【十一】


 宿舎となるホテルに着いたのは五時を回った頃だった。

 

 宿舎に着いて、部屋割り、点呼、班長が集まって翌日の段取りの確認、各班への伝言など、あかりとみつるは忙しかった。

 ようやく一段落ついた頃には、クラス別の入浴時間がせまっている有様だ。

「もう、なにが修学旅行よお。こんなにせわしないのが旅行なわけないじゃあん」

 部屋に戻ってへたり込んだみつるがぼやく。

「しょうがないわよ。とりあえず終わったしね」

 ジャージに着替えながらあかりが言う。

 部屋は二班八人でひと部屋だ。クラス委員のあかりは自動的に部屋長にさせられる。

 D組の入浴時間まで少し間があった。

 二十帖の部屋に、二人用の小さなテーブルと椅子が置かれた六帖ほどの板間、部屋の大きな窓からは夕暮れ色に染まった一面の山の緑が見える。

 二人を除く各人はもう着替えも済ませ、テレビを見たりお菓子をつまんだり喋ったりしている。

「ほい、お疲れ様ですね」

 ジュディが二人分のお茶を淹れて、テーブルに置いた。

「あ、ありがとジュディ」

 二人ともひと口お茶を飲んでふう、と息をつく。

 ネコは部屋の隅で足を百八十度開いてひとり無表情にストレッチをしている。

「ネコちゃん身体柔らかいのね」みつるが感心する。ネコはちらっとこちらに目をやっただけだ。

 ジュディが笑いながら、似たようなのだったらあたしもできるね、と言うとぴょんと立ち上がって足を開き、上半身を後ろに反らせるとブリッジの姿勢になった。そこで終わりかと思ったら、そのまま腕を前に進め、顔がぐるっと足の間から出てきて、どうも、と言って片手をあげた。

「やあだジュディったら、かたつむりみたい」あかりが笑い出す。

 かたつむりってこうかね、と言いながら両手の人差し指を立てて頭にあて、そのままの姿勢でのそのそ動いてみせた。

 その姿が妙におかしくて、二人はひとしきり笑いころげた。


 D組の入浴時間になった。

 あかりがなんとなく想像していたとおり、脱衣室は大騒ぎになった。

 前のC組の着替えが完全に終わっていないところへD組が入って来たので、出る者入る者ドライヤーが終わらない者などで満員電車のような有様だ。

「あ、ティナのショーツかわいい」「いいでしょ、お尻にくまちゃんだよ」「小学生かよ」

「痛い、ぶつけた」「ちょっと押さないでよお」「C組さん早く出てくださあい」

 まいったねこりゃどうも。あかりは空いているロッカーを探しながら苦笑した。


 ネコは服を脱ぎながら、注意深く目を配っていた。

 人が多すぎる。ちっと舌打ちした。これでは確認できん。


 大浴場は芋を洗うような状態だった。

 洗い場が十はあるのだが、なにせ女子の場合、一人当たりの使用時間が長い。十人が占拠していると、必然的に残りの十人は浴槽に浸かっていることになる。浴槽も大きいが、さすがに十人も入るといっぱいになる。

 あかりは髪を洗うのは早々にあきらめた。とりあえずタオルを頭に乗せて湯船に身を沈める。ふー。

 みつるとジュディも入ってくる。

 ふわあ、あったかい。みつるが横に並ぶ。

「お風呂で会うの久しぶりだね」

「そうねー」

「カラオケの方が回数多いもんねー」

「うるさいわね」

 ジュディも入ってくる。

「ジュディ髪の毛洗わないの?」あかりが訊くとちょっと困った顔になった。

「この髪の毛ほどくとけっこう長いのね。洗うのすごい時間かかるね」

 なるほど、と頷く二人。

「時間三十分じゃ短すぎよねー。洗って乾かしたら三十分なんかあっちゅう間じゃん」

 そうよねー、とか言っているとネコが湯船に入ってきた。

(む、でかい)

