十三

 アナンは今でもゴルトムント島の夢をよく見る。

 夢の中で、アナンはまだ学校に通っている。学校は年齢ごとにクラスに分けられる授業と、全員が一緒に集まって行う授業がある。しかし、アナンは親友のカレルと、どんな授業のときもいつも一緒にいる。農業実習のとき、アナンたちのクラスは近くの田んぼで田植えを行った。

 一人が一つのラインに沿って、苗木を植えていく。アナンとカレルはもちろん隣同士に位置していた。アナンが苗を植えようとして、泥水がカレルの方に少し撥ねた。カレルはその後、わざとアナンに泥水が飛ぶように苗を植えた。

「やったな」とアナンは笑いながら、水をすくってカレルにかけた。「何すんだよ」カレルもやり返す。そうやって二人はじゃれ合いながら実習をしていると、遠くから「こらーっ」という声が聞こえてくる。

 その日の実習担当はザハールで、そのおかげでアナンとカレルの働きぶりだけはしっかり観察されていた。ザハールは二人に向かって

「田植えはな、遊びじゃないんだ! そうやってふざけて植えた苗はまともにゃ育たないんだぞ。 わかるか、俺たちゃ、汗水たらして毎年この仕事をやってるんだ。中途半端なことをするな!」と言い、皆から見えるように、二人にゲンコツを見舞わせた。

 カレルを厳しく育てようとして、ザハールはことさら皆の前でカレルを怒るのが常だった。その度、アナンも巻き添えを食うことになる。ゲンコツをもらうと、アナンは「やられちゃった」というふうにカレルにおどけた表情を見せるのだが、そんなときカレルはいつも神妙な表情をしていた。アナンは肩をすくめて、無言で作業を進めるしかなかった。


 二人の大好きな授業は木工演習だった。二人は想い出のあの飛行機を作っている。クラスの他の連中は、羽を作っても持ち上げただけで崩れてしまったり、飛ばした瞬間に地面に落ちてバラバラになってしまったりして、作っては壊れ、作っては壊れを繰り返している。アナンとカレルだけは、彼らの目をよそにどんどんと複雑で精密に作業を重ね、二人だけレベルの違う境地に達している。木工の先生も、他の連中を放っておいて、二人が製作しているところにしか口を出さなくなった。いつしか、クラスの連中たちも自分たちが作るのを止め、アナンとカレルが作っているのを取り囲んでいる。

「そうそう、そこは力がかかるから少し補強した方がいいだろう」「そこに板の厚さと同じ溝を作ってはめ込むんだ」先生も、まるで自分が作っているようにいろいろなアイデアを二人に教える。

 カレルはとても器用に道具を使いこなし、数ミリ単位の精度で易々とこなしていく。細かいところの仕上げでは、アナンもうまくいかず、ぐらぐらしているところがあったが、カレルの飛行機は完璧だった。二人の飛行機を飛ばしてみた。アナンの飛行機はしばらく順調に飛んでいたが、ぐらついていた部分が突然ポキッと折れ、飛行機は墜落してしまった。カレルの飛行機は完璧に飛んだ。着地も完璧だった。そのとき、教室内でワーッと歓声が上がった。皆口々に、部屋でなくてもっと高いところから飛ばしてみよう、と言った。アナンももっと高いところから飛行機を飛ばすところを見てみたかった。皆が教室から出て行ってしまったので、仕方なく先生も一緒に出て「わかった、わかった。じゃあ、この教室の屋根から飛ばしてみよう」と言うと、また皆は歓声を上げた。カレルはログハウス状の教室の壁をよじ登り、屋根まで登った。下からアナンが飛行機を手渡した。カレルはそこから飛行機を思いっきり投げた。

 飛行機は予想を裏切らず、地面と平行を保ちながらどんどん遠くに飛んで行った。皆は飛行機の後を追って歓声を上げながら走った。アナンは、屋上にカレルがいたので、何となく皆と一緒に飛行機の後を追いかける気になれなかった。教室の建物から、先生とアナンが、そしてその屋根の上にカレルが、皆が追いかける飛行機を立ったまま目で追いかけていた。遠くから、皆の声がさらに高まったのが聞こえた。飛行機は無事着陸したらしい。アナンはカレルのほうを向いて、拳を高く掲げて「カレル、スゴイな!」と言った。そして、カレルも満面の笑みを浮かべていた。


 学校の全員が集まる授業では、祭りの出し物で行うような打楽器やギターの演奏や踊りの練習を行う。もちろん先生は村の芸能組の人たちだ。このときばかりは、年齢の関係がなく、楽器や踊りが上手な者が下手な者に自然と教えるような形になる。アナンはギターを弾くのが得意だった。上級生になった頃には、よく下級生を教えたりした。

「いいかい、左手はこうやってネックとなるべく直角にするんだ。やってごらん」

「いてて、アナン。痛いよう。手首がポキポキいってる」

「おい、お前は身体が固いなあ。こうだろ、よく見てなよ」

 アナンはそう言いながら、左手をきびきび動かして、弦をしっかり押さえ、下級生に模範を示した。

 ゴルトムント島の楽器は打楽器とギターが全てだ。ギターは小さなものから大きなものまであり、ギター製作者も要求に応じて、いろいろな形の楽器を作っている。ただし、サイズが大きく超低音が出るギターは芸能組でしか使われておらず、アナンは機会があればこのギターに触れてみたいと思っていた。

 芸能組のメンバーと話をしたり、楽器を触ったりすることが出来るのはこの授業のときだけだったので、アナンは度々芸能組のベースギター奏者のところに行っては、ベースを弾かせてもらっていた。ベースギターはサイズが大きいので、手もとても高いところまで伸ばさなければならない。長時間演奏していると、手は激しく疲れる。そうすると奏者は解放弦だけでそれなりに聞こえるようなフレーズを教えてくれ、これを曲中に適当に散らばせば、左手は少しは楽が出来る、などということを教えてくれた。

