【二十四】


 あかりはふっ、と眼を開いた。


 視界が真っ白い。光の世界だ。

 身体が宙に浮かんでいるのがわかる。

 腕を見る。服がない。

 身体が光を発している。


(あたし、死んだのかな)


 思い出す。

(ネコちゃんが、死んだんだ。あいつに殺された。それであたしが怒ったんだ。前向いたら、あいつがふっとんで行って――)


 その先の記憶がない。

 断片的な記憶がぼんやりと霧の彼方にあった。

 閃光。轟音。

 何かすべてが遠い昔に起こったような気がする。


(……なに?)

 何かが呼んでいる。声はしない。ただ感じる。

 上を向く。ただ光があるだけだ。


 ――上。


 思考しただけで身体が上昇して行く。


 頭上を覆う光の天蓋を抜けると一面の闇が広がっていた。

 光の世界が足元から離れる。

 上を向く。

 闇。

 

 こんな世界にかつていた記憶がある。

 底のない悲しみ。先の見えない苦しみ。止むことのない慟哭。

 遠い、哀切の記憶。


 上昇して行く。

 いつまでも続く悲しみのような永さ。

 永遠のようでもあり、一瞬のようでもあり。

 感じている時は永いが過ぎてしまえば一瞬であったような感覚。


 光が見える。


 ――ここだ。

 理由のない確信。

 夢で見た、手の届かなかったあの場所。あの感覚。

 視界に近づく雲。

 広がる空。顔に当たる風。

 大地が見えてくる。遥か地平線まで続く一面の草原。

 近づいてくる。

 

 身体が反転する。

 ゆっくりと舞い降りた。

 周囲を見渡す。


 ――ここだ。夢で見たのは。


 風が吹く。

 爽やかな、涼しい風

 いつか感じたことのある、懐かしい風だ。


 ――なぜだろう。かつてここにいたことがある気がする。


 たぶんその時も、風が吹いていた。やさしい風が。

 生まれてくる以前、遥か昔。

 自分が自分であったかどうかさえ定かならぬ時間。

 いないはずの自分の過去の記憶。


 

 ――何か聞こえる。

 耳を澄ます。声?


 あそこへ。


 身体が浮かぶ。

 草原の空中を滑るように飛ぶ。声の方向へ。


 中空に光る球体が浮かんでいる。


 舞い降りて、ゆっくりと近づいた。

 赤ん坊の泣き声。

 近寄る。


 空中に浮かんでいる、光る赤ん坊。


 両手を差し伸べる。

 光がすうっと近寄って来て、赤ん坊はあかりの腕の中に収まった。

 まだ泣いている。

 包み込むように抱いた。


 ――レイジ。あなたがレイジなのね。


 直感的に悟った。


 やっと会えた。やっと。

 光に頬ずりする。

 泣き声が少し小さくなる。


 よし――よし――。

 やさしくあやしてみる。ゆらゆら、ゆらゆら。


 ねんねん、ぼうやも、ねんねんよ……。


 自然に口ずさむ。いつか歌った子守唄。

 穏やかな日差し。涼やかな風。

 ――あの風だ。

 風のない場所であかりだけが感じていた、風。


 レイジが風を呼ぶんだ。何かを理解した。

 ――あたしにとって風であるものが、他の人にはあの「攻撃」になるんだ。

 

 レイジはずっと、ただ泣いていただけだったのだ。


 可哀想に。

 やさしく抱きしめた。


 泣き声が小さく、細くなりやがてあかりの腕の中で静かに寝息を立て始めた。

 安らかな顔。

 肩の力がミルクのように溶けていくのを感じた。

 暖かく、優しい気持ちになる。


 なんだろう、この気持ち。


〈それは、母の気持ちだ〉


 声がした。頭の中で。


(だれ?)


 周囲を見回した。どこまでも草原が広がっているだけだ。

 やわらかく風が舞う。あかりの髪がそよいだ。


 だめ、落ち着いて。


 あかりはゆっくりと目を閉じた。

 裏は表になり、表は裏になり、そして境界は消える。

たちまちあかりは世界とひとつになった。 


〈そう、それでいい。……わたしは、ビー・ディ〉


 気が付くと、頭上にひとつの光球があった。

 柔らかく照らす光。

 目の前にゆっくりと降りてくる。


(ビー・ディ。聞いたことがあるわ。――たしか『OZ』のひと?)

〈そうだ〉

(どこに――いるんですか?……そこ?)

 光を見つめた。

〈私はここにいる、と同時にどこにもいない。君がいる、と思えばいるし、そうでなければ、いない〉

(ここは……どこ、ですか?)