 思わずネコの胸元に注目する三人。クラスで大きいのはティナとエリ―だがネコもいい勝負だ。

 普段はスポーツブラで締め付けているから目立たないと見た。

 思わず顔を見合わせる三人。自分の胸元を見る。再び顔を見合わせる。苦笑い。

 再びちらっとネコの胸を見る。他の女子もなんとなく見ている。ネコにはなぜ自分が注目されているのかわかっていないようだった。

「何だ?」とあかりたちにぼそっと訊く。いっせいに首を振る三人だった。

 みつるがふと気づいた。

「あれ、ばんそこ」あかりの胸の中心を見る。中心に縦に絆創膏が貼ってある。

「ああ、ちょっとかぶれちゃって」


 ネコが無表情にじっとそこを見ていた。

 






 翌日、午前中に一旦京都駅に戻り、そこから班別行動が開始となった。


「さー、どこ遊びに行こうかな」みつるが脳天気に伸びをする。

「なに言ってるのよ。あとでレポート書かされるんだから真面目にやんなきゃダメ」あかりが小突く。

「えーせっかくの自由時間なのにー」

「ちゃっちゃか済ませて遊びに行くねいいです」

 ジュディがくるくると歩きながらみつるをのぞき込んだ。

「ジュディもおのぼりさんなんだからもう」

 おぼのり? おおのぼり? ジュディが首をひねる。

 ネコは今日も他人の顔だ。四人はぶらぶらと歩き出した。


 あかりたちを含む複数の班はそのまま歩いて東寺に向かった。ランドマークになっている五重塔が見えることからナビも必要ない。

 今日も天気は晴れ。

 大通りは車の数も多く、だいぶ都会に来た感じがする。広い歩道を歩いているのはほぼ九割が外国人の観光客だ。葵祭が終わって間もないせいか人通りも多い。

 大宮通りから慶賀門をくぐると池の脇の細い石畳を踏んで目当ての講堂へ向かう。

 柳の細い枝が風に揺れ、若葉の匂いを周囲に振りまいていた。


 金堂の横を抜け、段を上がると入り口をくぐった。


 思ったより明るい堂内に入る。歳を経た埃の匂いがする。全体を俯瞰してみた。

 鮮やかな赤い柱と格子天井に白い壁。

 そして立体曼荼羅。

 中央には大日如来を中心とする五体の如来像、向かって右の東方には金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像、向かって左には不動明王を中心とした五体の明王像が並んでいる。

 また、東西にはそれぞれ梵天と帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像がある。


 あかりは迫力に圧倒されてしばし呆然としていた。すごいな。

「よくこんなもの作ったわよねえ」みつるが感心する。「空海さんってすごいのね」

「平面である曼荼羅を立体にした、ってことだったけど、曼荼羅って仏教の宇宙なんでしょ、みつる」

「そう習ったよね。胎蔵界と金剛界だっけ。テストに出ますよ」

「宇宙、ですか。どれがお星さまですか?」指差しながら至極当然の質問をジュディが発する。

「うーん、そおいう意味の宇宙じゃないらしいのよねえ。宇宙の構造だか本質だかを表したものとかっていう話だけど」

 みつるがちょっと困った。

「こら、しっかりしろ、学年三位」

「この際それは関係ないっつーの」みつるがむくれる。

「ふうん、宇宙の構造の本質にはお星さまは関係ないんだですね。よくわからないですね。レポート困りますね」

 ジュディが弱った顔になった。


 うーん。あかりは腕を組んだ。

(中心に大日如来がいるのはお日様だからまあわかるとして、他はどういう意味があるんだろ)

 ぶらぶらと歩いてみる。

(如来と菩薩は慈悲の仏さまだから――たぶん宇宙の調和とか平和とかそういう意味なのかな)

 反対側へ歩いていく。

(わかんないのはこれよね)


 五体の明王像。憤怒の顔。あふれ出る怒り。

 いかずちの武具。剣と弓。

 炎の背中。


(言ってもわからない愚かな人には叱ってでも悟らせるため、とか悟りに至る道を邪魔する敵を打ち払うため、とか予習したけど今ひとつぴんと来ないのよね)


