第三章:氷の園に這い出る悪魔 6

 現れたのは、ヒトコブラクダに乗った天使だ。光の王冠を戴き、プラチナブロンドの髪が夜空に瞬く。女性と見まごう美しい顔立ちには、優雅な笑み湛えられていた。身に纏うローブはどこまでも中庸な灰。これほど美しい白と黒の中間色などあったのかと感嘆せずにはいられない灰色。


 ソロモン王が使役した七十二柱が一柱、堕天使パイモンが透き通った唇を開いた。


 おそらく、それは声だった。だが、美しい容姿とは反比例する穢れた野獣のような声だ。


 衝撃が走った。


 突如、アリーシャが吹き飛ばされた。彼女の表情には驚愕。


 全身を雷に変換していたため難を逃れたが、そうでなくばいまの一撃で殺されていた。それほどの破壊力を持った不可視の咆哮。ただの声が、超高位魔導師を葬るだけの力を持っているのだ。


 パイモンが左に握った剣を抜き放つ。


「ジャンヌ! いま召喚されたパイモンをやれ!」


 レライエの無数に分かれる矢を受け止めながら、ラファランが端末に叫ぶ。彼は焦っていた。完全に状況が深刻な劣勢に崩れ落ちたからだ。敵はフェリクス、レライエ、クローセル、パイモン、説話魔導師らの五勢力。対するこちらはラファラン、ステファン、アリーシャ、リューシエン、ジャンヌ、ASU魔導師らの六勢力。だが、完全に独立した五面の戦線が出来てしまった。超高位魔導師を二人投入してもクローセルを倒せていないことが事態を逼迫させていた。


「アリーシャにリュー、まだか⁉」


「全力投入していますが、想像以上に硬いです……! クローセル周囲の温度が急速冷却されて熱が届いてません!」


 アリーシャによる荒い息遣いの嘆き。核融合爆発の熱量は、リューシエンを投入したことで今や摂氏二億度を超えているだろう。それすら耐え得るなどさすが悪魔としか言いようがない。


 ラファランはここで相性が悪いと判断。


「ステファン老! クローセルをやれますか⁉」


「おう、わしもそっちの方が相性はよさそうじゃ。フェリクスは速くて捕えきれん」


「戦線を入れ替える! アリーシャ、ステファン老、二秒後にこっちで転移させる! リューはステファン老の援護に回れ!」


 接近してきたレライエが、光の剣を五つ振う。ラファランはそれを魔法転移で避けつつ一瞬だけ距離を稼ぐ。


「時間だ!」


 ラファランが《時間観測》で全員の座標を確認、把握。アリーシャとステファンの位置を一瞬で入れ替える。


 核融合魔法が消え、極光に照らされた夜が戻る。クローセルが甲高い叫び声を吐き出しながら杖を振おうとし、動きが止まる。ステファンが《概念殺し》によってクローセルの自由を封殺したのだ。


「よしよし、こいつには効くぞ。こいつはわしとリューがもつ。一分で処理する!」


 ステファンの報告が届くと同時、アリーシャが両手に鉄パイプもかくやという極大の釘を両手に生み出す。彼女が近接戦闘をするときに使用する専用武器だ。


 アリーシャが紫電と共に轟音をまき散らし、音を置き去りにした。一瞬後には、五つの書を旋回させるフェリクスの背後で巨大な釘を振りかぶっていた。それを読んでいたフェリクスは、悠々と白金の剣で受け止める。金属同士がぶつかる澄んだ音。


「フェリクス、お覚悟を」


「ラファランの嫁か。近接戦ができる奴を寄越すとは、奴も分かっている。いざ勝負! ここからが第一幕よ!」


 エアリアルの風を纏い、フェリクスが漆黒の夜空を駆ける。アリーシャもそれを雷となって彼を追う。それは、人類にとっては速すぎる戦いだ。お互いに音速を軽く飛び越えているのだ。


 そこに救援を求む声が上がる。


「ラファラン! こいつは私ひとりじゃ無理だ!」


 パイモンを相手にしているジャンヌだった。パイモンは雄叫びを上げながら彼女へ剣で斬りかかっていた。声すら武器にする悪魔に彼女は完全に防戦一方だ。


 恐らく、律法魔法による魔法無効化も、パイモンの攻撃には通じない。そもそも、パイモンは最高位魔導書から召喚された悪魔だ。高位悪魔は物理法則の枠外にいる。彼らには法を適用させることすら難しいのだ。


