或る隠トン、そして信教の自由。

日本国憲法第二十条

第一項

 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

第ニ項

 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

第三項

 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。



 五反田潮は、ひとりの人物を探していた。そして、ついに住処を探り当てた。郊外の住宅地の、崩れかけたアパートである。五反田にとって、それは信じ難い事態だった。五反田は、悪くてもそのへんの学生や新入社員が住むようなマンションだろうと想像していた。半信半疑の五反田が呼び鈴を押すと、果たして、その人物が出てきた。湯田アヒンサーである。

「師範!探しましたよ!」

 湯田はまず驚いた。しかし表情は固いままだった。数秒の沈黙が続いた。

「……まあ、上がれ。」

 古びた浴衣を着た湯田の部屋からは、饐えた臭いが漂う。だが、五反田は臆さなかった。深々と会釈した五反田は、スーツの丈がおかしいのか、裾を踏みながら湯田の後を歩んだ。湯田と五反田は、ちゃぶ台を挟んで床に座った。


「久しぶりだな。今更何用かね?」

「師範に戻ってきていただきたいんです。」

「私は教団を捨てた。」

「教団は師範を待っています。」

「私が待たせているわけでもあるまい。」

「今もあの師範の著書、『ここまでならギリギリセーフ』と『この道のずんどこ』は、皆が読んでいます。その先の話を直接伺いたいって、誰もが言います。」

「読んでわからんなら聞いてもわからんよ。」

「そんな!」


「…何度も言わせるな。ああなった尊師には着いて行けない。」

「でも、尊師は尊師じゃないですか!」

「そう見ればそう見える。それも信仰なのだろう。」

「尊師なしに信仰がありえるんですか?」

「神や仏などいくらでもいる。」

「でも師範も、尊師を選んだじゃないですか!」

「あァ…そうだな…だが、昔のことだ。」

「師範の信仰はそんなものなんですか?!」

「昔のことは忘れた。」

「ありえませんよ!」

「ありえない?私はそうした。」

「だめですよ!」

「何がだめなのかね。君が私を今も師範と呼ぶのなら、師範を納得させてみろ。」

「尊師以外への信仰はありえません。師範は道を誤りました。」

「かつての尊師にならそう言えた。だが、尊師は変わった。」

「でも師範も、尊師こそ唯一神だと言ったじゃないですか。」

「私は過ちを認めたんだ。」

「それはもっと大きな過ちです。尊師を信じないなんて…」

「君もしつこいな…」


「だいたい、尊師の何がいけないとおっしゃるんですか?!」

「君も覚えているだろう。ダミー団体を通して、幹部を選挙に出して…金ばかりが出て行った。お陰で信徒はえらい目に遭った。あんなことをやっていてはいけない。」

「信心を広めて、いけないんですか?」

「いけなくはない。やり方がいけなかったんだ。」

「でも、教団の勢力を伸ばすには、ああいうやり方も必要かも知れませんよ。」

「過労で倒れる信者がいてもか?借金で夜逃げする信者がいてもか?首を吊る信者がいてもか?それが神か?」

「神です。なぜなら我らの尊師だからです。師範もそうおっしゃっていました。」

「つまり、警察に目をつけられて痛くもない腹を探られるのも、信仰なのだな。」

「信仰です。疑われることを恐れて折伏はできません。師範もそうおっしゃっていました。」

「それは、他人の目を気にしないということだな。」

「当然です。」

「つまり、いま折伏している相手が全く乗り気でなくても、信者に仕立て上げてよいのだな。」

「それは…でも師範、一緒に警察と戦ったじゃないですか!雨宿りしたくらいで家宅捜索なんていう不当な弾圧と!」

「ああ、あれは不当だよ。」

「我々の教団を弾圧する権力を許せるんですか?!」

「あの弾圧は許せんな。」

「でしょう?信教の自由を何だと思っているんですかやつらは!」

「そんなこと知らんよ。」

「バリバリ教を国教にするって、みんなで誓ったじゃないですか。まず戦いましょうよ、悪党と。」

「いくらやつらが間違っていても、教団がすべて正しいということにもならんよ。」

「どうしてわかってくれないんですか師範!!!」


 呼び鈴が鳴った。市役所の方から来たという若い女の声だった。五反田は、仕方なく退散を強いられた。


 五反田は、湯田が住むアパートの近くを歩き回った。どうにかできそうもない。だが、どうにかしたい。信仰は、師範を正しい道に引き戻すという使命を五反田に与えていた。だが、五反田の頭で打開策を生み出せるわけでもない。そうこうするうち、市役所の方の女は去った。そして別の来客が湯田を訪ねていた。


「お待たせしましたね。いよいよ教団の始まりです。この資料の通り…」

「細かい話は後でいい。日程を先に教えてくれ。」

「ご転居は10日後です。」

「そうか。」

「教団で使うお名前も、そろそろ決めてください。この案の中から…」

「そっちで決めてくれ。」

「さすが佐田さん、話が早いですね。」

 湯田こと佐田は、別の新興宗教の副教祖としてヘッドハントされていたのだ。

「諸々の手続は系列団体にやらせます。佐田さんは大船に乗ったつもりでいてください。」

「ああ、任せるよ。」


 ところで湯田は、五反田に出した茶に、脳に影響が出る薬物を混ぜていた。お陰で五反田の記憶は曖昧なものとなっていた。その結果、逡巡の末に改めてアパートを探り当てた五反田の再訪は、二週間も後となった。既に湯田はいなかった。

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