 授業の間アナンは、踊りの練習をしているクリスの姿をちらちら見るのが好きだった。踊りの練習は女性のみだ。男が踊ってはいけないという決まりはないが、芸術と言えるレベルまで形式や動作が決まっているのは女性による踊りである。また、女性は踊りのときだけ、きらびやかな衣装を纏うことができる。この衣装を着ることは女の子にとって何より楽しみなことだったので、芸能組の踊り子になることに憧れる女の子はたくさんいた。だから、この踊りの練習の授業は、踊りが好きな女の子にとって、最も楽しい授業なのだ。

 この授業は数ヶ月に一度しかない。だから、学校に通う子供たちにとって、いつでも待ち遠しく思う授業の一つだった。この授業の最後には必ず全員合奏を行う。そのときには、村の公式行事で演奏する『入祭の調べ』と『永遠の楽園』を子供たちの演奏と踊りで、たどたどしくも行うのだ。アナンはもちろんギター演奏を担当する。アナンはもう何回も弾いているので、この曲を覚えてしまい、譜面がなくても弾けるようになっていた。だから全員合奏のときは、いつでもクリスの踊りを見ていた。

 クリスは踊りを踊る女の子の中でも、アナンには一番美しく見えた。何といってもクリスは踊りが上手だった。足の先から手の指先まで、クリスの踊りは細やかに気が配られ、不安定になる要素は全くなかった。情熱的な激しい踊りのときは、誰よりもリズムが正確で、動作にメリハリがあり、それでいてしなやかさを失っていなかった。アナンはそんなクリスの踊りを見ることはこの上もなく楽しいことだったけれど、同時に他の男どもが皆クリスのその踊りに魅了されているような気がして、気持ちが穏やかではなかった。アナンには、クリスが誰よりも上手く踊りを踊るほど、自分の幼なじみのクリスではなく、もっと自分の手の届かないところで神に近づこうとしている高貴な存在に思えた。そんなクリスを、アナンは幼なじみとして誇りに思うと同時に、自分からどんどん離れていく寂しい気持ちを感じたものだった。


 クリスは踊る。アナンの夢の中で。

 どこまでも廻り続け、遠心力で膨れ上がった衣装の隙間から、足やお腹があらわに見え隠れする。クリスは楽しそうに歌いながら、アナンに微笑みかける。アナンもギターを弾きながら、微笑を返す。二人はそうして、しばらく見つめ合っていた。

 ところが、クリスは次に視線を変えて、別の方に向かって微笑みかけた。アナンには、クリスが自分のことを特別な存在として思っていないように感じた。『そうやって、クリスは誰に対しても笑顔を振りまいているのだ、その微笑みは僕だけのものではなかったのだ、クリス、お願いだからもう一度僕のほうを向いてくれ』とアナンは思う。

 クリスは別のほうを向いたままだ。どうも他の男と見つめ合っているようだ。アナンはどうしてもその男の正体を知りたいと思い、クリスの視線の方向をさぐっていると、そこにはシンバルを叩いているクサーヴァがいた。『クサーヴァ、なぜここに!』そういえば、クサーヴァはゴルトムント島の映画を作りたいと言っていたっけ。ゴルトムント島に来て、今この島に住んでいたんだ。そして、アナンと一緒に学校に通って、こうしてシンバルを叩いているんだ。

 アナンはもう一度クリスのほうを向く。クリスはいつの間にかとても背が高くなっている。そして、その美しさはさらに輝きを増し、もうこの世の物ではないような眩しさに覆われていた。アナンはしばらくクリスの顔を直視できなかったが、次第に彼女の顔が鮮明になってくると、それはいつの間にかフローラの顔に変わっていた。しかし、アナンにとって、クリスとフローラは同じ人物だった。クリスは、踊りながらどんどん美しくなっていく。もはや、クリスはアナンの手の届かない人だった。『ああ、僕には不釣合いな女神のような人なのだ、クリスは』そういって、アナンはうな垂れた。

 音楽はいよいよ激しさを増し、フローラであるクリスはますます激しく踊る。そのような情熱的な踊りをアナンは今まで見たこともなかった。まるで獰猛な獣の魂が乗り移ったかのように上半身を振り回し、長い髪はそのたびに身体にみだらに纏わりつく。

 音楽の激しさが高まっていく中で、突然一人の男が歌いだす。どこまで響き渡り、朗々とした男の歌声は、しかしどこまでも深い悲しみに満たされていた。悲痛なその歌声は、フローラの美しさに打ちのめされたアナンの気持ちをまるで代弁しているかのようだった。アナンはその気持ちに共感した。一体、こんな美しい歌を誰が歌っているのだろう。アナンは見回した。そして、ギターを持ちながらその歌を歌っている男を発見したとき、アナンは、その男から炎が上がっていくのを見たのである。

 ああ、燃えている。男が、男が死のうとしている。誰か、誰か、助けてあげて。アナンは必死に叫ぶ。しかし、誰も助けない。一緒にギターを弾いている人も、踊り子たちも、まるで男が、この儀式で生け贄にされたかのように平然と演奏を続けている。そうか、男は生け贄だったのだ。この島では、生け贄を捧げなければいけなかったのだ。そうしないと、ファーストビジターに、シミック教授やアンディに殺された人々の怒りはおさまらないのだ……。

 はっとして、アナンは目が覚めた。アナンには、まだ燃えている男の焦げた匂いが鼻についているような気がしてならなかった。

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