アナンはまずこの世界がどのように発展してきたか、その歴史を知りたかった。

 アナンは数千年前よりメソポタミアやエジプトで文明が起こったことを知った。それから中国で、ギリシャで、それからローマで大きな文化が栄えたことを知った。聖書を通して伝え聞いていたローマ帝国はまるで悪の帝国のようであったが、この国もまた歴史のダイナミックな変化の一コマに過ぎないとアナンは感じた。

 ルネサンス以降、ヨーロッパ諸国は大航海時代を向かえ、世界はヨーロッパを中心とした価値観に席巻されるようになった。科学技術は十八世紀頃から爆発的な発展を遂げ、産業革命を引き起こす。そして、二十世紀の終わりにインターネットが現れ、情報技術が一気に花開くことになった。


 さて、これ以降の人類の歴史については、ゴルトムント島に伝わるものと全く異なる。

 紫の悪魔がU大学において発見されたのが二〇一三年のことだ。その前年より、アジアを中心にこの紫の悪魔と呼ばれる原因不明の疫病が蔓延していた。全く新しいこの疫病に、人々はなす術を持たなかった。有史以後経験したことがないほどの速さで、疫病は世界を席巻した。経済はグローバル化され、旅客機が飛び交うこの時代になって、人々の往来が増えてきたということが、紫の悪魔の蔓延を促進してしまった原因だったのかもしれない。

 紫の悪魔の病原菌であるWWJ細菌が発見されて四年後の二〇一七年暮れ、U大学のヤコブ研究所にて、紫の悪魔の発病を完全に抑えるヒト遺伝子内の遺伝子パターンを作ることに成功した。この遺伝子から生成されるタンパク質がWWJ細菌の毒性を閉じ込める鍵の役目を果たすのである。しかし、この成果を人類の再興に生かすためには、これから生まれてくる新生児の受精卵に対する遺伝子操作をするしか手がなかった。紫の悪魔は感染力が強く、感染してから死に至るまでの時間も異常に早い。鍵の役目を果たす化学物質の投与では全く間に合わない。そのためには、もはや個体の細胞全体がこの遺伝子を持っている必要があった。つまり全ての人体細胞に一種の抗生物質であるタンパク質の自動生成装置を取り込んでしまおうという発想なのである。

 すでに一刻の猶予もなかった。U大学は、大西洋上の北限にある小国に研究施設を移転していたが、その国にもついに紫の悪魔の毒牙が忍び込んでいたのである。

 紫の悪魔回避の遺伝子パターンを発見したヤコブ研究所とU大学は、この成果を発表するのを控えた。もし、この研究結果を発表すれば、研究所への問い合わせが殺到し、現時点でやるべきこともままならないほど大変な事態が起きるだろうと考えたのだ。

 そしてU大学の教授会で内々に決定したことは、新生児の受精卵の遺伝子操作をすることだった。そのためには一組でも多くの夫婦に体外受精をしてもらい、操作後の受精卵を子宮に戻した上で、紫の悪魔に免疫力のある新生児を一人でもたくさん生んでもらう必要があった。つまり、今生きている人間を救うことを諦めて、遺伝子操作により人類の存続を図ろうという計画だったのである。

 秘密裏に進められたこの計画の全貌は、その後『モディファイドヒューマンプロジェクト』として明らかにされたが、これによると二〇一八年暮れまで三十八人の新生児が遺伝子操作によって誕生した。またU大学で数人の人間がこの新生児を育てるために選ばれ、新生児が自立して生きていけるようになるまで育てる役目を担うことになった。この役目は『マザーズ』と呼ばれた。そしてマザーズが紫の悪魔に感染しないために、大学の校舎の一角を利用して彼らが住むための完全防備シェルターを極秘に製作したのである。


 結果的にこの計画は成功した。

 二〇二〇年には、U大学でも各研究が不可能になるほど、紫の悪魔は蔓延していた。しかし、人々の目から隠れた場所で、遺伝子操作された三十八人の子供と、それを育てる任を持った人々がシェルターの中で生活していたのである。二〇三〇年には、シェルター内に住む人々は、シェルター外の人間の活動を確認できなくなった。もはや人類の活動を示すような、どのような微弱な電波も受信できなかったのだ。

 二〇三五年に、遺伝子操作された子供たちであるモディファイドヒューマン、すなわち『モッド』は紫の悪魔に対して生命の危険がないことを十分確認した後、初めてシェルターの外に出た。もはやU大学内部にも、街にも誰も人はいなかった。人々は死に絶え、世界は廃墟と化していたのだ。

 三十八人のモッド達は、この廃墟の街をナルチスシティと名付け、自分たちが生き抜き、新しい命を作るためだけにその人生を費やした。幸い、これまでの人類の英知は彼らの大きな財産であった。彼らは農業、牧畜などで食糧生産することから生き抜く手段を模索し始めた。