 調和へと至るはずの道に、なぜ怒りが必要なのか。

 怒りの姿は仏さまの別の姿だとか聞いたような。

 ならば慈悲の有様としての怒り、というものがなぜあるのか。

 それらの答えになっていないような気がしたのだった。


(怒り、ってなんだろう……神の怒り。天災、かなあ)







 京都駅に戻って調べてみると、広隆寺まで直通のバスが出ていることがわかったのでそれを使ってみることにした。

 電車でもよかったのだが、なにせ外国コンビがなにをやらかすか心配になったので、門前に着けるようにしたのだった。


 バスを降りると目の前が楼門だ。

 青空を背にそそり立つ姿が荘厳だった。


 石畳の参道に足を踏み入れる。

 人がいない。

「誰もいないよ」みつるが辺りを見回す。

「静かですね」とジュディ。

「メジャーな場所のはずなんだけど、静かよね」

 あかりもぐるっと見渡してみた。若葉が生い茂る木々がわずかな風にざわめいている。かすかな啼き声と共に小鳥が飛んでいく。


 進んでいくと右手に講堂、左手に薬師堂があった。

 近くに寄ってみる。入り口は格子状の扉になっていて、中は暗くて見えない。

「夜来たら怖そうね」あかりがこわごわ扉から離れる。

 背後からそーっとジュディがあかりに近づく。両手を肩のところまで上げて口を開きかけたところで、

「わっ!」あかりがくるっと振り向いて両手を上げた。

「わお!」ジュディがのけぞって二三歩下がった。

「ちぇー、読まれたね」ちょっと悔し気。

「だいぶ性格わかってきたからね。おちゃめさん、二度同じ手はくわないわよ」腰に手をあてる。

「前にもやられたの?」笑いながらみつる。

「まあね」ジュディをちろっと見る。二人でにやりと笑った。

 ネコは半ばあきれ顔だ。


 正面を進むと本堂にあたる上宮王院太子殿がある。目的の霊宝殿はその奥だ。


 扉をくぐる。中は暗い。目が慣れるまで少し時間がかかった。


 弥勒菩薩。


 穏やかな表情。スリムな腕と身体の造形。

 周囲の静けさと相まって、どこか現実感が乏しい気分になる。四人はなんとなく雰囲気に呑まれていた。

 しばらくの間、その静かな雰囲気に浸る。

 静寂が心地いい。


「五十六億七千万年後、だっけ。出てくるの」ひそひそ声でみつるが言う。そうだっけ、と答えるあかり。声をひそめる必要はないのだが。

「太陽系ができてから今何年だっけ、学年三位」みつるに顔を寄せる。雰囲気で他の二人もなんとなく接近する。

「だから三位は余計だってばよ。たしか四十五億年だったかな」

「あと五十六億年……地球、あるの?」みつるの顔を見る。

「さあ、確か寿命百億年とかだったから、やっぱないんじゃない、地球」

「地球がなくなった後に、なにしに来るですか、このひと」ジュディがこそっと身もふたもないことを言う。

「あたしに訊かれてもわかんないわよ」


 人類はおろか、生物も存在しないかもしれない未来で弥勒菩薩は何を救うのか。

 そのとき、宇宙には何が存在しているのか。


 遠い話すぎて想像がつかない。


「そのうち考えよっか、暇なとき」みつるがジュディに言う。

「いまけっこう暇ですね」ジュディがぼそっとつぶやく。

「今はとりあえず置いとくの」「はいですね」


 背後に目をやる。

 大きな千手観音が三体。

 そして居並ぶ十二神将の像。


(また怒ってる顔だ。……仏さまを守るための神様だっけ)

(人類もいない場所で彼らは誰と戦うためにいるんだろ)


 遥かすぎる未来。時間を考えることに意味はあるのか。


 いや。

 時間の向こう側には何があるのか。

 誰がいるのか。


 ――時空の地平線に現れ、人類を最終進化させるとされる存在。


 ギイの言葉を思い出した。

『レイジ』は、そこにいるのだろうか。



 




