【十三】


 久しぶりに晴れた。


 カーテンをいっぱいに開けたリビングには陽光が差し込み、観葉植物の大きな葉がぴかぴかと光っている。 

 網戸を抜けて入ってくるわずかな風がカーテンの裾を揺らしている。

 日向で寝そべっていたゴンがのたりと寝返りを打った。やる気のなさそうな尻尾が脱皮したての蛇のようにのたくたと動いている。


 美千代は洗面所の洗濯かごの中から衣類を出し、手早くドラム型の洗濯機の中に入れていった。

 あかりの制服の白いブラウスを両手で広げる。ちょっと透かし見た。わき腹の泥汚れの跡がわずかなしみになって残っていた。

(衣替えも済んでるし、クリーニングに出さないと落ちないかな)

 少しの間考えた。

 遊んでいて転んだ、と言っていた時の汚れだ。遊具で滑って転げ落ちた、と聞いた。

(大丈夫なのかしら、あの子)

 いまだにささいな事で不安が頭をよぎる。


 あの子の能力ちからが世間に知られたら、あの子はどうなってしまうんだろう。

 ――辛い思いをさせた。自分が対応しきれなかったせいだ。

 美千代は過去を悔やんでいた。


 思い悩んだせいで、幼いあの子を何度も叩いた。

 悔やんでも仕方のないことだとわかっていながら、それは美千代の心に澱のように淀んでいて、事あるごとに自分を責めさいなむのだった。


 ――ママはわたしがいなくなればいいと思ってるじゃない!


(そんなことないの、そんなことはないのよ)


 ――うそだ。ママのうそつき!


(ちがうのあかり。ちがうのよ)


 ――うそだ。ママはうそばっかりだ。みんなうそつきだ! みんな大っ嫌いだ!



 くずおれ、泣き叫ぶ子供を前に、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。


(私は、嘘つき。私の言葉は、すべて嘘)


 違うと言えるのか。この子の存在がなくなってしまえばいい。そう思っていないと言えるのか。

 足元が崩れていくような無力感。


 追い詰められていく日々。不安。焦燥。

 いつしか這い寄ってくる絶望。


 この子は不幸だ。こんな親の元に生まれてきたばかりに。

 生きていても、どんな未来があると言うのか。――不幸な明日を迎えさせるぐらいなら。

 朦朧として薄らいだ意識のまま、子供の首に手を回していた。


 ――やめて、やめてママ! ……や…め…て。


 我に返って飛び離れた。泣き崩れた。いつまでも子供を抱きしめて泣いていた。


 それからあかりは心を閉ざすことを覚えた。

 無口になって、誰とも話をしない時期がかなりあった。

 外へ出ることもなく、部屋でただゲームに浸っていた時間も長かった。


 住まいを転々と変え、環境が変わっていくうちにいつしかあかりは明るくなって行った。

 あかりの心にどのような変化があったのかは美千代にはわからない。

 美千代の呪縛は薄らいでいったが、なくなったわけではなかった。


 あかりが長風呂をするたびに、ちくりと心に刺さるものがある。

 風呂がなによりも好きになったのも、自分のせいなのだ。

 湯に浸っている時だけ、私が安心していたのを知っているからだ。

 間違いなく母親の心が安定している場所、それが風呂だったからなのだ。そう思っていた。



 ブラウスを持ったまま、しばらくの間洗面所に座り込んでいた。


 インターホンが鳴った。

 はっと我に返った。はーい、と声を出す。


 ゴンがぱっと跳ね起きた。尻尾がぴんと立ち、毛が逆立つ。玄関の方向をにらみ付け、唸った。

 美千代が通りがかる。

(なにやってんのかしら、あの子)

