七月三日

 現実はそう甘くはなかった。私たちはこの地で自給自足の生活をしなければいけないのだ。まず私たちが始めたことは、田んぼ作りである。

 この島では数人が細々と農業を続けているだけで、実際には収穫も安定しないらしい。若い働き手が不足しているため、田を耕すのも田植えをするのも非常に時間がかかり、田んぼに水も引くことも十分出来ないらしい。このままではこの島で農業が行われなくなるのも時間の問題ということだ。

 私は、まず彼らの農業を手伝うべきだと思った。しかし、シミック教授は、全く別の場所に自分たちの田んぼを作ろうと言った。確かに、私たちはここに住む人たちの農業を手伝うためにここに来たわけではない。しかし、効率からいって、今ある田んぼからしっかり農作物を収穫する方が早いのではないかと私には思われた。

 まず、私とマーク、そしてブラウン助教授で、田んぼになりそうな土地を探した。比較的平野も多く、川も何本か流れているので、場所に不足はなさそうだった。そして何箇所か場所を決め、私たちは早速開墾作業を始めたのだ。

 照り返すようなこの暑さのさなかの労働は、これまで大学の研究室でコンピューターに向かって仕事をしていたひ弱な私たちには十分応えた。皮膚は真っ赤になり、一日でヒリヒリするほど日に焼けてしまった。後で女性に聞いたら、無防備で日光に肌をさらしたら大変なことになると注意されてしまった。しかし、日焼け止めクリームなどという文明の利器を使ってはいけないはずだ。となると、これは防ぐ手立てがないのではないか。まさか、長袖、長ズボンで作業をしろというのか。

 シミック教授にそれとなく聞いてみたが、ハハハと笑うばかりで、何も答えてくれなかった。まあ、女性陣が持ってきた日焼け止めクリームの量も一年は持たないはずである。


 七月七日

 島には実は、三十歳くらいの若夫婦が住んでいる。旦那のユディは、若い頃大学で勉強していたこともあって、私たちの言葉で多少の会話ができる。ユディ夫妻は、ウィークデイに他の島に出稼ぎに出ている。週末にはたくさんの食糧を買い込んでこの島に戻り、この島の外に出て行けないような老人のところを訪ねては世話をしている。

 確かに、ユディ夫妻のような人がいなければ生きていけない人がいるのは確かだ。ほとんどボランティアでこのような活動を続けている夫妻には頭が下がる思いだが、彼らの存在はシミック教授にはどうも苦々しく映るらしい。

 そもそも、紫の悪魔から隔離されるためにこの島に来たのだから、頻繁に連絡船を使って行き来している人がいるようでは、自分たちのやろうとしていることは全く意味がなくなってしまう。かといって我々の一存で連絡船を止めるわけにはいかない。

 幸い、まだこの国は紫の悪魔の被害がそれほど広がっておらず、点在する各島では目立った被害は出ていない。逆にいえばそのために政府の対応も後手後手になっているようだ。すでに都市部では、猛威を振るい始めているという情報も伝わってきている。しかし、そうなると、ますます連絡船の存在は危険である。

 私はシミック教授から、それとなくユディに接するように頼まれた。

 もちろんシミック教授のことだから、この島を完全に孤立する方策をすでに練っているに違いない。そのためにはユディの協力が欠かせないと考えたのだろう。

 私は週末に帰ってきたユディに声をかけてみた。

 ユディは突然話しかけられ驚いた様子だったが、私が出稼ぎ先の町の様子を教えて欲しいというととても丁寧に教えてくれた。また、ユディは我々が紫の悪魔からこの島を守ってくれると信じているらしい。ちょっとニュアンスは異なるのだが、あながち間違いでもないので、私も思わずその通りだと答えた。

 そのあと、お互い年齢が近いこともあって、ちょっと色っぽい話で盛り上がってしまった。猥談は世界共通ということか。まずはお近づき作戦大成功といったところだ。


 七月十日

 一週間程度だが、何となく農作業のペースがつかめてきたような気がする。ここで飼うために連れてきた犬や猫、そして食料としても重要な鶏もこの環境に徐々に慣れてきているようだ。今日は鶏の卵を収穫した。ただ産み落とされた卵を集めるだけなのだが、そんなことでも感動できる。自給自足の第一歩という感じだ。