 近くの映画村で休憩と称してひとしきり遊んだ後、集合場所の京都駅に戻る前に三十三間堂に寄るコースを取った。


 南大門を抜け、練塀の続く広い道を進むと入り口がある。駅近くの著名な場所でもあり、人出はそこそこ多かった。

 色とりどりの観光客の間を縫いながらぐるっと西側へ回ると、巨大なお堂が広い敷地の中に鎮座している。


「ふえー、大きいね、って何回言ってるね、わたし」

 手をひたいにかざしてジュディが言う。

「広いね、入り口どっちかな」

「あっちじゃない?」


 扉をくぐる。うわあ、と声が出た。

 中央に巨大な千手観音。両翼に階段状になった壇にずらっと並んだ仏像が圧倒的な迫力だ。


「すごおい、これ全部観音さまなんだ」あかりが感心する。

「みんなこれ一体一体顔が違うのね」

「暗いのに光の洪水みたい」

 一体一体の光背と放射状に広がった手が光の広がりのように見える。

 星が押し寄せてくるようだ。


 千体の千手観音。一本の手が二十五の世界に救済をもたらすという。一体には四十本の手。しめて一体で千手の計算になる。


(千の救済が千体。全部で百万……百万の世界が、ここにあることになるのか)

(百万の世界……百万の宇宙かあ。ひとつの宇宙でも手に負えないのに百万とかどうなっちゃうんだろ)

 あかりはため息をついた。


 通路側には二十八部衆が並んでいる。


「おー、ギター持ってる神様いますね」ジュディが目を丸くする。

「それ琵琶じゃない?」

「ビラはギョウザに入ってるやつですね」

「それはニラでしょ。ジュディわざとやってない?」あかりが笑う。

「笛吹いてる鳥さんみたいなのもいますね」聞いてないし。

「なんだろ、カラス天狗かな? 迦楼羅王かるらおうって書いてあるよ」みつるがのぞき込む。

「シンバル持ってる人もいますね。残りはボーカルですかね。口開けて歌ってるみたいな神様いますね」

 那羅延堅固王ならえんけんごおうを指さす。

「半身脱いでるから絶叫系のハードロックかな」あかりも悪乗りする。

「あーいるいる、口から火ふくやつ」

「そう言われてみれば、バンドメンバーに見えないこともないよね」

「後ろの観音さまは全員バックコーラスってか。すごい神々しいバンドだよね」

「普通の年よりとかそこらのおばさんみたいなのもいますね」

「どさくさまぎれに舞台に上がって来た追っかけみたいなもんかな」

「むちゃくちゃ言ってるわね」


 ネコが珍しく神像の一体をじっと見ている。頭上に竜がいる神様だ。

「ネコちゃん知り合いいた?」

 みつるが笑いながら訊く。ネコはくすりともしない。

「大地の竜。パチャママに似ていると思っただけさ」

「国の神様?」

 ネコが頷いた。


 またなんとなく遠いところを見ている、とあかりは思った。

 明日香村でのことを思い出した。


 触れてはいけないんだろうな、とも。








「――確かか。マーカーは?」

 太い声が画面から響く。

「隠しているので確認はできていません。ですが波動から考えてもほぼ間違いないと思われます」

 しばらく沈黙があった。

「――よかろう。動きは?」

「OZのメンバーと思われる見張りが一人ついています。とりあえずは引続き監視を続けたほうが良いかと」

 ふむ、と言ってまた少し間があく。

「いいだろう。お前の判断にまかせる。動きがあったら連絡しろ。策は考える」

「わかりました」

 画面がふっと消えた。


 ネコはしばらくの間携帯を見つめて動かなかった。


(なぜだ。わたしは命じられた仕事をしているだけだ。最初からそのつもりで来ているのに)

 唇を引き結んだ。

 思いが乱れる。胸を押さえた。


(――なぜ、してはいけないことをしてしまったような気になっているのだ、わたしは)






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