信じれば夢はかなう

 美原綾香は、今日も妄想していた。白馬に乗った王子様が迎えに来る日のことを。王子は突然現れ、かしづいて綾香に求婚する。綾香は少しだけ迷うそぶりを見せてからうなづく。そして二人は馬に乗って行く。


 そんな調子で綾香は、電話機で漫画を読みながら、妄想を重ねていた。違法サイトで読む漫画の味は格別だった。なにせ、タダである。かつては本を買ったり借りたりもしていた。だが、買う金は足りない。借りても返さないので、誰も本を貸してはくれなくなった。そんな綾香の最後の生命線が、違法サイトだった。


 そして綾香は妄想する。その中の綾香は、骨と皮しかないような体型である。実際の綾香には、脂しかないというのに。妄想の綾香の睫毛は濃く長い。実際の綾香の放置されたものとは異なって。なぜか季節感のないドレスを纏った綾香は、王子と談笑しながら湖畔を歩いている。実際の綾香は、一人で狭い部屋にこもっているというのに。


 綾香の住む家は、それなりに広い。祖父が建てたからである。だが、父には才がなく、日雇い人夫をしている。母は内職をして家計を支える。子は他に二人居る。綾香の特徴は、ひきこもりがちなことである。綾香はバイトをしようなどとは考えない。外に出なくてはならないからだ。時々学校に行くことはあっても、誰とも話すことはない。言ってみれば、運命が綾香をひきこもらせたようなものである。綾香が得られる救いは、妄想の中にしかないのだ。


 それでも綾香は、信じれば夢がかなうと確信していた。だから、信じ続け、妄想していた。


 ある日綾香は、夕食のおかずの目玉焼きに見とれた。なぜなら、それが高級なホテルのブレックファストのようだったからだ。箸を持ち替えてナイフとフォークに見立て、綾香は玉子を切ろうとした。父は、それを見て怒った。なにやってんだこのバカ、と。何がどういけないのかを指摘することすら、父の知能ではできなかった。できるのは、ただ罵倒することだけだった。綾香は、何も食べず、部屋へと逃げ帰った。


 そして綾香は妄想した。十ヶ国語を話すエリートに連れられて、世界一のホテルで目覚め、朝食を食べるような風景を。だが、綾香に外国語などわからない。登場人物は、皆日本語を話している。しかも綾香は値の張るホテルを知らない。林間学校で連れて行かれた団体用の旅館がせいぜいである。だから、想像はちぐはぐである。なぜか壁にアニメのポスターが貼られていたり、給仕が長髪だったりするのだ。それでも、綾香にとっては、至福なのであった。


 深夜になって、綾香は台所へ行った。部屋にあったスナック菓子を食らい尽くしたからだ。たまたま机上にゼリーがあった。特売の品を弟妹が食べた残りに違いない。綾香は、ためらわず蓋を開けた。その化学的な香りは、本物を知らない綾香にとって、何よりも本物だった。綾香は、すぐさまゼリーを飲み込み、冷蔵庫を開けた。


 そして綾香は妄想した。ワイルドな優男と葡萄園を訪ね、高い背丈を生かしてもいだ葡萄を一粒口に入れられることを。甘くておいしい葡萄を褒め、しかしあなたの方が甘くておいしいですと言ってみる。すると彼は照れながら綾香を抱き寄せる。綾香は少しうつむいてはにかみ、キスをねだる。


 妄想と喫食以外にも綾香の仕事がある。惰眠である。綾香は、腹一杯になり、いつしか妄想もそこそこに寝入った。そして朝が来て、朝食の時間になった。父は既に仕事に出ている。母は疲れ切っている。きょうだいの栄養も足りていない。だから、会話はない。僅かの若布が入った味噌汁と、近所の店で最も安い米。それに派手な色の漬物があるだけの食卓は、見ようによっては厳かだった。


 そして綾香は妄想した。禅寺での修行を。なぜか見た目のよい長髪の坊主が、警策で綾香の肩を打つ。坊主のきらびやかな僧衣についた金属の飾りが揺れ、擦られ合い、風鈴のような音を立てる。その音が途切れて静寂が戻り、綾香の座禅は揺るがず続く。坊主の気配は去り、綾香は雑念を払い続ける。いや、坊主の雑念を払い続ける。いけないわ、こんなところで、と。


 綾香は、一応学校に向かった。やる気のない綾香が入った中途半端な公立高校では、多少のいい加減さは放置された。この点だけは、綾香向きだった。ただ、今日は、進路指導があった。綾香は、志望を書けなかった。いざ我に返ると、どうしていいかわからないからだ。教師は、指導室で訊ねた。


「君はいったいどうしたいんだ。」


 そして綾香は妄想で応えた。


「東大を目指します。」


 綾香は考えた。やればできる、必ずできると。なるほどそうかも知れない。世の中には、実際に東大に合格する高校生がごまんといるのだ。綾香がその一人になれるとしても、おかしくはない。数だけを見れば。しかも、目指すだけなら、自由だ。教師は困った。笑う訳にも行かない。しかし、綾香の成績で入試があるような大学に入るのは無理である。才能も、どう見てもない。