 それに炎天下の元で労働するということは、もしかしたら人間の最も基本的な行動の一つなのではないか、と思えるようになってきた。人間の身体は、そのような労働を行ったときに最も正直に反応してくれるようだ。心地よい疲労は、食事をもっとも楽しい時間に変えてくれる。食べ物を飲み込んでから胃に入ってしばらくすると、体中の血管に栄養分が運ばれるのが実感できる。食べることが、こんなにも本能的で快楽に繋がることが自分でも信じられないくらいだ。

 それからここだけの話だが、研究室では全く魅力ある女性として目に映らなかったキャシーとブリンダが最近やけに色っぽく感じるようになった。確かに二人とも美人とは言いがたいし、これまではいかにもファッションに無頓着な女性研究員という雰囲気を醸し出していたのだが、今の彼女らの魅力はいったいなんだろう。

 もちろん、彼女らが急に美人になったわけでもない。それは彼女たち自身の微妙な変化のせいだし、私が彼女らを見る目が少しずつ変わったせいでもある。きっと、肉体労働が私の中のもっとも根源的な欲望を呼び覚ましたのに違いない。それともちろん、彼女らからも何かしら神秘的なフェロモンを発散するようになったに違いない。


 七月十四日

 一週間ぶりにユディに会った。

 今日は少し我々の目的について差し支えない程度に話そうと考えていた。

 ユディの話によると、ついにユディが出稼ぎに行っている町でも紫の悪魔の死人が出たということだ。すでにその致死率はこの近辺でも知れ渡っており、町は大変なパニック状態に陥っているという。しかし、ユディは今のところまだ来週出稼ぎには行くつもりらしい。

 私は驚いて、ユディに来週は町に行かないよう説得した。もし、ユディが町で感染し、それに気づかず一週間後にこの島に戻ってくれば、たちまち島じゅうに紫の悪魔が蔓延してしまう。そうすると私たちの努力が水の泡である。

 しかし、ユディは私たちが紫の悪魔に対抗できる新種の治療法を知っている、と思っていたらしい。もしそうなったら私たちがユディを治してくれる、とそうユディは言ったのだ。この誤解はどうしても解いておかねばならない。私は、未だに紫の悪魔に有効な治療法がないこと、今罹ってない人をできるだけ隔離し、感染を広げないことが大事であると説明した。

 ユディは不服そうだった。そのあとも、来週町に行かないと食料が調達できないし、島の老人に食べさせるものが無くなってしまうと言い、どうしても出稼ぎには行くと主張したのだ。

 私たちの話は平行線だった。お互い譲らなかった。しかし、本来なら私が何をおいてもユディを説得しなければいけなかったのだ。人一人説得できないで世界が救えるだろうか。私は自分の非力さを嘆いた。


 七月十六日

 シミック教授はついに非常手段に出てしまった。

 月曜の早朝に出発する連絡船に細工をしてしまったのである。日曜の夜中に船内に忍び込み、エンジンの冷却水が通るパイプに穴を開けたのだ。教授がそのような非常手段に出たことを、船が出た後、マークから聞いた。教授はマークと二人で船に忍び込んだらしい。

 連絡船にはユディ夫妻と、何人かの買出しに行く島民が乗っていた。案の定、船はゴルトムント島の沖を遠く離れたところでオーバーヒートし立ち往生したという連絡が港に入ってきた。一番近い場所にある島の港まで補助エンジンで向かうとのことだ。

 マークはエンジンの知識があることを買われてシミック教授にこの役を引き受けさせられたのだが、本人はどうも気乗りしなかったらしい。どう考えたってこれは犯罪行為としか思えなかったからだ。しかし、この島を他の島と繋ぐこの連絡船はたった一隻。この船が壊滅的な打撃を受ければ、当分この島に連絡船が来ることはあり得ない。しかもこの辺りではもっとも修復が難しそうなエンジンを狙うことにした、とのことだった。

 こんな場所であるから、教授がやったという証拠を見つけることは不可能だろう。それに第一、ここ数週間における紫の悪魔の蔓延で、この国の治安組織に現段階でまともな活動が出来るとは到底思えない。この国ももはや無法状態になりつつある。恐らく、そのあたりまで読んだ上での教授の犯行だろう。


