【十四】



「――ずいぶんこそこそといろいろやってくれたようだな」

 扉を開けたまま、ジェンが低い声で言った。

 バトンガの顔が固まった。

「なんの話か――」

 ジェンが言葉をを手で遮った。じろりと顔を睨む。

「しかもそれが全部失敗とかザマはない。OZの連中にレベルを上げさせただけの役にしかたたなかったか。いい面の皮だな」

 唇の端が上に曲がる。

 ぎりっと音がするようにバトンガの眉が寄った。


「なんだその顔は――俺が何も知らないとでも思っていたのか?」

 ジェンがあざ笑うように言う。

 言葉が出ない。歯噛みした。

 ジェンの目がふっと半分になる。

「だがまあ、おまえがドジを踏んでくれたおかげでこっちはいろいろと考える余裕ができた。――礼を言っておくぞ」

 バトンガは動けない。

 ジェンは踵を返すとふっふっふ、と笑いながらゆっくりと部屋を出て行った。

 沓音が残響となって遠ざかっていく。


 しばらくの間、立ちすくんでいた。

 バトンガの拳が石の壁を叩いた。がつっと音がする。石の表面がぱらぱらと崩れ落ちた。


(くそ。コケにしやがって……このままではすまさんからな)







 閉じたレースのカーテン越しに、照りつける日差しが隣の家の赤い屋根に反射していた。

 閉め切った窓の向こう側から外のけだるそうな蝉の声が聞こえる。

 エアコンが疲れた四十男のため息のような小さな音をたてて冷気を吐き出している。


「――つまんないわねえ」

 問題集に目を落としたままみつるがぼやいた。

「面白い宿題なんかあるわけないでしょ」

 あかりも目を上げずにぴしゃりと言う。

 折り畳みテーブルの足元でゴンが暇そうにのたくた歩く。なんとなくあかりの顔を下から見上げるが、構ってもらえなさそうだとわかるとテーブルの下でごろんと横になった。

 みつるが頬杖をついて、シャーペンの根元でゴンの尻尾をつつく。ゴンは尻尾の先だけをくにくに動かした。

「あはは、ゴンちゃんの尻尾、毛虫みたあい」

「――真面目にやんなさいよ」むすっとしてあかりがたしなめる。

「あら冷たいの」

 あかりが半分身を乗り出した。

「あんたね――栃木行く前に宿題終わらせよう、つったの誰よ。そもそもなんで関係ないあたしがそれにつきあわなきゃなんないわけ?」

「そこはまあ、友達づきあいということでなんとなく」

「なんとなくで巻き込まれちゃたまんないわよ。つきあってやってるんだから真面目にやれ真面目に」

 下敷きで頭をぺしっと叩く。

「はあーい」


 三十分経過。

 ぼんやりと壁を見上げるみつる。

「しかしさあ」

「何よ」

「なんでこの部屋の壁って温泉のポスターだらけなわけ?」

「あたしの趣味ですが」

「夏なのに暑くなんない?」


 ぷっちーん。


「おまえなあ! 人んち来といてぶうたれ文句こくな! ――真面目にやれつったろが! やめるぞもう!」

「そうだ、やめよう」

 テーブルを飛び越えてみつるにのしかかった。頬をつかんで両側に引っ張る。

「いたいいたい! ごめんわかった! わかった! やるやる! やる!」

 

 さらに一時間半経過。

「ふいー、終わった終わった」

 みつるが仰向けに倒れて手でぱたぱたと顔をあおぐ。

「まだ一教科じゃないの。あと二教科あんのよ」

 グラスからコーヒーをストローで吸い込みながら冷たく言った。えーやだー、と言って首をぶるぶる振るみつる。駄々っ子かよ。

「今日もー限界っす」

「なによー、学年三位のくせに情けないわねえ」

 と言いつつもあかりもいささか疲れ気味。みつるがごろんと腹這いになって頬杖をつく。

「とりあえず今日はこんなもんにしとかない?」

 あかりもむー、と言いながらシャーペンを鼻下に挟んで天井を見つめる。

「――お風呂入りたいなあ」ぼそっと言う。

「カラオケ行きたいなあ」

 二人がちらっと目を見合わせる。みつるががばっと上体を起こす。あかりが構える。


「最初はグー! じゃんけんポン!」



(なんでこうなるかな……)