 更に、律法体系の弱点が浮き彫りになっていた。


 律法魔法は魔法発動に必ず計算が必要となる。現実の法たる物理法則を操作することで多くの現象を引き起こすが、そのすべては法則の数式を弄らなければならない。必然的に、魔法発動に時間が掛かる。超高位魔導師同士の戦いで、しかも近接戦を仕掛けられるとどうしても後手に回るしかないのだ。


「何分もつ⁉」


 ラファランは叫びつつ、接近してきたレライエの剣の乱舞を掻いくぐる。離れれば矢、近づけば無数の剣。破壊力満載の矢を防御し損ねれば、戦線のどこで被害が発生するか分からない。この悪魔も大概面倒な相手だ。


「五分はなんとかする! それ以上は無理だ!」


 手が足りなかった。クローセル攻略が鍵だ。あの堕天使を倒せば大局が変わる。


 いまクローセルは、ステファンに動きを止められながら、リューシエンの《両義》を連続で撃ち込まれていた。それをすべて膨大な氷の礫で防いでいる。《両義》の弱点である飽和攻撃で捌ききっているのだ。


 ステファンを攻撃に加わらせたいが、下手にクローセルを動かすと何が起こるか分からない。《概念殺し》で動きを殺してなお、クローセルは防御行動を取れているのだ。


 逡巡に次ぐ逡巡。そして、考えてばかりもいられない。ラファランの眼前にもレライエがいるのだ。気を抜けば一瞬で殺される。


 パイモンもしくはレライエを相手にできる近接戦の専門家が必要だった。




 ◇◆◇




 グリーンランド上空は極寒だ。飛んでいるだけで肌を突き刺すような痛い寒さだ。なにせ首都ヌークの四月の平均気温は摂氏マイナス三度前後だ。空ならば更に下がる。それをブリジットが元型魔法による結界で覆うことによって防いでくれていた。


「我は便利な防寒具じゃないんだけどなあ」


 ブリジットのぼやきに、ラファエルがほんわかした声で返す。


「ブリジット最高です。ぬくぬくです。今だけは尊敬します」


 がくん、とブリジットがうなだれる。


「エルは現金だ……」


「まあまあ、それがエルさんの良いところです。ついでにいまは私もブリジットさんを尊敬します。非常に温かいです」


 オットーもブリジットの心を無駄に引き裂いていく。ブリジットが頭を抱えて喚いていた。


 全員がのほほんとしているように見えるものの、向かっている先は超高位魔導師同士が争う地獄の戦場だ。流れ弾が掠っただけで簡単に死ぬ。しかも、目的が敵の大将であるフェリクスから円珠庵の居場所を訊くことだから、戦場の中心に行かなければならない。完全に警護課の本分からは逸脱していた。


 やがて、弓鶴の目に無数の魔法の光が飛び込んできた。遂に戦場に辿り着いたのだ。


「全員ここで止まれ!」


 ブリジットの号令がかかり、空中に静止する。


「状況は?」


 弓鶴の問いに、元型魔法で妖精を散らしていたブリジットが顔をしかめる。


「《レメゲトン》から三体悪魔が召喚されてるね。ASU側がどうやら劣勢状態のようだ」


「我々はどうします?」


 オットーがいつもの笑みを消して訊く。


「まずは状況を正確に確認する。下手に参加すれば即全滅だ。基本は我と弓鶴が前に出る。オットーとエルはこの距離を保ったまま援護に回ってくれ」


「分かりました」


 ラファエルとオットーが素直に頷く。


「弓鶴、覚悟はできてるだろうね?」


「自分から言ったんだ。当然だろ」


 ブリジットがにやりと笑う。


「その意気や良しだね。もう少し様子を見たら行くぞ」


「了解」


 ブリジットが新たに妖精を生み出す。妖精が全員の前まで飛ぶと、眼前に映像を映し出した。それは、彼が散らした妖精が得た視覚情報だ。


 ブリジットが映像を見ながら分析する。


「フェリクス殿とアイシア殿、他四名は悪魔とやりやっているようだ。ASU警備部は説話魔導師の集団と戦っている。超高位魔導師側の一角でも倒せれば対局は変わる。我は基本近距離での情報統制と援護に回るから、弓鶴が一番やりやすい敵は……」


 ブリジットが映像を切り替える。そこにはラファランと灰のフードを被った緑色の狩人が映っていた。ラファランは悪魔に対し、魔法ではなく小太刀での近接戦を挑んでは距離を取る繰り返している。