 それにしてもわずかここ数日でこの国の状況は大きく変わってしまっている。これは私たち十九人にとっても大きな誤算だった。私たちとしては、まず半年ほどで自分たちの自給自足体制を確立し、その後島の人々を少しずつ巻き込みながら、この島を孤立させていこうと考えていた。しかし、紫の悪魔の魔の手は、まさに我々がこの島に来たのと前後して、この国に襲い掛かろうとしていたのだった。

 ついに今日、テレビ放送が映らなくなってしまった。電波の中継所が機能しなくなったのか、それとも放送自体が無くなったのかはわからない。ラジオも同様だ。つい一年ほど前まで、世界を繋ぐ電子情報網はどんな情報でも手に入れることが出来た。しかし、もはやコンピューターネットも機能しなくなってしまった。どんなに世の中が電子化されても、それを動かすための最も根っこの部分は所詮人間によるものだ、ということをあらためて思い知らされた。

 恐らく数日のうちにこの島は停電に陥るだろう。そうなると一般的な通信手段は全て絶たれることになる。しかし、ここ数日は情報戦が勝負を分ける。ちなみに、我々はこういう事態を予想して衛星通信による携帯電話と、最低限の発電装置を用意していた。この衛星通信のチャンネルはU大学の学内通信用に割り当てられたもので、U大学との通信だけが出来るものだったが、それでも何も無いよりはマシである。


 七月二十日

 我々がこの島に到着して一月が過ぎた。

 それにしても恐ろしいほどの慌しさだ。まるで天国に来たかのような夢見心地の最初の十日。農地の開墾でへとへとの次の十日。そしてここ数日の凄まじいまでの島をめぐる環境の変化。

 ついに今日、島は停電になった。

 当然ながら発電施設はこの島にはない。電気は、最も近くにある島から海底に施設された電力ケーブルにて供給されている。従って、かなり近くまで紫の悪魔の魔の手は忍び寄っているとも考えられる。

 このような事態はここ数日のうちに想定できたはずなのに、島の人々は停電に大変驚き、何人かが公民館まで来て私たちの意見を仰ぎにやってきたのだ。

 彼らにとって連絡船と電気の二つは、極めて重要なライフラインだった。それがここ数日で立て続けに絶たれてしまい、このままでは生きていけないと彼らは訴えた。特に村の老人の十数人はユディの買出しによって生活していたから、ユディが帰ってこなくなると、数日のうちに食べるものが無くなってしまうらしい。そして、彼らにとって、もはや頼ることができるのは我々のみであった。

 私たちはブラウン助教授を中心に緊急に対策をすることになった。

 まず、ユディの買出しで生活していた老人を全て公民館に移し、我々が持ってきた数ヵ月分の食料の一部を提供することにした。そして、この話を島民に伝え、老人の引越しの手伝いをお願いしようと考えたのである。しかし、この話を聞いた島民の多くが、自分たちも連絡船で買出しが出来なくなったのだから、私たちにも食料を分けてくれ、と迫ってきた。

 食料は、自給自足が確立するまでの蓄えとして、我々十九人が半年ほど食べていけるほどの量を準備していた。それがさらに五十人となると、単純計算で二ヶ月、かなり制限しても三ヶ月で底を付いてしまう。この期間で、自給自足の体制が整うかもわからないし、ましてや約七十人分の食料を生産できるようになるとは考えられない。

 しかし、突然の停電で半ばパニックに陥っている彼らを安心させるには、ひとまず彼らの要望を聞き入れるしかなさそうだった。ブラウン助教授はそう決断し、もう一度老人の引越しの手伝いをお願いした。そして、島民には三日に一度の食料の配給を約束したのである。

 それを聞いて、とりあえず島の人々は納得したようだった。しかし、私たちとて無尽蔵に食料を持っているわけではない。このような状態を続けていくのは無謀なことだ。しかし、かといってどうすることもできない。

 夕方、島は久しぶりに激しいスコールに見舞われた。わずか三十分ほどであったが、地面はあっという間に水溜りだらけになってしまった。いつもならば、熱帯に一服の清涼をもたらしてくれるこのスコールも、今日はなんとなく私たちの澱んだ心の中を暗示しているように思えた。