 モールをカラオケボックスの方へ歩きながら内心でぼやくあかりだった。

 外のエントランスは暑いので内部の中央通路を抜けていく。今日は珍しく客は少なめだ。

 吹き抜けの天井に開いた天窓から差し込む日差しが凶悪に床を照らす。

 いつもならタイムセールを叫ぶ声が大きい売り子のお姉さんたちも、外の暑さのせいかあんまりやる気がなさそうだった。


 ネコはひと区画、百メートルほど間を空けて二人の背後にいた。

 黒のノースリーブにデニムのジャケットの袖を捲り、下はジーパンで黒のキャップを被っている。右肩にかけたグレーのバックパックを持ち直した。

 周囲の店舗に目をやる素振りをしながら、二人を視界の端に捉えていた。

 二人が先の角を左に曲がった。ネコは早足で角まで五十メートルほど間を詰めた。曲がり角からさりげなく姿を出す。


「――わっ!」

「うわ!」


 思わず三メートルほどとび下がって反射的に身構えた。目を見開く。

 他の客にぶつかったらひと騒ぎだった。


 あははは、とジュディが大笑いした。ネコがにらみ付ける。まだちょっと心臓がドキドキしている。

 グリーンのトップスにサーモンピンクのパーカー、ショートパンツをはいて小さなバッグを袈裟にかけた姿で腹を押さえてまだ笑っていた。


「くそ……この根性悪め」ネコが毒づく。

「あなたに言われたくないね。あかりのことずっと尾けてたのわたし知ってるね」

 笑うのをやめてネコの目を見返した。ネコの目が険しくなる。

「あんまり甘く見ないほうがいいね。あなたの実体波もとっくにつかんでるね。――動きまるわかりね」

 

 にらみ合った。ちかっと何かが光る。

 二人が同時に素早く一歩下がって構えた。同時に拳を握る。


 あかりとみつるが同時に足を止めて振り向いた。

「あれ?」「え?」顔を見合わせる。

「どしたの?」「そっちこそ」「なんか聞こえた?」「いや別に」


 離れたところにいる二人の姿が目に入った。

「――あれ、ネコちゃんとジュディじゃない?」あかりが指さす。

「あ、そう、だね。何してんだろ」

「ジュディ! ネコちゃん!」あかりが大声で呼んで手を振った。

 二人が振り返った。


 ネコは内心舌打ちした。はあ、と息をついて構えをほどく。あかりが走りよって来た。

「二人でなにしてんの?」あっけらかんと訊かれても困る。

「え――いや、まあ」

 途端にネコがなんとなくよそよそしくなった。横目でそれを見たジュディがくすくすと笑う。

「変なのね」

「うるさいな」ネコがあさっての方を向いて吐き捨てた。

 あかりがぱんと両手を合わせた。

「ちょうどいいね。今からみつるとカラオケ行くんだ。一緒に行こ!」

 ――はい?

 ――え?

 きょとんとする二人。

「いいよね、みつる」「いいじゃない。みんなで行こ!」勝手に話を進めるな。

「まあ、いいですね」ジュディはなんとなく乗り気だ。

「いや、わたしは――」と言いかけるとジュディがじろっと流し目をくれた。

 用がある、と言える状況ではないことに気づいたが遅かった。


 行こ行こ、と手を引かれ、ネコはしぶしぶ歩き出した。



「たいせつななにかーをー♪たいせつなひとーにー♪ぎんがをーか-けーるー!」

 みつる三曲目。

 あかりはすでにげんなり顔。

 ネコはあさっての方を向いて口をへの字に曲げ、ジュディは空を飛ぶピンクの豚を見るような目で呆然としていた。

「――毎回こんななのか」ネコがぼそっと言う。

 まあね、とあかりは生返事しながらじゅるじゅるとコーラをすすった。げっぷ。

「みつるちゃん、えーと、ビニールだね」ジュディが半目で言う。

「ユニーク、かな。物は言いよう、ね」にーしか合ってない。

 歌が終わった。やる気のない拍手。

 この空気の中でこの音程で歌える心臓はたいしたもんだ。あかりはいつも感心する。


「やー歌った歌った」みつるは満足気。「次はだれかな」

 なかなかこの雰囲気の中で歌うには勇気がいる。しかし声をかけた手前、その義務は自分にあった。

 そんじゃあ、まあ、と言いながらあかりはリモコンを操作した。


 穏やかなイントロが流れ出す。ディスプレイには湖の画像。

 ふ、とネコが遠い眼になる。

 あかりがゆっくりと唄いだす。



 春風吹いて 通り道

 草が揺れてる あの丘で

 わたしは一人 夢を見る

 遠く離れた あのひとの

 面影はるか 思い出す


 夏はみずうみ 続く道

 波打ち際で 沖を見る

 わたしは一人 忘られず

 今は会えない あのひとの

 言葉の重さ 思い知る


 間奏。画面には揺れる草原、湖の水面みなも

 よみがえってくる記憶。揺れる葦の葉。遠い山波。アンデス。

(まただ、なぜだ)ネコは顔を背けた。

(なぜあかりといるとこうなんだ)