 ゴンの方をちらっと見て、インターホンに向かう。


 画面にマスクをして帽子をかぶった、作業服の大柄な男が映っている。

 はい、と美千代が答えると男は帽子を押さえてどうも、と言うと画面に近寄りきらきらと光るガラス玉のようなものを画面に近づけた。

「近所で作業をしている者ですが、これがお宅の前に落ちていまして」

 画面をのぞき込む。玉がきらきらと光る。輝きが目の前をちらつく。視線が吸い込まれる。目が離れない。

「こちら様のものじゃないですかね」

 いいえ、と言おうとした。口が動かない。

「……い……え……」

 光が右から左へゆっくりと動く。左から右へ。また右から左へ。


 ぼんやりと意識が遠のく。


「――私の声が聞こえるか」

 ワタシノコエガキコエルカ。

 頭の中に浸透するような低い声。

「はい」



「もう、お前には私の声しか聞こえない」







 終業式の日。

 昼前にチャイムが鳴った。


「やー終わった終わった」マイコが伸びをする。

「夏休みどうするの?」プリントをカバンにしまいながらあかりが訊く。

「家族でワイハですよワイハ」みずきは鼻息が荒い。

「えー、いーなー。みつるは?」

「あたしはひとりで栃木の親戚のうち行くんだ」

「栃木かあ、どこらへん?温泉あるなら便乗しよっかな。友達でーす、とか言って」

 あかりが身を乗り出す。みつるがあはは、と笑った。

「宇都宮から離れた山っぺり、確かなんにもないとこよ。湖かなんかあったかな。温泉はないと思うよ」

「うーむ、残念。キャンプでもするか?」

 あかりが食い下がる。

「わたしゃインドア派ですんで」

 みつるが笑った。

 

 ネコがみつるをじっと見ていた。


 ――栃木か。







 玄関のアプローチに差し掛かる。二階のベランダをふと見上げた。

(あれ、お布団干してないなあ、天気いいのに)

 駐車場をのぞき見る。黄色い軽自動車が停まっている。

(出かけて、はいないわよね)

 玄関まで来たところで、家の中から啼き声が聞こえた。連続する猫の声。

(ゴン? ……なに吠えてるんだろ)

 ただいまあ、と言いながらドアを開ける。

 ゴンの啼き声が一段と大きくなる。

「――なあに、ゴン。どうしたの? ママ?」


 返事がない。

 廊下にあがり、リビングに通じるドアをガラッと開いた。

「ただい――」

 言葉が止まる。

 目の前に美千代が立っていた。ぼんやりと無表情に前を見ている。右手を上に上げている。目が追う。


 手の先に、包丁。


 あっ、と思った瞬間、真っすぐに振り下ろしてきた。

 反射的に跳び下がった。先端が制服のリボンをかすめる。


「ママ!」


 反応しない。美千代が包丁を真横に薙ぐ。回りこんでかわす。クロス張りの壁に当たってがすっと音がする。

「ママ! どうしたの!?」

 相変わらず無表情のまま、両手で掴んだ包丁の先端を正面に向けた。一歩、また一歩とあかりに向かって前進してくる。

 ゴンが喉も裂けよとばかりに啼き続けている。

(まずい、体ごとぶつかってこられたら)