 七月二十七日

 食料の配給を始めてから、我々と島民の間に微妙な心理的な溝が出来てしまったような気がする。もともとこの島で、我々の言葉を解し、島民に伝えることが出来たのはユディしかいなかったのだ。今は身振り手振りと、我々の覚えたてのたどたどしい島の言葉でしか意志を伝えることが出来ない。しかし、食糧の配給を始めると、一気に事務的なコミュニケーションの必要が生じてくる。このとき、お互いの言っていることが通じないと、相当ないらだちを感ずるものだ。

 例えば、さっきのランニング姿のお爺さんは、私が必要な配給をあげたあとでも頑として動こうとしなかった。「もう必要なものを渡したのだからどいてくれ」と手振りで表現すると「まだ全部もらっていない」とやはり手振りで言う。そのとき、お爺さんはお婆さんと二人暮らしで三日分だから配給はこれだけだ、と説明するのは容易ではない。いきおい私の言い方も荒くなって、ついついお爺さんを手で払いのけるようにして、無理矢理そこをどかしてしまったのだった。

 あとでひどいことをしたと思ったが、彼らに対して若干の不信感を持っているのも確かだ。配給を待って並んでいる間、こちらを見ながらひそひそ話をしているのを見かけると「これじゃ足りないってちょっとふっかけてやるか」と相談しているように思えてしまう。いや、恐らく実際そうなのだろう。半分くらいの人が配給の量に、まず不平を訴えるからだ。

 そう思うと、島の人々も相当狡猾な連中だ。これではまるで、自分たちが無力な老人であることを武器にしているようなものではないか。一度たかれるものができれば、どこまでもたかり続けるのがこの島の連中の考え方なのか?

 私も猜疑心の固まりみたいになってしまいそうだ。


 八月一日

 配給のおかげで余計な仕事が増えてしまったが、田んぼ作りのほうも進めなければならない。今日は、川から田んぼまで水を引くために、水路を作った。

 結構な距離をシャベルで掘った。掘った土を溝の両脇に集め、水路の形を整えた。まるで子供の頃、砂場で遊んだような気分だ。こんな作業が農作物の収穫につながるというのが悪い冗談に思えてくる。

 水路を一通り掘ったところで、一番川側にある土手を切り崩した。水が一気に水路を流れた。勢い余って固めた土が崩壊したところもあったが、流れる水を見て私たちは歓声を上げた。そのとき、ふいに私は、子供の頃に戻ったような懐かしい気分を感じていた。

 突然、背後から水しぶきが飛んできた。見ると、キャシーがいたずらっぽい目をしながらがに股になって水をすくい、私にかけようとしているではないか。「やったなー」と私は叫んで、同じようにキャシーに水をかけた。そして、それから私たち二人はまるで子供のように水を掛け合った。周りのみんなも笑いながらそれを見ていた。

 ひとしきり子供の遊びが終わったあと、私たちは大声で笑い出した。中には、調子に乗って水路に飛び込んで泥だらけになった者もいた。そして、水にびっしょり濡れたキャシーのTシャツからは、小さな乳房が透けて見えて、私はその神々しい風景に目が眩みそうだった。


 八月四日

 いつも配給の時間が近づくと気が滅入ってくる。

 しかし、だんだんと彼らも言い疲れたのか、不満を言うことは少なくなってきた。お互いが腹の探り合いをしながら、均衡を保っている状態にも感じられた。一方、彼らから私たちに話しかけることはめっぽう減っている。島に来た頃は、道で会ったときなど手を振りながら挨拶してくれたのに、今ではすれ違うとき微妙にこちらを避けるような歩き方をしている。なんてあからさまな態度の変化なんだ。こういう、人に対する極端な振る舞いの変化は、私の感覚では考えられない。

 こちらは島民のことを思って配給しているというのに、彼らは我々の何が不満だというのだ。不平があればきちんと言って欲しい。我々が対処できることなら、聞く耳は十分持つつもりだ。それが異文化同士の交渉ってもんだろう。


 ピーターからとんでもない情報がもたらされた。

 ユディをこの島で見たという。

 ピーターはユディらしき人物を海辺で見つけた。「おい、待て」と叫ぶと、その人影は素早く走り去っていたらしい。人影は我々十九人の誰でもなかったし、思いつくのはユディくらいしか考えられないという。