 秋は夕暮れ 帰り道

 落ち葉の雨に 包まれて

 わたしは一人 風の中

 手を取り合った あのひとの

 ぬくもりひとつ 抱きしめる


 冬は北風 想う道

 粉雪踊る 北の駅

 わたしは一人 旅に出る

 心に残る あのひとに

 果てない思い 伝えたい


 消えていくように静かにエンディング。

 マイクを下にしてぺこりと頭を下げるあかり。

 みつるとジュディが拍手する。ネコは少し手を叩く素振りで複雑な顔をしていた。

「とっても上手ですね。あかりなにやっても上手ね」とジュディ。

「相変わらずしぶい選曲ねー」みつるが茶化す。

「あんたの後じゃあ浮かれる気にはなんないわねー」まぜ返す。

「――ジュディの歌、聞いてみたいな」

 あかりがリモコンを渡す。えー、とためらいながらも受け取る。

「じゃあ、ひとつだけ、ね」

 マイクを持って立ち上がった。


 つま弾くソロギターのイントロが流れると、リズムに合わせて体を揺らし始めた。



 待ってよホールド・オン・。僕たちでトゥミー・アズ行こうぜ・ウィー・ゴー

 なじみのなアズウィロールダウンい道を転がり・ディス・アンフ落ちるならァミリアロード

 この波がアンド・アルソディ僕らをスウェイブ・イズ・駆り立ストリンギンてるガス・アロン

 知ってるはずさ君はジャスノウ・ユア 独りじゃない・ノットアロン

 僕がここをカウズ・アイム・君のいる場ゴンナ・メイク・ディ所にするさスプレイスユアホーム


 コーラスが続く。同じメロディの繰り返しだが、やさしく、励ますような響きを持っていた。


 オーオ オーオ オウオー オーオーオーオー

 アーア アーア アウアー アーアーアーアー


 知ってるはずさ君はジャスノウ・ユア 独りじゃない・ノットアロン

 僕がここをカウズ・アイム・君のいる場ゴンナ・メイク・ディ所にするさスプレイスユアホーム


 居場所ホームか。

 そんなものあるものか。ネコはひとりごちた。

 こいつも、あかりも、探しているんだな。わたしと、同じように。


 ――みんなと、一緒にね。


 あかりの言葉がふいに甦る。胸が熱くなって、ネコはちょっと慌てた。


 オーオ オーオ オウオー オーオーオーオー

 アーア アーア アウアー アーアーアーアー


 あかりとみつるが手拍子を叩く。一緒に歌っている。足を踏み鳴らす。

 ネコもなんとなく歌いだす。手を叩く。


 コーラスがひとしきり続いて、ぷつりと終わった。

 深々とおじぎするジュディ。

 あかりが大きく拍手した。

「上手だね、ジュディ」言われて少し照れている。

「古い歌。むかし、パパが歌ってたね」

 少し寂しげな目になってあかりを見た。あかりは小さくにこっとして頷いた。

「ネコちゃん、なんか歌ってみない?」みつるが言う。

 ネコはちょっと肩をすくめた。「あたしはいいよ」

 あかりが少しネコの傍に寄った。

「ネコちゃん。あの笛、持ってるよね?」

 確信した顔で言う。


 なぜ知っている。いや、なぜわたしは持っているんだ、こんな時に。


 しぶしぶ頷いた。

「また聞かせてくれないかな、『コンドル』」

 少し間があった。

 表情があれこれ微妙に動いた。

 結局どんな顔をしていいかわからないような顔になったが、ややあってバッグを引き寄せると笛を取り出した。

 おー、とみつるが感心する。あらま、とジュディが目を丸くした。

 なんとなくネコはばつが悪そうだ。


 少し離れた椅子に座った。足を組んで笛を構えると、目を閉じた。

 澄んだ音色が響く。

 二組の笛を巧みにあやつりながら曲を奏でていく。

 あかりはじっとその姿を見つめていた。

 ネコの心から静かに流れ出てくる平穏な感情が、あかりの心を満たしていく。


 遥かに遠い風景。

 青い空と鮮やかな山波の記憶。

 澄んだ湖の水面みなも。飛んでゆく鳥。


 この部屋だけが、遠いアンデスにいるような錯覚に陥った。


 テンポが早くなる。

 あかりが手拍子を打ち始める。みつるも続く。ジュディも打ち始めた。

 笛の音と手拍子が一体になって響く。


 音を朗々と響かせて曲が終わる。

 三人の手拍子がそのまま拍手になった。

「すごーい、上手!」みつるが大きく拍手した。「演奏会みたい!」


 ネコは少し居心地の悪そうな顔になった。

 照れているのを隠すための、それがネコの精一杯だった。



 じゃあまたねー、と言ってあかりとみつるが歩いていく。

 またねー、と言ってジュディが手を振った。


 ふう、とジュディが息をつく。

 後に二人が残された。


 なんとなく顔を見合わせる。


「どうする? さっきの続き、やる?」

 ジュディがいたずらっ子のような顔でネコを見た。

 ネコが紙のない便所に閉じ込められたような顔になった。

「――いや、帰る」

 ぷいと背を向け、バッグを背負い直して歩き出した。


 ジュディがしばらくその後ろ姿を見送った。

 なんとなく寂しそうな顔になった。



 ネコはわき目も振らずに歩きながら、乱れる心を押さえようとしていた。

 言えない。なぜ言えない。言えるわけがない。


 あかり。

 あかり。


 ――わたしは、敵なんだ。







〈――時が近づいている〉

 球体が瞬いて『ビー・ディ』の声が低く響く。

 ギイは眉根を寄せた。

「『レイジ』が目覚めるのですか」


 答えない。


〈――大きな動きが起こる。注意を怠らないようにしたまえ〉

 声が硬い。ギイは緊張した。


「わかりました」





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