「ここだ! ラファラン殿の援護へ向かうぞ!」


 ブリジットが空を蹴って一気に直進する。弓鶴も遅れてそれを追いかける。


「どういうことだ⁉」


「ラファラン殿は遠中近距離すべて戦える魔法使いだが、基本的に銃器を利用した遠距離専門型だ。そのラファラン殿が近接戦を挑んでいるからには、当然理由があるはず。なら弓鶴を活かせる戦場はそこだ!」


 班長はブリジットだ。彼の命令に対し、弓鶴は無駄に異を唱えるつもりはない。


 AWSの機動力にものを言わせ、すぐに戦線に辿り着く。


 そこは、まさに極大魔法が飛び交う地獄の戦場だった。音速を遥かに超える速度で飛び交うフェリクスにアリーシャ。王冠の悪魔の剣舞と咆哮を避け続けるジャンヌ。リューシエンとステファンは堕天使へ総攻撃を仕掛けている。


 そして、ラファランが弓鶴たちの存在に気づく。


「なんで来た⁉」


 新緑の狩人レライエが放つ矢をすべて時間の壁で受け止めたラファランが続ける。


「……と言いたいが正直助かる! こいつは遠距離攻撃が通じない特殊な観念結界を張っている! 近接戦を頼みたい!」


 ブリジットが頷き、号令をかける。


「行け、弓鶴!」


「了解!」


 宙を蹴ってレライエへ肉薄。弓鶴に気づいた悪魔の周囲に浮かぶ光が反応。光が剣となって振われる。その数、実に四。頭上からの斬り落とし。左右からの横薙ぎ。右上からの袈裟斬り。


 受ければ刀ごと持っていかれると判断。即座に爆破移動魔法で後ろに下がる。振り抜かれた剣の隙間を縫って直進、まずは袈裟に一刀。浅いがレライエの肩を抉る。さすがに悪魔は硬い。


 斬り上げと共に魔法を発動。錬金魔法による《四態変換》が同田貫の刀身を気化して発光。そのまま一気に振り抜く。


 まだ浅い。気化金属の刀でも致命傷を与えられない。


 光の剣が動く。弓鶴は死に体。レライエの背後からラファランが小太刀を握って突っ込む。悪魔の瞳に一瞬の懊悩。


 その刹那で弓鶴にとっては十分だった。即座に態勢を立て直し、AWSを使って上昇。光の剣がラファランへ向くが、空を切る。ラファランが魔法転移で後退していた。


 近接圏内に敵がいなくなったレライエが弓を引く。狙いは弓鶴。一撃一撃が都市を半壊させるだけの威力を持つ裂する矢が放たれれば、第六階梯程度の弓鶴に防御する術などない。


 無数の妖精がレライエの視界に溢れる。妖精が弓鶴の映像を空中に次々と生み出す。レライエの瞳に迷い。


 ブリジットが妖精を使って弓鶴の幻影を生み出し、レライエを攪乱しているのだ。


 弓鶴が反転。同田貫の切っ先に現れるは宵闇すら食らう黒点。《断罪の輪》だ。接近を察知したレライエが光の剣を作る。遅い。


 レライエの左首筋に袈裟に斬りかかる。《断罪の輪》がレライエの魔法を捉えようとするが、弓鶴の実力では“物質”として知覚できない。幻想としての格が高すぎるのだ。


 それでも一刀で致命傷を与える。斬り返しの横凪。レライエが回避に動くが、ラファランが回り込み掌底。悪魔の動きが僅かだが止まる。その隙で十分だった。左から胴体を一気に水平に分割。


 レライエの声無き絶叫。だが、悪魔はまだ動く。身体を上下に分かたれようが生きている。光の剣がすべて弓鶴へ襲い掛かる。完全な死に体となった弓鶴には避けられない。


 上下左右からの光の剣閃。


 死。


 だが、殺戮領域から弓鶴の身体が一気に引っ張り出された。ブリジットが《観念力動》で弓鶴の身体を無理やり動かしたのだ。光の剣が鼻先を掠める。


 そして、ラファランの魔法が発動した。《空間操作》によって焦点を定められ場所へ向かい、空間が一気に捻じ曲がる。レライエの腕がひしゃげ、胴体が微塵に砕け散り、頭がぐしゃりと小さな肉塊にまで圧縮された。




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