十九

 アナンは目を覚ました。

 そこは真っ白い壁で覆われた真四角な部屋だった。アナンは担架の上で寝ていた。同じ部屋で目覚めたことがあるような気がした。F島で初めて目覚めたときに起きたときも、こんな部屋だったことをアナンは思い出した。

 しかし、この部屋はF島で目覚めた部屋と決定的な違いがあった。この部屋には窓が無かった。部屋は天井全体が白く光っていることで、明るくなっていた。しかし、その明るさは、まるで窓から太陽の光が射して、明るくなっている部屋と同じように見えたのだ。

 ガスで眠らされたときは、必ず白い部屋で起きるんだ、アナンは変なジンクスを考えていた。ということは、そろそろラウリーが現れるのか。きっと誰かが、起きた自分を監視しているのだ。

 アナンは担架から起き上がろうとして、手をついて上体を起こそうとした。激しい痛みを右手に感じた。そのときになって初めて右手に包帯が巻かれていることに気が付いた。そういえば、アナンは治安部隊に拳銃で撃たれたのだ。空調室での捕り物劇の一部始終が脳裏に浮かんでくる。

 突然白い部屋のドアが開いた。見も知らない男だった。ラウリーではなかった。

「──お目覚めだね、アナン君」

 男は、ナルチスシティではめずらしく、制服のようなものを着ている。真っ白になった口ひげをたくわえており、かなりの歳のようだが、重要な立場の人間にも見える。

「私は、保安省保護観察課のカルロだ。アナン、喜んでくれ。君を釈放しよう」

 喜んでいいものかアナンには分からなかった。もし、あのときアナンが試験管を投げていれば、アナンは釈放されただろうか。

「僕の罪はなんですか?」アナンは聞いた。

「公文書偽造罪、不正侵入罪。執行猶予一年の刑だ。

 一緒に捕まったゼブリンによれば、君は試験管の中身は一切知らなかったらしい。君は何も知らないまま、ゼブリンにかどわかされ一緒に犯行に及んだ。だから、ゼブリンとは同じ罪にはあたらない。ゼブリンが一生懸命、そう主張していたよ」

「ゼブリンは?」

「ナルチスシティの永久追放だ。最高の刑罰だ」

 それを聞いてアナンはうな垂れた。アナンが試験管を投げていれば、恐らく事態は全然変わっていたことだろう。しかし、それはアナンが自分で決めたことなのだ。自らのかわいさで試験管を投げるのを止めたわけではない。アンディと同じく、不幸の上にはどんな幸せな社会も築けないと思うからだ。

「永久追放って、ゼブリンの罪は一体……」

「細かいことを言えば、山ほどある。君と同じ公文書偽造罪もあるしね。彼はリニアネット上でいろいろな操作をしている。幸い、君たちがU大学に来る直前に彼が使った偽エージェントが手配済みのものだった。ゼブリンがそれを使ってU大学にアクセスしたのがわかったので、彼がU大学を標的にしていることが分かったのだ。これは全て不正アクセス禁止法及び、電子スクリプト制限法などに抵触している。

 それから、これだけで十分大きな罪なんだが、ゼブリンは紫の悪魔を復活させようとした。これは反逆罪にあたる。人類全体に対する罪だ。一度、社会を壊滅させようとして反逆的な行動を取ったものは、特別なことがない限り、このナルチスシティから永久追放せねばならない」

 保安省のカルロという男は、淡々とアナンに罪について説明した。しかし、ゼブリンの罪が軽くなるようないかなる情状酌量の余地も見つかりそうもない。その後、男は今までの表情を緩めてアナンに言った。

「アナン、わかるだろう。君の減刑は特別なんだよ。通常なら、強制労働十年の刑でも文句は言えまい。ただ、君がナルチスシティに来てからまだ二月も経っていないし、その君には善悪の判断がつかなかっただろうという判断が下されたのだ。君を助けようとしたのは、ゼブリンだけじゃない。クサーヴァやピエールにも礼を言うんだな。彼らの尽力で君は助かった」

 そうなのだ。アナンの刑がそんなに軽いはずがなかった。ゼブリンは、極刑を受けたにも拘らずアナンには罪が無いことを主張した。そして、クサーヴァやピエールも何らかの政治的な方法でアナンの罪を軽減してくれたに違いない。そう思うと、みんなに申し訳ないことをしたという気持ちでいっぱいだった。ゼブリンに無理矢理連れ回されたとはいえ、彼がモッドを全滅させる瞬間を見届けようと思っていたことは、十分罪に値するはずだ。

「それから、もう一つ大事なことを言っておかなければならない」

 アナンは次は何かと思い、身構えた。

「君が手配された折、クサーヴァのところの君の部屋も捜索させてもらった。君にはほとんど持ち物はなかったが、一つだけとんでもない資料を隠し持っていたようだね」

「──アンディの日記!」

「そうだ。昨日から大変なニュースになっている。君が逮捕されたこともかすんでしまったほどだよ。あの五百年前の英雄シミック教授が人殺しだったとはね。今、世間はその話で持ちきりだ。君が釈放されても、その話題に追いかけられることになるだろうよ」

 まさか、こんなにあっさり、あのノートの内容が知られてしまうとは思ってもみなかった。予想通り、ナルチスシティにおいても、あの日記は大変な事実だったことに違いない。

 それによって、人々は何を考えるだろうか。ゴルトムント島もそのような災いの上に成り立っていると知って、ゴルトムント島のことをあざ笑うだろうか。それともファーストビジターの苦悩を想像し、その悲劇的な運命に涙するだろうか。


 アナンは保安省のカルロに礼を言い、用意された車に乗ってクサーヴァの待つ家まで帰った。家に着くと、アナンは大歓迎で迎えられた。クサーヴァは大きな声で「ブラーヴォ!」と叫んだ。フローラは涙を流しながら、アナンを抱きしめた。アナンがこの家にいなかったのはほんの数日に過ぎないが、この家がなぜか懐かしく、とてつもないほどいとおしく感じられた。

 アナンの目から涙が溢れた。アナンは気が付かないうちに「──ごめんなさい、クサーヴァ。──ごめんなさい、フローラ」と何度も何度も言っていた。クサーヴァは「アナン」と言って、頭をくっつけた。フローラはアナンを抱きしめたまま「──いいのよ、アナン。いいの、アナン」と言い続けた。フローラの涙が頬を伝い、彼女のあごからアナンの耳たぶの上に落ちてきた。フローラの涙は暖かかった。

 三人は再会を喜び合った。誰も事件のことは話さなかった。この数日、クサーヴァが何をしたのか、フローラがどんな買い物をしたのか、そんなことを話しながら、久しぶりに三人の食事をした。そして、アナンには全てがまたいつも通りに戻ったような気がした。

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