 光が瞬いた。

〈時間と空間の向こう側。宇宙の『上』にある場所、とでも言おうか〉

 ――ここが?

 あかりは改めて周囲を見る。晴れた空と澄んだ風。どこまでも続く草原。

 あまりにも穏やかな風景。

〈ここには真の姿はない。この世界にも『この子』にもね。君が見ているこの世界は、君が望んだ世界の姿なのだ〉

(わたしが――望んだ世界)

〈そう。この世界がこの姿をしているのは、ここに至ることができる人間が君ひとりだからだ。もう教えなくてもわかっていると思うが、君とこの世界はひとつなのだ〉

 目を閉じて、確かめた。


 わかる。わたしがこの世界。

 そして、レイジ。

 目を開く。


(この子は――いつからここにいたんですか?)

〈はるかな昔だよ。ヒトが人であろうとした時、からかな〉

(ずっと、泣いていたんですか?)

〈まあ、そうだね。弱かったり、強かったりだが〉

(あなたは、知っていたんですか?――この子が、ここにいること)

 光が頷いたのがわかった。レイジの安らかな寝顔を見た。

(可哀想に、こんな小さな子が、ひとりぼっちで)

〈私には、泣きやませることができなかった。誰か、ここに来ることができる人間が必要だった〉

(それが――わたし?)

〈そうだ。いつの日か、もっと多くの人がそうなれるようになるだろう。――だが今は、君ひとりだ〉

(多くの人――それが『進化』ですか?)

〈そうかもしれない。だが、それを決めるのは私ではない。――君たちだ〉

(わたしたち……。できるんでしょうか、そんな大変なこと。わたしたちに)

〈その可能性を高めるために、私は努力してきた。結果、やっと君がここへたどり着いた〉

(あなたは、何なんですか?――神様?)

 光が少し笑ったような気がした。

〈もちろん違う。私は、かつてはただの人であった者だ。縁あって人を導くことになってはいるがね〉

(あなたが『ヒト以上』の存在なんですか?――それとも、この子が?)

 レイジに目を落とす。

〈どちらも違う。私は君たちと大して違わないよ。ただ肉体としての姿を持っていないだけでね。そしてこの子は『ヒト』の後に生まれたわけではない。さっきも言ったように『ヒト』が『人』としてあろうとした時に、この子は生まれた。そういう意味ではこの子自身は『人』そのものの姿であるとも言えるだろう〉

(では……この子は、何、なんですか?)

〈『ひと』の『思い』が形になったもの、かな〉

(ひとの……思い?)

〈この子自身に『意思』はない。ただし人の『心』を反射するのだ。太陽の光を受けたプリズムのようにね。『心』は複数の『色』に分解され、人に返ってくる。返される者にとって、それが『風』であったり『心象』であったりするのだ。君の周りだけで起こったのは、君だけが彼の『声』を探知できたからに他ならない〉

(わたし?――じゃあ、わたしがいなかったら、あの『攻撃』は起こらなかったの?)

〈そうとも言えるね。だが、自分を責めることはない。君でなくても、いずれ他の誰かが同じことになっていただろうからね〉

 少し黙った。眠っているレイジがかすかに笑ったような気がした。

 あかりもふと微笑む。

(この子は『メディオディア』なんかじゃないのね)

〈『人を越える者』というものがあるとすれば、それは結局『人』以外のものではないのだ。遥かな未来、世界の姿がどうあろうとも、『ひと』を救うものは『ひと』でしかないのだよ〉


 未来の救い。なにかを思い出しそうになった。

 遠い遠い、未来の、思い出。

 そんなものがあるのだろうか。


(わたしには、なんだか――よくわかりません)

〈今は、それでいいのだよ〉

 光が優しく言った。

〈母の気持ち、とさきほど言った。君は『怒り』を超えて『慈悲』に至った。その大いなる慈悲の心がこの子に届くための道だったのだよ〉

 慈悲へと至る怒り。――どこかで以前考えたような。


〈時空を越えることができる君は、もう宇宙と一つになっている。――時間はある。何ができるのか、ゆっくり考えてみるといい〉


 目の前の光がゆっくりと形を変え、金色に輝く人影になった。

 両手を差し伸べる。

 あかりは胸に抱いた子を、そっとその手にゆだねた。


 赤ん坊の光とひとつになった光る人影は、やがてゆっくりと空に浮かび上がりはじめた。

 晴れた空を遠ざかっていく。

 光の塊が完全に陽光の中に溶けて消えてゆくまで、あかりはずっと空を見上げていた。





 わたしも、帰らなければ。


 そう思っただけで身体がふわっと浮いた。

 草原がみるみる遠ざかる。

 雲間を抜け、再び闇へ。


 飛んでいく。彼方へ。


 闇の向こう側に光の粒でできた海があった。

 波打ち、打ち寄せ、また引いていく。

 眼下に広がる、どこまでも続く光の海。


 ――確か、ここから来た。

 ――これが、宇宙?