「言うに事欠いて東大か。受かるのか?」


 教師は、厳しく言った。現実的な進路を考えさせるのも、仕事の内だからだ。叶わぬ夢を諦めさせる非情さも必要だと考えるのは、おかしな話ではない。だが綾香は予想を超えてくる。


「東大がダメでも、ハーバードに行きます。」

「美原、君はハーバードの入試を知っているのかい。それも知らずに言っているなら考え直すといい。」


 そして綾香は妄想した。この高校の合格発表のように、「ハーバード大学合格発表」と大きく書かれた下に、受験番号が貼り出されているのを。そして、その前で自分が万歳と叫んでいるのを。なお、いつもほぼ白紙で出される英語のテストは、綾香にとって睡眠時間でしかない。


「それじゃぁ…」

「もういい。次までに考えておけ。間に合わなくなるぞ。次を呼んでくれ。」


 教師も、綾香につける薬はないと判断した。親がもう少し稼いでいれば、全入の大学か短大に行くことになるだろう。だが、それは難しい。国立すら、厳しいだろう。学費免除の線は、ない。進学以外の現実的な判断を本人がしなければ、学校も動けない。教師もまた、八方塞りなのだ。しかし教師は、妄想などしなかった。教師は、親とも相談して早めに道筋をつけねばならないと考えていた。


 そして綾香は妄想した。ものすごい研究をしてノーベル賞をもらい、一緒に受賞した先輩にプロポーズされることを。先輩はものすごく優秀で、綾香も尊敬していた。そんな先輩からの言葉に、綾香は泣いた。綾香は、ものすごくうれしいと思った。妄想の中の綾香は、なぜかエプロンをつけていた。


 帰り道で、我に返った綾香は、不安に襲われた。確かにこの先どうなるかわからない。自分にできることはない。どうしたらいいのかもわからない。パンをくわえて走っても転校生にはぶつからない。ピンチになっても誰も助けてくれない。ついに綾香は考えるのをやめた。


 そして綾香は妄想した。こんな不安に包まれた私の前に幼馴染が現れて、眼鏡を取って顔についた血を拭いてくれるのを。幼馴染は言う、お前は眼鏡を取るとかわい過ぎる、と。それから、そこで笑った私を見て、君は笑った方がもっとかわいいよ、って、言ってくれると。頭が沸騰しそうになった綾香は、妄想を止めた。


 綾香は、いつもと違うことをしてみたい気分になっていた。そこで綾香は、とりあえず本屋に寄ってみた。まずは参考書を開いてみた。なんだこれは、むつかしい。どうすればこんなものを読めるのか。そんな感想だけを5秒で得た綾香は、中1数学の本を棚に戻した。しかし困った。漫画は封じられて読めない。


 そして綾香は妄想した。王子様が馬に乗って現れて、私の立ち読みを邪魔する本屋を成敗し、本が入った袋をすべて切り開いてくれることを。本屋は困るって?そんなことは関係ない。これは綾香の綾香による綾香のための妄想なのだから。妄想の中では、世界は綾香のためにある。本物とは違って。


 綾香は、だらだらと寄り道し、しかし特に何をするでもないまま帰宅した。既に日が暮れていた。父が、待ち構えていた。


「バカヤロー!!オレのゼリー食いやがって!!」


 昨夜のあのゼリーは、父が食べるためのものだった。父は、冷たいものが腹に触るのを恐れ、常温にしていたのだった。それは、外での仕事を続ける父の、ささやかな生活の知恵である。綾香はそこに気付かなかった。

 父は綾香を殴り飛ばした。綾香は、黙って部屋に逃げ込んだ。鍵はかからないが、中から荷物を置いて襖が開かないように仕組むことはできる。父がバカだのアホだのと騒いでいるが、気にしなければそれでよい。


 そして綾香は妄想した。知らない世界へ旅立つことを。執事を呼んだ綾香は、旅に出るとだけ告げた。執事は言う。どんなことでもして差し上げます、と。綾香は、窓を開けさせた。信じれば空も飛べる。とにかくどこかへ行く。見目麗しい執事は、どうぞと言った。


 綾香は妄想していた。旅立った先の見知らぬ異世界で、私は姫となる。王子たちが私を取り合い、大変なことになる。執事とも関係を持つが、それはお遊びである。ついに第一王子との結婚が決まったとき、第二王子があらわれる。第二王子は、第一王子を殴る。

「バカヤロー!俺の綾香を!」

 肩で息をしながら、第二王子は続ける。

「幸せにしねーと承知しねーぞ!そのときは奪いに行くからな!」

 第一王子は、笑っている。

「そんな日はこないさ、俺は誰よりも幸せだからな!」

 よかった。第二王子も納得してくれた。綾香の取り合い奪い合いは、もう終わった。ハッピーエンドだ。綾香はそう思った。


 綾香は窓の外へ踏み出した。そして、堕ちた。二階から落ちただけとはいえ、下には荒れ放題の屋根や廃材があった。

 派手な物音がした。だが、気にする者はいなかった。車の音や犬の声、それに扉を閉める轟音が、いつもあたりで聞こえていたからだ。

 しまった。綾香の厳しい泥仕合は、いま終わった。デッドエンドだ。綾香はそう思った。


 まだ誰も、その先の綾香の運命を知らない。

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