 じりじりと下がりながら、目がリビングの中を探る。

 壁際の掃除機が目に入った。駆け寄ろうとした時、美千代が加速した。ソファが邪魔になって直進できない。

 回りこんで掃除機を手にとった。チューブをはずして筒だけにする。掃除機が倒れてけたたましい音をたてる。

 ソファを回って窓際で相対する。あかりは杖の要領で構えた。

 真っすぐ突っ込んできた。今度は障害物がない。

「やッ!」

 斜め下から上へ跳ね上げた。美千代の掌から包丁がはずれ、リビングの端へ飛んで行った。

 美千代は手に持ったままの姿勢で呆然としていた。やがて両手を見下ろし、何もない掌をぼんやり見つめるとあかりの方を向いて両手を差し出した。

 虚空を見つめたままゆっくりと近づいてくる。


 あかりは動けなかった。打ち据えることができない。筒を取り落とす。

 封印していたはずの記憶が浮かび上がってくる。


 自分の首に伸びてくる、母の手。


「やめて……ママ……おねがい……やめて……」


 足が震える。おののくように後ろに下がる。観葉植物の鉢が倒れる。目が離せない。足がソファにからむ。

 美千代がとびかかって来た。

 押し倒された。あかりの首に手がかかる。美千代の手首を押さえ、なんとかこらえようとした。

 ゴンが唸り声をあげながら美千代の背中に飛びついた。爪を立てている。美千代の力が少し緩んだ。

 背中を獣のように振る。ゴンが振り落とされた。再びあかりにのしかかる。手に渾身の力が加えられているのがわかる。必死に抑える。


「やめて! ……ママ! やめて!!」


 美千代の力がふっと緩んだ。どこか遠くから呼び止められたような顔をしている。

 あかりの顔を見下ろす。内側から何かが抵抗しているようだ。


 だが、思い直したように再び無表情になって手に力をこめてきた。物凄い力だ。


「やめ……て、ママ……くる、しい」

 視界が薄暗くなっていく。


 ばたん、と玄関で扉が開く音がした。

 足音を殺して走る音。美千代の脇の下から腕が差し込まれ、あかりから引き離した。

 目を見開いたまま美千代がぶるんぶるんと首を振る。腰を左右に振って抗った。壊れた人形のようだ。

 片腕が抜かれ、美千代の首筋に手刀が打ちこまれた。

 美千代が糸が切れたようにぐにゃりと床にくずおれた。


 あかりは首を押さえて咳き込みながらゆっくりと身体を起こした。

 ――助かった。

 ベージュのジャケットを着てサングラスをかけた男が美千代にかがみこんで、瞼を開いてのぞき込んでいる。


「だれ? ……ママ、大丈夫なの?」激しく咳き込んだ。

 男があかりの方を向いた。

「大丈夫。気を失っているだけだ。――俺は残崎、ザキで通ってる。ジュディの仲間だと思ってくれ」

「――ジュディの? ……じゃあ、OZのひと?」

むせながら涙をぬぐった。男が頷いた。


 ザキは立ち上がってゆっくりと室内を見渡した。

 リビングの入り口脇の壁にある、インターホンのモニターに近づいた。

「――催眠術か、こきたねえ真似をしやがる」


「ママ! ママ!」あかりが美千代の上にかがみこんだ。

 ザキがあかりの肩に手を触れた。

「まだ術が解けていないから今は起こさないほうがいい。じきに迎えが来る。少し待つんだ」

 ザキを見上げた。

「あなたは――どうして、ここへ?」

「たまたまきみの学校に向かう途中だった。そうしたら『プロッター』から警報が入ったんで飛んできたのさ」

「『プロッター』?」

「きみになにかあったら警報が出るシステムだ。きみには悪かったがOZが無断で張り付けていた。まあ、結果的に助かったんで勘弁してもらえるかな」

 ザキは少し困ったような顔になった。

 システム?あかりは室内を見渡した。特段変わったものが付いているようには見えない。

(なにか、がわかるって……カメラ、とかよね。そんなの、あちこちにないとわからないような――)


 はっとした。まさか、そんな?


 表情の変化を見て、ザキが少し笑った。

 あかりの視線がゆっくりと下がっていく。足元まで。


 にゃあ、と啼く声。


 ――ゴン?


 失礼します、と声がして黒い警備員姿の男たちが入って来た。担架のようなものを運び込んでくる。

 てきぱきと家具をどけ、美千代の傍らに担架を広げた。


「あかり!」

 男たちの後ろから声がした。ジュディだった。

 その顔を見た途端、今まで押さえていたものが一気にこみ上げてきた。

「ジュディい!」

 わあっと言って首っ玉にしがみついた。あかりは大声で泣き出した。

「ジュディ……ママが……ママが……あた、しを」

 あとは声にならない。しばらくの間わあわあ泣き続けた。


 ジュディは黙ってあかりの肩を抱き、背中をさすっていた。







 マスクを着けてベッドに横になっている脇で、モニターが電子音を発しながら規則的に波を描いている。

 頭部に取り付けられた複数のセンサーがまるでメデューサの髪のようだ。

 顔がやや蒼いのがガラス越しにもわかった。

 あかりは少し心配になった。


 ガラス戸を開けてマリアンが出てくる。

 あかりとジュディの顔を見つけると、安心させるように微笑んだ。


「――ごく浅い催眠術だから後遺症の心配はないわ。ここにはそっち方面の専門家もいるから大丈夫よ、安心して」

 ありがとうございます、と言ってあかりはふうっと息をついた。

「投薬と催眠治療をするから夕方までかかるわ。眠った状態のままで送り届けるから、家で倒れてそのまま寝ていたことにしてくれるかしら?」

 こくんと頷いた。

「あとは責任もって面倒見るから、あなたたちは戻って家を元の状態にしておいて。何事もなかったことにしたいの。いい?」

 頷くしかなかった。


 よろしくお願いします、と言って頭を下げた。



 白い壁の廊下を並んで歩きながら、あかりは窓の外に目をやった。


「あたしさ」

 目を外に向けたまま言った。

「小さい頃、ママに殺されそうになったことがあるんだ」


 ジュディがあかりの顔を見た。黙っていた。

「普通じゃないあたしを育てるのに疲れてたんだと思う。殺されてても、おかしくなかった。忘れてたんだ、今まで」

 ジュディが前を向いた。

「うちは、パパのほうが、先に限界になったね。わたしは殺されはしなかった。けど、パパは帰ってこなくなったね」

 斜め下を向いて唇を引き結んだ。

 あかりがジュディの手を探った。指が絡み合う。ジュディが握り返す。

 手をつないだまま、しばらく歩いた。


「あれが、MMのやり方なんだね」

 ジュディが頷いた。

「もっとひどいこと、するね。むかし聞いた。なんの関係もない子供に爆弾持たせて、能力者に近づかせて爆発させた。周りの人、たくさん死んだね」

 あかりが握ったままの手を胸元に持ち上げた。


「ジュディ――あたし、戦うよ」

 顔を見た。瞳が潤む。

「なんの罪もないママを巻き込むなんて、……絶対に許さない」


 ジュディが頷いた。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る