 そうだ、とビー・ディの声がした。


〈君のいる場所は時間と空間の果て。君たちの知っている宇宙の、そのまた上の宇宙。宇宙もまたこの無限の光の海の中のひとつの光の粒〉

 少しめまいがした。

(宇宙――この光の一粒一粒が、ひとつの宇宙なの?)


 光の海を見渡した。


 何万、何億、何兆、いや、それ以上の数の『宇宙』。

 その一粒一粒のおのおのに何千億の銀河、その数千億倍もの星々がある。

 気が遠くなりそうだ。


〈そうだ、ここは無限の選択肢がもたらした、無限の可能性が広がる世界。すべての選択肢がここにある〉

 あかりは理解した。

(宇宙は――可能性でできている、のね)


 ――ならば世界を決めるのは。


〈そう、君たちが決める。ここにはすべての可能性がある〉


 ならば。――もし、そうならば。


(もしかしたら、ネコちゃんが死んでない世界もあるのかも)

 ビー・ディが少し黙った。ややあって言った。


〈君の意思で選んでみるといい、君の世界を。ただし、責任を負うのも君たちであることを忘れてはいけないよ〉


 はい、と答えて眼を閉じ、両手を広げた。


 あかりの身体から全方位に光が広がって行く。

 自分がすべての宇宙に広がっていくのがわかる。

 光の海から柱が立ち上がってくる。五本、十本、百、千。

 あかりの光が光の森に溶けていく。


 身体がゆっくりと光の中に降りて行く。


 無限の光があかりを包み込んだ。







 瞼の向こうで光が消えたのを感じた。

 みつるはゆっくり目を開ける。


 少し離れた場所にぼんやりとした光が見えた。光はやがて人の形になり、吸い込まれるように消えた。


 あかりが倒れていた。


「あかり!」二人が駆けよった。

 のぞき込む。頭が動いた。

「生きてる!――生きてるよ!」

 顔を見合わせた。肩を叩き合う。


 あかりはゆっくりと目を開いた。

 みつるとジュディの顔が見える。

「あかり、大丈夫?」みつるの声がする。

「うん、大丈夫……みたい。夢、見てた、のかな」

 そおっと起き上がってみる。

 みつる、ジュディ、顔を見る。

「みんな無事だったんだ……よかった」

 二人の手を握る。ジュディが涙顔で頷く。


 そうだ、ネコちゃんは。


 見回す。

 ――いない。


 やっぱり……夢だったのかな……。

 ネコちゃん。


 目を閉じた。

 開く。


 ふっと傍にネコが現れた。

 奇跡のように。


 仰向けに横たわっている。

 あかりが振り向く。

「……ネコちゃん!」

「え、え?……誰もいなかったのに」みつるが左右を見る。

「夢じゃ、なかったんだ……」

 あかりが傍に寄る。

 顔をのぞき込んだ。


「――ネコちゃん」

 声をかけてみる。

 ネコがゆっくりと眼を開いた。

「――あか、り?」

 声が出る。あかりが頷く。

 起き上がる。両手をしげしげと見つめた。胸や腹に触れてみる。左右の足を見る。

 呆然とあかりの顔を見つめた。膝立ちになる。


「わたし……生きてる?」


 顔を寄せた三人が頷く。

 きょとんとした顔の口がへの字に曲がり、あかりの顔を見つめる見開いた目から、今度こそ大粒の涙がぽろぽろとあふれ出した。

 顔がくしゃくしゃと崩れる。

「あかり……わたし……わたし……えっ、えっ、えっ……」

 言葉にならない。

 あかりの首にしがみついた。肩を震わせ、声を殺して泣き出した。


 あかりが抱きしめて頬を寄せる。

「ありがと、ネコちゃん」

 あかりの頬にも涙が伝い落ちる。

 二人が肩を抱いた。

 ジュディもみつるも泣きだす。



 四人は抱き合ったまま、いつまでも泣いていた。



 土煙は徐々に治まって来ていた。研究所の建物からはまだ煙が上がっている。


 少女たちを見ながら、ギイが微笑んだ。

「――終わったわね」

 崩れた山の方を見る。少し悲しげな目になった。

「そうみたい、ですね」

 トキが安堵のため息を漏らす。

 山の方を向いて、敬礼した。




 白み始めた空の向こう側から、近づいてくるヘリの音が聞こえてきた。








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る