同じく花道に立つ黒髪の歌姫と睨み合っている。片や笑顔で、片や目を閉じて、それでも、確かに睨み合っているのだ。


(……輝刃キバは、使えないか……)


 クルークを始め、観客や団員たちなど、人の目が多すぎる。

 それに、この二体の魔獣は同胞の〝狼〟ではない。この地で産み落とされた、この地の魔獣のようだ。輝刃キバで弔うべき相手ではない。


(倒すだけなら、この〝鎧〟の力だけで充分ですが……)


 魔獣はともかく、あの黒い女は────さて、どうしたものか。


「バンデルト卿、できれば他の観客と一緒に避難して欲しいんですけど」

「貴族の私に逃げろだと? 愚かかキサマ。だいたい、愛しき〝白雪姫スノーホワイト〟さんを置いて行けるものか!」


 いちおうは客である彼を、これ以上巻き込むのは不本意だが、この状況で少しの怯えも混乱もないのは頼もしいし、その勇猛さに助けられたのも事実だ。


「……では、皆さんの避難が終わるまで、この方々を足止めしましょう」


 二方から挟み込む形で牙をむく魔獣たち。

 コウシロウは腰に提げた兜を手に取り、かぶる。

 ギチリと、頸部の装甲が生物的に噛み合い連結する感触とともに、意識が冷えて、全身に熱い何かが満ちる感覚が駆け抜けた。


「何だその醜い兜は、まるでオグルだな」


 クルークは鼻で笑うようにそう言って、眼前の魔獣に斬りかかる。


 二本の角を生やし、四つの眼、牙をむいた怪物を象った面相。クルークの指摘の通り、確かにこの鎧は鬼神を模したものだ。


「東方に伝わる、おにらいの鬼ですよ」


 コウシロウがうなずく間にも、もう一体の魔獣が眼前に迫ってくる。

 身構え迎え撃つコウシロウの、兜に刻まれた四つの眼窩が紅く輝いたのは錯覚か?

 喰らいついてくる怪物の鼻先を、錆び色の左手が受け止めた。

 ガッシリと五指を食い込ませてつかみ、己に数倍する体格の突進を真っ向から押し止める。

 重圧に軋んだのは彼の骨身ではなく、全身を包み込む霊木の甲冑。踏ん張った足鎧が床にめり込むほどの圧力に、それでも受け止めたコウシロウの体幹は揺るがぬまま、大きく右拳を振りかぶった。


「──天土アマツチアマネマガツヒゴトヲ、ハラタマエ、キヨタマエ──」


 握り締めた拳、そこに滲む錆び色の色彩が、血煙を噴くように赤黒く煙る。


「──いざや、鬼は……外ッと!!」


 血風をまとって振り放たれた正拳が、魔獣の牙をヘシ折り、顎骨を打ち砕く。喉奥に腕を突き入れられる形で殴り飛ばされた魔獣は、並ぶ客席を薙ぎ壊して倒れ込んだ。

 グッタリと、まるで魂でも抜かれたかのように動かぬ魔獣。そして、コウシロウの右手にはドクンドクンと脈打つように輝く光の塊がつかみ取られている。


 力を込めて握りつぶされた光塊。それが弾けて霧散するのに呼応して、倒れた魔獣の身体も蒸発するかのように瞬時に霞んで消失した。


 コウシロウはクルークの加勢に入ろうと身をひるがえす。だが、もう一体は交戦中の貴公子を力任せに押し退け、大きく跳躍した。

 宙を飛んだ魔獣の着地点は、花道に立つ黒髪の歌姫の傍らに。

 コウシロウもすぐに向きを変え、倒れたクルークも身を起こし様、互いに地を蹴って駆け出した。

 舞台上のファナティアを睨み続けている黒髪の歌姫と、その隣で牙をむく魔獣。

 それらの殺意が動き出すその前に、コウシロウの拳とクルークの剣が振り放たれる。

 吠え声とともに飛び上がる魔獣。

 打撃と斬撃が交差するように空振った頭上を、黒髪の歌姫を抱えた魔獣の巨体が宙返った。

 大きく距離を取って着地した魔獣の、その肩に優雅に腰かけた黒髪の歌姫。

 彼女は冷然と、舞台上のファナティアを守るように位置取って立ちふさがるふたりの男を、順に見やって嘲笑する。


「銀狼…………クソッ、オマエに割り込まれたら手を出せない。ああ、もっと機をうかがうべきだったなあ……。本当に、堪え性がないのはわたしの悪いところだよ……」


 それにしても──と、黒き歌姫は笑みを邪悪に歪めた。


「牙を折られた狼に、牙を持たない猿か……滑稽こっけいな騎士様に守られているのね〝白雪姫スノーホワイト〟」


 クククク──と、鳥がさえずるような笑声は美しくも禍々しい。

 そんな心の底から嘲りを込めた黒髪の歌姫に、銀髪の歌姫はなお笑顔のまま、呆然と誰何すいかする。


「……あなたは、誰……?」


 ファナティアの声は明るく朗らかに、だが、ハッキリと震えていた。

 対する黒髪の歌姫は、同じ姿で、同じ声で、その色彩と感情だけを逆さまに返答する。


「誰? 誰だって訊いたの? わかっているんでしょう〝白雪姫スノーホワイト〟……そうね、ここでは気取ったふたつ名を称するのが作法なんだよね。ふふ、オマエが白雪のお姫様なら、わたしは白々しい雪色で覆い隠された黒い泥……〝黒泥姫グレイブハート〟とでも名乗ろうかな」


 イラ立ちに濁った名乗りを吐き捨てて、黒髪の歌姫──〝黒泥姫グレイブハート〟は、その閉じていた両のまぶたを見開いた。


 そこに覗いたのは暗黒のような深いウロ。

 そこにあるべき眼球はなく、ただ、暗い眼窩がんかの闇だけが虚ろにファナティアを睨みつける。


「笑いなさいよ〝白雪姫スノーホワイト〟……いつでも明るく楽しく幸せに生きる。そのために、オマエは絶望を切り捨てたんでしょう? だったらオマエは笑え! 全てを楽しんで笑え! 嘆きも苦しみも等しく受け入れて笑い続けろ!」


 ──そんな幸福なオマエの瞳を、わたしがわらいながら抉り取ってあげるんだから!


 嘲りは嫌悪も激しく高らかに、憎悪で美貌を歪めた〝黒泥姫グレイブハート〟。

 彼女を抱えた魔獣は咆吼を上げて身をひるがえし、出入口の人々をね除けて外へと飛び出して行った。


 コウシロウは後を追おうとしたが、舞台上のファナティアがヘタり込んだ気配に、踏み止まって振り返る。

 駆け寄ったコウシロウに、けれど、彼女は見向きもしないまま、笑顔を凍りつかせて声を震わせた。


「食べてもらったのに……イヤなものは全部食べてもらったのに……可笑しいな……」


 ニッコリと楽しげに、歌うように美しい声で疑念を唱える。


「可笑しいよ、こんなの、可笑しいよクーちゃん……」


 笑顔は凍てつき、笑声は震えて、それでも、彼女の翡翠色の瞳は、一滴の涙も流すことはないのだった。

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