 最初の百年は、人を増やし、食料を安定して作り続ける努力がひたすら続けられた。次の百年は為政者が現れ、ナルチスシティの運営を巡って何度か争いが起きた。ナルチスシティを二分する戦争も起きた。しかし人々は政治的にも成熟し始め、さらに次の百年で、ようやく紫の悪魔が世界を滅ぼす直前の人類の文化や技術に追いつくところまで来たのである。つまり、モッドは三十八人から始めて、三百年で一万年にもわたる人類の文明の進化を再体験した。


 二十四世紀になって、ナルチスシティにしか住んでいなかったモッド達は、紫の悪魔によって壊滅してしまった人類の被害状況を把握しようという『グローバルスキャニング(GS)』を開始した。すでにモッドによって、いくつかの人工衛星が打ち上げられていた。それらの衛星から詳細な画像データを送ってもらい、その画像を解析することによって、世界の被害状況を調べようとしたのだ。そして、その真の目的は紫の悪魔から逃れた生存者がいないかどうか調べることにあった。

 GSを行った結果、ゴルトムント島にかなり多くの人が住んでいることが確認された。また、その他にも中国やロシア、モンゴルなど内陸の山間の村々や、アフリカや南米で世界から孤立していた生活をしていた少数部族などが発見された。特に最も人口が多く、健全な暮らしを達成していたゴルトムント島に対して遣いをやり、今後共に人類の発展のために共栄を図ることを提案し、協力し合ったらどうかという意見もあった。

 しかしその後、このゴルトムント島での生存者が、『紫の悪魔』蔓延時のU大学のプロジェクトの一つの成果であることが明らかとなった。言うまでもなく、そのプロジェクトとはシミック教授とその研究室のメンバーによるものである。そしてそのプロジェクトに、人類の文明の発展をもう一度やり直すという意図があったため、そのプロジェクトの意思を尊重して、むしろ孤立したまま彼らの文明の発展について外部から研究してみようという機運がナルチスシティで高まった。しばらくは定期的に、衛星からの写真によってゴルトムント島を監視していたが、それからさらに数十年後ゴルトムント島の近くにカメラを設置して、ゴルトムント島監視局がF島に設けられたのは前述の通りである。


 二十五世紀になってからのナルチスシティの発展ぶりは凄まじかった。その中でも、特に二つの技術がナルチスシティの社会を大きく変えることになった。一つは、遺伝子操作技術である。二十世紀並みの技術レベルに追いついた後、医療行為としての遺伝子操作はますます発展した。多くの病気は遺伝子操作や、遺伝子の仕組みの解析によって生まれた新薬によって克服された。

 その後、病気だけでなく筋力や容姿、記憶力、論理思考力などの知能に関する遺伝子も多数発見された。そしていくらかの制約の上、政府への手続きを経ることによって、これらの人為的な操作が許されることとなった。そもそも、遺伝子操作はモッド自身を生んだ技術でもあり、モッドには倫理的な抵抗感がなかったのだ。遺伝子操作によって人類が生き延びてこれたということは、人間の進化に対する意識的な介入の結果であり、より大きな目で見ればこれもまた生物の進化と言ってもいいのかもしれない。これによりナルチスシティの人々は二メートル近い身長と容姿の美しさ、一流スポーツマン並みの体力、そして学者、芸術家並みの知力、記憶力、そして創造力を手に入れることになったのである。

 もう一つの技術は、リニアネットとロボットによる完全自動社会の実現である。リニアネットとは、二十世紀末から普及が始まったインターネットの発展形で、様々な情報が飛び交う電子ネットワークのことである。人々はリニアネットを介し、居ながらにしていろいろな情報を得ることが出来た。情報の大量伝送が可能になるにつれ、人々は自ら直接移動することが少なくなった。また、人々はリニアネットを介して、そこに接続されている全ての機械やロボットに命令を出すことが可能になった。

 太陽発電装置の小型化、効率化はロボットの自律行動を可能にさせ、世の中の多くの仕事をロボットが代用できるようになった。農業などの食糧生産はほぼ完全にロボットによって行うことが可能となり、物流もまた完全自動化された。これにより、人々はほとんどの食料をタダで手に入れることが出来るようになった。

 壊れたロボットを見つけるロボット、そのロボットを工場まで運ぶロボット、そして壊れたロボットを治すロボットも作られた。もちろんロボットもロボットにより作られた。しかしSF映画に現れるような人間同等の知能を持つロボットは結局作ることができないまま今に至っている。その代わり遺伝子操作によって知能を高めた人々、すなわちモッドは、ロボットを操作するスクリプトを使いこなし、誰もが自分のお気に入りのロボットを設計することが出来るようになっていた。

 そして、西暦二五二三年の今、ナルチスシティには約三十八万人のモッドが暮らしている。ナルチスシティでは、あまりの短期間に文化、技術が成熟したため、モッドたちは世界の他の土地に移り住むことがなかった。そして現在でも、ナルチスシティ以外には、特殊な仕事を持つ人と、モッドでない人間しか生活していない。

 世界でたった一箇所、ナルチスシティだけが人類の最も偉大な文明の賜物を享受していたのである。

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