 シミック教授はピーターを連れ、早速出かけていった。

 もし本当にユディが来ているのなら何らかの船が海岸に着いているはずだ。シミック教授は、ここしばらく、港に船が来ないかどうかをずっと監視していたのだが、これまで船が来たことはなかったという。

 もしユディが本当にこの島に戻ってきたのなら、わざわざ別の岸にこっそり船を付けて入ったことになる。それでシミック教授はこの島の海岸線を一回り見てみようといったのだ。

 夜になって帰ってきた教授から、ユディが乗って来たと思われるモーターボートを発見したと聞いた。一体これはどういうことなのだ。ユディはなぜ、こっそりこの島に入ったのだ。そしてなぜ私たちの前に姿を現さないのだ。


 八月八日

 姿を見せないユディの存在は、ここ数日我々を不安に陥れている。

 中でも、この島の出入りをずっと監視していたシミック教授にとって、港を使わずこっそりこの島に上陸した人間の存在は許しがたいものだったに違いない。四日前より、シミック教授は若手のピーターとポールを連れて、連日ユディ探しを行っている。

 本当ならば田んぼの仕事にもっと精を出さなければいけないのだが、それどころでない事態があまりに増えすぎた。配給だって、数十世帯に配給するためには、その何時間も前から食料の仕分けを行って準備しなければいけない。私は、ブラウン助教授と共にもっぱら配給の仕事を中心に行っている。

 シミック教授が島内の見回りを始めたことによって、余計島の雰囲気は緊迫度を加えていったような気がする。ユディがいるという明確な証拠は無かったので、島の人々に直接聞いたり、家の中に尋ねて入っていくというようなことまではしなかったが、彼らには恐らく自分たちの行動を監視しているように思えたことだろう。

 しかし、シミック教授が島を見回るようになってから、いくつかの不穏な情報ももたらされるようになってきた。島民の中でもリーダー格と思われる人の家に、頻繁に人の出入りがあるらしい。この家は島で唯一の民宿を営んでおり、他の家に比べると圧倒的に大きくて広い建物である。今我々が住んでいる島の公会堂と匹敵する広さだ。この民宿の中にユディが暮らしているとしても何の不思議もない。

 南の天国のようなこの島は、いまやお互いの不信感で満ち満ちた、閉ざされた逃げ場のない場所になってしまった。いったいどうしたらこの状況を解決できるだろう。私には、結局のところユディしか頼る人間はいないように思えるのだ。何とかユディを探し出し、話し合いを行うべきだ。年寄りばかりではあるが、何とか彼らを説得させ、少しでも多くの人間を農作業に駆り出し一緒に自給自足の道を探るべきだ。


 八月十三日

 事態はなかなか進展しない。

 田んぼで始めたい稲作の準備もなかなかままならない状態が続いている。基本的に農業全般に関してはブラウン助教授の役目であったが、その助教授が配給に追われているので、大規模な仕事ができないのだ。

 そんな中、ようやく昨日辺りから苗代作りを始めることにした。文明を五千年元に戻すとは言ったものの、農業を全くやったことのない者がてきぱきとことを進められるわけがない。特に最初のうちは確実に収穫できる必要があったので、いくらかの文明の利器を我々は持参していた。苗代に敷き詰めるための苗箱は、実際の農業で使われている一メートル四方ほどの大きさの規格品を大量に事前に仕入れていた。ここに肥料入りの土をまんべんなく敷き、籾の種を均等に撒く。そしてそれらの苗箱を苗代に一つずつ設置した。

 仕事の大半を前傾姿勢でこなしたので、そうとう腰に来ている。終わった後はくたくたになって、公会堂に帰ってくるのも一苦労だった。これは皆も同じだが、それでも今日はようやく稲作が始まったことを体感できる日になった。今日撒いた種からいつ芽が出てくるのだろうか。そして、田植えができるようになるまで、青々とした苗に育ってくれるのだろうか。

 ブラウン助教授は、この土地ならば二期作どころか三期作くらいできるのではないかと考えている。ただし、年間を通して降水量はムラがあるので、しっかりした灌漑設備を作り水の量をきちんと制御する必要があるらしい。こんな素人にも本当に農業ができるのだろうか。実際の作業を始めるに従い不安も増してくるようになった。

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